人間万事塞翁馬 98 「…ほんとに、どこ行っちゃったのかしら…」 独り言を呟きながら、私は兎も角、寿春城内を走り回った。 まだ、そこここに、連合した各勢力の兵たちが忙しなく、帰還の、だろう準備をしている。 私は辺りを左右に確認しながら小走りに先を急いだ。 あとから思えば、それが良くなかった。 もっと、注意していれば良かったのに。 路地から出た、その時だった。 「公孫瓚を…」 「っ!!」 その路地よりも少し広い通りに出たその瞬間、突然の障害物に私はびっくりして思わず数歩飛び退いた。 その障害物――否、相手もまた、大きな声を出しながら後退したようだ。 その声で、それが人だったと認識するのに時間なんていらなかった。 顔を上げる。 ぶつからなかったのは不幸中の幸い、と思いつつ、それでもいきなり飛び出したりなんかして、失敗した、と同時に思う。 だって、どう見たって、それなりの地位を持ってそうな人だったから―キャラも立ってるし―。 まずは謝らなければ。 慌てて頭を下げた。 「すみません!私、前を…」 「ぶ、無礼者!この袁本初の行く手を阻むとは…!私と知っての狼藉か!兵は何をしている!!」 言葉を遮られ、怒られて(?)いる最中、その声を聞きながら再度、失敗した、と思った。 袁本初って…、会ったこと無いけど考えるまでもなく、袁紹さんその人じゃない、と。 すると、すぐに別の声が言った。 「袁紹様、お待ち下さい。こちらのお方…確か曹操様にお仕えしている方では?」 凛とした声、って多分こういう声のことかな…、と私は思いながら視線を上げる。 するとすぐに、向かって右、袁紹さんから一歩引いたそこに立っている、綺羅びやかなマーメイド風のドレスを着こなした女の人が視界に飛び込んできた。 すっごく、ナイスバディなお姉さん―この際、歳が上か下かっていう話は捨て置くわ―。 妖艶って、こういうこと…って同時に思った…ついでに言えば、声もどこかそうよね。 袁紹さんが、訝しげな顔で私をまじまじと見る。 「ほお…、それは真か?娘」 「…はい。私は、曹操さんに仕えています、と申します。不注意を致しました、ご無礼をお許し下さい」 渡りに船、とばかり、私はとりあえず名乗ってから拱手する。 袁紹さんは、やっぱり訝しげな声で呟くように言った。 「…?変わった名をしておるな」 「袁紹殿。曹操殿のもとには異国出身の女人が仕えていると、耳にしたことがあります。それが、こちらの方では?」 そこで更に相槌を打つように、別の声。 徐に顔を上げると、もう1人、袁紹さんの後ろに立っている。 なんか、慌てすぎて全然気づいてなかった…。 よくよく見れば、背も高いし、なんで今まで気づかなかったのか。 よほど私、テンパったのね…、気をつけなきゃ。 と思いつつ、同時に思う。 けど、それよりも…男の人…よね??? と。 なんていうか、話し方もなんだか…。 余裕がありそう、といえば、そういう声、なんだけど。 袁紹さんが小さく唸る。 「うむ…、そういえば袁術がいつぞやにそんな話をしておったな。だが、奴隷だと聞いておったが…」 「いいえ、袁紹様。兵たちが言うには、曹操様に仕える異国出身の軍師が、今回の城攻めの期を取り計らったのだと…そのように、私は耳に致しました」 「その噂は私も耳にしています、袁紹殿。…それに、この戦の前、小沛での折に、曹操殿とこちらの方…殿がお二人でいらっしゃるのをお見かけしました。たとえ、曹操殿がいかに多くの人材を集めているとはいえ、異国出身の者がそう多く仕ているというのは考えにくいでしょう」 「たしかに、兵の噂話だけでは当てにならんが…しかし、お主らの話を聞くに、あながち嘘とも言えぬか。異国の仕官者などそうおらん。そう考えれば、信憑性もある、か…ふん、袁術も見る目がないものよ。名族が才幹を見極めるのは、当然の事。でなければ、どうして恥を晒し、おめおめと逃げることなど出来ようか」 3人の会話を…というより、主に袁紹さんの言葉を聞きながら、私は内心呆気にとられた。 そんなにあっさり納得しちゃっていいの?、と。 …いや、色々説明する手間が省けるから、私はありがたいけど。 曹操さんから聞いてた話と…いえ、先入観は良くないわよね。 そんなことを私が思っているなんて露知らず、袁紹さんが構わず続ける。 