人間万事塞翁馬 59















先程と同じ部屋の同じ場所に立つ私の視線の先には、あの男がいる。

が、少し雰囲気が違う。
身に着けている衣裳が先程よりずっと地味だからだろうか。
扉の開く音が背後でする。



「ただいま。ごめん、遅くなって」

「おかえり。ああ、いいよ。社会人になったんだ。どうせ、残業だろ?俺も前やった」



振り向くと、が申し訳なさそうに笑みを浮かべていた。
そのまま私の横をすり抜けて、は白い長方形の大きな箱の前に屈み、そこを開く。

確かこれは、冷蔵庫、であっていたか。
がいくつか描いた絵の一つに似ている。

そこへ手にしていた袋の中のものを移すに男が言った。



「ところで、おじいさん大丈夫か?前、入院したって言ってたよな」

「うん。心臓が弱ってるらしいけど、年齢的なものだから仕方ないって。本人はすごく元気だよ、病院食が不味いって散々言ってた」

「だろうな…のおじいさん、確かすげー酒飲みだよな…俺、絶対無理だわ、それにちょっと怖そうな顔してるし…」

「うーん、まあ、ちょっと気難しいだけだと思うよ。あと人見知り」

「そんなことないだろ」



…この男が、変わってしまったのか、恐らく。

と、私は思った。
しかし、元々そういう気質を持っていたのかもしれない。

が男を見て言う。



「さ、夕飯なにが食べたい?」

「なに食べたいと思ってると思う?せーので言い合おうぜ」

「いいよ」

「せーの」

「「カルボナーラ」」



それがどんな料理かは、当然、私には分からない。
笑いながら、じゃあ作るね、と言って調理台に向かうに男が言った。



は何でいつも俺が食べたいものが分かるんだ?不思議なんだけど?もしかして、エスパー?」

「そんな訳ないでしょ…、顔に書いてあるから、かな?」

「書いた覚えないし」



話をしながら料理をするの横顔を見る。
幾分、私の知るの容姿に近づいた気がする。
その表情も目にするものに似ているが、しかし矢張りどこか違う。

想い人にする顔、だからだろうか。

その時、男がとの距離を詰める。
はそれに気づいていない様子だ。



、ちょっといいか?」

「なに?」

「こっち、向いてくれる?」



男に言われ、が手を止めそちらに向き直る。
それから一拍置いて、男が唐突にの首の辺りに何かを回した。
装飾品だと気づいたのと同時に、がさっき橋から投げたのはこれだと気づいた。

後ろを向いていて分からないが、俯いたの顔は多分、赤いと思う。
ここから見える耳が、その先まで赤いから。

男が一歩二歩と後退してを見下ろした。



「初任給はやれなかったけど、これで勘弁な」

「…いいのに……そんな、気遣ってくれなくても」

「いいんだよ。その色…なんかっぽいなって思ったから、その…」

「そうかな。私って青っぽい?」

「気に入らない?」

「ううん、そんなことないよ。嬉しい、すごく」



段々、見ているこっちが恥ずかしくなってきたな…。

目を逸らしたその時、男が続けて言った。



「なあ、…俺さ、着飾らないが好きだ。他の女子みたいに化粧あんましなくたって、よく分かんない流行りの服着てなくなって、俺みたいに仕事の愚痴一つこぼさないでピシッて決めてるが、凄く好きだ。だから、ずっと変わらないでいてくれよ」



それには答えなかった。
どんな表情をしたのか、分からない。
それを窺うのは憚られた。

男がまだ続ける。



「ああ、俺ばっかに甘えてたらダメだよな…、もし何かして欲しい事とかあったら、何でも言ってくれよ。のためなら、俺なんでもするし、なんでも聞くし、いつだってのこと守るから。俺は、どんな時だっての味方でいたいんだ」



…私は…。



「ありがとう。私もいつでも味方でいる、変わらずにいるから…好きでいさせて」



に…。



「伯寧さんは悪くないよ。彼とは違うもの。同じ言葉を口にしたぐらいで、他人と他人とが同じになったりなんかしない。そんなことで、思いつめないで」

!?」



私は後ろを振り返った。
扉をすり抜け外に出る。
ふと、正面の回廊の手すり越しに青い人影が見えた。
灯りに照らされたその後ろ姿は間違いなくのものだ。
見たことのない薄紫色の葡萄の房の様な花を見上げている。

