戯家の愚人 ― 叢雲・後 ―
兵舎を出て、偃月刀を兵士に預け手ぶらになった関羽と共に籠に揺られること、暫く。
宮城内のどこかに下ろされ、関羽の促すまま戯は回廊を歩いていた。
兵士は一人も伴っていない。
関羽と戯の二人だけが人気のない回廊を進む。
関羽は戯の後ろ手に縛る縄の先を手に、そのうしろを歩く。
日はまだずっと高かった。
関羽の前を歩く戯の視界、前方にふと人影が確認できた。
近づくと、一人の兵士だった。
身形から兵卒ではなさそうだ。
一室の戸の前に立っている。
戯は数歩の距離まで近づくと、立ち止まった。
男は無言でその戸を開け、拱手した。
「中でお待ちしております」
「分かった」
関羽が戯の背後から答える。
戯は少し後ろを振り向いて関羽を窺った。
「殿、中へ」
関羽に言われるがまま、室内へ一歩踏み入れる。
促され奥へ進むと、右手側の布帛の向こうに誰かいるようだった。
関羽が戯の先に出て布帛をはらう。
そこにはがっしりとした体格の見た目初老ぐらいの男と青年二人の計三人が、几の傍らに立っていた。
その几の上には水の張った盥三つと数枚の綺麗に畳まれた晒しが積まれた盆、そして注ぎ口のついた首の長い壺が二口置いてある。
「先生、お待たせいたした。よろしくお願いいたす」
「そちらへ腰掛けなされ」
先生と呼ばれた男は、関羽の言葉に一度頷くと牀を示して言った。
関羽は戯の縄をほどき、牀へと促す。
戯は、それに従い歩み出るとそこへ腰をおろした。
初老の男が、戯に拱手する。
「私は医者で、華元下と申す。この二人は私の助手です」
「あなたが…華先生…ご高名は聞き及んでおります」
「まあまあ、まずは診ましょう。あなたは何も理解できていないようだが」
腰を上げ華佗と助手二人へ順に拱手する戯に、穏やかに笑って華佗は再び座るよう促す。
華佗の言葉通り、実際状況をいまいち理解していない戯は戸惑いながらも、ただ従う。
何かに気づき、再び腰を下ろした戯の両腕―下腕部分―を華佗はその場に中腰になって屈み軽く握った。
直後、ほんの僅か動きを止め、納得したように手をはなすと同時に立ち上がって関羽を振り向きながら口を開く。
「関殿、すまぬが貴方は…」
華佗が振り向くと、すでに関羽は背を向け布帛をもとに戻していた。
「(既知であったか)」
布帛のすぐ傍から気配は消えていなかったが、少し離れたところから落とされた影は背を向けているのだろうと思われた。
離れようとしない所から、何か訳ありなのだろうが深入りはしない。
華佗はそれだけ考えて、それ以上は何も考えないことにした。
目の前の患者も、気にしているようには見えなかったからだ。
再び身を屈めると、助手の一人が差し出した椅子に腰かける。
戯を見上げた。
「胸を打ったとお聞きしている。まずはそちらを診させて頂こう。その腕の出血はそれ程深刻ではない故、そのあとに」
「お任せします」
そう告げると、華佗は袍の上から戯の胸を抑える。
ずきりと走る重く鋭い痛みに、戯は思わず顔をしかめた。
華佗は直に見せて欲しい、と言って一言詫びを入れると戯の袍と禅をはだける。
胸に巻かれた晒しを見て、視線を戯にあげた。
「悪いが、裂かせてもらいますぞ」
「どうぞ」
言って、手の平を上に右手をあげると侍していた助手の一人が小刀を手渡す。
華佗はそれを振り向かずに受け取ると、慣れた手つきで戯の肌に触れぬように晒しだけを切り裂いた。
それを脇に退け、その色白の肌に華佗が触れる。
戯はただそれを見ていた。
見た目にはなんら変化はない。
再び探るように数か所を四本の指を揃えて押す。
「っ!…」
「…うん…、骨は折れてはおらぬようだが、傷めてはおるようだ。恐らく、そいつで胸を締めていたおかげで折れなかったのだろう…運が良かったな」
華佗はそう言って退けた晒しを指差した。
戯がつられるように、そこへ視線を落とす。
