一節動いて百枝揺らぐ
戯家の愚人 ― 叢雲・前 ―
青い空には、小さな雲片が群れをなし斑に広がっている。
半々刻ほど前、実に数週間ぶりに牢を出た。
あとほんの数日もいれば、一か月に及んだだろう。
薄暗い中にずっと閉じ込められていたので、屋外へ出た時には少しばかり目が痛かった。
深呼吸をすると、風に乗って微かに稲穂独特の、酸っぱいような甘いような香ばしくも感じる香りが肺を満たす。
道理でここ最近、朝晩涼しく感じるようになったわけだ、と思った。
処暑は過ぎたのであろう。
だが、日が高くなればまだ汗ばむ時分だ。
そして、戯は今、汗ばむどころか汗を流し、自分の得物―戟―を握っていた。
最初感じていたあの香りはもう一切感じない。
辺りは舞い上がった砂埃で霞がかかったようだ。
今はただ、乾いた砂の埃っぽい臭いしかしなかった。
呼吸の回数は常より多いが、息を切らすほどではない。
一点から目を離さず、構えは解かず、間合いを取りつつ呼吸を整える。
そこには同じく、得物―偃月刀―を手に構える関羽がいた。
兵舎の広場で対峙する二人の周囲には、円を描くように兵たちが遠巻きに群がっている。
鍛練用の得物を手にする者、何も持たぬ者、様々だったがよく見れば彼らがただ二人を観ているだけなのだと分かる。
誰も一言も発しない。
その目は、二人に釘づけになっていた。
――それは唐突だった。
自由の利かない両の腕。
常に枷が当たる手首は、赤くなり所々擦り剥けている。
だが、戯はそんなことを気にしていなかった。
今やそれは日常だ。
しかし、それでも、どうしても耐えられない日常がそこにあった。
「あ〜、いい加減頭洗いたい」
そう、湯あみが出来ない。
その一点だけは、耐えられなかった。
例え、戯のふいの攻撃に対処できるものが他にいないから、という理由で食事の担当が何故か関羽本人で、その関羽から食事を食べさせてもらうと言う、なんとも屈辱的なことにいい加減諦めがついてきたと言ってもだ。
それでも、”湯あみが出来ない”日常には耐えられなかった。
大して日の当たらない牢にいるとはいえ、気温が屋外とそれほど変わるわけがないし、ましてや暑さ続きの日々だったのだ。
汗を掻かないわけがない。
どうにかしたい、と思っていた。
そんなときだ、ふと聞き覚えのある声が降ってきたのは。
「殿」
視線をあげると、そこには思った通り、関羽が立っていた。
兵を一人伴っている。
壁に背を預けていた戯が視線を向けるのと同時、関羽は唐突に言った。
「俺の遊戯に付き合ってくれぬか?」
「…遊戯…?」
鸚鵡返しに言って首を傾げた。
それもそうだろう、そんなことを唐突に言われれば、何かと思う。
視線の先の関羽は、一度頷きその言葉の先を言った。
「何、難しいことではない。俺と真剣勝負をして欲しいのだ」
「な、真剣勝負って…」
これまた何を唐突に言い出すのかと、戯は僅かに眉根を寄せ壁から背を離した。
関羽は表情を変えず、ほんの少しばかりの笑みをのせて続ける。
「言葉のままだ。殿が勝ったら、ここから解放しよう」
全く何とも突然だと思った。
ほんの数秒、何が目的なんだ、と考えた。
本気で言っているのか、と。
だが、関羽がつまらぬ嘘を吐くとは到底思えない。
付き合いはそれほど長くはないが、数度手合いをしてみて、そういう類の人間ではないと感じていた。
ならば何が目的なのだろう。
当然、そんなことを自分の中で考えていても、すぐに出るような答えではない。
率直な疑問でもあったので、ひとまずは別の質問をした。
「……負けたら?」
「俺の言うことに従ってもらう」
何に従わせるつもりなのか、ともかくそれが目的か、とすぐさま思い至る。
ただ黙ったまま、お互い視線をかわした。
戸惑い気味の戯と穏やかと言っても過言ではない表情の関羽。
