人間万事塞翁馬 61 目を開けるとそこは、今まで見てきたどの場所とも違っていた。 の祖父の邸でも、勤め先でもなく、あの白塗りの部屋でも、の想い人だった男の部屋でも、大学でもない。 私は今、こじんまりとした屋内の通路に立っている。 目の前に、階段がのびていた。 視線を上げると、踊り場のごく高い位置にある窓が目に入る。 そこから見える空はどんよりと雲が広がっていて、激しく雨が降っているようだった。 誰かの邸、だろうか。 天井を見上げると、あの灯りらしきものが目に入るが、灯されてはいない。 普通に物を捉えることは出来るが、今までを考えると薄暗かった。 その時、上階からごく僅かに物音がしたことに気づき、私は階段に足をかける。 途中、ため息を吐き出した。 の過去を見続けることの罪悪感と、が見つからないことの焦燥感。 例え、過去だと思っているこれが真実ではなかったとしても、この”見てはいけないものを見てしまった”という気持ちは消えないだろう。 踊り場を回り、再び上る。 一段、また一段と登った先に、はいた。 私の知らない、。 ついさっき見たような、ひだがいくつもある黒い裙と黒の袖の長い上衣を身につけて髪を二つに束ねている。 そして、右の壁側にある扉―全て開け放たれている―の前で座り、下を見ていた。 何かを手にしていて、それを見ているようだった。 私はその近くへと歩み寄り、の右後ろに立つ。 にずっと注いでいた視線を正面に上げた。 ――思わず、目を見開いた。 男児だろうか。 黒の上衣と褌を身につけている男児が、そこで首を吊っていた。 「私が…殺した…」 「なん、だって…?」 突然の告白に、私は視線をへと落とす。 手元の、書き付けのような紙が目に入った。 字が書かれているが、私には読めない。 そう思ったとき、不思議なことだがそれが何と書かれているのか、分かった。 それは読めたというより、直接私の頭の中に言葉として入ってくる、そんな感覚だ。 ただ、その内容はお世辞にも穏やかじゃない。 ”姉ちゃんが消えないなら僕が消える。教えてあげる。消えるっていうのはこうするんだ。” 「馬鹿な!そんなこと!」 「ねえ、お兄さんは誰?」 思わず声を上げたとき左手側から声を掛けられ、私は驚きのあまりそちらを見た。 傍らで座り込んでいるを見てから、再度見る。 全く同じ格好をしたがこちらを見ていた。 私の知るよりも恐らく半尺―12、3センチ―ほど背が低い。 容姿も、見てすぐ幼いと感じる。 ただ、こちらを睨むかのようなその暗く鋭い瞳には光がない。 「そいつ、泣かさないでくれる?」 言われた意味が分からなかった。 それが伝わったのだろう。 目の前のが徐に指をさす。 私は傍らに視線を落とした。 そこにはさっきまで、目の前のと同じ格好をしたが座り込んでいた、筈だった。 しかし、そこにいたのは目の前のより、更に幼い。 先程までの同様に座り込み、すすり泣いている。 時折、しゃくりあげるような声にならない声が耳に届く。 いつのまにか辺りには何もなくなっていた。 ただ黒いだけの空間が広がっている。 もういちど、その幼いに視線を落とす。 私が、泣かせたのか? を? 「嘘だよ」 その声に、再度視線を上げる。 目の前のは表情一つ変えない。 「意地悪言ってごめんね。お兄さんがすぐに答えてくれないから、ちょっと頭にきただけ。そいつは大体いつもそうやって泣いてるから、誰のせいでもないよ。そいつが弱いからいけないの、本当うざい」 そう吐き捨てるように、は足元に座る幼いを見て言った。 何がどうなっているのか、私の頭の中はただ混乱するばかりだった。 しかし、目の前のはそんな私に構うことなく言葉を続ける。 「ところで、お兄さんは誰なの?変わった服を着てるけど」 言って、は私との距離をつめ、下から上へと視線を動かす。 声音に多少の抑揚はあるが、相変わらず表情は一切動かさない。 