人間万事塞翁馬 58















その狭い通路の右側の壁には二つの扉が並んでいて、向かって左側に見えるものは、恐らく調理台だろう。
しかし、考えを整理する間もなく、目の前に立っている男が後ろを振り返りながらその先の広くなった空間へ向かって、怒鳴った。



「お前がそんなことを言う奴だったとはな!がっかりだぜ!」



何事かと思い視線を上げると、その男の先に濃い灰色の上衣に、襟が変わった形状をしている中衣、そして上衣と同色で膝が隠れる程度の丈の細身の裙を身に着けたが驚きと困惑、それから悲しみの入り混じったような表情をして立っていた。
容姿の年頃は、先程の白い部屋で見た時と同じだ。
が僅かに俯く。



「ごめんなさい…」

「ああ、いいよ。謝らなくても」



そう言って、男は手を振り興味がなさそうな声音で言う。



「めんどくせーし、別れようぜ。ていうか、別れたい」



何を言っているんだ、この男は。
そう思ったとき、が男に駆け寄った。



「待って!何で、急に!何か気に障ったなら直すから、だから…」

「だから、うぜーんだって!」



言うや、男はの胸元に思い切り手を突き出した。
が後ろのめりに倒れる。
しかし、半身になって受け身をとったらしく、仰向けに倒れることはなかった。
だが思いもよらない展開に、私は再度、陳宮のときと同じように殆ど無意識に、その男へ手を伸ばしていた。
当然それは、虚しく空を切っただけで、何の感触も手には残らない。
そうしながら、直感した。
この男が、が想いを寄せていた人なんだ、と。



「お前さ、何言ってんの?もう少し会う回数増やせって、意味分かんねーんだけど」

「…だって……何でも言ってくれって…何でも言うこと聞くからって、言ってくれてたじゃない…だから、私」



そのとき、の声を遮って男が声を上げて笑い出した。
男が、さもおかしそうに言う。



「おまえ、それいつの話だよ、マジうけるんだけど!付き合い始めの頃の事だろ、それ。おかしいんじゃねーの?何年前の話だよ!」



言いながら、男が指を折る。
私はそいつの指を本当に折ってしまいたかった。



「ああ、わかんねえ!俺、お前と何年付き合ってたっけ?よくそんなもん覚えてんあ、お前。気持ちわりぃ!」



はただそこに座り込んだまま俯いている。
顔は見えない。



「…なに、泣いてんの?もしかして。うぜえなぁ…お前さあ、そういうことすんなら、もっと可愛くなってからしろよ、なあ!」



男は言いながらに近づいてその前に屈むとの頭を押さえつけるように、そこへ手をのせた。

…こいつ……。
はこんな奴の何が良かったんだ。
優しい人?
今のところ、優しさなんて微塵も感じられない。
ただのクズにしか見えない。



「俺さ、いま付き合ってるヤツいるんだよね。ナナって言うんだけど、それがすっげー可愛くてさ。お前とは大違い」

「……」

「…お前、もう気づいてただろ?」



の前にいるこの男が壁になり、私の位置から表情はおろか、自身も見えない。
ただ、あえて今それを確認したいとも思えなかった。
男が立ち上がり言う。



「マジで、お前ありえないよな。フツーさ、付き合ってる男が別の女と付き合ってんのに気づいたら、もっと嫌がったりしねえ?お前のあたま、どうなってんの?おかしくね?マジで。気持ちわりぃんだけど」



付き合うとか付き合わないとか、そういう話は以前から聞いてはいた。
半分は郭嘉殿から聞いたようなものだったけど。
その辺りの事情は随分違うものだ、とそのときは驚いたが…。
まさか、の付き合っていた男がその、最低なヤツ、だったとは。

男が続ける。



「お前みたいなのに何年も無駄にされるなんて、俺マジでかわいそう!お前と付き合うヤツなんて、他にいんのかよ。流行りの服は着ねえ、話も面白くねえ、洒落っ気もねえ、だせぇ。お前、生きてて楽しい?」



が俯いているのが見える。
男はただ、その”ナナ”とか言う女の自慢しかしていない。
こんな所に一瞬でも居たくない。
だけど、はこれを目の前で…。
そのとき、この男は更に最低なことをに言い放った。



「…けど、お前の身体には誰も敵わねえだろ!お前の身体、ほんと最高!風俗行ってもお前以上のヤツにあたったこと、一度もねえわ!それだけなら付き合ってやるぜ、ナナはそこんとこイマイチだからな!」



そう言って、男は高らかに笑った。

こいつ、になんて言うことを…。
人当たりがいい割りに、ふとしたとき距離を取ろうとするの違和感の原因はこれか…。
人との関わりをあからさまに拒絶しないだけ、まだいい方だ。
黙ったままのに男が言う。



「まあ、いいや。ともかくお前の顔、二度と見たくねえから、消えてくんない?俺、今からナナ迎えに行かなきゃなんねえからさ。あいつ、お前と違ってうるせんだよ、遅れると。ま、そこが可愛いんだけど。俺らが戻ってくるまでに消えろよ」



