人間万事塞翁馬 55















邸(やしき)について直ぐ、私はの身の回りを整えるよう侍女に指示を出した。
その間に自分もまた着替えを済ませる。
ここに着くまでの間に、まだ小降りではあったが雨に降られ、肌にはりつく布(きぬ)に不快を覚える程度には濡れていたからだ。
袍の襟を正しながら、卓(つくえ)に置いた小瓶に視線を落とす。
背中が、少し肌寒く感じる。
さっきまで背にあったのこと―正確にはその体温―を思い出すと、更に悪寒がした。
もう一刻の猶予もない、そう思う。
そのとき、準備が出来たと告げる侍女の声がする。
小瓶を懐に仕舞い扉に近づき開けると、侍女が拱手し顔を伏せていた。



「ご苦労様、何かあったら声を掛ける」



それだけ私は侍女に伝えて、扉を閉め回廊を一歩踏み出す。
そのとき、珍しく侍女が私を呼び止めるので、私は後ろを振り返った。
侍女が遠慮がちに言う。



「…薬湯など、お持ちしなくてよろしいのでしょうか?」



侍女はに触れている。
だからだろう、と思った。
そんなことを言うのは。
そのぐらい、異常なんだと再認識させられる。
侍女に言った。



「医者から既に薬は貰っている…それより、このことはくれぐれも内密に、いいね?」

「はい」



短く答えて拱手する侍女を確認してから、私はのいる房(へや)を目指した。
内にいても外にいても、雨音に包まれている。
吹く風は冷たい。

その扉の前で一言断りを入れ、中に入った。









 * * * 









急に全身が重くなった。
それから気づいたら、関節という関節がだるい。
これは痛い、のかな。
頭が割れそう。
いっそ割れてくれた方が楽かもしれない。

左慈の話を朦朧とし始めた意識の中で理解して、途中、多分伯寧さんに怒られて…それで、私は今、どうしてるんだろう。
時々冷たいものが肌に触れる感触があったけど、よく分からない。
私は今、どこにいるんだ?
えーと、たしか…伯寧さんち、なのかな?

頭が痛い。
頭が熱い。
寒気がする。
何度熱があるんだろう。
寒気…関節痛いし、38度ぐらいかな。

うっすらと目を開けると、何かが近づいてくるのが見えた。
目の前までそれが来て、それから額に何か触れる。
冷たい…何が冷たいんだろう。



。これ、飲めるかい?」



冷たいものが離れたのと入れ替わりに、目の前に小瓶が見える。
さっき左慈と話してたとき、私の手の中にいつのまにかあったやつ。
手品でそういうの、あったよね。

…ああ、さっきの冷たいの、伯寧さんの手だ、きっと。
手か…。
…………。
そうじゃなかった…小瓶…丹薬…。



「伯寧さんは…さっきの、話……信じる…ですか?」

「今更何を…!私も悔しいけど、左慈が言っていることは恐らく真実だ。君のその異常なまでの発熱…どちらにしても、このまま何もせずにいたら間違いなく命を落とす。何も知らない侍女でさえ、不審に思う程なんだ」



握ってくる手が、ただ冷たい。
触れているものすべてが、冷たい。
命を落とす…私は、死ぬの?
このまま、死ぬの?



「それを飲んだら…死なずに…済むの?」

「……」



朦朧とする意識の中で、視界に入る伯寧さんの顔が揺れる。
困惑したような表情の伯寧さんに、私は声を振り絞って言った。



「死ぬのが、怖いんじゃない……何も、せずに…終わるのが、嫌……な、だけ」



口を動かすことさえ、辛い。
重い、だるい。
頭が痛い。
手を動かしたいけど、力が入らない。

少しだけ顔を伏せた伯寧さんに私は言う。
これ以上、迷惑をかけられないから。



「ください、それ……飲みます」

「ごめん、…ありがとう」

「…なんですか?…それ……それは、私の、セリフ…です」



もう一度額に手がのって、それが離れていくのと同時に気配が遠のいたのを感じる。

もう、よく分からない。
何がどうなっているのかが分からない。
上も、下も、右も、左も、よく分からなかった。

ぐるぐると世界が回っているような、そんな不思議な感覚の中で最後に感じたのは、唇に触れた冷たい何かと、喉を通っていく冷たいものだった。









 * * * 









気づくと、辺りすべてが真っ暗で僅かな足元の感触から土を踏み締めているのが分かった。
真っ暗だというのに自分の手元はよく見える、どうにも不思議な感覚に私は首をひねる。
着替えた筈なのに、また出仕用の衣装であることも疑問だった。



「これは夢か?…もしかしなくても、寝てしまったのか?私は」



を見ていなければならないのに、と思ったのと同時に、さっき―いや、さっきで合っているのだろうか?―自分がしたことを思い出して、思わず口元を押さえた。
咄嗟のことで、他に方法を思いつかなかったとはいえ…。



…ごめん…」



こんな所で謝ったって意味はないだろう、と思いながら私は自分を誤魔化すためにも、もう一度辺りを見回した。

何も無いように見える。
こうして、突っ立っていても仕方ない。
自分が目覚めるまで散歩でもしようか、と思い至り、道なき道を歩き始めた。

歩きながら何も無いと思っていた辺りに、薄らと輪郭が浮かび上がる。
状態は様々だが、事切れた兵たちが所狭しと倒れていた。
足元に再び視線を落とすと、踏み締めたそこから滲み出るそれが血溜まりを作る。

