人間万事塞翁馬 100 「にしても、よく降るわ…」 沸いたお風呂のお湯の温度を確認しながら、格子のついた窓をみやった。 掛雨戸をほんの少しだけ開けているが、雨戸で殆ど覆われた窓からは外を伺うことは出来ない。 雨音だけが途切れることもなく響いている。 踏み台に乗り、雨戸の突上棒を外す。 そのまま、あおり止めを掛けて施錠した。 朝晩は大分涼しくなってきた。 湯船が恋しくなる時分。 毎度のことながら、文明の利器のありがたさを思い知るわ。 お湯張るのも一苦労よ。 蛇口ひねっただけでお湯出るのって、なんてありがたいのかしら。 …と、飽きることなく毎回思う。 早くお湯につかりたいときは特に。 時間があるときは、まだマシ。 疲れてる時に水担いで外を往復するのはさすがに堪える。 ただ、奇跡的にというのか、何故か鍛冶技術が発達しているから、特注で鉄筒作ってもらえたのは有難い。 おかげで鉄砲風呂はこうして作れたんだから。 湯加減をマスターするのに骨が折れたけど、熱いお風呂に入れるのはサイコーだからそこは目を瞑る。 寝間着の準備、と思いながら、土間に並べた簀子の通路を渡って床に上がる。 囲炉裏で炭が音を立てた。 夏場でも虫除けと湿気取りのために火を入れてる―夏場はそれなりに蒸すのよ、許昌(ここ)―。 熱いんじゃないかって思うかもしれないけど、対流を起こしてくれるから火元まで行かなければ、逆に涼しい風が入ってきて過ごしやすいのよね。 除湿もできてカラッとするし、昔の人って頭いい。 そして今夜は、雨のせいか気持ち肌寒さも感じるから、囲炉裏の火も案外心地よかった。 ―――ふと、思い出す。 数日前、仕事の終わりに郭嘉さんと二人で飲みに行った時のこと。 花摘みに席を外して戻ってきた、その時。 個室の扉に手をかけようとしたその時に、たまたま耳にしてしまった、郭嘉さんの呟き。 『まだ、ここで退くわけにはいかない』 本当に偶然だった。 何を意図していたにしろ、あんな言葉を郭嘉さんが不用意に口にするはずはない。 有事に関することなら尚更だ。 だから、―有事に関することであったなら―きっと何か話があるだろうと思って、聞こえないふりをして部屋へ入った。 けど、何も無かった。 何一つ、そこに触れられることはなかった。 以前に、曹丕さんが何かを郭嘉さんに依頼していたから、そこに関する何かだったのかもしれない。 それでも、不用意にそんな言葉を口にするなんて、やっぱり考えられなかった。 どこで誰が何を聞いているか分からないなら尚のこと。 迂闊な言葉を出したりなんてしない。 そうでないならば、きっと、それはプライベートのことなんだろう。 そう、頭の片隅で思った。 そして、次にはもう、多分身体のことなんだろう、と―勝手だけど―思ってしまった。 そう思ってしまったその時から、ぐるぐると、それだけしか考えられなくなっている。 今も、ふと思い出しただけなのに、ぐるぐると思考が回る。 郭嘉さんの体調不良はもう治らないんじゃないか、って。 不謹慎にもそう思う。 あれから―書庫での一件から―詮索したり、あえて調べたりするようなことはしていない。 だから、最近のことは詳しく知らない。 けれど、普段を見ていて、良い、とは思えない。 他の人はそう思わないかもしれないけど、私はそう思っている。 そして、それは確信に近いのだと思ってもいる。 「私が…自由にあちらと行き来が出来たなら…」 また、そんなことを考える。 そんなことが出来たなら、きっと私はこんなに長くここには留まらないだろうに。 それでも、そう思ってしまう。 行き来が出来ないにしても、せめて、何か必要なものだけでも、あの刀と同じように、ここへ引き寄せることができたなら。 きっと、郭嘉さんの不調の原因をなんとかすることが出来るんじゃないか、と思うのに。 原因さえ特定できていないのに、そんなことをとりとめもなく、思う。 「私には何もできない」 典韋さんの時と、私は何も変わっていない。 けど、そうだと分かっていても、もどかしい。 何もできない自分が。 きっと、何らかの手段を少なからず提供できたであろうはずなのに、それが出来ない無力の自分が。 ただそういった知識があるだけでしかない自分が。 もどかしい。 「いかんいかん!こんなことじゃ出来ることも出来なくなる!ただでさえ最近、袁紹軍ときな臭くなってきてるっていうのに」 頭を振って、一度両頬を両手でぱちんと挟んだ。 