人間万事塞翁馬 57 着替えをしているのか、なんとも形容しがたい格好の女性三人が目の前に立っている。 私は思わず声を上げ、そこから飛び出した。 扉をすり抜け外に出る。 ふと、右上を振り返ると、そこに札が飛び出ていて”女子更衣室”と書かれていた。 どおりで、と思うのと同時に頭を掻く。 「…それにしたって、ちょっと過激すぎやしないか?…こっちの女性っていうのは、皆こんな感じなんだろうか…」 もし郭嘉殿がこの場にいたら…狼狽えるような事はなさそうだ、と思っていると中からの話し声が耳に届く。 ””と聞こえ、その内容にじっと耳を傾けた。 どうやらとさっきの男の噂話をしているらしい。 そして、どうも出所はこの三人のうち一番甲高い声で話している、この女性のようだ。 社長室への出入りが多く怪しい関係だ、元々は別の会社に居たというが社長目当てでやめたに違いない、だの…。 まあ、なんというか大そうな想像力だ、と思う。 の性格じゃ、どう考えたって社長室への出入りは仕事の用しかないだろうし、会社の鞍替えも仕事の目的以外ないだろう。 この女性はの何が気に入らないんだろうか。 多分、そういうことだろう。 何かを僻んでいるのか、羨ましいと思っているのか、それとも社長とやらに気がある上での嫉妬か何かか? 他の二名の相槌は至極曖昧なもので、仕方なく付き合っている、という印象が強い。 定かではないが、自分に火の粉が降りかからないようにしているんだろう。 陛下を迎える件で許昌を留守にしたときのこと、が新棟の監理を任されたときのことを頭の片隅で思い出した。 同時にいつだったか、戦勝祝いの宴の席でが微笑みながら言った一言が脳裏に響く。 『人はどこ行っても同じですね』 …まあ、どちらにせよ…。 「全く、呆れるわ。いつまでも」 急に自分の左手側からうんざりしたようなの声がして、私は驚きとともにそちらを見下ろした。 社長室で見たときと同じ格好をして、扉の脇の壁を背に腕を組んでいる。 呆れた表情を作るその顔は、やはり大人びていた。 綺麗な顔をしているが、どこか冷たい印象を抱く。 私の知っているも、ふとしたときにそんな印象を抱かないことはないがそれでも、いま目の前にいる程ではない。 が呆れた調子で口を開いた。 「他に楽しみとか…これが楽しみなのか……、…下らない」 「私も君に同感だね」 ため息混じりに呟くに、なんとなく相槌を打つ。 意味がないとは分かりつつも、そうしたくなる。 が手首の内側に視線を落とす。 そこで初めて、そこにも時計があることを知った。 装飾品のようなそれは細身の銀色をしていて、無駄な飾りが一切ないそれがらしいと思った。 が再びため息をついた。 「…だめだ、タイムリミット。もう行かないと、稽古に遅れる」 そう言ってが動き出したので、私はなんとなく扉の前から離れた。 しかし、予想に反しては扉に向かったまま止まってしまった。 どうかしたのか、と思っているとが呟くようにして言う。 「分かってはいるの…自分が甘いんだってことぐらい」 言って顔を上げる。 「隙だらけだな、私は…」 ぼそりと呟かれたそれは、本来ならきっと誰の耳にも入らなかったもの。 しかし、それは私の耳に、いやにはっきりと届いた。 目の前のは扉を二度叩き断りを入れてから奥へと消える。 閉められた扉の向こうから、の”お疲れ様”という明るい声が聞こえた。 「お疲れ様、」 扉に向かって、私は誰に届くことのないそれを口にした。 中でが話をしている。 当たり障りなく返しているそれを聞きながら、私は暫し考えた。 今いるこの時間軸は、さっきの社長室での出来事の前だろうか? 後だろうか? 最初の場面は恐らくと初めて会った時から少なくとも二年は遡っている。 そして、さっき社長室の書机に置かれていたものの中に”二〇××年九月九日”と書かれたものがあった。 あれは多分、日付をあらわしている。 ということは、この更衣室の中に同じようなものがあれば…、確か扉の脇の壁に表のようなものがかかっていたはずだ。 時計のほかに、から教わったものの中でカレンダーとかいうものがあった。 あれがそうだと思う。 聞いた話と見た絵を思い出すに、そうに違いない。 私は意を決して、後ろ向きのまま扉をすり抜け更衣室へ入った。 扉の脇の壁に視線を向ける。 そこには、思ったとおりのものがかかっている。 しかし、困ったことに書かれていた字は知らないものだった。 さっきの社長室で見つけたものは運がよかっただけなのだろう。 まじまじと表を見る。 赤い斜線が入っているものは、過ぎた日、ということだろうか。 ということは、16…というのは何を指すんだ? 多分、この羅列ならこれが、一だろう。 ということは…16…というのは、十六か。 