人間万事塞翁馬 93 「…てことだからよ。皆、まずはに自己紹介してくんねえか。程普と周瑜はもう済んでるから、いいぜ」 と、私は曲阿に着くなり周瑜さんとの話もそこそこに、行き成り孫策さんの提案した紹介コーナーに引きずり込まれた。 ここに来るまでの道中、孫策さんと程普さんと話をしながら…っていうか、もう8,9割方、孫策さんの質問攻めだったんだけど、まあそんな感じで過ごして今に至る。 もちろん、当たり障りなく返したから、私が異国出身、っていうこと意外は分からないと思う。 寧ろ、それより気になっているのは程普さんのこと。 だって、見れば見るほど本当に、程普さんは私のじいちゃんとそっくりそのままなんだもの。 これで短髪だったらもう本人でしょ、ってぐらい瓜二つ。 他人の空似もここまで来ると、なんだか不思議な感じがするわ。 でも程普さんは、私のじいちゃんと違って声は低いし、いつも難しそうな顔をしているから間違えても、じいちゃん、なんて呼んでしまうことは多分ない、と思う。 …多分。 そしてまた思うのは、よく、ご近所さんから聞かされていた、ご近所さんから見たじいちゃん像っていうのは、こういう感じだったのかなあ、っていうこと。 まあ、なんていうか、なんとも言えない新しい発見をした気分よね。 そんなんだから、というのか…懐かしい、っていうのも理由なんだけど、ともかく無意識に程普さんのことを目で追ってしまうのは、仕方がないと言えば仕方がない…でしょう? けど、やっぱり、っていうのかな。 私のそういう不審な視線に気づいているのか、程普さんからの視線は鋭い。 そんなわけで、…変な誤解されないように気をつけよう、と思っているところだ。 勿論、お仕事的な意味で、ね。 頭の片隅で、そんなことを考えながら、目の前で一人ひとりが自己紹介を済ませていく。 黄蓋さんを筆頭に、韓当さん、太史慈さん、周泰さんまでが終わった。 そのとき、視線の向こうから男の人の手を引いて、ショートボブの女の子が早足でやってくるのが見える。 そして、私の目の前まで来ると、その男の人をずずい、と手で押し出した。 「はい、権兄様!自己紹介!」 「な…、え?…わ、私は孫権…、孫仲謀だ」 「もう、権兄様ったら、もっとしっかりしてよ!」 と、明らかに状況を飲み込めていない彼に、まるでコントでもしているかの如くの突っ込みをその子が入れる。 それから、その、孫権さんの影から彼女はひょいっと出てきて元気よく告げた。 「私は孫尚香よ!策兄様と権兄様の妹なの。尚香って呼んで!よろしくね、!」 言い終わるが早いか、尚香と名乗った彼女がこれまた元気よくその右手を差し出す。 私は、その手に一度視線を落としてから、それを握り返した。 彼女の後ろで状況を理解できていない孫権さんが黄蓋さんに何やら聞いているのが視界に入るが、とりあえず今は彼女だ。 「こちらこそ。よろしく、お願いします。尚香さん」 「違う違う!尚香よ!尚香!もう、ったら堅苦しいわ!そんな他人行儀で呼ばないで!敬語もなし!折角知り合ったんだもの。私それが、すっごく嬉しいのよ!歳が近い女の子同士、仲良くしましょ!ね!」 と、姫様それは少々…、なんて釘を差している周瑜さんや程普さんをそっちのけで、私の手を握ったままぶんぶん振る彼女にどうしたものかと一瞬脳内で考えるが、即座にどうしようもないと答えが出る。 この、まるで嵐のような彼女に多分、何を言っても無駄だろう。 だってもう、誰も彼女にそれ以上の釘を刺せないでいるし、何より彼女自身がその忠告に全く動じていないどころか、聞いてもいないんだから。 周瑜さんと程普さんをちらりと見る。 難しそうな顔をして、額に手を当てていた。 つまり、お手上げってやつね、と…我ながら大概なことを思う。 同時に彼女に対して疑問も湧いた。 今の所、自己紹介のみで、なぜここまでぐいぐい来るのか、と。 彼女の言う通り、単純に嬉しい、にしても何故そこまで?って、どうしても思ってしまう。 だって、本当にそう思っているなら、もしいつか、その日が来たら…――彼女はどうするというのだろう。 どちらにせよ、今の立場上、あまり仲良くするのも呼び捨てにするのも本来は避けたい。 