人間万事塞翁馬 104 偃月刀を振るう。 血煙が舞う。 兄者たちと別れ、彭城を目指す。 まさか、曹操軍がこれほど早く、そして、これだけの軍勢で押し寄せてくるとは流石に思っていなかった。 それに加え曹操本人が出陣するなど、袁紹軍と対峙していたはずだがそれを横にしても出陣したという事は、それだけ本気という事だ。 彭城へ向かった兄者の妻子たちと合流し、この身に代えてもその命だけは守らなければならぬ。 詰めが甘かったと今更言っても、もう遅い。 どの時点で詰めを見誤ったのか、と考えることすら今となっては意味のない、過ぎたことだ。 何としても守り抜く。 愛馬に鞭打つ。 曹操軍が彭城を囲う前に辿りつかねば意味が無い。 小沛を包囲し始めていた曹操軍は抜けた。 兄者と翼徳も北へ向け小沛を抜けたことだろう。 翼徳がついていれば、逃げ延びることが出来るはずだ。 そうして駆け、一昼夜と半日。 我ながら愛馬には無茶をさせているという自覚はあるが、やむを得ない。 なんとか曹操軍よりも早く彭城に到着したが、皆の不安は拭えなかった。 晴れた空には似つかわしくない、重たい空気。 逃げるための手筈は、それほど整っていない。 時間もない。 兎にも角にも、ここを離れなければならない。 ――兄者たちは無事に戦場を抜け、追っ手を巻けただろうか。 そう思った矢先。 現実は無常だった。 懸念していたことが現実となった。 息を切らした伝令の兵が自分の前で片膝をつく。 同時に言った。 「た、大変です!」 「如何した…いや、曹操軍か」 「は、はい!この彭城の間近まで迫っています!半刻もかかりませぬ!このままでは…!」 「分かった。お主は少し休むがよかろう。拙者が南門から外に出たら良いと言うまで、すべての門を閉じよ。他の者は決して外に出てはならん」 最後に一人で行くと言い残し、城外を目指した。 何人かが共にと声を上げたが、すべて却下した。 偃月刀を手に、一人城外へ出る。 愛馬は置いてきた。 これ以上の無理はさせられまい。 半刻もかからぬ、という伝令の言葉通り土煙と黒い塊を視界に捉えるまで然程の刻はかからなかった。 状況が状況なだけに、時が過ぎるのを早く感じる。 もう来たか、と頭の片隅で思った。 黒い塊が動きを止める。 一人が下馬し、前に進み出る。 会話のできる距離まで近づく前に、それが誰なのか、すぐに分かった。 空よりも尚青い衣裳を纏い、肩よりも短く切り揃えられた髪が風になびく様が、どこか神聖に見える。 その居住まいの美しさがそう思わせるのか、短くなった髪が最後にまみえた時とは全く別の雰囲気を漂わせたからなのか、そう見えた明確な理由は分からなかった。 近くもなく、遠くもない距離で歩みを止めた殿に向って言った。 「まさか、殿が来るとは」 「お元気そうで何よりです。ですが、ここは戦場。挨拶はここまでに」 「ならば、お相手致そう」 偃月刀を構える。 しかし、殿は構えることなく、いえ、と短く否定してから続けた。 「…戦場とはいえ、無用な争いは好みません。関羽さん、どうかその手を下ろして一緒に来ていただけませんか?身の安全は保障します」 「うむ………それは無論、兄者の家族たちも、…という意味でござろうか?」 己の構えは解かずに問う。 殿もまた、構えず、まっすぐ此方を見やる。 「最終的な判断は曹操さんが下します。私に助言は出来ても、権限はありません。ですが、許昌に到着するまでの間は、私の身に代えても保障するとお約束します」 「殿のお気持ちは理解致した。しかし、それでは意味がござらん。申し訳ないが、兵とも共、お引き取り願おう」 「それはできません。私にも任があります、兵を引かせることはできません」 しばらく沈黙が続いた。 しかし、それほど長い時ではなかったはずだ。 その沈黙を自分が破った。 「ならば、得物を構えられよ。この関雲長、例え殿が相手とて、最後まで手を抜く気はござらん。寧ろ、ここで刃を交えられるならば、それこそ僥倖。…いざ」 それでも、殿がすぐに構えることはなかった。 さりとて視線を外すこともない。 何を考えているのかも分からなかったが、しかし程なくして深く息を吐きだすと、静かにその手を得物に添えた。 その細い腰に佩く、得物の身を切る。 空いた片方の手が柄に添えられたのと同時、殿めがけ、己が足下の地を蹴った。 一刀目。 難なく躱される。 二刀目、三刀目とも躱されて、四刀目で抜刀したが、受け流された。 なるほど、張遼と渡り合えるだけのことはある、と内心、感心したが同時に厄介だと思った。 この難をいかにして切り抜けられるだろうか。 自分は兎も角、兄者の家族を守らなければ。 しかし、逃げ切れるのか? いや、逃げ切らねば…。 「真剣勝負の最中に考え事なんて、命取りです」 我に返る。 容赦のない、急所を狙った突きを紙一重で躱し、間合いを取った。 頬を何かが伝う感覚に、躱し切れずに切れたのだと理解する。 