人間万事塞翁馬 96















それは、あまりに唐突だった。
寿春まで幾ばくかの地点で野営を組んだ、その日の夜。
その幕舎で孫策殿がを見て言った。



「なあ、。お前、俺らのところに来ないか?」

「……は?」



どちらの言も唐突だった。
いや、の素っ頓狂なその返しは、少なくとも我輩の心の内をそのまま反映していた。
普段ならば、間違いなく不快に感じるであろうその反応も、今は―彼女、だからかもしれない―気にもならなかった。
恐らく、ここに周瑜の奥方がおれば、彼女だけは手放しで喜び、はしゃいで見せたであろう。
だが幸いにも、というべきか、周瑜は居れど彼女はここに居なかった。
未だ、慣れたとは言えぬ行軍の疲れには逆らえぬようだった。
方やはと言えば、その線の細さとは対照的に、下手な将よりしっかりとしている。
今日までの働きを見れば無論、当然といえば当然であったが、しかし彼の奥方が同行している今、同性である彼女と比べずにはおれない。

とはいえ、今は目の前のことだ。
孫策殿が、再び口を開いた。



「なんだ、拍子抜けするじゃねえか。…だからな、。お前」

「いえ、分かります、お言葉の意味は」

「だったら」

「お気持ちは有難いのですが、私は曹操さんに仕える身。お受けすることはできません」



正しく隙もなく、島もなく、そうは強くしかし静かに、ともすれば穏やかに答えた。
傍らの周瑜の顔を盗み見る。
どこか難しそうな顔をしてはいるが、しかし、孫策殿の考えは知っていた、そんな様子だった。

僅かな沈黙ののち、孫策殿がをまっすぐ見て言った。



「理由をきかせてくれ。俺は、何が何でもお前を仲間に迎え入れたい、そう思ってんだ」



聞いているこちらが、思わず呆気にとられた。
だが、あまりにも迂闊だ。
見かねて口を開きかけたその時、が吹き出すようにして笑い出した。
そして、押し殺すように声を抑えながら、口元に手を当てて言う。



「ご、ごめんなさい。馬鹿にしたわけではないんです、ちょっと…おかしくて。お互い同盟を結んでいるとはいえ、そんなにはっきり言うかなって」

「なんだよ、そりゃ…俺は真面目に話してんだぞ」



言いながら、孫策殿が眉尻を下げながら頭を掻いた。

だが、の言っていることがもっともだ。
なるべく聞くに徹しようと心がけてはいるが、なかなか孫策殿は型に嵌まらない。
が先に口を開かなければ、我輩が先に口を出していただろう。
黄蓋がこれを聞いていたら…、笑っていたに違いない。
ふと、そんなことを思った。
だが、少なくとも異を唱えたり、釘を刺すと言ったことはしなかったであろう。

が孫策殿を見て言葉を続ける。



「お会いしてからそれほど長くはありませんが、孫策さんらしいと思いました。勿論、褒め言葉です」

「…なんか、複雑だが…ま、でも嬉しいぜ。それで?なんで受けてくれねえんだ?」

「それは単純なこと。既に、曹操さんに仕えているからです。それ以上も以下もありません」



ただ、周瑜と同じく耳を傾けた。

長くもなく、かといって短くもない一時を過ごした、そう思ってはいるが、同盟が成り立っているからこその関係だ。
遊びではない。
今とて、寿春を目前に、袁術を討つその一歩手前まで迫っている。
それが、なぜ孫策殿はここで、に登用を持ちかけたのか。
本来ならば、ありえぬこと。
そしてここでが断る理由を聞いたとて、彼女の答えが覆ることもなかろう。
寧ろ、ここでのこの孫策殿の言動が曹操の耳に入ればどうか。
何れにせよ、時期尚早。
いや、そもそも起こすべき行動ではなかった。