が、回避も愈々難しそうだ。 なら、ひとまず今は流されるしか無い、か――。 「ええと、分かった…その言葉に甘えて、尚香って呼ばせてもらうわ。でも多分、私と尚香とは大分歳が離れてると思うの……、すごく言いにくいんだけど」 「え?」 「いくつなんだよ」 と、尚香が声を上げたのと同時、孫策さんが言った。 孫権さんと他数人がすかさずツッコミを入れているが、本人に気にした様子もない。 私はデジャヴを思い出しつつ、スルーしても良かった話題に突っ込んでしまった自分の言動を内心、反省した。 話が遅々として、進まない。 単刀直入に、答える。 「多分、尚香よりも15以上」 瞬間、空気が明らかに変わったのが分かった。 動じていないのは程普さんぐらいだった。 頭が切れると名高い周瑜さんですら、何度か目を瞬かせている。 我ながら、面倒な話題を提供してしまった、と何度も思う。 まあ、でもやってしまったことはどうしようもない。 仕事で必要な程度、距離を縮めるには手っ取り早い方法だ…と信じよう。 そうだと、信じたい…。 気を取り直して、私は誰に―とはいえ、主に尚香に―ともなく付け加えた。 「念のために弁明しておくけど…、別に私のほうが歳が上だからどうの、っていうことが言いたいんじゃないの。何ていうのかな…、若い子と私が同列に見られてしまうのは申し訳がなくて。ただ、それだけよ」 不毛な言い訳、かしら。 なんとも言えない気持ちでとりあえず、笑ってみる。 眉間に少し力が入っているのを自覚して、同時にいつ本題に入るのかなー、と息を吐き出した。 * * * 初めて彼女を目にした時、あまりに似すぎていて不覚にも驚いた。 まだ自分が幼い頃、慕っていた歳の離れた姉に…瓜二つだった。 ――その姉は、我輩が十を数える前に忽然と姿を消した。 少しお転婆なところがあった。 姫様ほどではなかったが、衫の裾を揺らしながら木に登ったりなど、よくしていた。 それでありながら、上品な笑い方をする人だった。 ある日、本当に何の前触れもなく姿を消して、家人があらゆる手を尽くし探したが見つからなかった。 どこか賊にでも捕まって人売にでもあったのだろう。 それでも、痕跡が一切ないことに疑問ばかりが残ったが、しかしそういうことになった。 ずっと慕っていた姉が急に消え、暫く悲しみで沈む日を過ごしたが、それももういつの話か。 それがまさか、今日その記憶がまた呼び起こされる日がくるとは、思ってもいなかった。 ただ、悲しみよりも懐かしさが込み上げた。 笑みを浮かべて話す様子は、まるでそのものだ。 …だが、本人ではない。 恐ろしく似た、別の誰か。 曹操の臣。 今は共に戦う者同士だが、その動向は気にかけておかなければ。 『亡き祖父に瓜二つでございましたので』 姿が見えぬ、と曲阿の砦を出てみれば、夕日に染まりつつある空の下、河岸に腰掛けたその後ろ姿を確認して、同時に先の言葉が脳裏に浮かんだ。 頭のどこかで、他人同士が同時に偶然そんなことを思うなど、あるのだろうかと思う。 まっすぐ、そこへ向かう。 何かを書き留めている様子だった。 「そんなところで、何をしている」 「うわぁあ!!」 余りの驚きように、無意識に眉間が寄る。 振り向き、我輩に気づいた彼女はすぐさま立ち上がり拱手した。 「申し訳ありません、見苦しい所をお見せしました」 「いや、驚かすつもりは無かったが……我輩も詫びよう、すまぬ」 「いえ…、その、お構いなく」 「…ところで、何をしていた」 問い直すと、彼女は顔を上げた後ゆっくりと視線を、長江の流れるどこか向こうへ向けながら、言った。 「潮風の香りが懐かしくて。それにつられて外に出てみたら…、ここから見える景色があまりにも綺麗だったので。つい、写生など…」 言って、振り向いた彼女は苦笑する。 姉の姿が、嫌でも重なる。 内心、頭を振った。 「画を嗜まれると…?」 「自己満足ですが」 「拝見したい」 「……、どうぞ」 紙束を紐でまとめたそれに彼女は視線を落としてから、遠慮がちに我輩へと差し出した。 川風が緩やかに吹いている。 潮風の香りが懐かしい、と言っていたが、それほど潮の香りは強くない。 