兗州と隣り合う冀州を手に入れた袁紹軍が、その領境付近にある拠点の軍備強化を進めている、という情報がここ最近顕著に増えた。 まだ小競り合いみたいなことは起きていないけど、これはもう時間の問題かもしれない。 寿春で袁術を破ってから間もなく、袁紹軍が公孫瓚を討ったという報せが入ったのは、もう数ヶ月前のこと。 それから暫くして、袁術がどこかで病死したらしい、という情報が入ってきた。 それは、私的な斥候からも聞いたけど、随分悲惨な死に方だったとか。 自業自得といえば、自業自得。 だけど、魂まで辱めるようなことはしたくない。 そう思う。 …まあ、それはさておき。 河北を手にした袁紹さんが次に考えることなんて、想像するだに容易い。 帝を曹操さんが保護するときだって、随分向こうも必死だったと聞いてるし。 戦(あらそい)は避けられない、のかな。 ……。 「あー!もう、お風呂入って気分転換しよう!郭嘉さんじゃないけど、身体に悪すぎ!」 折角の休みの締めがこんなんじゃ、良くない! と、一大決心するがごとく、私は寝間着を手に風呂場へと向かう。 そして、風呂上がりの一杯で喉を潤すのだった。 * * * 何気なく、戸外を見上げる。 青空に白い雲が流れている。 空気が大分冷え込むようになった。 同時に、ふとしたときに咳き込みそうになることも多くなった。 そうでなくとも、発作的に咳が止まらなくなる時が少しずつだが増えている。 煎じ薬を処方されてはいるけれど、それがこの症状の原因を取り除くための物ではないことは分かっていた。 何種類も、それこそ何十種類も試してきたが、改善している、という確信を得ることはできない。 寧ろ、徐々に悪化している。 それしか、もう道はないのだろう。 そう思うと、時折どうしようもない不安と焦燥に襲われることがある。 それもまた、徐々に増えてきた気がするのは気のせいではない。 それこそ本当に、気のせいだ、と思っていたい。 気のせいならば、どれほど良いだろうか。 ――自邸にを呼び出すのは初めてだった。 私的な用事ではない。 袁紹との戦に備え、話をしておきたかった。 宮城(しろ)でも良かったが、今日は朝からいつにも増して、体調が優れない。 以外の誰かに自分の身体のことを感づかれたくはない。 邸(やしき)に誰もいない、というのはこんなにも静かに感じるものだろうか。 ふと、そう思った。 邸のことを任せている侍女へ、に伝言を伝えたあとは申刻まで暇をするよう言いつけてあった。 戦に関することを不用意に漏らしたくはない。 侍女を信じていないわけではないが、そうすることにした。 への伝言も、あえて袁紹と結びつくような言葉は使っていない。 侍女が出てから大分経つ。 そろそろが来ても不思議ではないが、未だに気配はない。 少し、外の空気でも吸おう。 そう思って立ち上がった時、まるで合図をしたかのように咳が出る。 一度咳き込むと、止まらなくなった。 喉の辺りの不快感が咳を重ねるごとに増す。 比例して、胸も痛んだ。 今までで、もっとも激しい発作だった。 思わず膝をつく。 こういう時に限って、世話をしてくれる侍女はいない。 「郭嘉さん!…大丈夫ですか!?」 声と同時に戸が開き、気配が近くまでやってくる。 私の背を摩っているのはだというのはすぐ分かったが、今はそれより苦しさの方が勝っていた。 人がいた、ということより、もしかしてこんなことで終わるのか、という考えだけが頭を過ぎる。 それだけが、思考のすべてを占めていった。 「薬はどこに!?」 その問いに、房(へや)の奥の棚を何とか指差したが、それで精一杯だ。 の気配が遠のく。 暫くして気配が戻った。 「ごめんなさい、ちょっと失礼します」 そう聞こえてから直ぐ、が胸の周辺と腕の辺りの一点ずつを押さえた。 あとから思えば経絡を突いたのだろうが、このときはそこまで思い至る余裕が無かった。 間もなく、咳がぴたりと止まる。 「良かった、効いた…」 安堵の溜息と一緒に、そうが口にした。 「どうですか?まだ咳が出そうな気配はありますか?」 「いや…ひとまず、おさまったようだよ」 「…、…それなら、良かった……。…薬、煎じ薬なんですね。…お湯がないので、台所お借りします」 言って立ち上がり、背を向けたの腕を咄嗟に掴んだ。 振り向いたがこちらを見下ろす。 