「二十日の内は絶対安静、重いものを持ったり、激しく身体を動かすのはもっての外だ。守らねば折れても不思議はない。湯に浸かるのもその間は我慢なされ。さて、次はその腕だ。どれ…」
言うや、戯の袍の左見頃をその胸元を隠すように持ち上げる。
戯はそれを受取り胸元で押さえた。
華佗はそちらには目もくれず、既に戯の右腕を掴み、傷口を覗いている。
短く唸った。
「綺麗に切れておる。傷口は洗うだけで良さそうだ」
華佗はその場に立ち上がると、助手のどちらにともなく視線を送る。
助手二人は何やら準備を始めた。
華佗はその間、几の上の盥の一つで丁寧に両手を洗うと、一枚の晒しと壺を手にする。
それを戯の上腕の内側に当てその腕を少し持ち上げた。
「この水でこれから傷口を洗うが、少し沁みますぞ」
戯が頷いたのを見て、華佗は水を少しずつ注いだ。
腕にあてがった晒しがみるみる赤く染まっていく。
戯は顔色一つ変えずにただ黙ってそれを見ていた。
助手の一人が華佗の傍らに立ち新しい晒しを何枚か手渡して交換する。
傷口が綺麗になった所で、晒しの上に並べた針と糸をもう一人の助手がその助手に渡し、そしてそれを華佗に差し出した。
華佗が助手の準備した椅子に腰かけ、戯に向き直る。
「こちらに傷口を」
華佗の言葉に、戯は身体を少し左に向けた。
丁度腕の傷口が、華佗の正面にくるように。
それを確認すると、華佗は手早く戯の傷口を縫合し始めた。
ほんの一瞬だけ戯の顔を見て様子を窺う。
戯はまっすぐ前を見ていた。
その顔は平然としている。
歯を食いしばっているようにも見えない。
「(これは、驚いた…眉一つ動かさぬとは、強い女子だ)」
手を動かしながら、内心呟いた。
今まで、これに似た傷や処置で痛がる様子を見せない女を見たことは無かった。
我慢をする女を見たことはいくらでもあったが、ここまで平然としているのは初めてだった。
縫い終わると几に置いてあったらしい膏薬を塗り晒しを巻く。
同様に、手首の擦り傷にも膏薬を塗り晒しを巻いた。
華佗は、巻き終わると袍を着るように促す。
戯はそれに従い袍を着直した。
といっても、腰帯を解かずに上だけをはだけていただけだったので、羽織り直して着崩れを直すのみで済んだ。
当然、胸に巻いていた晒しはもう、使い物にならなかったので晒しは巻いていなかったが。
「関殿、良いですぞ」
華佗が盥の一つで手を洗いながら声を上げると、一拍おいて関羽が一言声をかけ布帛を払う。
一瞬、戯と目が合ったが、華佗がどちらにともなく話し始めたため、そちらに視線を移した。
助手の二人は既に片付を進めていた。
「傷が塞がるまでの間、しばらく腕には負担をかけぬよう安静に。薬を二種類処方しておきますからな…一つは、胸に痛みが出たら服用を。但し、飲み過ぎても良くない故、どうしても耐えられない時だけお飲みくだされ。もう一つは、腕の塗り薬を。布を替えるたびお使い下さい。私は暫くここに留まるので抜糸の頃合いに伺います…本日はこれにて失礼を」
言って部屋の出入口に向かって歩き出す。
助手の二人も既に片付を終え、道具を包みにまとめ手にしていた。
ただ、盥だの壺だのはここの借り物だったようで、几の上に整然と並べられていたが。
華佗は関羽の横でふと止まると、後ろを振り向き戯に言った。
「貴方の身体は他の同性のものに比べれば良くできているし、恐らく治りも早いだろうが…くれぐれも安静に。よく食べ、よく寝て静養なされ。無理は禁物ですぞ…では」
そう言葉を残して華佗と助手二人は部屋を後にした。
戯は華佗の言葉に少しだけ驚いて、その背を見送る。
同じく、華佗の背を見送っていた関羽が戯に向き直り視線を落とした。
晒しを巻いていないせいか、普段より幾分胸のあたりがふっくらとしている―といっても、他の同性に比べればずっと控えめではあるが―。
戯もまた関羽を見上げた。
「…雲長殿、まったく読めないんだが、私は何に従えばよいのか…?」
「暫くこの城で大人しくしていただく。逃げようとしたり、何か騒ぎを起こしたりすることを禁ずる」
