人間万事塞翁馬 99 私はその日、郭嘉さんから資料探しを頼まれた。 その資料は、いくつかある書庫のひとつで、然程時間をかけずに集めることができた。 まだお昼前のこと。 時間で言うと、10時過ぎぐらいかしら。 執務室へと真っ直ぐ戻り、敷居をまたごうとしたその時、不意に耳に届く、その部屋では聞き慣れない声。 「――、失敗は許されん」 室内(なか)へ一歩踏み込みながら、私がその背を確認して、数秒後。 その人はこちらを振り向いてから、あからさまに眉根を寄せて、私が挨拶するより早く言った。 「お前か」 そう、その人――曹丕さんは、そう一言口にしてから、私が声をかける間もなく、もう一度そこに立っていた郭嘉さんの方に視線を戻す。 「話は済んだ、あとは任せる」 言うが早いか、取り付く島もなく踵を返して、私の横を曹丕さんが通り過ぎていく。 遠のいていく足音と替わるように現れた、傍らの気配に顔を上げると郭嘉さんが立っていた。 曹丕さんが去って行った方を見ながら呟くように言う。 「曹操殿から遊びを取ったら彼みたいな感じ、かな」 「…それ、褒めてるんですか?」 「さて、どうだろうね」 その微笑を横目に見ながら、なんだかなあ、なんて思いつつ、ため息交じりにもう一度視線を回廊へと戻す。 不意に郭嘉さんが言った。 「それは書桌(つくえ)に置いておいてくれるかな」 「……どちらへ行かれるおつもりですか?」 空気を察して聞き返す。 間髪入れず、予想通り笑顔だけの返答。 きっと、もう一度聞き返したところで、はぐらかされるに決まってる。 真面目な理由だろうと、そうでなかろうと結果は恐らく、同じことだ。 必要以外は説明も連絡もしないのが、この上司。 全く、いいやら悪いやら…。 思わずため息が出た。 「行ってらっしゃいませ」 返事は聞かずに背を向ける。 そこへまた、不意の言葉。 「これ、ありがとう」 意味がわからず振り向くと、まず目に留まったのは私の弁当箱の包み――に、似ているソレ。 市場で見つけた変わった染め色の生地の端処理をして、ナフキン代わりに使っているソレによく似ている。 それを郭嘉さんが、顔の高さまで持ち上げて見せていた。 心なし、その笑顔がキラキラ輝いている、ように見える。 意味がわからない。 と思ったのは、最初だけ。 はっとして自分の机まで駆け寄る。 そこ―机の脇―へ視線を落とすも、使いを頼まれる前までそこにあった筈の包みがない。 確かにそこに置いてあった筈なのに、今は無いのだ。 「私のお弁当!」 と叫んだのと、振り返ったのは同時。 だけど、そこには誰もいなかった。 慌てて回廊へ飛び出したが、人っ子一人いない。 「早い…」 思わず呟いてから、私は誰も居なくなった部屋へ向き直った。 辺りを見回して、荀攸さんと賈詡さんはどこに言ったんだろうなー、と思いながらお昼どうしよう、とほんの少しだけ私は途方に暮れた。 * * * * * * * * * * 「うん…、まあまあかな」 なんの変哲もない、饙(むしめし)だ。 いや、喧嘩は売ってないわよ。 念の為、弁明しておくけど。 ここは城の中にある食堂。 今日初めて来たわ。 結構ごちゃっとしててカオスだし、鍛錬場とか兵舎に併設されてる食堂と比べると、なんていうか空気感が独特…。 体育会系と文化系の違いかしら。 それでも空いてる席があったのはラッキーだった。 饙と一緒に皿に乗っている、辣韮と何かの肉のマリネをつまむ。 生肉食べる習慣がどうしても私には馴染めないのよね…。 と思いつつ、口に運んだ。 味は嫌いじゃない…、けどせめてタタキぐらいにはして欲しい…。 あ、でも待って…鳥刺しとか馬刺しは好きだったわ…、って考えたらアリか…。 衛生的な意味で、気持ちの問題かしらね…。 うん、もちろん、喧嘩は売ってないわよ。 そんなことを考えながら、辣韮を口に運ぼうとしたとき。 「ここでお昼なんて、珍しいね」 どういう風の吹き回し? と、降ってきた声に顔を上げると、伯寧さんと目があった。 その隣には、荀攸さんの姿。 