私は一歩踏み出した。
と、同時に場所が再び変わった。
定規のようなものが取り付けられた書机が整然と並ぶ広間。
考えられないぐらい短い丈の裙を身に着けた数名の女性が笑い声を上げながら脇をすり抜け広間を出て行く。

辺りを見回す。
どこを見ても、自分の知るはいなかった。



さん、ちょっといい?」

「なに?」



声がして、後ろを振り向く。
そこには男が一人と
書机の上に広げた筆記具をまとめているの左手側―私から見て右手側―に男が立っている。
そして、の顔は私の知っていると寸分違わない。

ということは、これはが十代のころの記憶。
そこまできたか、と思ったのと同時にもう見ていたくないと思った。



「…私が苦しんでどうするんだ…、…の方がよほど…」

「聞いてもらいたいことが…あるんだけど、さ…」



その声に、私は再び視線を上げた。
相変わらず、顔は分からない。
しかしその声音から、さっきまでの男とこの男は同一人物だ。

どこかばつが悪そうな仕草で顔をそらしている男を、はただ冷ややかに見ている。
私の知っていると容姿はそのままだが、少し雰囲気が違う。
身に着けている衣裳が黒の上衣と濃い藍色の細身の褌だからだとか、髪が短いからだとか、そういう理由じゃない。
棘がある。
どこか、棘がある。
そういう印象だ。

すごく、違和感を感じた。



「勝手に話してくれれば、何でも聞くけど」



視線を手元に戻して、は書机の上を片付け始める。
やはり、私の知っているとは違った。
私の知るは、基本どんな相手に対してもちゃんと向き直って、優しく笑みを浮かべながら言う。

『はい。お聞きします、どうされましたか?』



「…なに?話があるんじゃないの?そんな所に立っていられても、困るんだけど」

「…いや、その…ここじゃない所で…」



そう言って俯いた男に、は迷惑そうな顔を隠しもせず視線を向ける。
まるで何かを拒絶するように。
大きなため息が聞こえた。



「ここ片付けるから、待ってて」



言って、が少し手元の動きを早め、それらをまとめ始める。
私はそこへ視線を落とした。

多分、これらがに教えてもらったペンだとか、テンプレートだとかいうものだろう。
書机に取り付いているこれは、きっと平行定規のことだ。
定規の下には紙が敷かれていて、そこには平面図が広がっている。
がこの時、書いたもの。
線の強弱がはっきりとしていて見やすく、綺麗だった。
筆が変わっても、私の知らないが書いていたとしても、の引く図面は変わらないのだと思った。



「あ、俺…手伝うよ」

「触らないで」



手伝うと言って伸ばした手を払い除けはしなかったものの、のその声は冷たく静かに、その手を払った。
私はそれを、なんとも言えない気持ちで見る。
が男を見てから、再び手を動かした。



「私の片付け方があるの、だから触らないで」

「あ、ああ…ごめん…」



遠慮がちに手を引っ込める顔の分からない男に乱暴そうな印象はない。
どちらかといえば、大人しい部類だろう。
その時、また場所が変わった。

私たちは外にいた。
建物と建物をつなぐ外廊下、だろうか。
恐らく、二階か三階部分に位置している。
他には誰もいないが、欄干の向こうの広場には人影が見える。
梢がさわさわと音を立てていた。



「それで、聞いて欲しいことって、なに?次の講義に間に合わなくなるから、手短にお願い」

「あ、えっと…その……」



そう言ったきり、中々次を話し出さない男に、は一瞥してため息を吐き出す。
眉間を寄せ、いかにも不快そうな表情を浮かべている。
それを見て、私はただ戸惑った。

これが過去の…。
今のからはとても考えられない。
たまに見せる子供っぽいところとか、ちょっと抜けてるところとか、突拍子もない行動をとったりだとか、それも言うなれば”考えられない”と思えるが、それでも何となくらしい、と思える。
けど、目の前のの行動はとてもらしい、とは思えなかった。