それでも今は、ただ耳を傾けた。
二人の会話の先に、自分でもなにか興味が湧いたのだろう、と後から思った。

孫策殿が再び問う。



は、なんで曹操に仕官したんだ?曹操に何を求めてる?…そういうこと、だよな」

「……私は…」



そこで一度、は言葉を止めた。
止めてから、肩の力を抜くように息を吐き出したあと言った。



「何も。私は、曹操さんには何も求めていません。ただ…、私も、同じ思いを抱いたから。それと…」

「それと?」

「……、多くを語る気はありません。だけど、私が今ここで立っていられるのは曹操さんや、その周りの皆に出会えたからです。そのお陰で、この知らない地で路頭に迷わずに済んだ。だから、恩を返したい。…ただ、それだけ。その、2つだけです」



穏やかにそう告げて、はにこりと微笑んだ。
孫策殿が呟くように言う。



「…そっか。そういや、、お前は……」



そう口にしてから気を取り直すように、孫策殿はやや高い声で言った。



「恩返し、か。そりゃあ、無理に、とはいかねえか」

「どうか、ご容赦を」

「…いや、いいさ。聞けて良かったぜ。どっちにしろ、俺は諦めるつもりはねえからな」

「孫策…」



周瑜が口を開きかけたその時、が一歩前に出る。
そして、拱手しながら言った。



「熱烈なファンコール、ありがとうございます。ですが、今のは聞かなかったことに致します。明日も早いですから、私はこれにて。先に休息を取るご無礼、お許しください」



息つく間もなくそう告げて、は頭を下げたのち、踵を返しその場を後にしていった。
颯爽と去っていくその背を、ただ目で追った。
意味の分からぬ言葉は、この際どちらでも良かった。



「孫策、君はまた、なんということを…」

「なんだよ、周瑜。文句があるなら止めれば良かったじゃねえか。それをしなかったってことは、お前だって多少は期待してたんだろ?」

「…、…」

「そんな顔すんなよ。大丈夫だって」

「何が大丈夫だと言うんだ」

「聞かなかったことにするって、も言ってたじゃねえか」



後ろを振り返ると、孫策殿が周瑜に笑みを向けていた。
周瑜が額に手を当て首を振る。



「君は、時に……本当に、鋭いな」

「お?なんだ、褒めてんのか?」

「君にはそう見えるのか?」

「いや、見えねえ」

「…そのとおりだ」



周瑜のため息を耳にしてから、我輩もまた、それに似た息を吐き出した。
もう何も言うまい。
周瑜が代弁したようなものだ。
一言告げ、幕舎を出る。

じめりとした空気ではない分、夜は江東よりも過ごしやすい。
月は出ていない。
疾うに沈んだようだ。
こういう夜は警戒するに越したことはない。
敵の本拠も近い。

の幕舎を一瞥する。
今一度、空を見上げた。









 * * * 










あたしの前に孫策様と周瑜様がいた。
ちょっと後ろの方に、程普様とがいる。
みんな、騎乗してる―兵のみんなは乗ってないけど―。
勿論、あたしも。
思うことがあって、手綱に力を込めてから周瑜様のもとに向かって馬を進めた。
背中が近づいてから、あたしは声を張り上げた。



「ねね、周瑜様」

「…どうした?小喬」



声に気づいてあたしを見ながら、周瑜様が優しく微笑んでくれる。
周瑜様が笑ってくれると、あたしはすごく嬉しくなる。
胸のあたりが暖かくなるのを感じながら、あたしは周瑜様を見上げた。



「あのね、周瑜様。…袁術って人を倒したら、とはもうお別れなんだよね?」

「ああ、そうだ。袁術を打てば、曹操殿とは勿論、此度の同盟そのものが解消される。そうなれば、は曹操殿のもとへ帰らねばならない」

「そうだよね…、寂しくなっちゃうね。きっとお姉ちゃんも寂しいって思うだろうな…」

「…小喬の言うとおりかもしれないな」

「わかった!ありがとう、周瑜様」



それからあたしは、また手綱をゆるめて今度はのもとへ向かった。
あたしに気づいてこっちを見る程普様はいつもどおりの難しそうな顔だったけど、はどこか不思議そうな顔であたしを見ていた。
なんだかおかしくて、思わず顔が緩んじゃった。
そしてあたしは、昨夜から考えていたことを行動に移した。