伯寧さんのところに行ってたんだ、と心のどこかで合点する。 「誰かと一緒…」 「に見えますか?私」 随伴者がいないことを示すように、私は自分の左右周辺に視線をやった。 それを見た伯寧さんが、見えないね、と一言。 それから私の右斜め前の席に腰を下ろした。 その隣へ倣うように荀攸さんが、失礼します、と言って腰を下ろす。 正面に座った荀攸さんに言った。 「伯寧さんと一緒だったんですね」 「はい。二、三、確認したいことがありましたので…」 と言いながら、視線を投げてきた荀攸さんの意図がつかめず、思わず首を傾げる。 数秒後、荀攸さんが言う。 「…、郭嘉殿に伝えてあったのですが…、聞いていませんでしたか?」 「……何も…、私のお弁当盗んでどこかへ行っちゃいました」 「ああ、それで…」 とは、伯寧さん。 呆れた様子で箸を下ろす伯寧さんに続くように、荀攸さんが言う。 「…それは、災難でしたね」 「ええ、本当に…。でも、こうして二人とお昼を過ごせるので、逆に良かったのかも」 特に深い意味もなくそう答えると、伯寧さんが満面の笑みで返してから、続けて言った。 「のそういう前向きなところは、見習いたいね」 「はい。殿の美徳の一つと言ってもいいでしょう」 そう返ってくるか…。 と予測できなかった返しと、なんとなくの居心地の悪さに思わず乾いた笑いが口から漏れる。 荀攸さんから美徳、とか言われると、何だか背中がムズムズするわ。 美徳なんて持ち合わせるほど、私、人間出来てないし…。 話題を変えねば。 「…それはさておき…ところで、…」 「こんなところにいたのか、手間を掛けさせる」 賈詡さんがどこに行ったかご存知ですか? と、荀攸さんに聞こうと思っていたのに、不意の声に遮られた。 そちらへ顔を向けると、同時に伯寧さんの僅かに驚いたような声が耳に届く。 「曹丕殿…」 うん、分かってた。 声で。 午前中に聞いたばっかだもの、間違えない。 そしてまた、どこか不機嫌そうな顔で曹丕さんが私を見ている。 …そういう年頃なのかしら、と思って気にしていなかったのだけど…、やっぱり明らかに嫌われてる、のかな。 まあ、面と向かって好かんって言われたしね、当たり前か。 と思いつつ、口を開こうとしたその時に、曹丕さんがそれこそ前触れもなく、踵を返して言った。 「借りていくぞ」 同時に、唐突に現れた兵―私兵?―に立たされる私。 「え…、ちょ…」 思わず言葉にならない声が漏れる。 ごめん、ちょっと流石に何が何だか分からない。 …のに、よく分からないまま文字通り、伯寧さんたちに声をかける間もなく、私は”連行”された。 早々に食堂を出て、すれ違う人に不審そうな目で見送られる中、現実逃避ついでに残された自分のお昼ご飯を思い浮かべた。 今日はお昼泥棒に遭遇する日だったんだわ、と心のどこかで思う。 セルフサービスなのに…二人がどうしてるのか、もちろん、私には知る由もないのだけど…あとで二人に謝っとこう。 そんなことを考えている私をよそに、前を歩く曹丕さんは無言のまま、足早に回廊をゆく。 途中、私の腕を掴んでいた兵には開放してもらいつつ、だけど、何かを質問するにははばかられる空気感。 だから、私はただ黙々と曹丕さんの後ろをついていく以外なかった。 ――暫くして、一室に辿り着くと、そのまま中へと促される。 目の前の背中へ向けて、私は漸く、質問を投げかけた。 「あの…!っ」 ――のも束の間。 声掛けと同時に突然、何かが私に向かって放り投げられる。 咄嗟にそれを受け止めた。 質問なんてどこへやら。 ひとまず落とした視線の先、私の腕の中には、一振りの剣。 意味がわからない。 顔を上げると、曹丕さんがいつの間にやら手にした剣を私に向けている。 …嫌な予感しかしない。 「私が直々に、お前の力量をはかってやる。外に出ろ」 ほらね…嫌な予感的中。 何この急な展開。 完食じゃなかったけど、昼食後の休憩ぐらい数分でいいからとらせてくれないものかしら。 と思いながら、視線だけ曹丕さんに向ける。 速攻で言葉が返ってきた。 「何をぐずぐずしている、聞こえなかったか?