何を考えているのか、全く読めない。 私はの質問に答えた。 「私は満伯寧。君も大分変わった格好をしていると思うけど、君の名前は?」 見下ろした先のはじっとして微動だにしない。 唐突にが口を開く。 「お兄さん、変わった名前してるのね。でも私、その名前聞いたことがある。確か…、…あれ?何だったっけ?知ってる筈なんだけど、おかしいな………ま、いっか。忘れるって事は大したことじゃないってことよ」 そう言って、数歩後退しながら距離をとる。 裙に手を添え、少しだけ広げるようにして続けた。 「…これはね、セーラー服。学校の制服なんだけど、お兄さんそんなことも知らないの?変わってる名前と何か関係があるのかな?確か、外国って学校の制服とかないんだっけ?お兄さんはもしかして外人さんなの?」 やはり、幼いと感じる。 このは十代前半だろうか? それとも、そこにかかるぐらいだろうか。 なら、この泣いているはそれよりももっと前。 だが、それが分かったところで今の状況が理解できるだとか、何か解決策が浮かぶだとか、そんなことはないだろう。 第一、何を解決すればいいんだ。 「ところで、お兄さん。私の名前聞いたけど…」 そう話しかけられ、私は意識を正面に戻す。 が目を細める。 「今まで散々覗き見しておいて、本当に私の名前、知らないの?」 のその暗い瞳が更に鋭さを増す。 何かに呑まれそうになる感覚に背が粟立った。 この子は、私が彼女をだと認識していることを既に知っている。 そして直感だが、このは”何か”を知っている。 「さっきだって見てたでしょ?もうこれ以上、覗かないでよ、お兄さん」 「これ以上…ってことは、まだ他にもあるってことかい?それは」 「さあ。あるかもしれないし、ないかもしれないし…、…でもそんなことお兄さんには関係ないでしょ?お兄さんは何しにきたの?ここに」 一拍置いてから、私はに言った。 「私はを探しに来たんだ」 「なんだ。じゃあ、それならもう解決してるじゃない」 そう言って、は傍らで泣いている幼いを視線で示してから再度私を見る。 私はそれに首を振った。 「違う、君たちのことじゃない。私にもよく分からないが、多分、もう一人居るはずだろう?大人のが」 「……ああ、あいつのこと。それは駄目。分かったらさっさとここから出てって」 言うが早いか、が背を向ける。 その背に向かって言った。 「待ってくれ、私には君の言っている意味が分からない。彼女を見つけるまで、私は戻れないんだ。どこにいるか知っているのなら、教えてくれないか」 ここから出る方法―出る、という表現であっているのかは定かではない―も分からないが、それ以前に何もかもが分からない。 分からないが、例えそれが分かったとしても、を見つけるまでは戻れない。 戻るわけにはいかない。 思わず、の肩を掴んでいた。 言い終わってから一拍おいて、手を払われる。 他でもない、に。 こちらを睨みあげながらが振り向く。 「駄目って言ったのが、聞こえなかったの?あいつには会わせられない」 「なぜ駄目なんだ、理由を教えてくれ」 問うと、は暫く黙ってから大きなため息を吐き出した。 それから抑揚のない声で言う。 「あいつが壊れたら、が壊れるから」 やはり、言っている意味が全く分からなかった。 頭の中でその言葉を反芻するが、やはり意味は分からない。 「…それは、どういう…」 「答えたんだから早く消えて。お兄さんが消えないなら、私が消える」 ぴしゃりと言い放ち再度背を向けるの背に言う。 視界の端に、すすり泣いている幼いが映った。 「私が消えるって…、……この子は…この子はこのままここに一人にしていくのか?泣いたままのこの子を君は…」 皆まで言う前にがぴたりと動きを止める。 ゆっくりとこちらを振り向き、泣いているに歩み寄った。 そして、その場に屈む。 視線をそこから外さずに言った。 「いいのよ、こいつは。