人間万事塞翁馬 56 暫く、本当に何も無い空間をひたすら歩いていると、音も無く場面が変わった。 見覚えのある場所、の向こうの邸の中、初めて話をした部屋だった。 外は雨が降っている。 私が立っているところから一部屋隔てた廊下の先に見える庭には、今まで見たこともない、満開の青い花が雨に濡れていた。 中には濃い桃色のものや、紫に近いものもある。 色が異なるだけで、同じ花のようだった。 はどこにいるんだろうか。 隣の部屋に進む。 右を振り向くと、その更に隣の部屋に多分だろう、人影が目に留まる。 祭壇のようなものの前で座り込む背中が見えた。 上下黒の、初めて見る衣裳を着て髪を低い位置で一つに束ねているその後ろ姿は、に間違いはないだろう。 その祭壇らしきものをよく見ると、の前の書机の上に香炉らしきものがあり、そこに一本、棒状の恐らく香が立っている。 脇には花が生けられていて、その花は全て白い花だった。 さらにその奥の棚の上段には、左から順に額に飾られた人の絵のようなもの―但し、顔はなぜか白っぽく靄がかかり判別できない―、木主のようなもの、そして白い布で包まれた箱のようなものが並んでいた。 私はがどこか近くに居ないかと辺りを見回した。 目の前のは記憶の中のの筈だろうから、きっと話しかけても無駄だ。 その時、の声が耳に届く。 「自分の父親の通夜か葬式ぐらい顔出せないの?って思うんだけど…じいちゃんは、そういうの気にしない人?」 そちらを見ると、は俯いているようだった。 その話から、の祖父が亡くなった直後の記憶なのだと理解する。 誰にともなく、が言った。 「遺言どおり、余計なことせずに内々で通夜も葬式も済ませたよ…ちゃんと、見えてた?…参列者、私だけだったけど…ちょっと、内々過ぎたんじゃない?じいちゃん……」 「…」 思わず口にしてしまったが、その言葉はには届かない。 これは、記憶なのだから。 「…本当に、一人になっちゃったな……」 小さくなるその背中をただ見つめる。 首を横に振っては顔を上げた。 「じいちゃん、いつかまた囲碁打とう、一緒に……約束、したから…約束だから」 消えていく声は悲痛なものだった。 その背をただ見ているだけしかない私の耳に、今だけごめんなさい、と告げるの言葉と押し殺すような静かな泣き声が届く。 私は静かに目を伏せた。 * * * * * * * * * * 次に目を開けると、再び唐突に場所が変わった。 あまりの変わりように、思わず驚いて声をあげる。 目の前には、大きな破璃だろうか、それが嵌められた窓があり、そしてそれは信じられないぐらい透明だ。 以前、と初めて会った頃にも目にしてはいるが、何度見ても驚く。 そして、さらに驚くのはそこから見える景色。 話だけは耳にしていたが、中々それでも理解が追いつかない。 見たことのない素材で出来た建物が山のように立ち並んでいる。 窓から下を覗くと、自分のいる場所は高い建物の中なのか、立ちくらみを覚えるほど地面が遠い。 と、同時に驚くほどの速さで動くあの箱のようなものが、から聞いた車、だろうかと思った。 「何もかもが真新しすぎて、興味を持つ前にまず混乱してしまうな、これは…」 思わず腕を組んだ。 その時、背後で軽く何かをたたく音がする。 すぐ傍で、中へ、と促す男の声がして私は初めてそこに人が居たのだと気づいた。 気配のようなものを一切感じないのは記憶だからか、それとも夢の中だからだろうか。 二、三歩後退してその男の顔を覗くも、さっきの絵のように白く靄がかかり見ることは出来なかった。 書机に向かい何かを書きとめているらしい男が、顔を上げ言葉を発する。 「悪いな、。急に呼び出して」 …、ということは。 「いいえ。どういったことでしょうか?」 の声に私はそちらを振り向いた。 そこには味も素っ気もない灰色の上衣と褌に身を包み、やや高い位置で髪を一まとめにするが立っていた。 と、同時に私は驚いた。 の顔が、私の知っているのものより、もっとずっと大人びていたから。 