人間万事塞翁馬 60















俯いて目を開けたとき、足元は畳だった。
俄かに、手を叩いた時のような小気味のいい乾いた音がして視線を上げる。

数歩先に壮年だろうか、正座する男のうしろ姿。
頭髪には、疎らに白いものが混ざっている。
そして、その目の前に
襟元で蝶結びにされた布帯とひだがいくつもある裙が特徴的な衣裳を身に着けていた。
は正座を崩したような格好から、今まさに身体を起こそうとしている。
顔を見ると、左の頬が赤くなっていた。
この男に平手打ちされたのだと思った。
俯くに男が言い放つ。



「それが親に対して言う言葉か!」



その言で、私はこの男がの父親であることを知る。
の顔は見えない。
俯いたまま、が言った。



「だって…自分の好きにすればいいって言ってたでしょ。だから私、勉強して…」

「親に口答えするのか!兎も角、父さんは認めんからな!医大?医者になりたいだと?母さんをよく見てみろ!家にろくに帰らず、家のことも満足に出来ない、母親失格だ!あれが甘いから、お前がこんな風に育つ!絶対にお前を医者になんかさせん!父さんは絶対に認めんからな!」

「折角、受かったのに…なんで…」

「その金は誰が出すと思ってるんだ!子が親の言うことを聞くのは子の義務だ!そんなことも分からないのか!」



そうか、は元々医者になりたかったのか…。
それにしたって、この父親…ちょっと無茶苦茶すぎやしないか?
言いたい事は分からないでもないが…。

が両膝の上で拳を握る。



「私は…」

「ともかく、お前は父さんと同じ建築を勉強しろ!今からでも一校ぐらい試験に間に合うだろ!どこでもいいから、探して建築科を受け直せ。理系か芸術系かは好きにしていい、分かったな」



は黙ったままだった。
そこへ追い討ちをかけるように言う。



「分かったな?」

「…はい」

「よし。父さんはこのあと打ち合わせがあるからもう行く」



言って男は足早に出て行った。
が俯きぼそりと呟く。



「家に帰らないのは、自分もじゃん。よく言う…」



そう言って顔を上げたの表情はただ暗く、瞳には光がない。
このも、私の知ると同じ顔をしていたが、私の知らない





「じいちゃん」



奥から出てきた老大人にが視線を向ける。
そこで漸く私は、ここがと出会いはじめに話をした部屋の隣の部屋、即ち初めて過去のを垣間見たとき、自分が立っていた部屋だと気づいた。
老大人の顔は判別できない。
あの白い部屋にいたとき一瞬見えたあれは、なんだったんだ?
勘違いか?
ただ、この目の前で今、の肩を抱いて頭を撫でている老大人は、あの寝台で身体を起こしていた時よりも、もっとがっしりとした体格をしていた。



「すまんな、。貞雄もとんだ我が侭を言う」

「どうしてじいちゃんが謝るの?大丈夫。社会に出るまでは、生活するにも何するにもお金出してもらってるって言うのはその通りだし…親の言うこと聞かなきゃいけないのはよく分かってる……きっと、父さんなりに私のこと考えて言ってくれてるんだろうから…それも分かるよ」

…、…建築を、受け直すのか?」

「だって、それしかないでしょ?父さんに逆らうなんて…無理だよ……大丈夫。私、モノ作るのは好きだから、何とかするよ」



そう言って、老大人から離れたは笑みを浮かべていた。
瞳はそれでも、納得しきれないという色をしている。
ただの強がり、だったんだろう。
ほんの僅か上がった口角が、自身の不満を無理にでも押さえ込もうとしているように見えた。



「どこか残ってないか探すね…もう、2月だし…」



そう言っては立ち上がった。
膝丈の裙と白い下履き―足袋ではなさそうだ―の間は素肌に見えるが、これがこちらでは普通なのだろう。
背を向けて一歩踏み出したとき、唐突にが振り向く。
丁度、老大人が立ち上がった。
私の横へ並ぶように立つ。
私と変わらない身長だ。
が言った。



「大学受かったらここを出てくって言ったけど…もし、近くの所が受かったら、ここから通ってもいい?」

「ああ、勿論だとも。の好きにするといい。じいちゃんもその方が寂しくない」

「ありがとう、じいちゃん」



それだけ言って、は奥の部屋の更に左手側の部屋へと消えていった。
私は老大人を一度見てから、そのあとを追う。

部屋に入って直ぐ左手を見るとは書机に向かっていた。
その背後にまわる。
視線を上げた。
書机の上の棚には大型の本がずらりと並んでいた。
手の直ぐ届く範囲には、その背表紙の字の羅列から、医学や人体に関係すると思われるものが多い。
建築に関係しそうなものは一切見当たらない。
その他によく目に付く字は、辞典、図鑑、資格といったものだろうか。
どれもくたびれたような印象で、多分何度も目を通していたのだろう。
私の知るの邸にある書も、竹簡にしろ、巻物にしろ年季が入ったようにくたびれている。



「ここから近い所…一般入試で……あった…えっと、過去問と申し込み」



椅子に腰掛けていたが唐突に呟いた。
薄い箱のようなものを開いている。
いつだったか、軍師の皆でこれの話を聞いたが、しくみを一度で理解するには知らないものが多すぎて質問攻めにしてしまったんだったな。
は嫌な顔一つしないで、丁寧に答えてくれたけど。
いま目の前にいるが、私たちの知るだったとしたら、答えてくれただろうか。

私はその背中に視線を落とした。
元々建築という分野には興味がなかったんだろう。
自分が目指していたものを無理やりに変えられて、は何を感じたんだろうか。

目の前のは書机に書を広げて白い紙に字を連ねていく。
もう、集中してしまっている。
そう思ったとき、の切り替えの速さというのはもしかして、こういうことが要因だったのだろうか、と思った。
そのとき、の手が止まる。
ただ俯いているが不意に身じろいだ。
見ると、どうやら目元を拭ったようだ。
鼻をすする音がした。



「泣いたって、なにも変わんないのに…もう、泣かない…私は建築を勉強したかった…医者にはなりたくなかった…大丈夫、知らないだけで学べばきっと、好きになれる…知らなかったのは、全部同じはずなんだから…いつかきっと、好きになれる…だから、好きになった自分のために、私は好きなものを学びに行く…」



そう言って、は深呼吸をすると再び手を動かし始めた。

医者になんてなりたくない。
医者になんてなりたくない。
医者になんて、なりたくはなかった。

それはまるで、何かの呪詛のように聞こえた。

『過去はそれほど重要じゃないわ』

『今、私がここにいること、それが一番重要なの』

そのとき、のその言葉が脳裏に浮かんだ。
の背をただ見つめる。
私の知らない、

、どうか自分の過去を軽視しないで欲しい。
いつか、過去になるであろう今を、軽視しないで欲しい。

次に目を開けたら、きっとまた場所が変わるだろう。
そう思いながら、私は目を閉じた。














つづく⇒(流血表現や人が死ぬ表現があります)



ぼやき(反転してください)


長いね…

2018.10.11



←管理人にエサを与える。


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