「話さないなら、もう行くわ。じゃあね」

「ま、待って!俺と付き合ってくれませんか!」

「……は?」



そこを去ろうとしたの背中に男が言って頭を下げる。
足を止めたは、しかし、男とは対峙せず首をそちらに向けるのみだ。
訝しむようなの声音は言外に、なにを馬鹿げたことを、とそう告げていた。
が言う。



「何で私と?他に可愛い子とか綺麗な子とか、もっと愛想の良い子とか、うちのクラスでも他でも沢山いるじゃない。何で私?」

「それは、その…」

「…ああ、もしかして罰ゲームか何か?男子って本当そういうの好きだよね……ああ、男子って年齢(とし)でもないか、もう」



私はそれを聞きながら、もう一度辺りを見回した。
はどこにいるのか、と。

のものだろう、足音が耳に届く。
同時に男が言った。



「俺、さんのこと好きなんだ。だから、俺と付き合ってください」



ため息がまた聞こえた。
が今度こそ、男に向き直る。
そして、言った。



「今時、そんな馬鹿がつくほど真面目な告白の仕方…中高生でもしないと思うんだけど」

「ご、ごめん…」

「…、…それが悪いとは言ってない」



ため息混じりにそう言って、は腕を組んだ。
そして続ける。



「なんで、私なの?さっきも言ったとおり、可愛い子なんて他にいくらでもいるし、見てのとおり私はファッションとかそういうものに興味もない。流行りの話もよく分からないし、流行りの歌やタレントも知らない。当然、流行りの遊びも知らないし、興味もないわ。私が覚えている限り、あなたに特別愛想良くしたこともないし…私のなにが好きなの?」

「そこが」

「え?」

「そういうところが。その、飾り気がないっていうか、そういうところがいいな、って…」



三拍ほど沈黙してから男が続ける。



「他の女子ってなんか、化粧なのかな、あれ…凄い違和感でさ…話してる内容とかも、なんか他人の悪口ばっかで気分悪くなるし…けど、さん、そういうの無さそうだなって…、…なんか、そう思ったら、その…良いなって思って…講義の時もやたらに音立てて乱暴に道具扱ったりしないし、それ見てたら綺麗って言うか、品があるっていうのかな…だから、その」

「ああ、もう!分かったわ」



そう男の言葉を遮って、が声を上げた。
頭を掻きながら言う。



「聞いてるこっちが恥ずかしいから、もう分かったわ……、…いいの?本当に、私で」

「え?」

「だから、私でいいのか?って聞いたの。無理に自分を変えるつもりはないから、多分、一緒にいても面白くもなんともないと思うけど」

「…勿論!お願いします、さん!」



声を弾ませ、男が言った。
顔は判別できないが、このときの男の顔は喜びに満ちたものだったに違いない。

一拍置いて、男が再び口を開く。



「で、でも、なんで俺…」

「そういう素直なところ嫌いじゃないし、ちょっと興味があったから」



が淡々と、素っ気無く返した。
この時のが本当にこの男に想いを寄せていたのかどうかは分からない。
しかし、確かに想い人だった。
それは間違いない。

そう思ったとき、が付け足すように言う。



「それから、付き合うんだから私のことはでいいよ。私もって呼ぶから。いいでしょ?」



そう言って微笑んだ、気がした。
本当にごく僅かな変化だったが、私にはそう見えた。
と、同時に、この時からは変わったんだと思った。
この男が変えた。
そして、この五年後、またこの男がを変えたんだろう。
…それとも、の中では変わっていなかったのだろうか。
それは、分からない。

そして、やはりこれ以上の過去を覗き続けるのは心苦しかった。
いつまでこれは続くのだろう。

ゆっくりと、目を閉じた。














つづく⇒
61話まで飛ばす⇒(流血表現や人が死ぬ表現があります)



ぼやき(反転してください)


いやー、本当どこ行くんだろう、この話

2018.10.11



←管理人にエサを与える。


Top_Menu  Muso_Menu



Copyright(C)2018 yuriwasabi All rights reserved.  designed by flower&clover photo by