子供っぽさの欠片もない、幼さを全く感じない顔。 確かに、この容姿のままと対面していたら迷うことなく私はの方がずっと年上だと思っただろう。 だけど、それにしたって…。 『私、もっと老けてませんでしたか!?』 って、もしこれを見てたとしても…。 「もう少し、言い方ってものが…」 まあ、それを言っても仕方がないか、と私は目を瞑った。 その間にも男が言う。 「最近、社内で聞く噂話のことだが…」 「社長の耳にも入ったんですね」 の言葉に私は、なるほど、と思い男を見た。 顔が判別できないため定かではないが、手元の肌の感じを見ると年の頃は恐らく、主公と同じぐらいだろうか。 男の声が耳に届く。 「悪いな…迷惑をかける」 「なぜ、社長が謝るんですか?根も葉もない噂を流している人間に謝られるなら分かりますが」 は変わらないな、と思いながら耳を傾ける。 物に触れることはできないらしい。 「いや、この年にもなって独り身の俺に、問題があるんだろう」 「違います、社長。このご時勢、社長ぐらいの年で独り身の人なんて男女ともにごろごろいます。それに、仮に社長が妻帯者であっても、同じように噂は流れたと私は思います」 を見ると、まっすぐ男を見ていた。 このとき男はどんな顔をしての話を聞いていたのだろう。 男が言う。 「…明日、ここへ呼ぼうと思っている」 は暫く黙って男を見ていた。 暫し無言になる中、規則正しく響く音に私は漸く気づき、二人の対峙する先の壁の上方に視線をやる。 そこには丸い枠の中に文字のようなものが書かれた何かが掛けられていて、細く長い三種の長さの針のようなものがそれらの文字を指し示していた。 一本は規則正しく動いており、それが音を発しているのだと合点する。 そういえば、に絵を描いてもらったものと似ている。 時の刻みを確認できる道具で、確か時計と言っていた。 こちらの土圭とはまた違うのだそうだ。 が唐突に言った。 「それは控えてください」 「なぜだ、。このままにしておけば、お前に迷惑がかかる。仕事にも支障が出る。それなら…」 「私はなんとも思っていません。根も葉もないことですし、やましいことをしている覚えもありません。それに、この程度では仕事に影響など、全くありません。気にする必要はありませんから、ただ粛々と自分たちのすべきことをこなすだけです。下手に反応したら、それこそ向こうの思う壺ですよ、社長」 「それは、そうだが…」 「これが私以外の従業員なら、もう少し対策を考えますが、当事者は主に私です。このまま普通に過ごしていればその内ボロが出て彼女から社長室へ来ると思います、きっと、近いうちに」 そう言っては笑みを浮かべていた。 そして、そのまま付け足すように言う。 「それから…私の話をもう聞いて下さらなくて結構です、社長。今まで、ありがとうございました」 「、それは…」 「やるなら徹底的に、です……あ、と…」 何かに気づいたように声を上げて、は自分の手首の内側に視線を落とす。 それから顔を上げ言った。 「すみません、そろそろ行かないと検査に間に合いませんので…」 「あ、ああ…そうか、堤さんの所は今日が中間だったか…」 「はい」 どういう検査をするのかは分からないが、そういうものがあるということだけはから聞いて知っている。 これが、それなのだろう。 男が二拍ほど置いて言った。 「…頼む」 「はい、行って来ます」 はそう告げると軽く頭を下げてから扉を開け出て行った。 その背を見送り後ろを振り返る。 目の前に三人の女性がいた。 つづく⇒ 61話まで飛ばす⇒(流血表現や人が死ぬ表現があります) ぼやき(反転してください) 書きたいことは山ほどあるのに、色々追いつかない 2018.10.11 ![]() |
Top_Menu Muso_Menu
Copyright(C)2018 yuriwasabi All rights reserved.
designed by flower&clover photo by