戯家の愚人 ― 糜夫人 ―
「様、沐のご用意が整いました」
牀に腰かけていた戯は、戸の向こうからの声に小さく溜息をついた。
「どうぞ」
それだけ返し、立ち上がる。
窓際に歩み寄り、窓外を見下ろした。
もう、ここからの景色は見慣れたものだったが、この沐の時間だけは未だに慣れない、と再び戯は息を吐く。
腕の傷は完全に塞がり、既に抜糸を済ませている。
しかし、胸の方はまだ何かの拍子に痛むことがあり、華佗の言った二十日は疾うに過ぎていたが無理をするにはまだ早いと思われた。
そんなこともあり、当分は大人しくしているつもりだ。
だから、という訳でもないが、そのほんの一瞬の時間ぐらいこの手枷を外してくれれば自分で清めるのに、とそれを許さぬ不在の当事者に向かって悪態を付きたくなった。
だが、それも何度目だろう。
数えてはいないが、ここにいる日数分、思ったのは確かだった。
「(…入ってこないな?)」
戯はふ、と自分が返事をしてから動きがないことに気づき、幾分暑さの残る空気の中、ほんの少しばかり紅葉の兆しが見える山の腹から視線を外した。
後ろを振り向く。
やはり動きがないな、ともう一度疑問符を浮かべようとした、その時だった。
「なりません、奥方様…!これは…」
「下がりなさい、言うことが聞けぬのですか?これは、私からの命令です。雲長へは私から話をしておきます。もし、咎めを受けるようなことがあれば、必ず私に報告なさい」
「お、奥方様…!」
何だか、穏やかそうじゃないな、と戯は眉根を寄せる。
詳しい事情は分からないが、聞こえてくる会話から、なんとなく察しはつく。
何にせよ、面倒なことになりそうだ、と戯は頭が痛くなった。
「様、失礼いたします」
「どうぞ」
声に返事をする。
戸が開き、そこから現れたのは少し気の強そうな品のある女性。
流れる髪は艶やかで、玉のような肌。
どちらかといえば、控えめな髪飾りだが、彼女によく似合っていると、戯は思った。
「突然の御無礼、お許しください。私は劉玄徳が妻、糜と申します。以後、お見知りおきの程を…様のことは、夫・玄徳より伺っております」
「これは、ご丁寧に…しかし、玄徳殿の奥方ともうあろうお方が、なぜここへ…」
戯は拱手して返しながら、疑問をぶつける。
しかし、糜夫人の返答は戯が求めるものではなく、戸惑わせた。
「続きは、沐をしながらに致しましょう。折角の湯が、冷めてしまいますもの」
言いながら、先ほどの侍女が準備してきたらしい盥や綌―葛製の織物―を窓の延長線上を外した影へ持ち出し、てきぱきと準備し始める。
あまりの手際の良さに、戯はあっけにとられていたがはたと気づき、糜夫人に言った。
「ふ、夫人!失礼ですが、まさか夫人が、その…沐の…」
「はい、私が様のお背中をお流しいたします。私これでも力加減が上手いと、よく老齢の父に褒められていたんですよ」
さも当たり前に準備をすすめる糜夫人の姿に、戯はまだ状況についていけていない。
だが、糜夫人が自分の背中を流すらしい、ということは間違いなが無いようだった。
戯は耳飾りを揺らして言う。
「なりません、仮にも劉公叔の奥方ともあろうお方に、そのようなこと…どうか、先ほどの侍女をお呼びつけください」
「なぜ?良いではありませんか」
「私は仮にも、曹公の臣なのですよ。それを…」
「私は気にしません」
「義姉上、殿の言うとおりです」
まったく引き下がる気配の無い糜夫人に困り始めた戯だったが、唐突に戸の向こうから聞き慣れた声がして、そちらに視線をやった。
失礼致す、と付け足して戸が開く。
そこには関羽の姿。
戯はその姿を確認して、これで何とかなるだろうと、内心胸をなで下ろした。
変な話、同性との関わりが殆どなかったため、強く出ていいものなのかどうか分からなかった。
「案外、早く来ましたね、雲長」
「義姉上…まったく困ったお方だ……」
言うなり、関羽は額に手を当てる。
糜夫人は気にした様子もなく、ただ毅然として関羽と向き合っていた。
この部屋、そして外も、この三人以外は誰もいなかった。
「下がりなさい、雲長。私は様がどのような事情でここにいるかは、理解しているつもりです。ですから、そこに口出しする気もありません」
「おわかりならば話が早い…後のことは侍女に任せ、義姉上は部屋へお戻りを。義姉上に何かあれば、兄者に合わせる顔がない」
「まあ、何かとは何です?様が私に刃を向けるとでも?」
「殿は、曹公の手下…義姉上に手を出さぬ保証はございませぬ」
ぎろり、とこちらを睨む関羽の目を見て、言葉や声音に棘が含まれるのも策か、と戯は気づく。
それにしても、たかだか沐を断わるのに策を要さねばならないのか、と内心苦笑した。
「雲長、そのような物言いは様に失礼です。様からも何かおっしゃってください」