だが、確かに潮風を感じることは出来る。 彼女の出自を知る前ならこれを懐かしいと思う理由は分からないままだったが、孫策殿が小沛よりの帰路で散々に問い続けたためにその理由の想像もつくし、納得もできた。 受け取ってから、紙束に視線を落とす。 墨の濃淡だけで描かれたそれは、目の前に広がる風景そのものだった。 思わず、息を呑んだ。 「下手くそですよね…、お恥ずかしい」 は、と我に返った。 眉尻を下げ、はにかむように笑う彼女は口元に手を当てている。 いや、と短く返した。 「まるでそこだけ切り取ったかの如く…見事だ」 「…ありがとうございます。……、嬉しいです」 僅かだが言葉を選ぶように言って、彼女は笑みを浮かべた。 まるであの日々、目にし続けた、姉のように。 しかし、違うのだ。 この者は、曹操の臣。 油断ならぬ彼の者の下で、才を揮い、手となり足となり、目となり耳となる、臣。 道中、偶然にも目にすることができた彼女の武は、紛れもなく本物だ。 鏢を操るようだが、身のこなしを見ているとそれだけではないということが直ぐに分かる。 あの曹操が信を置くというのも、頷けた。 それに加え、恐らく彼女の持つ才というのは武、だけではないだろう。 これは、我輩の経験がそう告げている。 ただ姉に似ているというだけで、情を移してはならない。 己の立つ場所を見誤ってはならない。 「しかし、言動には十分気を付けられよ。客将ではあるが、誤解を招くような行動は慎むべきだ。若輩と侮られても、致し方ない」 思っていたより声の調子がきつくなる。 笑みを浮かべたまま、彼女はほんの僅かだけぴたりと止まった。 強く言い過ぎた、と思ったのと同時、今度は微笑を浮かべ、目を細める。 それからゆったりと、頭を下げた。 「ごもっともです。ご忠告に感謝し、以後肝に銘じます」 顔を上げた彼女は、それでも尚、微笑を浮かべていた。 だからといって不快に思うことはない。 皮肉で答えたようには感じられず、我輩の中へすっとその言葉だけが入ってくる。 既に情が移っているからか。 ――否。 それだけは違う、と言える。 ただ、彼女が素直すぎるのだろう。 しかしそれは、若輩故の素直さとは違う。 この者の本質が、既に素直なのだ。 「お二人とも、こんなところにおられましたか」 不意に声がする。 振り返ると、太史慈がこちらへ真っ直ぐ歩んでくる。 数尺先で足を止め、それから言った。 「食事の支度が出来たと、皆でお二人を探していました」 「…もう、そのような刻限か」 空を見上げ、それから相槌を打つと、間髪入れずが驚きの声を漏らした。 つられて視線を向けると、その驚きのままに言う。 「失礼ですが…それだけのお使いを、太史慈さんが…?」 「ははは、俺も最初、孫策殿が来たときは同じことを思いました。ここは、型破りなことが満ち溢れているのです。勿論、いい意味で、ですがね」 「…若輩者め、と言いたいが…孫堅殿もそうであったが故、今は黙っておこう」 「はあ…、なるほど。気候風土も違えばってことなのかしら…」 そう言って口元に手を当て首を傾げた。 さも、不思議そうに。 意外、というべきなのか、このという娘はころころと表情を変える。 姉もよく表情を変える人だったが、それとはどこか違う。 そうだからと言って、普段が無表情だという訳ではない。 無表情ではないのだが、明確に表情を変えるような印象を、暫く抱かなかった。 それは、それを知った今も同じで、だからこそ捉えにくい。 実際、何を考えているのか。 「おや、その画…実にお見事…、そのような特技までお持ちとは、流石は程普殿」 と、不意に太史慈がその顎に手を当て、我輩の手元の紙束を感心した様子で、しかし控えめに覗き込んだ。 我輩はすぐさま、いや、と否定する。 そのまま付け加えた。 「これは我輩ではなくが描いたもの。……お返ししよう」 紙束を開いたまま、返す。 の手元へ戻っていくそれを太史慈が目で追いながら言った。 「ほお、殿は画を嗜まれるのですか。中々に風流ですな」 「いいえ。手持ち無沙汰で始めたことです。あまり良い言葉ばかり並べられると、私も不慣れなため、どう反応したらよいか困ってしまいます。どうか、ご容赦を。