「…とはいえ、軍師のくせに注意力の足らん娘よ。…あー、…と言ったか?」 「…はい」 「今後は気をつけるのだぞ。私のように寛大なものなど、そうおらんのだからな。此度は不問といたそう」 「…、ご忠告に感謝します」 あまりにも得意げに、胸まで張って言うものだから、私は更に呆れてしまったけど、はたと気づいて、とりあえず拱手しながら礼を述べる。 「うむ。曹操にも、あまり調子に乗るなと伝えるのだ。ではな。」 …前言撤回…。 先入観は関係なかったみたい…。 私が顔を上げるより早く、袁紹さんはそう言ってマントを翻しながら私の横を歩いていった。 続いて、ナイスバディなお姉さんが、ごきげんよう、と口にして会釈しながら去っていく。 それを目で追っていると、そこに続いた最後の気配が一度そこで止まった。 私は顔を上げる。 近くに立たれると、やっぱり本当に背が高い。 目が合うと、すぐにその人は言った。 「袁紹殿は気位の高いお方。どうぞ、気を悪くなさいませんよう。私は張郃、張儁乂。彼女は甄姫殿です」 視線で示すそれにつられて、同じくそちらを見る。 後ろ姿が目に入る。 視線を戻す。 にこりと笑って、続けた。 「またお会いしましょう、殿」 それから会釈をして、彼は2人を追って去っていった。 …そう、彼…よね。 彼…。 「おねえ系…かな…?」 その後ろ姿を見て思わず、ぽろりと出る。 勿論、誰も聞いてない、はず。 文則さんぐらい身長あったなー、とか考えながら、はたと我に返った。 こんなことしてる場合じゃなかった、と。 慌てて私は、袁紹さんたちが歩いてきた方向へ顔を向けた。 郭嘉さんの姿は見えない。 一歩踏み出す。 再び私は、郭嘉さんを探すために通りを小走りで進んだ。 それから間もなく、一本の路地を抜けたところで私は、曹操さんと郭嘉さんと一緒にいた夏侯惇さんに出くわす。 夏侯惇さんから、制止も聞かずどこに言った、探していた、帰る準備が出来ている、と矢継ぎ早に言われ、私は平謝りするしか無かった。 郭嘉さんが通常通りの絡みを私にくれたけど、それは通常通りスルー。 恋しくて探したんじゃないわよ。 呆れつつも、私達は一路、許昌への帰還の途についた。 結局、孫策さんたちに会うことは、ついぞ無かったんだけど。 * * * 回廊を歩みながら思い出す。 つい、一月(ひとつき)ほど前のこと。 父―曹孟徳―たちが許昌(ここ)を留守にしたことで、ようやく尻尾を出した董承どものことだ。 その時こそ、間抜けめ、と思ったが…。 ここ暫くは動きがない。 そう思っていた矢先に、寿春から軍が帰還すると一報が入った。 身の危険を嗅ぎ分ける鼻だけは優秀らしい。 全く呆れるが、そんなものか、と思う。 ならばこちらも、何か策を案じねばな――。 ふと足を止め、外を見やる。 青々と茂る木々の向こうには雲一つない、晴天の空。 帰還の一報は三日前に届いた。 袁術を捕らえられなかったと聞くが、討伐は成った。 予定では、今日遅くとも酉の刻までには全軍が到着すると聞いている。 また、予定が遅れているとの報せもない。 「…気は進まぬが、あの男の知恵を借りるとするか」 思わず呟いたその直後、ここへ向かってくる足音が耳に入る。 振り向くと間もなく、兵が一人駆け寄り、膝をついて拱手した。 「申し上げます。寿春より帰還の一軍が、あと一刻ほどで到着するとの報が入りました」 「そうか。祝宴の準備に滞りがないか、今一度周知させろ。出迎えの準備と、帝への報告の件も合わせてな」 「は」 再び、遠のく足音を背で聞きながら息を吐き出す。 帝の取り巻きを思い出すと、阿呆共には付き合っていられぬ、と呆れるほか無かったが、致し方ないと同時に思った。 ――それから一刻。 予定通り全軍が帰還を終え、父が帝への報告を済ませてからのち、戦勝祝いの宴が開かれた。 今はその只中だ。 中座の席から杯を傾け辺りに目を配る。 開宴してから半刻は過ぎたが、一刻は経っていない。 幾人かの歌妓が演目を終え、今は雑多な音だけが飛び交っている。 五月蝿いのも、煩わしいのも不快だ。 今すぐにでもここを去りたいが、そういう訳にもいかぬ。 面倒なことだ。 ため息を吐き出したくなるが、そこは堪え、一度深く息を吸い、それからゆっくりと吐き出した。 不意に、少し高い笑い声が耳に入る。 目を向けると、そこには女が一人。 