月の字の前の10は十、その上の四文字並んだ小さい方の字は…。 「知識が多少あったとはいえ、はよく私たちの使う文をあんなに短期間で覚えたな…改めて舌を巻くよ…」 勤勉だけでは片付かない、集中力と記憶力だ…。 しかし、これでとりあえず分かった。 ここは社長室の時より更に過去だ。 ということは、このまま過去を追っていく、ということで間違いはないだろう。 …けど、の気配は全く感じないな…。 どこにいるんだ、。 なるべく早いうちに君を見つけ出して、ここを早々に抜け出したい。 これ以上過去に戻ってしまったら、見てはいけないものを私は見てしまう気がする。 そう思えてならない。 だから、…。 「調子はどう?じいちゃん」 唐突に耳へ届いたの声に、私は我に返った。 どこかの部屋の中らしい。 天井も壁も真っ白だ。 目の前に変わった形状の寝台があり、そこに老齢の男が一人、掛布から上体を起こして座っていた。 顔は分からない。 の容姿は先程までと比べると幾分年を遡ったように見える。 自分と同じぐらいの年頃、だろうか。 寝台の傍の卓にが変わった素材の白い袋を置く。 それは、がさりと音を立てて僅かに崩れた。 とその祖父以外他の者はいない。 老大人(おきな)が口を開いた。 「か…何かあったのか?そんな顔をして」 思っていたより、ずっと低くしっかりとした声音のその老大人は、柔らかく微笑んでいるを見るや、そう言った。 私には、何かあったような顔には見えなかった。 ただ穏やかな表情をしている。 が老大人に言った。 「何もないよ、そんな顔してる?」 「…いいや。じいちゃんの勘違いだったな」 「ほらね。ちゃんと休んでないと駄目だって」 言いながら、は足元に置いた大振りの布袋から、これも初めて見る素材の入れ物を取り出した。 透明なその入れ物は、破璃で出来ている訳ではなさそうだ。 中には水だろうか、並々と入っていて、そのごく小さな蓋をは回して開けた。 卓の上の、こちらは破璃製と思われる空の花瓶にその中身をあける。 そうしてから、再び布袋に手を伸ばした。 中から取り出したのは、文字がびっしりと書かれた灰色の紙に包まれる青い花の束。 の邸の庭で咲いていたものだろうか。 少し前に見たそれと、よく似ている。 はそれを生けながら言う。 「庭のが咲いたから持ってきたの。どう?ちゃんと色、着いてるでしょ?」 「ああ、綺麗な色だ。は花の手入れが本当に上手だ。この紫陽花もきっと喜んでるに違いない。こんなに綺麗に咲けたんだから」 「だといいけど。他の色も、咲いたら持ってくるね」 「それは楽しみだ。花が咲くたびが生けてくれるから、じいちゃんはここにいても家で過ごしているようで本当に助かっている。桜も綺麗だったなあ」 「…それは困る……、ここは家じゃないよ。私は早くじいちゃんに帰ってきて欲しいのに……持ってくるの、やめようかな」 「それはじいちゃんも困る。と花見がしたいと思っとるのに」 「お酒は元気になってからだよ、じいちゃん…」 そう言って笑い合うも、私の知らないだった。 ただ、この記憶の何がにとって苦しいのだろう、と思う。 そのとき、老大人が言った。 「、じいちゃんと囲碁をせんか?」 が椅子に腰掛けながら言う。 「駄目。先生から禁止されてるでしょ。心臓に負担かかるから駄目だって」 「囲碁じゃぞ。走るわけでもあるまいに」 「駄目。じいちゃん、囲碁すると直ぐ熱くなるんだもん、駄目ったら駄目」 それを聞いて、私はだからか、と思った。 老大人が言う。 「じゃあ、。じいちゃんが元気になったら打ってくれるか?」 「元気になったらね」 「約束じゃぞ」 「うん、約束。じいちゃんが元気になったら囲碁をする」 「うむ。指切り拳万じゃ」 そう言って、老大人がいつかののように、郭嘉殿の目の前でしたのと同じように小指を立てた。 「またそれ?いい加減、子供じゃないんだけど…」 「じいちゃんにとってははいつまでも子供じゃ。可愛い孫じゃぞ」 「…可愛いって……」 呆れた顔をするはそう言いながらも、老大人のその老体とは思えないほどがっしりとした大きな小指に、折れてしまいそうなほどか細い小指を絡めた。 老大人が歌う。 「指切り拳万」 「「嘘ついたら針千本飲ます、指切った」」 どちらともなく指を放す。 老大人が言った。 「約束じゃぞ、」 「もちろん。私がじいちゃんとの約束、破ったことある?」 「ない!」 「でしょ?だから、じいちゃんも早く元気になってよね」 「うむ。に約束しよう」 どことなく陰気な部屋の中で二人はただ明るく笑っていた。 私は目を閉じながら、この記憶はここで終わりだろうと思った。 しかし、その予想は外れ、耳に届いたのはがあの白い袋を探りながら話す声。 「ところで、じいちゃん。林檎、食べる?」 