「いいえ、夫人。雲長殿の言うとおりです…今、外がどうなっているのかは知りませんが、少なくとも我が主君・曹孟徳と夫人の夫でもある玄徳殿が敵対関係にあることだけは、変わりがないでしょう。幸運にも私は敵陣にいますから、手段を選ばなければ何でも出来るんですよ。例えば、夫人を人質にここを抜け出し、情報を我が主君に流す、とかね」
腕を組み、そう語る戯を糜夫人は真っ直ぐに見やる。
そして、一度目を伏せると、再び関羽に向き直った。
「雲長、さがりなさい。やはり、この方は私に手出しは致しません。端からそのつもりなら、わざわざその手の内を見せる事など致しませんでしょう?私が非力なのは自分でも承知しています。それでも、様は私を手に掛けたりなど致しません」
「義姉上…なぜそのようなことを」
「私を甘く見ないことよ、雲長。これでも人を見る目はあります。さあ、行って」
戯は展開に、最早打つ術無しと見切りをつけた。
糜夫人は確かに鋭い見方をする、しかしその前に、関羽がたじたじだ。
恐らく、論破できないだろう。
もう、何も言うまい、と戯は行く末だけを見守ることにした。
「先ほども話した通り、様がここにいる事情は分かっているつもりです。それは殿方の決めたこと、私は口出しを致しません。けれど、これからの沐の時間は、女の時間です。そこに口出しなど、させる気もありません」
「義姉上…困りましたな…」
頭を横に振る関羽に、一歩も引きさがらない糜夫人。
どちらも頑固だ、と戯は既に他人事だった。
「どうしても、引き下がりませんか?ならば、雲長。あなたは私の代わりに、様のお背中を流せますか?どうです?」
その言葉は、他人事だった戯を慌てさせるのに十分な言葉だった。
「(なんてことを言い出すんだ、この夫人は…!)」
「さあ、どうです?雲長。私の代わりに出来ると言うのならば、私は下がりましょう。ですが、金輪際あなたとは口をききませんし、あなたの事を軽蔑します」
「(…だろうね……)」
戯は心で突っ込みを入れながら、二人の様子を窺った。
関羽は無言のまま難しい顔をしている。
そりゃそうだろうな、と戯は思った。
「む………分かり申した…。義姉上には敵いませぬ。ここは引き下がり申そう…」
「わかったのなら良いのです」
すごすごと戸に向かって歩いていく関羽の背中と晴れやかな顔の糜夫人を、戯は交互に見やる。
やっぱり論破したか、と戯は内心呟いた。
その時、くるりと関羽が振り向いたので、視線を上げる。
目が合うと、関羽が口を開いた。
「殿、義姉上には手出し無用。くれぐれも忠告致す」
「勿論。約束もあるし、私もまだ命が惜しい。それに生憎、身体もまだ万全じゃないのでね」
それだけ返すと、関羽は無言で頷き、部屋を出て行った。
にこにことどこからか聞こえてきそうな笑顔の糜夫人が、戯を振り向く。
戯は眉尻を下げて笑い返した。
それから時はそれ程経っていない。
「それじゃ、様。どうぞ」
「ええ、では…お願いします、夫人」
戯はそう言って、くるりと夫人とその背後の屏風に背を向けると盥の中にしゃがんだ。
外はまだ暑さが残るのだが、湯を浴びるのは気持ちがいい。
盥に張られた湯も、熱過ぎず丁度良かった。
しかし、断わりを入れて以後全くの無反応になってしまった糜夫人に戯はどうしたのか、と顔だけそちらに向ける。
糜夫人は、思わず絶句してしまったことを詫びながら口を開いた。
「ごめんなさい、様は戦場に出られるのよね…分かっていたつもりだけど、つもりなだけで分かっていなかったみたいだわ、私ったら駄目ね………こんなにひどい傷を…」
そう言って、糜夫人は戯の背中ほぼ一面にある古傷のうち、一カ所を指で触れるようになぞった。
戯はそこで初めて、ああその傷か、と合点する。
傷を負った時のことを忘れたことは無かったが、背中の傷跡自体はほとんど忘れていた。
傷を負ったことを覚えているのに、傷が背中にあることを忘れると言うのはおかしな話ではあるが、普段見えていないというのは、案外その程度なのかもしれない、と自嘲する。
だが、それは戯にとってみれば都合が良かった。
なぜならきっと、いつもその傷が見えていたなら目にするたびにあの苦々しい記憶を思い出さなければならないだろうから。
忘れたい分けではない、寧ろ忘れてはいけない、と思っている。
けれど、だからといって、いつも思い出していたい分けでもない。
戯は、夫人に言った。
「ああ、それは…戦で受けた傷ではありませんから、ご心配には及びません」
「ならば、誰がこんなひどい…」
再び言葉をなくす糜夫人。
戯は何を見るでもなく、右前方――窓の外へ視線をやり、暫くしてから口を開いた。