そう答える関羽に戯は横目でじっとりと見つめた。
「”暫く”って…いつまで…」
「俺が良いと言うまでだ」
「…言う気ないよね」
「さて」
「……」
座った目で見てくる戯に関羽は気にせずあっけらかんと告げる。
「勝負の末の約を違えるのは一向に構わぬが、よく考え召され」
「(賭けに乗った私がそんなこと出来ないって分かってて言ってるな…)」
笑顔の関羽に内心呆れ、ため息を吐いた。
実際、今は敵同士とはいえ、勝負前に賭けに乗り約束までしたことを破るというのは気が引けた。
とりあえずは、関羽や華佗の言葉通り大人しく静養してあとのことはそれから考えようと思った。
動こうと思って動けないことは無いが、自分の身体が万全ではないのは確かだ。
そんな状態のまま関羽の手から逃げ出せるとは思えない。
また、それに追い打ちをかけるように、辺りの警備は厳重になされているようだった。
どちらにしろ、この分なら殺されることはなさそうだ。
機を見て何か考えよう、と思った。
「ところで、先の先生の言いつけは守らねばならぬ故、湯に浸からせることはできぬが…隣室に沐の準備をしておいた。事情が事情故、外で見張らせていただくが…ひとまず身を清め、お召かえなされ」
「雲長殿……まあ、逆なら私も見張りはつけるだろうし、そこについては気にしない…大人しく言う事を聞かせていただくよ、約束だし……”暫く”は」
冗談めかして言いながら、戯は関羽の促すまま隣室へ移動する。
戯の背中を見送ると、その部屋の外の回廊で関羽は空を見上げた。
青空を流れていく雲を目で追いながら息を吐き出す。
戯に対する一連の動きはごく近い信頼のおける者にしか指示を出していない。
戯の行方をくらますことができれば、自分の義兄―劉備の助けに少しぐらいはなるだろうと考えた。
策をめぐらせるのは得意な方ではない。
しかし、すんなり戯を曹操の下へ返すよりはいいだろう。
劉備が動いて一月も経たぬ今、戯をすぐに曹操の下へ戻したなら、頭の切れる戯のことだ、自分たちの身が即座に危うくなるだろうことは想像に難くない。
優れた人材が曹操のもとには多いという。
しかし、北は袁紹、南は張繍、劉表と対峙し一時の油断もならない状況の今、曹操もおいそれと劉備に手が出せずにいるに違いないのだ。
事実、まだ曹操は何も行動を起してきていない。
そうであるなら、どうしてこの状況を利用しない手があるだろうか。
時間を稼ぎ、劉備の足元を固める。
戯の行方をくらませて、どう出ればいいか迷わせれば、少なくとも時間は稼げるはずだ。
その間に、劉備は曹操と敵対する勢力との交渉を進めれば良い。
――”真剣勝負”をしているときは首を取るつもりで本気で当たったが、だがそれはあくまで’つもり’だ。
今に至るまで、命までを取ろうとは思っていなかった。
劉備からも”任せる”といわれただけで、”殺せ”とは指示を受けていない。
劉備としては珍しく、戯を自分の下へ引き抜くことに執着しているようだったが、しかしそれが失敗した今、どうしたいのかまでは分からなかった。
どうしても自分の下へ置きたいというのであれば、自分なりに力を尽くそうとは思っているが、成功させる自信は全くない。
きっと、自分と同じだろうと思うからだ――。
視線を地面に落し、再び息を吐き出した。
武人として、戯を尊敬している。
しかし、勝負のあと地面に倒れた戯を見て、一瞬武人ではなく異性としての戯に惹かれた。
そこに気づいたとき、もしかして自分は、自分の思いを勘違いしているのではないか、と思ってしまった。
もともと戯は武人と言うより、ただの女人だと、少し腕のいい女人、程度にしか思っていなかった。
だが、初めて手合せをした時に、その考えを改めた。
ただの女人でもなく、少し腕のいい女人でもなく、間違いなく武人だと。
その業も、その考え方も。
だからこそ、武人として尊敬している。
そう思っていたが、本当は異性としての戯に元々惹かれていたのではないか――?