「えっへへ〜、あたし、いいこと思いついちゃったんだ!あのね、!あたしたちの仲間にならない?」



うんうん、と頷いていたが、笑顔のまま止まった。
何回か、ぱちぱちと瞬きをしてる。
の向こうで、程普様があたしをじっと見つめてた。

……、



「あれ?あたし、何か変なこと言った?」



思わず首を傾げると、ちょっとしてからが、いいえと言って首を横に振った。



「ありがとう、小喬。私を誘ってくれて。…だけど、私は曹操さんに仕えているから、それは出来ないの。ごめんなさい」

「どうして?その、曹操さん、て人に仕えるのをやめちゃえばいいんじゃないの?簡単でしょ?が仲間になってくれたら、あたしもお姉ちゃんも、みんな喜ぶよ、ぜーったい!」

「…、そうね。その気持ちは嬉しい。けど…、こればかりは誰に誘われても、お願いされても、出来ないの。私は、曹操さんに仕えると…、決めたから。自分で決めたことだから」

「…絶対、だめなの?」



をじっと見つめると、はただ優しく微笑んだ。
なんだか、力が抜けていくような感じがして、それ以上、何も言えなかった。

――不思議なの。
のその顔を見ると、何故かそれ以上を言えなくなる。
これ以上、言っちゃいけない、って思っちゃう。
困らせたらだめだって、思うの。
何故か分からないけど、きっとこれ以上言ったら、は困っちゃうんだろうって思う。



「全軍、止まれ!」



孫策様の声が急に響く。
あたしはちょっとびっくりして、思わず馬を止めた。
も、程普様も、みんなそこに止まる。
一度顔を上げると、城門が見える。
その前に敵が沢山並んでいた。
戦が始まる。

あたしは孫策様の声を聞きながら、の横顔をこっそり、横目で見つめた。



「あそこに見えるのが寿春だ!これから俺たちは袁術を討つ!もう少ししたら、曹操んとこの援軍が来るはずだが、そいつらが来る前に俺たちで城門を突破しちまおうぜ!」



そう孫策様が言った直後に、みんなが声を上げた。
体中、震えるような声が、辺りにも響く。
孫策様が続ける。



「皆、俺に続け!遅れるんじゃねえぞ!!」



さっきよりも、もっと大きく、みんなの声が響いた。

なんだか、どきどきしてきちゃった。
なのに、はさっきから顔色ひとつ変えない。
まっすぐ、孫策様を見ているみたいだった。

ふと、そのときがあたしに視線を向けた。
はっとして、視線を逸らす。
それから、もう一度恐る恐る、を見た。

は、ふわっと笑みを浮かべていた。
どきどきしていた心臓が、一気に落ち着く。
が言った。



「私達は手はず通り、孫策さんと周瑜さんの援護に回ります。準備はいい?小喬」



仲良しみたいに言ってくれたのが、すごく、嬉しかった。



「うん!もちろん!!ぜーったいに負けないんだから!行っくよ〜!」

「いい返事。…では、行きましょう」



程普様が短く、頷いた。
誰ともなく、馬を走らせて、兵のみんなの波の中へと入っていく。
砂埃に、少しだけ目を細めながら、前を行くにあたしも付いて行く。
その先に見える周瑜様を確認して、あたしはもう一度強く手綱を握り直した。
同時に、背後に抱えていた喬佳を空いている手で触って確認する。

大丈夫。
みんな、あたしがやっつけるんだから。
――が…、考え直してくれたらいいのに。

そんなことを思いながら、に倣って、あたしも喬佳を構えた。















つづく⇒(次話、人が死んだりする表現が出てきます)



ぼやき(反転してください)


さくっと袁術をクリアしていきたいところ
最近の悩みは、プロットを作っていなかったせいで半分設定を忘れていること
最早、どうしようもできない…


2020.02.19



←管理人にエサを与える。


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