よくいる女人となんら変わりはない その強さは私の知っている強さではない まるで、幻のような 人間万事塞翁馬 90 曹操殿のもとに降り、十数日が経った。 時が過ぎるのは早いが、環境に慣れたかと問われればまだまだ、といったところだろう。 呂布殿のもとにいた兵の殆どは私と同じように、今は曹操軍に属している。 彼らもまた自分と同じであろうし、聞けば矢張り、周囲からの風当たりが強いと聞く。 表立って目にすることはないが、影では違うということだ。 仕方がない、といえば、仕方がない。 それでも、そういう者が規律を乱すのだと言って厳しく目を光らせている于禁殿をはじめ、表向きは穏やかだがさり気なく周囲を律している夏侯淵殿や、曹仁殿を見ていると、皆が皆そういう者ばかりではないのだと安堵できた。 呂布殿のもとにいた兵の全てが、自ら望んで従っていたわけではないことも重々承知している。 だからこそ、曹操軍の兵と同じように見てくれる者がいる、ということが何よりの救いだった。 そしてまた、玲綺殿のことも然り。 監視下にあり軟禁という形に近いが、許昌の外れの邸で不自由なく過ごされていると聞いている。 具体的にどのように過ごされているかは知らないが、それを聞いた時は安堵した。 捕虜となり、呂布殿が亡くなったと知らされた時は一騒動あったと聞いていたが、とりあえずの落ち着きを取り戻したのであれば、何よりだ。 勝手かもしれぬが、玲綺殿には生きていて欲しいと思う。 呂布殿は玲綺殿が戦われることを望んではおられなかった。 こういう形で戦場から離れることを玲綺殿が望まれているとは到底思えないが、それでも彼女がご自分で道を見出して歩まれることを願っている。 ――私を恨んでいるだろうか。 ふとそう思う時があるが、彼女がもし何らかの形で再び得物を手にする時が来たとしても、その選択は認めたいと思う。 「ここ、空いてますか?」 不意に降ってきた声で我に返る。 視界には、手元に飯と惣菜をそれぞれのせた皿が二つ。 今は昼餉の最中で、調練棟に併設された食堂にいたのだった、と少し冷めただろうそれに焦点を合わせた。 視線を上げずに、一言、短く答える。 自分の座っている席は四人掛けだが、他に掛ける者はいない。 食堂の席は殆ど埋まっているが、自分が座るここだけは、埋まらないのだ。 その理由は分かっていたが、いちいち気にするほどのことでもなく、逆に変な気も遣わなくて済むのでこれはこれでいいかと思っていた。 何となく、右手側の壁を一瞥して手元の皿に筷(はし)をつける。 左前方、筷置きの向こうに二つ、皿が増えた。 「相席失礼しますね…って、あれ?」 女人の声だ、と思って顔を上げる。 視線の先には思いがけない人の、驚いたような顔。 「張遼さん、ですよね?上取ってらっしゃるから、どなたかと思っちゃいました」 と彼女自身の頭を指しながら、殿が笑みを浮かべた。 そしてそこへ、何の躊躇いもなく腰を下ろす。 …確か彼女は宮城(しろ)勤めだった筈だ。 それを知ったのは、許昌(ここ)へ到着した晩の宴席でのことだった。 そのとき余りの衝撃に、不覚にも一瞬、思考が停止した。 まるで昨夜あった出来事のように、その時のことは鮮明に覚えている。 あれだけの武を持っていれば当然、将かと思っていたが、違うという。 そして、彼女に対し不覚だと思ったのは、あれで二度目。 我ながら全く情けない話だ、と内心呆れてしまう。 「…私の顔に、何かついてますか?」 我に返る。 どうやらぼうっとしていたようだ。 しかも、殿に顔を向けたまま。 殿が困惑したような表情でこちらを見ている。 慌てて首を振る。 「いや。これは、失礼いたしました。その……殿は宮城勤めと聞いておりました故、かような所でお会いするとは…」 何か言わねばと思い、そう言ってはみたものの他に何か無かったのかと再び内心呆れた。 しかし、殿は気にした様子もなく困惑の色をおさめると笑みを浮かべる。 そして言った。 「ああ、そういうことですか。ええ、まあそうなんですけど…今旬いっぱいはこちらでの仕事がメインなんです」 聞き慣れぬ言葉に一瞬眉を顰めれば、直後殿が言い直す。 「主なんです。…ごめんなさい、うっかりすると直ぐ横文字使う癖が抜けなくて」 「はあ…、横文字、ですか」 そう返すと、再び殿は眉尻を下げた。 「ええと、そうです、横文字…。んー…、また機会があったらゆっくりお話しますね。それより、私と張遼さんはこれが初対面じゃないんですから、そんなに改まらないで下さい」 言って尚笑み続ける。 周囲には当然、個々の会話が飛び交っていたが、その内容は耳に入ってこない。 ただの雑音と同じだが、それとは別にいくつかの視線がここ―今は主に殿に向けて、のようだ―に集中しているのは分かる。 誰の、どんな意図を含んだ視線かは分からぬが、私は気にせず殿に返した。 