深い安堵を覚えた。 「ありがとう」 「…らしくないです。とりあえず、椅子に掛けて待っててください」 「中々の言い草だね。素直にお礼ぐらい、言わせて貰えないかな」 「それは、お互い様でしょう。余計なひと言を返せるなら、ひとまず安心していいですか?」 そう言って、はふっと笑みを浮かべた。 差し出された手を借りて立ち上がる。 促されるまま椅子に掛け、の背を見送った。 それから暫く経った後、のいれた煎じ薬を飲んでから、それほど長くはない時を過ごしてやっと、発作が治まったと実感した。 今まさに、傍らの椅子へ腰かけたを見やる。 顔を上げたところで口を開いた。 「…さて、早速で悪いのだけれど、本題に入ろうか」 「それよりも、いつもこんな感じなんですか?」 「…いいや。ここまでのは、今日が初めてだよ」 「だったら、このままでいいんですか?ちゃんと静養すれば…」 そう口にしたに視線を合わせて、私は首を横に振った。 の気持ちは嬉しいけれど、それでは解決できないことぐらい分かっている。 現に医者からは、静養していれば治る、とは言われていない。 治るものなら、治る、と言う筈だろうから。 現時点では治る見込みはないのだろう。 ならば。 「。私はね、退屈な日々を長く過ごすより、例え短くても楽しい日々を過ごしていたい。ならこの意味、分かってくれると思うのだけれど」 「…やっぱり、…完治することはないんですね」 ここでは。 そう聞こえるか聞こえないか、口内で呟くように言ったのを、聞き逃さなかった。 きっとまた、自分を責めているに違いない。 典韋殿の時と同じように。 そうさせる自分に、怒りとも、失望ともいえない感情を強く、深く覚えた。 「私の身体のことはもういい。さあ、本題に入ろう。侍女が帰ってきてしまうからね」 「…納得いきませんが、分かりました。もう、言いません。私もきっと、同じことを考えると思うので。郭嘉さんがやりたいこと、私も手伝います。けど」 そう一度言葉を止めたを、改めて見る。 の勘が鋭いのは周知のこと。 まさか、自分が覚えたこの、言葉にできない感情を、読まれただろうか。 まさか…そんなことは、ありえないだろう。 流石に。 そのは、まっすぐこちらへ視線を向けている。 「無理のし過ぎは許しませんから」 しんと静まる房に通る声。 日に雲がかかったのか、房内が陰る。 …私の思い違いに決まっている。 再び日が差す。 僅かな沈黙のあと、思わず息を漏らした。 「それこそお互い様だね。こそ、無理のし過ぎは許さないよ」 「オーケーです。上司と部下ですが、そこはギブアンドテイクで行きましょう。本題を始めるのなら、それが尚、ベストです」 「持ちつ持たれつという意味、だったかな」 「はい」 「いいね。それから、分かってはいると思うのだけれど…」 「多少のリスクはケースバイケース、ですよね」 どこかおかしくなって、予期せず笑いが込み上げる。 思い違いも何も、そんなことを考えていたら、出来ることも出来はしない。 折角が手を貸してくれるというのなら、それすらも利用する。 自分にできることなど、このぐらいだ。 自分のことぐらい自分で分かる。 先は長くないというのなら、それまでに固める。 曹操殿の足元ぐらいは、確実に固めておかなければ。 勿論…もしも…そう、もしもその先が許されるのならば、その先も。 それにしたって。 「君のそういう臨機応変さに、私はよくよく救われるよ」 「私にはよく分かりませんが、郭嘉さんさえ良いなら、ひとまずそれで構いません」 言って笑みを浮かべたに、私は深く頷いた。 そのままの流れで話を続け、日が傾いてきた頃――。 ひと通りの話を終えて房をあとにするの背を再び見送る。 不意に、が振り返る。 「なにかな?」 「いいえ…、なんでもないです。また明日」 「…、また明日」 自然と口元が緩んだ。 が何を言いかけたのかは、分からない。 想像すれば分かる気もするけれど。 分からないふりをしていよう。 そろそろ侍女が戻ってくるだろう。 私は目を閉じて、深く息を吐き出した。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 全然すすまないし、やっとここ… 2021.04.20 ![]() |
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