「それは………人の心の弱さそのもの。そして、私がその弱さを初めて知った、証。夫人が気に掛けるほどのものではありません」
「様…ごめんなさい、お辛いことを私は思い出させてしまったのかもしれないわ」
「そんなことはありません、私自身、その傷が背中にあったことを忘れていた。所詮、その程度の代物です。重ねて言いますが、夫人が気に掛けるほどのものではありません」
「…様」
呟くように糜夫人は言うと、その傷跡そして背中を、じっと見つめた。
うなじや肩はすべらかな肌をしている。
しかし、その背中は無数の傷跡が走り、その面影を残してはいるが、傷跡ばかりに目がいってしまい、どうしてもその印象は残らない。
もう傷口はとっくに塞がり、それがかなり古いものだということは直ぐに分かったが、それでも視覚的になんとも痛ましい。
なんとはなしに触れてしまったが、痛くはなかっただろうかと、糜夫人は無意識にそう思った。
戯の両肩に自分の手をのせる。
その背中に、耳をつけた。
糜夫人の耳に、戯の鼓動が伝わる。
「様は、お強いのですね」
「これはまた、急なご質問を……なぜ、そう思われるのですか?」
「弱さを知り、それでも尚、その弱さを背負うことのできる人は、皆強いのです。私も…様のように強くなりたい」
「夫人…」
「様は戦場でもお強いのでしょう?玄徳様から聞いています…心もそのお力もお強いなんて、羨ましい」
戯は言葉を選びながら、糜夫人に言った。
「夫人も、お強いではありませんか。玄徳殿を支えている。人を心から支えることの出来る人は、皆強いものを持っている。私はそう思います」
戯の言葉に、糜夫人は静かに目を閉じた。
戯に会いたかったのは、ただの好奇心からだった。
自分の夫が目を輝かせながら話してくれるその人物が女性なのだと最近知り、どんな人か話をしてみたかった。
ただそれだけだった。
兄・麋竺に劉備を援助するために、と言われその妻となった。
それを不服だと思ったことは無い。
夫のために自分のできることから支えていく、そう思って過ごしてきた。
しかし、有事の際に戦場まで赴き支える、ということは自分には出来ない。
こんなにも支えたいと願っているのに。
非力で、弱い自分が嫌だった。
自分も麋竺の様に、弓を取り馬で駆り出すことが出来たなら、と何度思ったことか。
そんな思いが、戯と話をしているうちに、どんどん込み上げてきてしまった。
侍女や、そして今戯までもが、自分を強いと言う。
けれど、やはり自分はどうしようもなく弱いのだ、と糜夫人は思った。
「夫人……何があったかは知りませんが、玄徳殿は夫人に感謝していると思いますよ。普段から支えてくれるあなたに。よく玄徳殿の言葉を思い出せば、夫人ならお分かりになるはず、どうですか?」
戯は、背中で微動だにしない糜夫人に向かって言った。
全てが推測だ。
これで見当違いだったら、目も当てられないと思いながら糜夫人の右手に自分の左手を重ねた。
なんて小さな手だろう、と思った。
糜夫人は、戯の思いもよらぬ言葉に記憶をたどる。
そして、確かにそこに自分の求める答えがあることに気づき、無意識に笑みを作った。
「様…ありがとう、そしてごめんなさい。私はあなたを困らせてしまったわ」
「構いません。もし、申し訳ないと思われるのであれば、背中を流していただけますか?」
戯はそう言って、左後ろを少し振り返りながら微笑んだ。
顔を上げ、それを確認する糜夫人。
戯の言葉に、口元を両手で覆った。
「ごめんなさい、そうよね!私ったら駄目だわ…それじゃ、失礼するわね……もし痛かったら言ってください、様」
「ああ、そうさせていただく」
糜夫人は綌を手に、湯でそれを湿らせた。
背中の感触を確かめながら、戯はゆっくり目を閉じる。
手を出すつもりは無論無かったが、外の情報を知るために利用しようとは考えていた。
しかし、糜夫人のことを利用するのは難しい、と考え直した。
”人”であることを知った今、少なくとも、今はできない。
全く、自分は甘いと、内心自嘲する。
自分と同じように、考え、悩み、もがきながらも生きている、そこは皆同じであると知った時、策や計略を躊躇うのは悪い癖だ。
自分も心の整理をつけねば、と思う。
もう過ぎた時のことを思い出す。
人の心の弱さを教えた実母の顔までは、思い出せなかった。
その時の自分の感情までは思い出したくなかった。
糜夫人の言うように、己が強くあれば良いのに、と心のどこかで戯は呟く。
それに答える者は、誰もいない。
窓外に視線をやる。
さっきまで鳴いていた蝉は、いつのまに鳴き止んだのだろう。
そう思いながら、雨の降る気配を戯は感じていた。
つづく⇒
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