人間万事塞翁馬 94 第一印象というほど、強い印象は抱かなかった。 強いて言うならば、曹操から使わされたその者が、女性であったことは意外だった。 曹操は敵、と認識しているはずの孫策が、彼女を前に嬉々として彼女自身のことを私に話す。 なんとも孫策らしい、と思った。 彼女はその間、困った様子で時折孫策に言葉をかけていたが、私には一切視線を向けることはなかった。 それは、私の視線に気づいていなかったからか、それとも気づいてなお気づかぬふりをしたのか、どちらであるかというのは分からない。 表向きは協力体制を密にするため、と曹操は言っているが、彼女を使わした理由がただそれだけだとは考えにくかった。 だが、そうだとしても、まだ今は、恐れる必要はない。 最終的には敵、と認識はしているが暫くは味方同士だ。 こちらが向こうからの提案を採ったとなれば、何かしらの隙きを伺えるだろう。 今はそれで十分だった。 あとは、こちらの意図を必要以上に読まれぬようにすること。 まずは寿春を攻め、袁術を倒す。 孫策が皆に彼女を紹介したあと、寿春までの行程を―簡単にではあるが―彼女と話した時は全く思わなかったのだが、同日に催された宴以降の彼女の言動を思い出すと、意外に社交的なのだと感じた。 行程の説明中、そういえば曹操の軍に女性の軍師らしき者がいる、という噂を耳にしていたことを思い出したが、それが彼女であったにしても―十中八九、そうであろうが―軍師と呼ばれる類の者が利用する、社交性、という道具の扱いとは、些か違う気がしている。 異性故の甘さか、それとも異国出身という所の人間性の違いか。 裏は感じないが、だが、それすらも軍師特有の演技だとするのなら、それこそ侮れない。 建業に布陣する袁胤を攻める、その準備を終え、孫策のもとへと向かう。 程なくして、孫策と義姉上の姿が視界に入った。 徐々に近づく二人の顔は曇っている。 嫌な予感がした。 数歩の距離で足を止め、同時に孫策へ言った。 「どうかしたのか?孫策」 「周瑜…。いや、それがよ」 言いにくそうに、語尾を濁し視線を義姉上へと向ける孫策。 義姉上は、更に表情を暗くして俯いた。 孫策が言う。 「実は、補給部隊との連絡が途絶えちまって、今どこにいるのか分かんねえんだ」 「到着が遅れているので、小喬のことも心配で連絡部隊を出したのですけど…」 補足するように、義姉上が続けた。 一瞬、頭の中が真っ白になった。 小喬が…。 覚悟はしていた筈だった。 しかし現実のものとなると、こうも違う。 「私が…」 「いや、それはダメだろ周瑜。お前はもう建業へ程普と一緒に行くんだろうが。こうなったら俺が」 「君も動けぬだろう、孫策。今、ここを空けるわけにはいかぬ」 「や、やっぱり…私が行きます!孫策様たちが動けないんだったら、私が行くしか。それに、小喬のこと、私、すごく心配だもの」 「それこそダメだぜ、大喬。連絡が途絶えるような場所へ、お前一人だけなんて行かせらんねえよ」 「だ、だったら、どうしたら…このままだと、小喬が…」 「それならば、私が向かいましょう」 このままでは埒が明かないと、苦い思いを噛み締め始めたそのとき、唐突に別の声が耳に届いた。 視線を左手に向けると、こちらへゆっくりと歩んでくる殿が目に入る。 義姉上の数歩手前で足を止め、笑みを浮かべて言った。 「その代わり、大喬さんに一緒に来て頂きたいのです。その、小喬さんのお顔が私には分からないので」 ただ一人、緊張感もなく微笑んで告げる彼女に、孫策が言う。 「、お前だって確か、周瑜たちと建業に行くはずだろ?…だよな?周瑜」 「ああ。…だが」 「はい。私は元々、必要要員ではありませんので、自由に動ける筈です。建業攻めの数に入れずとも、そちらは周瑜さんや程普さんたちだけで足りていらっしゃる」 「そのとおりだ。しかし…君ひとりが向かってどうにかできるとでも言うのか?」 「もっともなご意見です。ですが、これでも私、腕とここで食べています。私が、と宣言したからには、必ず小喬さんを無事にお連れします。勿論、大喬さんに怪我もさせません。それから、補給部隊の確保も」 彼女は自分の二の腕に手を当てた後、そのこめかみの辺りを指で示してから言い切った。 それから間を置かずに孫策が言う。 「周瑜、前にも話したろ?の武は本物だ。その辺の奴らじゃ、まず敵わねえ。