女官でもなければ、歌妓でもない。 そこに席を持っているということはつまり、仕える者、だ。 父から話だけは聞いているが、直接言葉を交わしたことはなかった。 一風変わった、異国出身のその者は軍師という肩書を持っていたが、どちらかといえば斥候に近く、しかし斥候というよりも武を才とする将に近い。 しかし、将の職は持っていない。 本人が望まぬのであれば、今は与える気はない、と父がいつだか言っていた―正確に言えば、帝に進言する気はない、であったが―。 ということは、認めてはいるということだ。 だが、改めて見ても、何か気に入らない。 出迎えの時に初めて目にしたが、その時同様、やはり何か気に食わなかった。 なんとも言えず、不快だ。 近い表現をすれば、緊張感がまるで感じられない。 それが、不快だと感じる。 杯を下ろした時、近づく気配に気づき顔を上げる。 同時に声が降ってきた。 「子桓殿!」 「文烈か…」 文烈の顔を見上げてから、その手にある酒瓶に視線を移した。 今一度、文烈に視線を戻し、杯から手を放す。 「良いところに来たな。少し付き合え、文烈」 「構いませんが、どこかへ行かれるのですか?」 「何、野暮用だ。あの者に一度、挨拶をしてやろうと思ってな」 「あの者…?」 件の席へ顔を向けると、釣られて文烈が後ろを振り返る。 その間に立ち上がり、その名を口にする文烈の横を、私はす通りつつ言った。 「行くぞ。それは一緒に持ってこい」 「え?は‥はい!」 背後に文烈の気配があるのを確認し、まっすぐその席を目指す。 ほど近くまで来ると、その横に居た夏侯淵が先に気づき、次いで席の主が顔を上げた。 立ち上がろうとするより早く、膳を挟んだその目前に腰を下ろす。 まっすぐその目を見る。 「私が誰か、知っているか?」 「…はい。曹操さんのご子息の、曹丕さん…ですね」 言って、は嫌味のない笑みを浮かべた。 それから居住まいを正し、流れるような仕草で拱手し続ける。 「こちらからご挨拶に伺わねばならないところを、申し訳ございません。改めまして、と申します。以後、お見知りおきを」 「構わん。それが分かっているのならば、世話はない」 同時に文烈から酒瓶を受け取る。 その目の前に掲げた。 「いける口だと聞いている。無論、受けられるな」 「頂戴致します」 と言いながら、その杯にはまだ半分、酒が残っていた。 は会釈してから、その杯を徐にあおり空にしたあと、口をつけた杯の縁を指先で軽く拭ってから懐にその手を入れた。 そこに布(きぬ)でも忍ばせているのだろう。 清めてから、その杯を僅かに掲げる。 そういう仕草は嫌いではない。 酒を注ぐ。 並々と注がれたそれを、礼法通りにはあおった。 その隣で、夏侯淵が感嘆の声をあげる。 一刻弱。 思えば、こいつの席は人が途切れず、その尽くが酒を勧めていたか。 ならば、その感嘆も分からぬ訳ではない。 空になり下ろされたその杯を、私はの手から奪い取った。 代わりに、酒瓶を差し出す。 躊躇いもなく、はその酒瓶を手に、そして杯へと傾けた。 少しは躊躇いなど見せて、狼狽えるぐらいすれば良いものを、初めから私がそうすることを解していたかのように聞き返すこともせず、酒を注ぐ。 困らせてやりたい、と思った。 「お前のその、行動理由はなんだ?」 杯に注がれる酒を見ながら問う。 酒がすべて注がれたところで視線を上げた。 同じようにが視線を上げ、私を見る。 そして、笑みを浮かべ言った。 「変なことを聞くんですね。…面白くない返しをするなら、礼法通りに」 「…ほう…、ならば、もう一つは何だというのだ?」 「曹丕さんが望んだから」 思わず言葉を飲み込んだ。 何か言い返してやりたい気分になったが、止めた。 短く息を吐き出してから、礼法に倣う。 空になった杯を膳に置く。 視線だけを上げ、その目を見た。 「なるほど。一言多いが、勉強にはなった。礼を言うぞ、」 そう告げても、視線の先にある顔色は変わらない。 酒瓶を手に、微笑を浮かべてこちらを見ている。 身体を起こす。 その視線だけが私を追うのを確認して、それから言った。 「勉強ついでにもう一つ教えろ。異国の歌を」 「う、歌…ですか?」 狼狽える素振りを隠しもせずに眉尻を下げる。 それに構わず続けた。 「そうだ。歌が得意だと聞いている」 「得意…ではないのですけど」 「貴様の意見など聞いていない。