咄嗟に偃月刀の柄で軌道を変えていなければ、斃れていた。 得物を此方に向け 殿が言う。 「手は抜かないのでしたよね…私も覚悟した以上、手を抜く気はありません。ご容赦を」 「無論」 構え直す。 (やはり、対峙すると分かる。 殿は一見すると隙があるように見える。 得物を構えた時の隙、ではない。 相対したとき、言葉を交えたとき、そういったときの気さくさから感じる”情を汲んでくれそうな”隙だ。 言葉を変えれば、甘さ。 だがそれは、言葉を交わす時の物腰の柔らかさがそう感じさせているに過ぎない。 殿に情は通用しない。 例えそこに目を向けても尚、恐らく、自分自身への情すら切り捨てられるほどの、時に冷酷とまでに思えるような、そんな決断ができる人間だ。 数度、戦場を共にして感じていたことだが、この手合で確信した。 それに加え、これほどのやり手。 兄者の言を横においても、敵に回すべき相手ではない。 さりとて、個人的に嫌悪感を抱いているわけでもないが。 ただ、侮れぬ。) 地を蹴る。 偃月刀を振るう。 やはり、躱される。 身軽さはもちろん、刃が入ったと思った瞬間に力を流され軌道を逸らせる巧みさ。 単純な力のぶつかり合いに持ち込めば勝てるが、その弱点は本人も分かっていることだ。 そうそう簡単にその状況へは持ち込ませてはくれまい。 ならば。 間合いを取り、気を入れ直す。 視線の先の相手は、幾分、息が上がり始めているようだが顔色は一切変わらない。 だが、これ以上長引かせては兄者の家族を守れぬ。 柄を握り直す。 再度地を蹴った、そのとき。 「その仕合、待った!」 不意に、声が響き、自分と殿の間に割って入る影があった。 馬上にあり、此方を見るその者は知っている人物。 「真剣勝負に水を差すか、張遼。…それとも、そなたも拙者を討ちにまいったか」 「……いや。私は関羽殿にお伝えしたい儀があり、ここへ参上いたした」 張遼の向こうで、殿が得物を鞘に納めた。 得物に手は添えているが、張遼が来ることを分かっていたようだった。 張遼が静かに言葉を続けた。 「貴公の主・劉備は無事だ。戦場から脱したとの報が入った」 「それは重畳……。ならば、ここで果てても悔いはない」 「主が無事ということは、すなわち主の志も未だ健在。主の志を成すのを諦め、ここで果てるのは、義にもとることではないか?それに残される主の家族は如何するというのか。己が満足すればそれで良いと?」 張遼の言うとおりだ。 兄者の家族を捨て置けぬ。 だが、ほかに手があるというのか。 「殿が貴公を迎え入れたいと申しておられる。その命、我が殿の下で永らえさせてはどうか」 そういうことか。 すでに答えは用意されていた。 他に選択肢のない答えだ。 視線のずっと先の殿は、ただ静かに立っていた。 目を閉じ、耳を傾けているようだった。 ――今は従う、だが…。 「我が主は劉玄徳、ただ一人。真に曹操殿の配下になることはござらん。兄者の消息が分かり次第、拙者は主の家族を伴い、そこへはせ参じる。それでもよければ……降伏いたす」 「しかと承った。その話、殿にお伝えしよう」 そう告げて、張遼は背を向けると殿のもとへ馬を進めた。 ごく近い距離で話をしているため、会話の内容までは分からなかったが、暫くして張遼が去っていく。 代わりに、殿が此方まで歩み寄った。 眼前で歩を止め、こちらを見上げる殿の表情は柔らかい。 「一時休戦します。縄は勿論掛けません。城内へ案内願えますか?皆さんの安全が確認できたら、許昌へ向かいます」 安全確保も私たちの仕事です、そう告げて先に行くよう促された。 それに従い、得物を下ろし殿に背を向ける。 一歩足を踏み出そうとして、一度踏みとどまった。 殿が視界の端に入る程度に顔だけ向けて問う。 「殿…もしご自分の決定が、騙されていた上での決定だったと判明した場合……、殿ならどうされる?」 僅かに沈黙が流れて、それから暫くして殿が言った。 「難しい質問ですね…、そう、ですね…うーん…」 視線を泳がせつつ、それからまたしばらく沈黙して、顔を上げる。 「何をどう騙されていたのか、にもよりますけど…少なくとも、それでも自分がしっかり考えて選択したものであるなら最後まで、貫きます」 そう言って、視線をまっすぐに、正面を見据えた。 口元には、僅かに笑みが浮かんでいる。 そして、視線を此方へ向ける、その瞬間。 己の手を、その頭(こうべ)に乗せる。 思わず、そうしていた。 ――思っていたより、小さな頭だった。 ほんの僅かな時間そうしてから、手を下ろした。 同時に、一歩踏み出す。 振り向かずに言った。 「暫しの間、世話になり申す」 自分が”そうした”理由は、彼女には分からないだろう。 何故なら”そうした”己自身も、分かっていないのだから。 彭城の門はまだ固く閉ざされていた。 * * * * * * * * * * 関羽さんが一時的に曹操さんの下に来ることになった。 