そう言って、男がこちらへ向かって歩いてくる。
私の目の前で唐突に足を止めた。
を振り向く。



「あ、そうそう。鍵はドアのポストに入れとけよ。それと、お前のもん、髪の毛一本でも残してくんじゃねえぞ。もし残ってたら、お前探し出して海に沈めるからな」



お前を沈めてやろうか、と思った。
男は馬鹿笑いをしながら、去っていく。
扉が重い音を立てて閉まった。
乱暴な足音が遠ざかる。

私は残されたに視線を落とした。
に、こんな過去があったなんて…。

は俯いたまま、両膝の上で拳を硬く握っている。
泣いているのかどうかは分からなかった。



「覚悟…か…」



さっきの老大人の言葉を口内に出す。
やはり、私に言っていたのではないか、という気がしてならない。

その時、が言った。



「…気づいてただろ…って、そりゃ自分のじゃない誰かの口紅がそんなとこに置いてあったら普通、誰だって気づくでしょ…」



が見ている先には棚があり、そこに一本だけ手の中に納まる程度の大きさの、筒状のものが置いてある。
はそこから視線を外すと、大きなため息をついた。
表情は消えている。



「私のものなんて、全部捨てちゃったくせに…多分、その”ナナ”が…、人のものだと思って…高かったんだけど、結構。海に沈める?強がりしか言えないのに、よく言うわ」



言いながら、立ち上がる。
少し大きめの黒い書包を拾い上げ、こちらへ歩を進める。
唐突に通路の手前で足を止めた。
顔を上げると、徐に私から見て右手側の方へと視線を向け止まる。
二拍ほど置いて、が壁の死角に消えた。
私は、それを追って広間に出るとそちらを見やった。
そこでは、折戸を開け膝をついて何かを探っている。
程なくして、が小さく声を上げた。
何かを手にしている。



「こんなの…まだ、あったんだ…、…全く片づけがいい加減な女ね。何でも押し込めばいいって問題じゃないわ、だらしない」



言いながら、はそれを書包に仕舞った。
折戸を閉め、書包を肩に掛ける。
掛けながら、また何かに気づいたのかそちらへ視線を向ける
つられて見ると、その先には帳が掛かっていて、それを吊るしているらしいつっかえに上衣らしきものが一着、小型の衣架らしきものに掛けられている。
それは、無造作が過ぎるのか、傾いていた。
が呟く。


「駄目だ、気になる」



言いながら歩み寄り、それを慣れた手つきで掛け直す。
整えられたそれは整然としていた。

ため息を一つついて、が踵を返す。
しかし、何かを踏んだのか、視線を落としそれを拾い上げた。



「ライターか…使ったら定位置に戻してって、あれ程……これ、買いに行かされたの、私だわ。ってことは、私のってことでいいわよね。お金もらってないし。困ったら、ナナちゃんにでも買いに行ってもらいなさい」


言って、はそれを懐に入れた。
それから私の横をすり抜けて扉へと向かう。
その後を、私は追った。
は後ろを振り返らない。
扉を開け、外に出る。
そのまま私も外に出ると、そこは吹きさらしになった回廊だった。
欄干から見える地面は遠い。
といっても、それほど高くはない。
周囲を見渡してみると、どうやらここは建物の三階にあたるらしかった。

空を仰ぐ。
星が見える。
視線を戻した。
夜だというのに、そうとは思えないほど明るい。
そこここに、火ではない灯りが灯されている。

不意に、錠が落ちる音だろう、固めの音がして、それから何か軽いものが落ちる音がする。
振り返ると、が扉の前でため息をついていた。
それから、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
それはいつもが気持ちを落ち着かせたり、切り替えたりしようとするときにしているものだ。

の背が、すっと伸びる。
私に背を向けたまま、が回廊を歩き出す。
誰もいないそこに響く足音は、ただ力強かった。








 * * * * * * * * * * 










後ろを振り返ると、再び場所が変わった。
水路…いや川の上、橋、だろうか。
私の知っている橋とは似ても似つかない構造をしているようだが、間違いはないだろう。

視線を正面に戻すと、いつのまにかそこにが立っている。
欄干を前に、さっきの部屋、折戸の前で手にしていたそれを、俯き加減に見ていた。



「…これは…さすがにポイ捨てはマズいか…明日、確かゴミの日だったっけ。グッドタイミングね、ラッキーだわ」



呟きながら左手にしていたそれを書包に戻す。
それから、懐に手を入れ部屋で拾い上げた、らいたーとか言うものを取り出した。
そして、右手にしていた五寸四方―約12センチ―にも満たない紙切れを、それの上にかざす。
同時に、左手のそれから炎が上がった。
その紙が、一気に燃え上がり炭となり、灰になる。

私はその瞬間、率直に驚いた。
便利なものがあるものだな、と思わず感心してしまった自分に首を振る。
いまは、それどころじゃない。

視線を元に戻すと、は欄干の前でただ立っていた。
先程の男との一部始終を思い出すが、はこのまま泣くこともしないのだろうか。
はどうやってこれを自分の中で処理したのだろう。

ふと、が首元から何かをむしる様なしぐさをする。
それから、それを川へ向かって投げた。
暗い川の音の中に、それは消えた。
のため息が聞こえる。
踵を返し去っていくが一つの灯りの真下に来たとき、唐突にその声がした。



さん、ですよね?」



が立ち止まる。
私は、横をすり抜けていくその男を視線で追った。
男を振り向き、が言う。



「…えっと、確かあなたは……」



その後の男との会話を聞いて、私はこの男が後の”社長”なんだと知った。
そして、さっきの老大人との記憶は、この記憶の直後のものだったのだということも。

ただ会う約束を一方的にして去っていった男を、と同じようにただ見送る。
そこで再び、場所が変わった。

いや、また戻っていた。
さっき出てきたばかりの、男のいた部屋に戻っていた。














つづく⇒
61話まで飛ばす⇒(流血表現や人が死ぬ表現があります)



ぼやき(反転してください)


立場や経験の違いによる着眼点の相違とか
なんかそういうのがちゃんと書けたらいいなーと思います
ええ、希望ですけど

2018.10.11



←管理人にエサを与える。


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