二人とも無言のまま、ただじっとそうしていたが、ふと戯は目を伏せた。
「断る」
関羽は驚かなかった。
戯は徐に瞼をあげ、肩をすくめ言う。
「その手の”遊戯”でいい思い出がないんだ、私は」
そのとき、曹操に仕官するきっかけとなったことを思い出していた。
今は仕官したことに負の感情は抱いていないし寧ろ感謝しているが、どうもその”勝ったら、負けたら”に良い感情を抱いていない。
大体、ここ一番というときのこういう類のものは自分が負けるもんだ、と思っている。
自慢じゃないが、貧乏くじを引く自信がある。
関羽はそんな戯の心を知ってか知らずか、ただ頷いた。
「左様か、ならば致し方ない。だが、勝負には付き合ってもらう」
言うや、伴っていた兵士が牢を開け始めた。
戯はその兵士の動きを視線で追う。
構わず、関羽は続けた。
「この場合、もし殿が勝っても解放するつもりはない故、承知していただこう」
思わず視線を関羽に移した時、目の前に兵士が立ちその姿が隠れた。
「折角の機会だ、乗っておいた方が損はないと思うが……撤回するなら、今の内だぞ」
声だけが聞こえたが、すぐさま兵士が一歩横に退いたため関羽の姿が戯にも確認できた。
そう告げる関羽は、戯の目を覗きこむように視線を送っている。
戯は、また暫く押し黙ると、小さく息を吐き出した。
選択肢の無い”遊戯”だな、と。
そして、その場に立ち上がった。
「前言撤回、その”遊戯”お付き合いさせていただきます」
言って、関羽を真っ直ぐに見た。
関羽はそんな戯に、にっこりと笑って返して言う。
「色よい返事が聞けて安心いたした」
兵士が促すまま、戯は牢を出た。
関羽は戯を一瞥すると通路を歩き出す。
その後ろをついて歩いた。
戯の後ろには、兵士がついている。
先を進み屋外への出入口が見えてきたその時、言い忘れていた、と関羽が呟いて戯を振り返った。
戯は立ち止まり、関羽を見上げる。
逆光で関羽の顔はよく見えなかった。
「万一、命を落としてもお互い恨み言は無しだ」
そう告げて、再び関羽は背を向けた。
颯爽と歩くその後ろ姿に戯は目を細め呆れる。
「真剣勝負…ね」
重大な事を忘れるな、と。
その表情は、誰に見られることも無い。
再度、兵士の促すまま、戯は関羽のあとを追って歩き出す。
敷居を跨ぐ。
久しぶりの陽の下、眩しさに目を細め戯は枷で影を作った。
―――何十合目かはわからない。
それ程深くはないが、戯は、右上腕を負傷している。
袖が一部裂け、血で部分的に赤黒く染まっていた。
言い分けにするつもりはなかったが、ろくに食事もとれず更になまった身体には、関羽との”真剣勝負”は荷が重いように思えた。
偃月刀の重い一撃。
勢いを殺すための動作も、気を抜けば自分の命を失いかねない動きにかわる。
一撃でもこの身に入ったなら余程のことがない限り助からないだろう。
疲れなどにかまけている暇はなかった。
さりとて、焦って冷静さを欠くわけにもいかない。
間合いを取り、静かに呼吸をする。
手の中の汗が引いていくような感覚を覚えた。
周囲にあふれる視線は気にならない。
ただ関羽の動きだけに神経を研ぎ澄ます。
『負けたら言うことに従う』
それは裏を返せば、真剣勝負ではあるが命の取合いが目的ではない、ということだ。
命を落としても恨み言なし、とはいうが真の目的は、言うことに従わせる、ということだろう。
だが、お互い自身の得物を手に、それこそ本気で仕合っている。
ほとんど、どちらかが命を落とす、と言っているようなものだった。
推察するに命を落としたのであれば、それはそれで良いということなのだろう。
事実、関羽の攻めには容赦がない。
隙もなく、今まで数度経験した仕合いのどれとも気迫が違う。
恐らく、戦場でのそれと同じだ。