それは俺が保障する…だから、信じてやってくんねえか?俺たちには時間もねえんだ」 確かに孫策の言うとおりだ。 そろそろ日が昇る。 その前に、ここを出立し建業を目指さねばならない。 だが、このことを差し置いて向かうわけにはいかないのだ。 彼女をもう一度見る。 その場凌ぎで言っているようには見えぬが、それにしても自信がありすぎる、ように見える。 孫策から聞いた、曹操の言う、彼女の持つ特技…それと関連があるのだろう、とは思うがそれ以外は分からぬ。 孫策に視線を戻す。 孫策もまた、自信を持った眼差しだ。 彼らしい、強い光を帯びた眼差し。 道中、小勢ながら賊に襲われたそのときに、彼女の武を垣間見たのだ、と言っていた。 孫策自身の武も相当だ。 その彼がこれだけ言うのだから、それは事実だろう。 それを疑う余地はない。 しかし、相手が少人数で御せぬ数ならどうするのだ。 そしてまた、拉致の開かぬ思考の渦に巻かれている自分にふと気づき、それでは今は駄目なのだと、半ば諦めた。 今は、孫策の言葉を、彼女を信じる以外にない。 「…分かった。殿、小喬のことをくれぐれも頼む」 それから一拍ほど置いて、彼女は満面の笑みで告げた。 「はい、お任せを。…さあ、そうと決まれば参りましょう。馬の用意はもう、出来ています」 「マジかよ、なんで…」 孫策が驚いた様子で声を上げる。 彼女が孫策へ視線を移して言った。 「盗み聞きするつもりは無かったんですけど、実はさっき近くを通りかかった時に、たまたま孫策さんと大喬さんの会話が耳に入ってしまって。それは一大事だと思いまして、勝手ながら準備を」 「…お前、腕が立つだけじゃなくて、気も利くんだな。助かるぜ!」 確かに、孫策の言うとおりだ、だが…。 ふと、彼女が私に視線を向ける。 それから、にこりと笑った。 「お咎めは後でお聞きします。今は一秒でも…いえ、一刻でも早く、小喬さんのもとへ。行きましょう、大喬さん」 「…はい!よろしくお願いします、様!」 それから一度、頭を下げてからその場を後にしていく彼女と義姉上の背を見送りながら、孫策の気をつけろよ、という声を耳にした。 そして、無意識に頭の中で反芻した。 いちびょう。 という、聞き慣れぬ語を。 しかし、それはすぐにかき消された。 孫策の、彼女の頭だけを下げるあの動作は、彼女の国の礼儀作法みたいなものらしいぜ、面白いよな、という言葉で。 私は、もう一度彼女たちの消えた先へ視線を向けた。 空を見上げると、白み始めた空が徐々に明るさを増していた。 * * * 「ここを通ったのが運の尽きだぜ!その荷は俺たちが貰った!」 「こらー!勝手にさわっちゃだめー!それはあたしたちのものなんだから!」 周瑜さまにいいところ見せようと頑張ってるのに! 邪魔するなんて酷いよ!! と、頭の中で叫んで、あたしは蕎佳を構えた。 兵卒や隊長のみんなが守るようにわたしのまわりを囲ってくれてるけど、この悪い人たち、結構強いみたい…。 おひさまが出てきたみたいで、段々暑くなってくる。 蕎佳を構えながら、あたしは一度、まわりを見渡してみた。 ――やっぱり、ちょっと押されてるみたいだった。 ここに来るまでは順調だったんだよ。 予定通りの時間に出て、周瑜さまと約束した曲阿の砦を目指してた。 暑いのがちょっと大変だったけど早く周瑜さまに会いたいし、褒めてもらいたいから頑張ってたの。 道をずーっと進んで、その途中であともう少しだって隊長さんが教えてくれて、それからちょっと休もうってことになったんだけどね。 そこで休んでたら、急にこの人達が出てきて、こんなことに。 先に曲阿へみんなと向かったお姉ちゃんが、ふっと頭に浮かんだ。 すっごく、あたしのこと心配してくれてた。 お姉ちゃんに会いたい。 「小喬様!お下がりください!」 「…う、うん!ありがと!あなたも気をつけてね!」 敵からの攻撃を防いでくれてる隊長さんにお礼を言いながら、慌ててそこをあたしは離れた。 急に胸がどきどきしてきた。 もしかしてあたし、ここで死んじゃうのかな…。 そんなの嫌だよ。 立ち止まって振り向くと、同時に敵が一人視界に入る。 「逃さねえぞ」 「…逃げないもん!あんたたちなんて、あたしがやっつけちゃうんだから!」 「おもしれえ、やれるもんならやってみな」 ちょっとむっとしちゃったから言い返してやったけど、言わなきゃよかったかな…。 