「さようか。…そうおっしゃるのであれば、遠慮なく、そうさせていただこう」 「そうして下さい。何だか、こそばゆくて落ち着かないから」 はにかむその表情に、初めて対した時の表情が重なる。 やはり同一人物だとは思えなかった。 同時に、呂布殿の首が落ちる瞬間が脳裏に浮かんだ。 ぴんと張る空気、美しいとすら感じたその刃筋。 そこに一切の躊躇いはなく、厳粛なその場から去るその一瞬に見えた瞳は、背筋が凍りつくほど鋭く冷たかった。 それは対したときの比ではなく、全てを跳ね除け近づけられぬと思わせる、一種の恐怖を感じた程だ。 ――そう、あれは恐怖だったと思う。 それほどに強い、何かを感じた。 だが、今目の前にいる彼女は違う。 人好きのする笑みを浮かべている。 本当に、同じ人物だろうか。 何が、彼女にあのような強さを与えるのだろう。 俄に、殿が胸の前で手を合わせた。 下邳で見たものと似ているようだが、それが違うと感じるのは、纏う空気が違うからか。 「いただきます」 そう言って軽く頭を下げる仕草をすると、筷置きから一膳筷をとり黙々と食べ始めた。 余りの速さに思わず呆気にとられる。 所作は美しく育ちの良さすら感じられるというのに、食べ進める速さは普通ではない。 みるみるうちに皿は空になり、あっという間に終わってしまった。 自分の手元の皿にはまだ半分も飯がのっている。 視線を上げると同時に、殿が筷を置き再び手を合わせ言った。 「ごちそうさまでした」 その一部始終の行動は不可思議の一言に尽きるが、彼女の食事の早さに比べれば今は後者の方が勝る。 不意に殿が言った。 「急いでいるので、お先に失礼しますね。今度また、ゆっくりお話させて下さい。では」 相槌を打つ間もなく、空の皿二枚と筷を持って彼女は去って行った。 疑問に思っていた一つも、聞けずに終わった―彼女がここにいる理由だけは聞くことが出来たが―。 どちらにせよ、自分もここに長居するわけにも行かないか、と視線を一度落とす。 飯を見てから口へ運んだ。 思ったとおり、それは冷めていた。 * * * * * * * * * * ――春分。 偶には市井を見物してみてもいいか、と休暇のその日、あてもなく街を歩く。 よく晴れた空、風はない。 遠くの山々には、白や黄、淡桃といった色が所々を染め華やかなこの季節を彩っている。 ほのかな甘い香りが漂うのも、この季節ならではだろう。 人混みに疲れ、それを避けるように歩いていると開けた場所に出た。 人影は疎らだが、子供の姿が目立つ。 そこでふと、数人の子供が塊になっているのが目に入る。 椅子に腰掛けた一人を中心に集まっているようだ。 その一人は背を向けていて顔は見えない。 青年のようにも見えるし、少年のようにも見える。 何故かそれが気になって、遠巻きに数丈―十数メートル―ほどの距離まで近づいた。 子供たちは、その手元を覗くようにしているようだ。 不意にその人物が頭を上げると、暫くして何かがその手元から飛び上がった。 そして、垂直に数尺―数十センチ―飛び上がったそれは、再びその手元に落ちる。 その人物が一人の子供に手の中のそれを差し出しながら言った。 「はい、直ったわよ」 その聞き覚えのある声に驚いたのと同時、一人の男児が私の前まで来ると前触れもなく私の手を取りそして声を張り上げる。 「おねえちゃん!この人も竹とんぼ欲しいって!」 「ま、待て…私は…」 「この人?」 声が重なり、その人物がこちらを振り向く。 同時に目を丸くして言った。 「張遼さん…!?」 「あ、いや…」 どう答えたものかと思っていると、直後殿は破顔してから男児に視線を移した。 「そうね、順番でね。気づいて連れてきてくれたのね。偉い偉い」 言いながら、その男児の頭を二度、撫でた。 嬉しそうにしているその男児の顔を見る。 何故か、そのまま去るのは気が引けた。 仕方なく、そこに留まることにした私は、子供たちがするのと同じ様に殿の手元を横目で観察する。 竹細工を作っているようだった。 先程のことを思い出すと、子供の玩具か。 竹とんぼ、と目の前の男児は言っていたが、見たことのないものだ。 慣れた手付きで器用に削り出していく様を見ていると、なるほど、子供でなくとも飽きはしない。 それほど短い時間ではなかったはずだが、あっという間に出来あがったそれを数回飛ばして調整したのち、殿はあの、私の手を引いた男児に差し出し言った。 「はい、出来上がり。飛ばす時は人の居ない所で飛ばすのよ」 「分かってる!ありがとう!」 言うが早いか、男児はそれを手に駆け出す。 それにつられて、周囲にいた子供たちも後を追って駆けていった。 その姿を見ていると、思わず表情が緩む。 不意に殿が言った。 「どこにいても、子供の無邪気さっていうのは変わらない。