「が剥いてくれるなら」 「じゃあ、剥くね」 そう言って、は袋から真っ赤な林檎と小刀を取り出した。 その袋から更に小さな袋を取り出し膝の上に置くと、その中へ林檎の剥いた皮を入れていく。 器用に剥かれていくそれは、途切れることなく袋の中へ、まるで吸い込まれるかのように収まっていった。 「は林檎を剥くのが上手いな」 「当然。包丁の扱いはじいちゃんに教わったんだよ。上手くないわけないでしょ?」 笑い混じりにが言う。 私は内心、意外に思った。 私の知っているなら、当然に謙遜するだろうと思ったから―計略を推し進めるときはまた、別だが― 過去がそうだったのか、祖父に対してだからなのか、実は今でも素振りを見せないだけでそうなのか、それは分からない。 ただ、そんなことを口にするが新鮮に思えた。 「はい、剥けたよ。ちゃんと三十回は最低噛んでね」 「に言われたら、そうするしかないな」 楊枝に刺したそれを受け取り、食べ始める老大人を見ては用意していた卓の上の皿に残りの林檎を切り分けた。 楊枝を数本そこに刺し、袋を片付ける。 しばらく椅子に腰掛けたまま、何をするでもなくは窓外を眺めていた。 そして、不意に言った。 「あのね、じいちゃん」 それに老大人は答えない。 ただ変わらず林檎を食べている。 は視線を変えずに、そのまま続ける。 「私、今の会社やめて別の会社に勤めることにしたの……これって、変…かな……変、だよね…」 そう告げたは、困惑したような表情を浮かべていた。 なぜ、はこんなことを聞くのだろうか。 また、こんなことをが口にするということ自体、私には意外だった。 もう終わってしまった行動の是非を問う。 私の知っているは、まずそういうことをしない。 少なくとも、己の主観に委ねられるような問いをしたりしない。 このときのは何が欲しかったのだろうか。 相手からの肯定? それとも否定か? 咎めか? この状況だけでは分からない。 老大人が静かに言った。 「じいちゃんは、が決めたのならそれで良いと思う…は、会社を辞めることに未練があるか?その会社へ勤めることに迷いがあるか?は誰に変だと思われるんだ?誰から変だと、思われたいんだ?…は間違っておらん。胸を張りなさい、。自分の選んだ道に間違いはない。誰も、その魂まで責めたりはできない。魂が決めたことは、何より尊いものだと思いなさい。いま、全てが分からなくても、必ず分かる日が来る。なら分かる……おいで、」 言って老大人は、恐らく太腿の上だろう、手で軽く二度、そこを叩き示した。 はそこをじっと見ていたが、程なくして遠慮がちにそこへ頭を預ける。 老大人に頭を撫でられながら、はただじっとしていた。 その顔は、何かを考えているのか始終難しそうな表情で、それでも、されるがままじっとしている。 暫く二人は一言も交わさず、そうしていた。 前触れなく、が身体を起こす。 老大人は、それが分かっていたかのように、既に手をそこから放していた。 が言う。 「顔に跡がついたら帰れないから…」 「の好きにするといい」 「…また、来るね」 「うむ。いつでも待っとる」 老大人の言葉に、は小さく頷くと荷をまとめ、部屋を出ていった。 私は、閉じられた戸を何を思うでもなく、ただ見つめる。 そのとき、視線を感じはっとした。 ゆっくりと、視線を感じた先、老大人の方を見る。 顔は相変わらず判別できないが、明らかにこちらを見ている…ように見える。 ただじっと、こちらに顔を向けている。 まさか、本当に私が見えているのか? いや、ありえない。 ここは過去の記憶で、ただの夢…のはずだ。 そこに出てくる人間が、私を認識するなどありえるはずがない。 「覚悟をしなさい」 唐突に告げられた言葉に、私は一瞬息を呑んだ。 厳かな物言いは、今まで耳にしていた老大人のそれとは違う。 私が口を開きかけたとき、再び老大人が言う。 「覚悟をしなさい、。覚悟が出来た先に迷いはない。そして、迷いの先に覚悟がある。大いに迷い、そして覚悟をしなさい」 なんだ、まだ続いていただけか、と私は内心ほっとして胸をなでおろした。 しかし、そう思ったのも束の間、顔上げたほんの一瞬。 ほんの、一瞬だけ老大人の顔が見えた。 瞬きをすると、既に別の場所に変わり、私は狭い通路の真ん中に立っていた。 つづく⇒(次は暴言吐かれたり、罵られたり割と修羅場な話です) 61話まで飛ばす⇒(流血表現や人が死ぬ表現があります) ぼやき(反転してください) やっぱり紙に書いた文字を起こすのが面倒… なんかいい方法、ないかなあ と思いつつ、この話は一体どこに行くのやら 2018.10.11 ![]() |
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