…それよりも、皆さんお待ちでしょうから、参りましょう」 言っては、我輩らを促すように行く方向を手で示した。 もちろん、その顔には笑みを浮かべている。 話題を変えたか、と思いながら我輩は、太史慈とを先に歩かせた。 後ろについて歩く。 数歩先の、その後ろ姿でさえ姉と見紛う。 まったく、この齢になってどうしたものか、と目を閉じてみたが、再び開けた先に見えるそれが変わることはない。 警戒を怠ってはならぬと言うに――。 難儀だ、とただ、心中で呟いた。 *** 目の前で、戦…もとい、おかず争奪戦が繰り広げられている。 というか、つまみ食いの阻止…かな? 太史慈さんに案内されてそこへ着くと、尚香が身体を反らすように持つ皿へ孫策さんが手を伸ばしてる場面に出くわした。 同時に二人がこちらを振り向く。 孫策さんが言った。 「お!やっと来たか!!待ちくたびれて先に喰っちまうとこだったぜ」 「もう!策兄様ったら、本当に食意地張ってるんだから…恥ずかしい。…、さ、程普もも座って。勿論、太史慈もね」 そう言って、尚香は手近の席を示した。 けど、そこは上座も上座。 そんなところに座れるわけもない。 一度、気を取り直し、視線だけでぐるっと席を見回す。 大きな長方形のテーブルを囲うように並んだ椅子。 孫策さんが腰かけたその向かって左手の席は二つ空いている。 そして、その左手側に黄蓋さんや韓当さんが固まっているところを見ると、そこにある空席には程普さんがつくだろう。 太史慈さんは既に右手側手前へ着席するところだ。 …ということは、上座…。 けど、そこには2つ空席がある。 私の記憶に間違いがなければ、これで全員の筈だけど、他に誰かいるのかしら。 そう思った丁度、その時だった。 「すみません、皆さん。お待たせしました。片付けに手間取ってしまって」 と、何だか場に不釣り合いなほど可愛らしい声が後方から気配とともにする。 振り向くと、そこにはそれこそ本当に、この場に不釣り合いな美少女が立っていた。 その美少女は、私に焦点を合わせると丁寧すぎるほど丁寧に、そして、しおらしく言った。 「どうも、はじめまして。様…でしたよね?孫策様からお話を伺っております。私は、孫策様の妻で大喬と申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」 「…妻…?奥さん…!?」 と、思わず私は声を上げてしまった。 …まだ、慣れていないことがあったのね、私にも…。 そんなことを思いながら、背中で孫策さんの、よろしくしてやってくれ、という声を聞く。 慎ましく控える彼女は、どこか恥ずかしそうにやや俯いて、もう一度頭を下げた。 そんな姿に、私は内心首を振り、気を取り直して姿勢を正す。 「無礼を致しました。こちらこそ、暫くの間、よろしくお願いします」 ロリコン…という単語が一瞬私の頭によぎったが、どんだけ自分失礼なんだ、と思いながらそれは無かったことにした。 お互いがいいなら、いいじゃない。 大喬さんに促されるまま、空席になっていたそこへ足を運ぶ。 「どうぞ、お掛けください」 と言って示す席は孫策さんの隣…。 いや、奥さんのポジションじゃない?そこ。 絶対、そうよね。 今更いろいろ分からなくなってきたわ。 おさらいしましょう。 今は仕事で出張中。 取引先と会食。 …ときたら、席の位置はおかしくはないか…。 ……なのに、この気まずさは何なの…………!! と、あまり緊張感の欠片もないテーブルをさっと見渡した。 そしてふと、合点する。 そうか、ここ…あまりにも空気がアットホームすぎるんだわ。 戦の同盟相手のところに出向しにきたのに、戦のいの字の欠片も感じないこの空気と、孫策さんと尚香のあまりに近すぎる距離感。 まるで友人の家で集まってホームパーティーでも始めるような、そんな気分。 こいつのせいだわ…。 と。 不意に郭嘉さんの言葉を思い出した。 ここへ来る前、色々詰めてる最中に執務室で二人きりになった時、言われた言葉。 『。承知しているだろうけれど、孫策の軍がどんな軍なのか、よく見ておいてくれないかな』 ついでに言われた言葉はこれ。 『まあ、今は共に戦う同盟者だから、物見遊山のつもりで行っておいで。