……いや…そうか。ここで始めるというのなら、それも悪くはない」 と、不穏なことしか言わない曹丕さんの目はマジだ。 射殺すぐらいの勢いで、こっちを見てる。 そしてその、あからさまな口元の歪み。 何が面白いっていうのかしら。 一度、視線だけで辺りを見回した。 ここは曹丕さんの部屋だ。 整然とした部屋で、無駄がない。 まあまあ広い部屋だけど、ここで何をするっていうの? 百万歩譲って、剣を振り回す? お互いに? 冗談でしょ、目も当てられない状況になるのは考えなくたって分かるわ。 その片付けって誰がするのかしら。 推察するに、このあとの後片付けを私にさせようっていう魂胆に違いない。 だってここ、曹丕さんの部屋だもの。 なんて言ったって、目がそう言ってる…。 察したくなくても察してしまうぐらい、そう…、目がそう言ってるのよ。 間違いない。 おまけに、きっとその後の諸々の事後処理も私がさせられるに決まっている。 被害妄想?結構よ。 私は腹をくくって外に出た。 …いや、正確に言うと”外に出るための”腹をくくった。 ここでは何もしない、それだけのことよ。 少なくとも、曹丕さんと試合する腹はくくってない。 今のところ。 なんでこうなるの? と思いながら、外に出て中庭の開けたところで後ろを振り返った。 曹丕さんが当たり前のようにそこにいる。 もう一度言う。 なんでこうなるの…? 「いつでも来い。先手はくれてやる」 いらない、と心の底から思ったのは言うまでもない。 誰か…助けて…。 それから、時間にしたら10秒も無かったと思う。 無言のまま、どうしたものかと思っていた私に、実に不機嫌そうに曹丕さんが口を開いた。 「やる気などない…そういうことか。いいだろう。ならば、後悔しても文句は言えぬな」 言うが早いか。 間合いを一気に詰めるや、曹丕さんが私の顔面めがけて躊躇いもなく剣を突き出してきた。 間一髪で避けながら間合いを取ろうとするも、すぐにその分を詰められる。 同時に、容赦のない二振り、三振り目。 …この人、マジだ! そんなツッコミをしている自分も大概だが、それでも立ち止まって戦慄なんかしている暇はない。 容赦なく確実に急所を狙ってくる辺り、剣の腕は相当だし―いや、人を評価できるほどの腕を私は持っていないけど―、頭の方も相当だ。 いきなり自分の父親の臣下に向かって本気で命取りに来るってどうなってるのよ。 どういう答えを弾き出したら、こうなるのよ。 誰か、私にも分かるように教えて。 曹丕さんの剣を弾きながら出来ることといえば身を引くぐらい。 このまま後ずさってても仕方がないが、攻撃の手を緩める気はないらしい。 何歩目か、足を引いたその時、かかとに何かが触れた。 背に感じる圧迫感。 瞬時に壁だ、と思った。 これ以上、引けない。 もうこれはどうにかするしかない。 考える閧烽ネく、腹をくくった。 咄嗟に身を低くする。 同時に、足払い。 当然のように避けられたが、そのまま地面を蹴って剣で薙ぐ。 続け様の二撃も避けられはしたが、間合いは取れた。 呼吸を整える。 動いたせいではない鼓動の加速に、妙に緊張している自分を改めて認識する。 けど、腹をくくったからにはやるしかない。 曹丕さんと手合せ―そうよ、手合せ、よね…これ―なんて全然気が乗らないけど、決めたら動く。 それだけだ。 息を吸う。 吐きながら地面を蹴った。 まるで戦場にいる時と同じような、そんな感覚に陥る。 頭の中が妙に冷静だった。 強いて違いを挙げるならば、何に自分は緊張しているのか、そう自問自答していることぐらいだ。 集中しなくては。 相手の攻撃を弾き、いなしながら、攻めの手を加える。 しかし、相手には隙がない。 考えている暇があったら、ともかく応戦しなければ、自分が危ない。 ただ集中して、自分の深いところまで入り込んでいけばいくほど、思考するよりも早く身体が動く。 身体の応じるまま、手合を重ねる。 ほんの一瞬だった。 何合目かの、ほんの一瞬。 私の攻め手が、目の前の急所を狙う。 ――その瞬間。 