そこへ思い至った時、どうしようもなく、ただ自分が、そういう思いに気づいていなかっただけなのではないか、と考えるようになってしまった。
それ故、”それ”は策のために用意させたが、実は自分がただそう望んだからそうしたのではないか、と思ってしまう。
女人であることを無意識に望む自分が、そうさせたのではいのか、と。
目を閉じて、小さく首を横に振った。
そんなことはない、と。
自分は戯と”武人”として付き合いたいのだ、そして”それ”は策のためだ、と言い聞かせた。
可笑しな感情を一瞬抱いてしまっただけで、それ以上は何もないのだと、目を開ける。
再び見上げた青い空は変わることく、斑に雲を流してただ静かにそこにあった――。
「(まさか…策のため以外に、こんな格好をする日が来ようとは…)」
高楼にある一室から窓外を見やって額に手を当てた。
連子子が縦に組まれた連子窓だった。
両手首には鉄枷が治療箇所を外して嵌められ、互いを鎖で繋がれてはいたが、普通に過ごす分には支障がない。
普段、自分が焚かない類の香の香りが、額を抑える右手の袖口からほのかに香った。
どちらか、といえば間違いなく甘い香りだ。
甘く、華やかな香り。
勝手に施された化粧の独特の香りもする。
ため息を一つして手を下ろす。
空の青さは大分薄らいでいた。
連子子の合間合間から見える窓外をぐるりと見渡せば、この高楼が内城のどの辺りにあるのかはすぐに理解できる。
しかし直下に目をやると、ここに来るまでの道中思った通り、この建物の周囲には忍べるような植え込みや工作物は無いようだった。
ここから逃げ出すのは至難だな、と内心呟く。
おまけに用意されたこの服は隠れるのには適さない色ばかりだ。
当然か、と思った。
だがしかし、暫く大人しくすることにしたのだ。
時間はたっぷりある。
その間に何か思いつくだろう、と一先ずは考えるのをやめた。
それよりも、成人してからというもの人に身体を洗われたのはこれが初めてである。
俄かに思い出して、思わず耳を赤くした。
なんとも恥ずかしいものだ。
何がといえば、腕ぐらいは大したことではないが、腰から下を人に洗われるなど――。
例えそれが脚でも、だ。
薄っすらと赤くなりつつあるずっと先の山際に視線をやった。
「殿」
背後から声がして、そちらを振り向く。
白い石の珠が耳元で揺れた。
そういえば、耳飾りもつけられていたんだと思い出す。
戸の向こう側の気配に声をかけた。
「どうぞ」
「…失礼いたす」
戸が開かれると関羽が姿を現す。
後ろ手に戸を閉める関羽に戯は笑った。
「私は捕らわれているのだから礼など必要ないのでは?」
「そうはいかぬ。ここは牢ではないのだから」
「こんなのされてたら、どこだって牢と変わらないと思うけどな…」
言って、戯は手首にかかった袖をすっと捲り、鎖のついた鉄枷を見せすぐにその手をおろす。
関羽はふっと笑った。
「仕方なかろう。言うことに従う、と言ってはいるものの殿は中々油断のならない御方…そのぐらいの保険は俺とて欲しい」
「油断ならない、か…ならば、なぜ牢から私を出した?そのまま閉じ込めておけば、きっと私は何もできなかったと思うのに」
「俺は、殿のことを俺と同じ武人だと思っている。だが、その前にあなたは女人だ。そう思ったとき、あの環境は酷だと思ったのだ」
そういう関羽の表情は変わらなかった。
淡々と述べているように見える。