許昌に着いた日、郭嘉さんに呼び出されて釘を刺された。 劉備の居場所が分かっても、関羽の耳に入れないように。 って。 …まあ、勝手に流す気もないけど。 ちょっと不憫だと思ったのは別の話。 あれから半月があっという間に過ぎて、一月(ひとつき)を迎えようとする頃、袁紹軍との戦況が激しさを増した。 本陣を官渡に構えて、こちらは防戦一方。 単純だけど、数の上での戦力差が圧倒的すぎた。 それでも、曹操さんは関羽さんを今のところ、戦場に出そうとしていない。 理由はどうあれ、劉備さんの家族も保護してその生活を保障している曹操さんに、多少なりとも恩を感じている関羽さんが武働きで恩を返す、と言っているからだ。 関羽さんのことだから、もしその時が来ても相応の恩返しをしてからじゃないと曹操さんの下を離れていかないだろうっていう、そういう見解。 関羽さん義理堅いから…。 曹操さん、関羽さんのこと好きすぎでしょ…。 …なんだろ、ちょっと曹操さんが可愛く見えるな…。 夏侯惇さんは、一連のことがもう、気に入らないみたいだけど。 でも、実際はそうも言っていられない状況なんだよね。 白馬と延津がとられちゃって、濮陽が孤立してる。 まだ今は何とかなっているけど、これ以上長引いたら士気に関わる。 官渡までは兵站が伸びているし、兵糧確保は頭の痛い問題だ。 袁紹軍が有利なまま、膠着状態が続いてしまっている。 何か打つ手を考えないとだめだ。 そんな矢先だった。 官渡に構える陣の私の幕舎に、郭嘉さんが現れたのは。 ――そう、音もなく。 「 「…!」 報告書を書いていた私の背後、いや耳元で聞き慣れた甘い声がする。 驚きのあまり悲鳴を飲み込んで振り向くと、私を見下ろすように立っている郭嘉さんがいた。 「珍しいね、君が気づかないなんていうのは。そんなに集中していただなんて、それこそ気づかなかったな」 「気配殺して近づくの、やめて下さい!」 「これは失敗したね。もう少し、いいことをすれば良かった」 「良くない事はしなくて結構です!」 満面の笑みで返された。 私の顔は、嫌悪感で歪んでいることだろう。 隠す気もない。 それにしても――。 顔色あまり良くないな。 他の人は、多分単純な疲れだと思ってると思うけど…。 そのことは顔に出さずに、私は切り出した。 「何のご用でしょう?」 「荀攸殿の策を採用して白馬と延津をまず落とすことになった。白馬へは関羽と張遼殿を向かわせる」 「関羽さんを…分かりました。濮陽は捨てるという事ですね。…それで、私は何をすればよいのでしょう?」 わざわざ郭嘉さん直々に言いに来るぐらいだ。 何かあるに決まっている。 私に視線を合わせるように身を低くしてから、ほんの少し、郭嘉さんが声を潜めた。 「黄河(かわ)向こうの中継拠点を押さえられるかな?援軍を止めたいのだけれど」 私の目をまっすぐに見て言う。 視線をそらさずに答えた。 「やれと言うのであれば、どうにかします。要は、援軍さえ止められれば良いのですよね?」 「うん。方法は任せるよ」 「分かりました、どうにかしてみます」 「うん。まずは、延津へ向かって欲しい。そのあとは李典殿と楽進殿に話をつけてある、の指示に従うように、と」 「承知しました。李典さん楽進さんと延津へ向かいます」 敢えて必要な言葉を抜いた返答を聞いてか、どこか満足そうに笑みを浮かべる郭嘉さん。 立ち上がって背を向けると、数秒そのまま立ち尽くした。 その背中越しに、表情は見えそうで見えない。 ただ、多分調子があまり良くない…んだと思う。 私がその場に立ち上がると、声を掛ける間もなく、むしろ避けるように幕を出て行った。 声を掛けようと思って吸い込んだ息が、代わりに溜息になって口から出る。 分かってる。 分かってるし、覚悟もした。 したけど…。 「声ぐらい、掛けさせてよ」 大した言葉にもならないだろうけど。 意味なんて大してないだろうけど。 だけど、せめて。 少しは休んで。 そのぐらい、今なら言葉にしても、誰も不思議に思わないでしょ。 「少しぐらい…」 手に握りしめたままの筆に視線を落とす。 報告書を先に仕上げなければならない。 机に向き直って、私は再び筆を動かした。 考えていても仕方ない。 報告書とは別に、紙切れに筆を走らせる。 考えても仕方ない事なのだと、自分に言い聞かせた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 久しぶりに変換作業にとりかかったらサイト様閉鎖してた…! 他のシステムに切り替えるにも時間なさ過ぎて我流作業でゴリ押ししたので 変換ミス発見されましたらこっそり教えてくださいませ; 2025.03.16 ![]() |
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