ただ、私はそう聞いたのだ」 「…そうですか…分かりました」 本人が得意ではない、と述べていることも既に知っている。 それを伝えはせぬが。 はそう戸惑いがちに言ってから、一度視線を外したあと、再び戻した。 「…それで、どんな歌をご所望でしょうか?」 「そうだな。折角だ、まだ誰にも聞かせていない歌で、異国の言葉のものが良いな」 「色々、ご存知なのですね…」 「私が知らぬことなど、そうは無い」 そう告げると、一瞬黙ったあと、周囲に目を配り、それから私を見る。 「ここで、歌うんですよね…?」 「無論だ。‥案ずるな。誰が何を話しているかなど疾うに分からぬほど騒がしい。ここでお前が歌の一つを歌おうと誰も気にはせぬ。それとも前に出るか?」 「いえ、まさか。ここだけのことにさせて下さい、せめて」 手を振って否定してから、苦笑いを浮かべた。 全く、忙しなく表情を変えるやつだ、と思う。 これで軍師だというのだから、本当に世話がない。 今も目の前で、口元に手を当て何か思考している。 からかい半分のそれだ。 特別興味があるわけではない。 だが、話を耳にするだけで、実際に目にしたことがないのは事実。 話の種に一度耳にしておくのも一興か、と思った。 不意に、の視線が私に戻る。 そして、言った。 「1曲、1番だけでもいいですか?2番以降はほとんど同じ歌詞の繰り返しなので」 「…ああ、構わぬ」 「では、1曲1番だけ。振り付きなので、振りも付けますね」 そう言うが早いか、居住まいを今度は崩し、一度咳払いをしてから陽気に過ぎるそれを歌い出した。 「If you're happy and you know it, clap your hands. If you're happy and you know it, clap your hands. If you're happy and you know it, And you really want to show it, If you're happy and you know it, clap your hands.」 周囲は相変わらず雑多で騒がしかったが、ここだけが一瞬、静まり返った。 夏侯淵が目を見張っていたが、それはどちらでも良い。 「なぜ、それを選択した?」 「これ以外、手頃なところを思いつかなかったんです。お気に召しませんでした?」 「…、……話しついでに聞いてやる。どういう時に歌うものだ」 「子供向けの、手遊び歌です」 「…なるほどな」 思わず、鼻で笑った。 次いで、眉間に力が入る。 「これだけはよく分かった。やはり私は貴様が好かん、ということがな」 立ち上がり背を向けて歩きだすと、文烈が慌てた様子で私の名を呼んだが、構わず己の席へと向かう。 最中、背に会話が聞こえる。 どうやら、どこから現れたのか夏侯惇が加わったようだ。 「お前、どうなるか分かっていただろう」 「いえいえ、まさか」 「なあ、よ。さっきのは、結局どういう意味だ?」 「…、直訳するとこうです」 そして、また聞こえるそれは、今度こそ意味がわかる。 「幸せなら手をたたこう、幸せなら手をたたこう、幸せなら態度で示そうよ、幸せなら手をたたこう。………です」 さも楽しそうにするその声に、ますます眉間に力が入った。 「お前…あいつの前でそれを歌うのはやめておけよ」 「なんでだよ、惇兄。いいじゃねえか、たまには歌ってやれ」 「淵…それは本気か?」 「おう、本気本気」 「…知らんぞ、俺は」 「…難しい年頃なんですねえ…」 好き勝手言っている叔父どもに、呆れ果てた。 「…聞こえているわ、阿呆どもめ…」 思わず呟いたが、それは聞こえていないだろう。 狼狽える文烈の気配を背後に感じながら、私はただ己の席へとまっすぐ向かった。 心の底から、この宴が早く終われ、と思った。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 当時は公宴で芸妓は呼んでなかったらしいですけど無双なので← あまり深く考えない そして相変わらず、曹丕の言葉回しがいまいち… 2020.06.01 ![]() |
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