「…雲長殿がそのようなことをお考えになっていたとは……少々意外だ」
戯は驚きこそしなかったが、そう口にした。
関羽が本当にそう思っているのか、何か考えがあってそう言っているのか、よく分からない。
「さようか」
「ああ…確かに湯が使えるのはありがたいが、もしそれが謀ではなく本心であれば、いつか足をすくわれるぞ、雲長殿」
「肝に銘じよう」
探りを入れては見たものの、やはり関羽の表情も声音も変わらない。
武人として関羽を尊敬してはいるが、今のお互いの立場を考えれば行動に疑いをかけることを止めるわけにはいかなかった。
ただ、最後の忠告だけは、友としての言葉だ。
それが関羽に分かるだろうか。
それもまた、分からないことだった。
「それにしても」
戯は話題を変えるように、右腕をもちあげ、その袂に視線を向け呆れて言った。
「何もこんな恰好をさせなくても…」
「何を言う」
それにすぐさま異を唱える関羽。
その長く手入れの届いた髭をゆったりと扱いた。
「あの形のままでは牢に置かざるを得ぬ。実際、今のあなたが、あの殿だとは事情を知るもの以外は誰も気づいておらぬし、俺も些か驚いた。出す気はないが、このまま兵舎に行っても誰も気づかぬだろうよ」
「そう…か…」
左手で右肘を支え顎に手を当てる関羽に、戯は驚いたようにそう返した。
視線を窓外に戻し、心の中で呟く。
”化粧の力は偉大だな”と。
言葉として出ていれば、きっと関羽は呆れただろう。
しかし、それは誰の耳に届くこともなく、戯の心の中で消えていった。
そんな戯のことなど露知らず、関羽は戯のすぐ横へ控えめに距離をとり歩み寄ると、同じように窓外へ視線を向けて手持無沙汰な右手を髭にやった。
「しかし、昼間の勝負は実に良い勝負であった。殿の武に改めて感服いたした」
唐突に降ってきた言葉に、戯は視線を上げる。
目に映る関羽の横顔は嬉しそうだった。
戯は、ふっと口元に笑みをのせると、同じように窓外へ視線を移した。
連子子越しに広がる景色を何を見るでもなく、見渡す。
「雲長殿から感服されるなど、勿体ない……けれど、確かに良い勝負だった。まあ、雲長殿の武には到底及ばないが…」
「そんなことはござらぬだろう。殿の体調は万全ではなかったのだ。本来、勝負を挑むのであれば、お互い万全を期して臨むべきであった」
「真剣勝負に万全も何もない。その時の万全が、互いの万全なのだから…だから、雲長殿は戦場に臨む気持ちで勝負してくれたのだろう?」
戯に視線を落とし話す関羽に、戯はそう言い終わると視線を上げた。
こちらを見る関羽は少し驚いているように見えた。
そんな関羽に戯は微笑む。
「私もその気持ちで臨んだ。それなのに負けたのだから、やはり私はまだまだなのだ」
そう言う戯に、関羽は暫く見つめてからふっと息を吐き出すと徐ろに目を伏せた。
「そうだな…まさか、本当に命をとりに来るとは俺も思わなんだ」
「……そ、それは…先に”命を落としても恨み言なし”と言ったのは、雲長殿ではないか!首を取りに来ていた人がよく言う…!」
「ほう、そうだったかな…?」
「……もういいです」
呆れたように言葉を続けた関羽に、戯は口をとがらせ反論するが、関羽はしれっと白を切る。
そんな関羽に戯はそっぽを向くと、関羽は冗談だ、と言って笑った。
横目で関羽を見やる。
それでも尚、笑う関羽に戯はため息を吐いた。
「雲長殿が分からなくなってきた、冗談を言うんですね」