それ故戯は、関羽の命に気を配りながらこの勝負に勝つという芸当が自分にできる訳などない、と思った。
だからといって負ける気も毛頭ない。
初めから負ける気持ちで臨む勝負など、受けない方がずっとマシだ。
そして、これは”真剣勝負”
そう、関羽が言ったのだ。
戯は柄を握る手をほんの少し緩めると、再び手の内を締め直した。
仮にここで命を落とし曹操の下へ戻れなくなるのであれば、何が目的にせよ、関羽の命を取る。
覚悟を決めると、地を蹴った。
関羽が応戦の為、構え直す。
戯は戟を脇構えに、まっすぐ関羽へ向かって突っ込む。
関羽の攻めの瞬間を窺う。
関羽が偃月刀を薙ぎにかかる、ほんの僅かの初動をとらえた。
一瞬を見極めて、戯は思い切り地を蹴ると、空を横切る関羽の偃月刀に片足をつき更に上へと飛び上がった。
身を翻し、関羽の背中をとらえる。
着地する前に、戟を関羽の首めがけて薙いだ。
しかし、関羽はその一撃を後ろ手に立てた偃月刀ですかさず防ぐ。
同時に戯の戟をその体ごと弾き飛ばした。
戯は思わず目を見張るが、それは一瞬のことだ。
着地すると同時、再び地を蹴り間合いを詰める。
その戯の首をめがけ、関羽が偃月刀を真っ直ぐに繰り出す。
瞬間、戯は身体を地面に擦り付けるように関羽の懐へ足から滑り込んだ。
偃月刀の切先が戯の巾の結び目を掠り、その髪を解く。
今度は関羽が目を見張った。
あたかも、ほんの一瞬、戯が消えたように見えたからだ。
しかし、すぐさま自分の懐へ飛び込んできたのだと、いち早く身体が反応して視線をそちらへ向かわせる。
戯はすでに関羽の上腹部めがけ戟の柄を繰り出していた。
関羽はまだ、自分の繰り出した偃月刀を引き寄せきれていない。
戯の繰り出した攻撃が、関羽の上腹部に強く入る。
たまらず、関羽が後ろに退いた。
体勢を崩す関羽に、戯は間髪入れず、更に間合いを詰めて戟を振り下ろす。
躊躇いはなかった。
一瞬、戯の懐が無防備になる。
――気づいたとき、戯の視界には青い空と斑に流れる雲が溢れていた。
間髪入れず、顔のすぐ横に偃月刀が突き刺さる。
その先には関羽の姿があった。
倒れる寸前に、関羽の防御を兼ねた鋭い蹴りが上腹部から胸にかけて入ったのを確認していた。
まだ、呼吸をうまく出来ない。
戟は、蹴られた瞬間に手から滑り落ち、今はどこにあるのか分からない。
戯は何も考えず、ただ関羽を見た。
関羽もまた、戯を見下ろした。
地面に広がる黒い髪が、汗に濡れる肌が、日に照らされて輝いていた。
「私の…負けだな」
戯が呟く。
関羽は、はっと我に返った。
「良い勝負であった」
そう告げると、関羽は無言で軽く右手を挙げた。
戯が顔をしかめながら立ち上がるのと同時、両脇から兵士が二人、戯の背後に回る。
そして、両腕をその背に手早く縛り上げた。
その兵士の動きを窺っていた戯が、関羽に視線を戻す。
関羽が口を開いた。
「約束を守ってもらう」
「勿論」
何に従わなければならないのかは未だに分からないが、戯は短くそう答えた。
ただ、観客となっていた周囲の兵士たちは言葉の意味を理解していないようだった。
どこからか、処刑されるに違いない、と聞こえた。
周囲を一睨みして、関羽が踵を返す。
ヒソヒソと溢れていたざわめきが、ぴたりと止んだ。
兵士の一人に促され、戯は関羽のあとについて歩き出す。
何とはなしに後ろをちらりと見やると、兵士の一人が自分の得物を拾いあげ手にしていた。
そんなところにあったのか、とただ何となく思う。
右腕の傷が、今になって疼きはじめる。
そういえば怪我をしていたのだと思い出して、戯は歩きながら空を見上げた。
肩に流れる髪が、邪魔だな、と思った。
つづく⇒
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