「そこまでだ!」 低い声。 同時に、私の手から剣がはなれ、宙を舞う。 私の剣を弾いた、もう一振りの剣が地面に落ちた。 間髪入れず、弾かれた方もまた地面に突き刺さる。 「おまえたち、何をしている!」 どちらともなく、声のした方へ顔を向けた。 そこには、回廊からこちらへ向かって歩いてくる、夏侯惇さんの姿。 思わず私は、夏侯惇さんの名前を呟いた。 そのまま、こちらへ歩み寄ってくる夏侯惇さんを呆然と見つめる。 何よりもまず自分は、そのとき、混乱していたのだと思う。 「本気でやりあうなど、洒落にもならぬことをするな」 「…ふ。邪魔が入ったが収穫はあったな」 呟くように、曹丕さんが言った。 視線をそちらへ向けると、得物を手にしたまま、もう曹丕さんは背を向けている。 ということは、私の手から得物を弾いた剣は夏侯惇さんのものということだ。 それをすぐに認識できなかった。 そのぐらい、私の頭は混乱していたということだろう。 「まずまずの動きだった。次の戦では期待しよう」 それだけ言い残して、曹丕さんが去って行く。 夏侯惇さんがごく近くまで来て、私と並ぶように立った。 「変な所ばかり孟徳に似る」 ため息交じりにそう言った夏侯惇さんを見上げると、目があう。 「右手を出してみろ」 「…はい?」 言われたまま手を差し出すと、握手をするように夏侯惇さんがその手を添えた。 意味が分からないままでいると、間髪入れず夏侯惇さんが言う。 「そのまま全力で俺の手を握れ」 言われるがまま、自分の全力でその手に力を込める。 数秒後、夏侯惇さんが言った。 「…怪我はなさそうだったが、痛めていることもなさそうだな」 意図がよく分からなかったので、そういうことか、とやっと合点して手を緩めると、同時にその手が離れていった。 ふと思う。 いつだったかトーナメント戦の腕相撲大会に参加させられて夏侯惇さんと対戦したんだった…。 そのときに私の握力でも把握したのかな。 と頭の片隅で思う。 「ありがとうございます、夏侯惇さん。止めて下さって」 「…構わん。大方、あやつが無理難題を言ったのであろう?」 「…ええ、まあ…、そのとおりです、ね。…ですけど、助かりました」 受け答えながら、胸をなでおろす。 思わず顔が緩んだのは、無関係ではない。 本当に助かった。 もし、あのとき止めてくれなかったら、私は…もしかしたら。 さっきの一瞬の一部始終が頭から離れない。 集中しきっているからってあそこまで我を忘れる、なんてこともうずっと無かったのに。 そろそろ薬をまた飲まなきゃいけないっていうことと関係がある…わけ、ないか。 考えても、今は答えなんて出ないんだろう。 「」 名前を呼ばれて、はっとする。 顔を上げると同時に、夏侯惇さんの手が私の肩に軽く乗った。 「何か悩みがあるなら誰でもいい、相談しろ。お前の悩みなら、誰かしらが耳を貸すだろう。あとはお前が信じられると思う者に話せばいいだけのことだ」 「…いえ、悩みなんて……、いいえ、そうですね。誰かに…話してみます」 いつか、その時が来たら。 離れていく手を目で追いながら、そう答えた。 顔を上げる。 返答が無い代わりにどこか難しそうに眉根を寄せられたが、また何か変な心配をさせてしまったのかと思ったら、私の顔は無意識に緩んだ。 自分に呆れる。 そんなことばかりやっている、と。 「仕事。そのままになっているので、戻ります」 気を取り直して拱手する。 回廊へ向かいながら、手にしたままの剣に気づく。 曹丕さんは部屋へは戻っていかなかったが、本人がいないとはいえ、そこへ行くのは何となく気が重い。 それでもこれは返しに行かないとな…、と気が重くなるだけの私は一度、足を止めてから大きくため息をついた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 全然すすまない… 2020.12.11 ![]() |
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