「無論、俺とて冗談の一つぐらい口にする」
「もうちょっとお堅い方かと思っていた」
言って、戯は窓外に視線を向ける。
二拍ほど間を開けて、ぽつりと関羽が呟いた。
「…俺もだ」
「え?」
聞き返すように戯は短く声を上げて関羽を見上げる。
直後、関羽は笑って一言。
「冗談だ」
戯は呆れて横目で見ながら目を細めると、瞼を伏せた。
徐ろに目を開けて、窓外へまっすぐ視線を向ける。
関羽はその、凛とした横顔をただ見つめた。
結い上げた髪にささる簪の銀色が、その艶やかな黒と相まって目映い。
肩に流れる髪の合間から白い肌がちらりと垣間見える。
改めて、なんと美しいのだろうと思った。
初めて仕合をしたときは、どうしてこれほどの武を持ちながら女人なのだろう、と思ったが今は、どうして武人なのだろう、と思っている。
関羽は正しく、息を呑んだ。
「…雲長殿?」
無意識だった。
ただ無意識に手を伸ばしていた。
戯の言葉で初めて気づく。
自分がその白い首筋に、滑らかな頬に、手を伸ばしていたことに。
しかし、幸いにもまだどこにも触れていない。
関羽は何食わぬ顔でそのまま手を伸ばし、そしてその白い首を掴んだ。
それは関羽の手には余りにも細く、力を込めれば一瞬で折れてしまいそうなほど、脆そうに感じた。
突然の行動に、驚きを隠しきれない戯。
関羽は顔を近づけ、ごく近く正面から戯の目を真っ直ぐに、覗くように見つめる。
「念のためもう一度言っておくが、言うことに従わず少しでも怪しい行動をとれば例え殿といえど容赦はせぬ故、お気を付け召されよ」
「勿論、約束には従う」
その目を見返して、答えた。
一拍おいて、戯から射抜くような鋭い視線が遠のく。
同時に、首からも温かいと言うより、熱いぐらいの感触が離れていった。
普通の人間だったら、きっと恐怖のあまり何も考えられなくなっていただろう。
しかし、戯は関羽の視線の先の真意を見抜こうとしていた。
それは、疑う事とはまた違う、戯の性ともいえる行動だった。
だが、そう上手くはいかず、これといって具体的な何かはつかめなかった。
言葉通り、念には念を押しただけなのだろうか、としか思い至らなかった。
離れていく関羽の背をただ見つめる。
視線の先の関羽は、ついぞ後ろを振り返ることなく戸の向こうへ消えた。
戯は窓外に再び視線をやった。
斑に流れていく雲が、綺麗に赤く染まっている。
ただ静かに、関羽がこの部屋へ来てからの言動を思い返した。
ふと顎に手を当て、視線を落す。
「(普通に考えれば、寝返らなかった私は太守殿と同じように殺されていたはず…だが、一月も経とうとしているのに命はある。ということは、殺すつもりはない……これは恐らく正解だろう……だが、牢には置かず、言うことに従わせ念を押す、というのはどういうことだ……何か交換条件でも出すつもりか…それで機を窺っている?……いや、それならば牢であっても変わらない。私にわざわざこんな格好をさせたり、牢から出したところで目立った利点はないはずだ)」
徐ろに手を下ろして視線を上げた。
「(外の情報が欲しいな……まだ少し情報が足りない)」
そう思いながら、天を仰ぎ目を閉じた。
息を長く吐き出すと、瞼を上げる。
窓から離れ牀に腰かけた。
薄暗い部屋で戯は静かに、そして再び、目を閉じた。
つづく⇒
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