最近ずっと泣きっぱなしだし、泣くのがこいつの仕事だし。ここにいても戻っても、関係ないし。うざいだけ」 「そんな言い方…この子もなら、どうして助けてあげないんだ。泣いてるってことは、苦しんでるってことだ。それはつまり、君自身のことだろう?」 自分でも、言っている意味は分からない。 ただ、彼女たちが全員””なら、このたちは、自身の何かを反映していると考えていいはずだ。 「助ける?どうして?こいつが助けて欲しいって言ったの?」 そう言って、は前髪の隙間から私を見上げた。 「お兄さんはの何を知っているの?何も知らないくせに。勝手に人の過去(こと)覗き見して、何か分かったつもり?何も分からないくせに、知ったフリして勝手なこと言わないで。さっさと消えて。消えろ、全部。お兄さんなんて、大嫌い!」 その瞬間、左手首に熱さと痛みを同時に感じた。 視線をそこに落とすと、手甲から血が溢れ、指先を辿って滴っている。 何が起きたのか、全く分からなかった。 に視線を戻す。 が俯いたまま言った。 「消えればいいのに、何もかも」 * * * * * * * * * * 気づくと、全身に汗をかいていた。 床几(いす)に腰掛けの右手を握っていたが、どうやらそのまま寝てしまっていたらしい。 「…夢、か?それにしたって出来過ぎた夢だ…」 後味の悪さを感じながら空いた左手を額に当てたとき、ふと視界に入る傷口。 左手首の内側にぱっくりと開いたその傷口からは血こそ流れてはいないものの、鋭利な刃物で切ったかのようだ。 痛みは感じなかった。 私は思わず、瞬きするのも忘れてそれを凝視する。 確かにこれは傷口だ。 「夢じゃない、のか?」 瞬きを一度する。 その瞬間、傷口は消えた。 あんなに見事に切れていたのに、何の痕跡もない。 指で何度かそこをなぞってみるが、やはり痛みもなく、何もなかったかのようだ。 「見間違いか?……そうだ、は」 自分の手首から視線を外す。 に視線を落としてから、その額に手を当てた。 まだ少しばかり熱いが先のことを思えば、正常の範囲内だ。 「熱は下がってきている、ということは助かった…のか?……けど、まだ苦しそうだな…」 僅かだが呼吸が荒い。 眉間には皺が寄っている。 ふと、掛布から出ているの左手が視界に入った。 中へ戻そうと思い手に触れたとき、頭を過ぎる一つの仮定。 ただの思いつきに近かった。 ただ、何となく確認しておかなければいけない気がした。 その場に立ち上がり、部屋の隅で燈る油燈を目指す。 それを手に取り、のもとへと戻った。 その左手をそっと掴み、手首の内側を油燈で照らす。 目を凝らすと、それと知っていれば分かる程度の細い傷跡が薄っすらと確認できる。 ただ、何も知らずにそれを見ても、それこそ誰もそれが傷跡だなんて思わないだろう。 関節に刻まれた皺のように見えるから。 私はのその手を掛布の中へと戻し、油燈を手に房(へや)を出た。 雨は止んでいたが、空気は冷え切っている。 「このままだと、風邪をひいてしまうな…着替えるか…」 侍女に声を掛けてから、自室に戻った。 油燈を置いて帯を解く。 ふと過ぎる、先のの言葉。 「大嫌いか…」 あれは、自身の本心だろうか? だとしたら…。 そこまで考えて、私は頭を振った。 「いや、考えすぎだ。第一あれがの夢だったのかどうかも分からない。それ以前にあれが何かも分からないんだ…ただ…」 私の夢ではない…恐らく…。 「私の夢ではないはずだ」 誰もいない自室で、私は一人呟いた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 布団の表現をどうするか毎回迷う… 今更だったので、もう何かいいや 2018.10.11 ![]() |
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