はそれで、十分だからね』 …相変わらず、訳の分からないことを仰る上司だわ。 内心ため息を吐き出して、私はその席に腰を下ろした。 深く考える方が上手くいかない気がする…、どっちにしろ、この場合。 色々諦めて席に腰を下ろすと、続いて右隣に大喬さんが腰を下ろす。 そして、待ってましたと言わんばかり、孫策さんが立ち上がった。 「よっしゃ!全員揃ったところで、今夜はの歓迎の宴だ!ま、簡単に、だけどな。よろしく頼むぜ、」 「こちらこそ。このような場を設けてくださったことに、お礼を申し上げます。そして、改めて暫しの間、皆々様にもよろしくお願い申し上げます」 席から立ち、社交辞令を口にする。 敢えて戦の事は口にしない。 今はこれでいい。 数秒、間をおいて乾杯の音頭を取った孫策さんに倣い、その場の全員がまた、杯を高く掲げた。 そして、孫策さんが決意表明をしてから、前触れもなく食べ始めたのを皮切りに、そこは団欒の場へと変わる。 賑やかで、どこか華やかさを感じる空気。 仲がいい。 まるで、家族のような仲の良さ。 そう思った。 曹操さんたちとは違う、結束の形だろう。 尚香が私に他愛もない質問をする。 そこに大喬さんが便乗する。 友人同士と談笑をしているのと変わらない、その時間が、一時私の立場を忘れさせる。 戦なんて存在しない、向こうでの時間を過ごしているみたいに錯覚する。 周蘭さん達と過ごしているときと同じように。 不意に呼ばれて、黄蓋さんと韓当さんと程普さんと、杯を交わした。 一気に飲み干して杯を下ろす瞬間に、ふと夏侯惇さんの言葉が蘇る。 『お前自身の勘が鈍る…そういう可能性があるものには初めから近づかぬか、早い内に排除した方がいい』 自分の勘、というものを、信じていないわけじゃないけど、だからといって自惚れもしていない。 ただ――…。 いつか、という日がもし来るなら、私は今日の、この日の事を後悔したりしないだろうか。 その時に割り切れないなら、例え仕事だったとしても、余り距離を詰めない方がいいのだろう。 『先が思いやられますな』 何故か、耳の奥で陳宮のその言葉がこだました。 私には大した知識なんてないし、価値もない。 けど、そこに関して言うのなら…。 「そうね。私もそう思うわ…公台」 「ん?何か申されましたか?殿」 と、黄蓋さんに問い掛けられ、私は空になった杯へ落とした視線を上げた。 私と程普さんに挟まれるように座る黄蓋さんが不思議そうな表情(かお)で私を見ている。 それに釣られてか、程普さんの視線も私に向けられていた。 私は、黄蓋さんに笑みを返して首を横に振る。 「いえ。ただ、水が変わるとやっぱりお酒の味も変わるものなんだな、と改めて感じてしまって」 「ほほう。いける口じゃのう。そういうことなら、もう一杯といこうではないか」 上機嫌で言いながら、酒瓶を手にする黄蓋さんへ程普さんが程々にしておけ、と釘を刺す。 ふと空を見上げると明るさだけを僅かに残した宵空に、星がいくつも瞬いていた。 『あなたの記憶に留まるなら、留まるなら…まあ、よしとしましょう』 『名前以外、とおっしゃいましたか』 私は既に知っていたはず。 もし忘れていなかったら、私は、今の同じ立場で”仕事”をすることを選ばなかっただろうか。 『わしはここが好きだ』 『私はここが好きです』 ――選ばない、はずがない。 私のことだ、きっと同じ選択をしただろう。 ならば、私は私のなすべきことを。 「景気づけに、もう一杯、お願いします」 視線を戻す。 やるなあ、という韓当さんの呟きを背で聞きつつ、少し驚いた様子の黄蓋さんと程普さんに、私はもう一度、空の杯を差し出しながら笑みを向けた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 相手が于禁か満寵って割りに、この二人があまり出てこない件… 注意書きにも書きましたが、程普の家族設定とかねつ造です そして迷走しているのは通常仕様です 2019.11.03 ![]() |
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