いいことだわ」 「…左様ですな」 殿の、笑みを浮かべた横顔を一瞥してから相槌を打つ。 一拍ほど置いてから、殿が私を見上げる。 「どうしますか?竹とんぼ。あと一本分なら作れますよ」 にっこりと笑う殿に、一瞬面食らう。 ほんの僅か考えて答えた。 「ならば、お願いいたす」 「はい」 そう答えてから、懐から出した小さな冊に小刀を当てる。 軽快に削り出していくその手元を見つめる表情はただ楽しそうで、やはりふと浮かぶ戦場でのあの姿を頭の中で並べると、それが同じ人物だとは思えない。 そしてまた、そんなことを考えている自分にはたと気付き、内心首を振る。 何が自分の感じたあの強さの元になっているのだと思うと、出先で彼女を見かける度そう思ってしまうのだが、ここ最近はそんな自分の考えが彼女に対して些か失礼ではないだろうか、と感じ始めていた。 特に、戦場での姿とはかけ離れた、戦と程遠いそんな姿を見ると強く、そう思う。 「これ、私が育った所の子供の玩具なんです」 不意に声をかけられ、はたと我に返る。 視線を落とすも、殿は手元から視線を外していない。 尚、手を動かしながら続ける。 「私も小さい頃は夢中になって飛ばしましたけど、ここでは珍しいこともあって、あの子たち本当にハマってしまったみたい」 「無理もありませんな。私も初めて目にします」 「なら、張遼さんも飛ばして遊びますか?」 「いや、私は…」 問われて思わず言葉に詰まる。 殿が顔を上げた。 「冗談ですよ」 嫌味のない笑みが私を見上げている。 即答できなかった自分に恥ずかしさを覚えた。 一度咳払いをして視線を戻すと、殿はまた手元を見ながら小刀を動かしている。 迷いのない手つきを見ながら言った。 「慣れておられるのですな」 「散々、祖父の横について教えてもらいましたから。遊び方も作り方も」 「なるほど。…そういえば、殿が育った所、というのは…」 「東の、海を渡った先にある島国です」 「…海を渡った先…、それはまた、遠い所から…」 自分から問いかけたが、なんと答えればよいか返答に困る。 なぜそのような所から、と新たに疑問も湧いたが果たして聞いて良いものか、それもまた疑問だった。 ただ、殿の横顔からは何かを気にした様子はなく、微笑を浮かべ黙々と手を動かしている。 流されて来たのだろうか? 視線を逸らし、天を仰ぐ。 白い雲が、ゆっくりと空を流れている。 不意に視界の端、目線の高さほどまで竹とんぼが舞い上がった。 視線を落とすと同時、殿と目が合う。 殿が竹とんぼを差し出し言った。 「はい、出来ましたよ」 無言でそれを受け取り、軸を指で転がしながら何とはなしに、それを見つめる。 中央は肉厚で、羽の縁は薄いが薄すぎる、ということもない。 左右対称の、整った形。 ぱっと見る限り、狂いもない。 器用だ。 すっと、殿が立ち上がり両手を組んで天上へ腕を伸ばした。 徐に腕を下ろすその様を目で追い、再び手元の竹とんぼに視線を戻す。 「ところで、張遼さん。このあと…」 何かを言いかけた彼女が不自然に言葉を止めた。 殿を見ると、視線を別の方向へ向けている。 つられてそちらを見れば、自分と同じように平服姿の李典殿が視界に入った。 まっすぐにこちらへ向かってくるその表情はいつになく険しい。 彼は、大抵このような表情をしていることが多い。 いや、私がその視界に入っている時、というべきか。 その理由は知っている。 殿へ視線を戻す。 彼女の表情はさも不思議そうなそれで、目を丸くしているその姿は彼とは対照的だ。 彼の事情を殿が全く知らぬということはないだろうが、今彼女は何を思っているのだろう。 間もなく、李典殿が殿の数尺手前で立ち止まる。 そして、素早く彼女の手を掴んでそこを去って行った。 私にその視線を向けることは僅かばかりもなかった。 殿は言葉にならない言葉を発して、彼に腕を引かれていく。 僅かに振り向いたその折に、困った様子で苦笑いを浮かべながら、申し訳なさそうに空いている手を控えめにあげた。 一人残った私は、小さくなっていく二人の姿を見送り、そこに立つ。 建物の影に消えてから数拍のち、手元の竹とんぼに視線を落とした。 「…何を言いかけたのだろうか」 今一度視線を上げるも、その人は居ない。 ころころと変わる彼女の表情がいくつも脳裏に浮かんでは消える。 不思議な人だ、と己の声が耳に届く。 思わず呟いてしまった自分に自嘲して、息をふっと吐き出した。 つづく⇒(次はギャグ回ですが、虫の表現が少しでも駄目な方はご注意ください) ぼやき(反転してください) 既にご存知かと思いますが、張虎氏の存在は華麗にスルーします 竹とんぼの原型はこの時にはなかった筈なので、無かったことにしてください← 2019.07.10 ![]() |
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