後ろを振り返る。
自分が歩いてきた軌跡が赤く染まっていた。



「…疲れでも溜まっているのか、私は……ううん、人のことばかり言ってられないな…」



思わず腕を組んで唸る。

こんな類の夢、一体何年ぶりだろうか、と思いながら私は再び歩を進めた。
延々と同じような光景が続く。
転がる首は見覚えが有るような、無いような顔をしている。
ぬかるんだ土を踏み締めたときのような湿った音が歩くたび耳に届くが、それが雨水などではなく、血でぬかるんでいるのだろうことは既に見なくても分かっていた。
その音だけが、この空間に響いている。



「いい加減、嫌になってくるな、これは…相当疲れが溜まっていると見える……まいったな」




自覚が無いなんてじゃあるまいし、と本人が聞いたら怒るだろうかと思いながら私は息を吐き出した。
何でもいいから早く起きろ、と無意味だとは思ったが心の中でつぶやいた。
その時、唐突に場面が変わる。

建物の中のようだが、何処のものかは分からない。
目の前に窓がある。
私はそのすぐ傍に立っていた。
外を見ると、どこか見覚えが有る建物がちらほらと建っている。
ここからの景色を見たことは無いが、間違いない。
ここは濮陽のどこかだ。

そう思ったその時、ごく近く、背後から悲鳴が聞こえた。
耳が痛くなるほどの悲鳴。
誰のものかは分からないが、ともかく私は振り返った。

同時に視界へ飛び込んできたのは、陳宮、呂布、そして
は指先から血を流して自由を奪われていた。
その自由を奪っているのは陳宮。
得物―鎖鎌―を手に不敵な笑みを浮かべている。
呂布は二人の後方にあって腕を組み、ただそれを見下ろしていた。

私は一瞬、頭が混乱した。
一体、いま私は何を見ているのか。
その間にも、目の前で会話が続く。
混乱する頭の片隅で、私は思う。
からは必要最低限しか聞かされることがなかった、その一部始終を、いま目の前で見ているんだ、と。
気づいたとき、私はその二人に歩み寄り、陳宮に掴み掛かっていた。
いや、掴み掛かろうとした。
しかし、手はそこを虚しくすり抜ける。

その瞬間、そこは部屋ごと消えて、またその前と同じ場面に戻った。
改めて、ぐるりと辺りを見回す。
戦場でのそれと同じ場所。



「…まさか、これは…」



の見ている夢だっていうのか。

そう、私は一つの答えに辿り着いた。
しかし、人の見ている夢を見るなんて、そんな馬鹿げたこと…。
いや、それを言ったら私が向こうへ行ったり、がここに居る時点で馬鹿げてはいるんだ。
ここまできたら、何でも有りなんじゃないか?
こんなものが有りだなんて、考えたくもないけど。

そこで私は、左慈の言っていたことを思い出した。
思わず口に出す。



「一晩苦しみに耐える…苦しみの形は人それぞれ…」



眉間に力が入る。
これのことを言っていたのか?
左慈は。
だとするなら、この苦しみに呑まれたら、例え死ななかったとしてもは目を覚まさない。
目を覚まさないときはどうなる?
まさか、ずっとこんな中で苦しみ続けるなんてことはないだろうな…。
もし、そうだとするなら…。



を探すしかない…私がここに居るってことは、きっと同じようにどこかにが…」



何故かは分からないが、そう思い視線をあげたとき視界の端に何かを捉えた。
はっとしてそちらを見ると、こちらに背を向け歩いていくの姿。
声を掛ける間もなく、それは掻き消えた。
何も無くなった空間を凝視する。
そこから少し視線を落とすと、どうやら戦場のそれはそこで終わりらしかった。
頭の割れた男のそれ以外、その先には何も無い。
もう一度視線を上げ、踏み出そうとした足を止め暫し考える。

が形はどうあれ苦しいと思っているもの。
つまり、この場合は記憶…。
ということは、恐らくこの先、それこそ私の知らない向こうでのの記憶を見ることになるだろう。
十中八九そうだ。
…果たして自分に、そこまで覗く資格があるだろうか。

は質問すれば、向こうでのことを語ってくれる。
けど、自分に関わるような事はあまり語らない。
いや、ものによっては冗談交じりで話してくれるものもあるが…多分、肝心なことは隠して話している。

…まあ、誰だって話したくないことの一つや二つあるだろう。
それこそ、思い出したくないことだって当然ある。
それがもし、この先にあるとするのなら…。

それを知らない間に、人に覗かれるってのは…どうなんだ?
気持ちいい気分にはならないだろう、それこそ誰だって。
ふと、がいつだか言っていた言葉が、その時の姿と一緒に脳裏に浮かぶ。

『過去なんて、いつか笑い話に変えられればそれでいいんです。中には嫌なことがあるのは当たり前。でも、そういうのも無きゃ、楽しくないんじゃないですか?私にとって過去は、そんな程度のものです』



「どっちにしろ、先に進まないと多分、は見つからない…か」



私はため息を吐き出した。



「そんな程度…」



本当に、そんな程度なんだろうか。
自分の気持ちに気づいていないだけなんじゃないのか。
見ない振りをしているだけじゃ…。



「…ごめん、。見たことは忘れるから…先に進ませてもらうよ」



そこからまた暫く、私は黒塗りの空間をひたすら歩き続けた。














つづく⇒
61話まで飛ばす⇒(流血表現や人が死ぬ表現があります)



ぼやき(反転してください)


この先は暫く夢主の過去話が続きます
そういうのは…要らないわ、って方は56話〜60話は飛ばして読んでも
なんとなく、話は通じます
どちらにせよ、あらゆる意味で読むの大変だと思うので
ぼちぼち目を通してやってください

2018.10.11



←管理人にエサを与える。


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