敵の目つきが少し変わる。 背中の方で、嫌な感じがした。 ちらっと後ろを確認すると、敵がまた一人そこにいた。 やだ!挟まれちゃったよー! 手にも背中にも嫌な汗がどんどん吹き出してくる。 胸がどきどきしすぎて、苦しい。 だ、だけど…。 あたしだって…! 蕎佳をぎゅっと握ったその時、いきなり声がした。 「伏せて!」 「へっ!?はい!」 すごく強い言い方だったからびっくりした拍子に、あたしは思わずその場にしゃがんだ。 直後、やっぱり後ろの方から、低い呻き声が一瞬だけ聞こえる。 つられて振り向くと、一本の鏢が眉間に刺さっている敵が、仰向けに倒れていた。 「え!?なになに!??どゆこと!?」 あたしはまた、思わずその場に立ち上がった。 だけど、考えている暇なんてなくて、また聞こえてくる声に、あたしはもう一度後ろを振り向いた。 さっきの敵の背中と、こっちに馬で駆けてくる知らない人。 その人は、馬の上で立ち上がってすぐに空へ跳んでから、敵の両肩に自分の両手をついて、あっという間にその背後に着地した。 そして、いとも簡単に膝をつかせて、敵の首の辺りに手を当てたの。 恐る恐る近づきながら遠回りに覗き込むと、その人の手には鏢が握られてる。 もう片方の手で掴んでる敵の片腕は、変な方向を向いていた。 すごく…痛そう…。 唐突にその人が言った。 「3秒…いえ、3つ数える間に彼らを引かせなさい」 女の人だったんだ。 と思ったのも束の間、その人が続ける。 「3、2、…」 「わ、わかった!…おい!引け!やめだ、やめ!!」 その人に捕まったままの敵がそう叫ぶ。 戦ってくれてるみんなの方へ顔を向けると、敵が逃げてくのが見えた。 視線をもとに戻す。 女の人が、いつの間にか敵を解放していた。 「いてて…。格好の獲物を逃しちまうとは……」 敵は掴まれていた腕を擦りながらそう言って、どこかふらふらしながら去って行った。 安心したのと同時に、あたしはすごく嬉しくなって、思わず両手を振り上げた。 「わぁーい!これでごはんをみんなに届けられるね!」 「小喬!…小喬!怪我はない!?」 「…お姉ちゃん!?お姉ちゃんだ!」 思ってもいなかった声に、あたしはまた嬉しくなった。 振り向くと、駆け寄ってきたお姉ちゃんが勢いよく、あたしをぎゅっと抱きしめる。 あたしもぎゅっと抱きしめた。 「だいじょーぶ!みんながあたしを守ってくれたから!…でもでも!あたしも頑張ったんだよ!」 「もう、小喬ったら…、でも本当に良かった」 お姉ちゃんが、さらにぎゅーっと抱きしめてくる。 苦しいよ、と思いながら視線をふと上げると、あの女の人と目が合った。 にこっと笑顔を返してくれた。 すらっとした綺麗な人だけど…。 「ねえ、お姉ちゃん。あの人、だぁれ?」 指をさしたのと、お姉ちゃんが顔を上げたのは殆ど同時。 それからお姉ちゃんは、はっとしたようにあたしから離れて、その人に言った。 「すみせん、様!私ったら…」 「……さま?」 思わず首を傾げると、その様って人がこっちに近づいてきて、あたしたちの前で足を止めた。 「お気になさらず。それよりも、間に合って良かった」 そう言ってから、あたしを見る。 穏やかに笑ったその顔が凄く印象的で、どこか安心できた。 見惚れちゃったあたしに、その人が言う。 「お初にお目にかかります、私は。曹操さんの下に仕えています」 「へー…?そうなんだー??」 「はい。勝手ながら、詳しいお話は道中にて。皆さん、お待ちのようですから」 と、視線を外したその先へ、あたしも目で追ってみると、隊長さんやみんなが準備万端でそこに揃っていた。 そうだよ!先を急がなくちゃ!! と、思い出してあたしは視線をもとに戻した。 「うん、そうだね!みんなを待たせちゃったら悪いもん!」 「小喬…!様に失礼でしょう」 「え?そうなの?」 お姉ちゃんを見てから視線を移すと、笑顔と一緒に”いいえ”と一言返ってくる。 なんだか嬉しくなって、あたしも自然と笑顔になった。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 小喬の立ち位置とか敬称のつけ方とか色々、諸々悩む… 悩みが尽きない今日この頃 2020.01.05 ![]() |
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