人間万事塞翁馬 89 3人の足音が遠ざかっていくのを、何となく背中で聞く。 関羽さんが言っていたこと、劉備さんがいいかけたこと、頭の中で思い出して一瞬思考が止まった。 何故か頭が全然働かない。 目を瞑って一度、頭を振った。 左前方、2,3歩先を歩く夏侯惇さんをちらりと見てから、後ろについて歩き続ける。 暫く無言のまま歩いて、右手側の石壁の開口へ何気なく視線をやった。 「」 唐突に呼ばれて視線をそちらへ向ける。 夏侯惇さんが立ち止まってこちらを見ている。 私もまた歩を止めて視線を上げた。 「あまりやつらと関わるな。あいつらと俺たちは相容れん。お前も以前、そう言っていただろう」 「はい。確かに、そう言いました」 「ならば、尚のこと関わるな」 そう言って、夏侯惇さんはまた私に背を向けて歩きだした。 数秒、その背を見つめる。 気づくと距離ができている。 慌てて駆け足でその後を追って、さっきと同じぐらいの距離まで詰めた。 ――以前っていうのは、劉備さん達が私の家へ来たあとのいつだったか、曹操さんのところに用事があって行った時のことだ。 夏侯惇さんが同じようなことを、曹操さんにも言っている所に出くわして、それで唐突に聞かれたのよね。 お前はどう思うかって。 だから、率直にそのとおりだと返した。 もしかして…そう言ったにも関わらず、普通に話をしてるから気に入らない、優柔不断だ…っていうことが言いたいのかしら? 夏侯惇さん、白黒きっちり決めたいタイプだものね。 そんなことをふと思った時、歩きながら夏侯惇さんが言った。 「…お前が、辛くなるだけだ」 思わず視線を上げた。 そういうことを口にされるとは思っていなかった。 ちらりと見える夏侯惇さんの表情はいつもと変わらない。 こちらを見向きもせずに、まっすぐ前を見たまま。 ふっと、予期せず顔が緩んだ。 「お気遣い、感謝します」 そう伝えると、夏侯惇さんは一度こちらを見てから、すぐに前を向いてしまう。 そして、正面を向いたまま、少しだけ声を大きくして言った。 「勘違いするな。お前は頭が切れるが、誰にでも気を許しすぎるきらいがある。それが元で策が鈍っては目も当てられん。これから更に、お前のそれを孟徳たちはあてにするだろう。ならば、お前自身の勘が鈍る…そういう可能性があるものには初めから近づかぬか、早い内に排除した方がいい。………そういうことが言いたかっただけで、お前を気遣ったわけではない」 思わず私は、足を止めていた。 それに気づいた夏侯惇さんが足を止め、こちらを振り向く。 訝しげな表情で、なんだ、と暗に言っている。 何となくまた、口元が緩んだ。 「…それでも、感謝します。ご忠告は、感謝とともに肝に銘じます」 「……感謝されるようなことを言った覚えはないが…、まあいい。それは、好きにしろ」 「はい」 「……まったく。孟徳といい、お前といい…」 夏侯惇さんは呆れた様子で額に手をあてた後、一度大きな溜め息を吐いた。 それからまた歩きだすその背中を私は追う。 数メートル行ったところで、ふと視界の端に見知った色が入って、私は足を止めた。 真横の開口からその方向を見る。 郭嘉さんと賈詡さんが向き合って、何か話をしているようだった。 時間にして数秒。 目が離せず見ていると、私に気づいたらしい郭嘉さんが顔を上げて控えめに手を振っている。 振り返す気にはならなかった。 遠目に見ても、いつもの表情(かお)だ。 遅れて、賈詡さんが振り向く。 目が合うと直ぐ、片手を軽く上げた。 それには会釈だけ返す。 あんな所で、何してるんだろう。 …なんてことを考えた矢先。 「、何をしている。置いていくぞ」 「はい、すみません。今行きます」 立ち止まって顔だけこちらに向ける夏侯惇さんに、私は声を上げた。 私が歩き始めるのを確認して、すぐに夏侯惇さんがまた進み始める。 暫く無言で後を追った。 そして数分後、私を呼びに来た兵卒さんに呼び止められた私は、そこで初めて、曹操さんにまだ呼ばれていなかったことを知った。 思わず夏侯惇さんの顔を見たけど、しれっと兵卒さんを労って何事もなかったようにまた先を歩き始める。 そしてまた、私はその背中を追って小走りでついて行くのだった。 * * * 下邳を出立し、許昌へ戻ってきた俺達は、その日の内に凱旋の宴を催した。 その宴が始まってから大分時が経っている。 席を立つ者も多く、空席も目立つ。 そんな中、最も人を集めている者といえば、だろう。 席には居ないが、今は淵に引っ張られ、曹仁と曹休の席近くにいる。 あいつの居るところには代わる代わる、必ず人がいるようだ。 そしてさっきからずっと、その引っ切り無しに注がれる酒を全て飲み干している。 普段より幾分、紅潮しているようだが、ほとんど顔色に変化なし、といったところか。 今に始まったことではないが…、あやつ大丈夫だろうな…。 と、自分の杯に口をつけた時だった。 「がそんなに気になるか。優しい夏侯将軍」 思わず眉間に力が入る。 ふと上座に目をやると、そこに席の主は居ない。 視線を戻しながら真横の気配に俺は杯を下ろし言った。 「何度同じことを言わせる気だ…いい加減にしろ、孟徳」 「釣れんことを言うな。たまにはわしの期待に答えてくれてもよかろう」 「義理はない」 横に座る気配にそういい捨てて、杯を煽る。 その席は淵のものだったが、先のとおり、今は居ない。 女官が注ぎにきた酒を受けながら、横目でちらりと隣を盗み見ると、孟徳は先までの俺と同じようにのいる方をじっと見ているようだった。 お前も同じではないか、と口を開きかけた時、孟徳が視線を外さずに言った。 「のやつ…、やはり何か変わったか…いや、吹っ切れた、と言うべきか」 「…、…どういうことだ」 「言葉のままよ。…、まあ、それも良かろう」 表情の読めぬ顔をして、口角をあげる。 その腹の中は、やはり読めない。 だが、この大衆の前で問いただすことでも無いか、と俺は酒で満たされた杯を口につけた。 辺りに視線を巡らす。 上座に居たはずの郭嘉がいない。 大方女官でも連れて外に出たか。 同じく、賈詡の姿もなかった。 もう一度ざっと辺りを見渡したが、凱旋の宴とあって空席こそ目立つが諸官ごった返している。 各々が席に大人しくしていない時点で見通しが悪い。 となれば、こっちも大方、これを利用し誰かをからかいにでも立っているのだろう。 懲りん奴らだ、とまた一口酒を飲む。 荀ケ、荀攸は変わらんし、許褚も相変わらず食ってばかりだ。 于禁の姿はないし、徐晃は李典、楽進と並んで満寵の話を聞き続けている。 一度、息を吐き出した。 それからふと、末席の張遼が視界に入る。 その周囲には、誰も近づいていない様子だった。 無理もないか、ともう一度息を吐き出してから、俺は女官を呼んで酒瓶を受け取った。 俄かに、孟徳が言う。 「なんだ、おぬしまでどこぞに行くのか」 「ああ。張遼のところにな」 「張遼か…」 言って、孟徳が張遼へと視線を向ける。 杯を口につけてから続けた。 「あのような将を得られたのは実に良い……、だが、李典と少し話をせねばならぬか」 「それは、お前の役目だ。そういう役、嫌いではないだろう?」 言いながら酒瓶を手に立ち上がる。 孟徳が俺に視線を上げ、目を細めた。 「好き嫌いの問題ではなかろう」 「そうだったか?まあ、お前もあまり無茶はするなよ」 「なんだ。わしも気遣ってくれるのか…優しいのう、夏侯将軍は」 それを背中で聞きながら、一度振り返る。 「ふん、言っておけ。何度言われようと期待に答えるつもりはない」 肩をすくめる孟徳を一瞥した。 少し飲み過ぎたか、と思いながら俺は、張遼の座る席を目指す。 やはりそこに近づくにつれ、人影が疎らになる。 程なくその席に辿りつくと張遼が俺に気づき、視線を上げた。 立ち上がろうとするそれを制し、張遼に言った。 「どうだ、やっているか?」 「…はい」 僅かに間をあけて答えた張遼の言葉を確認して、その正面を外し腰を下ろす。 「とりあえず、飲め」 「は…、頂戴いたします」 言って、張遼が酒を受ける。 その顔を盗み見てからその杯に視線を落とした。 「そう堅くなるな…と、言われても難しいか。まあ、直に慣れよう」 注ぎ終わると、張遼はそれを押しいただいてから飲み干す。 俺はといえば、丁度傍を通った女官に新たに杯を頼んだ。 然程の間を置かずその杯を受け取るのと、張遼が杯を下ろしたのはほぼ同時。 再度、その杯に酒を注ぎ、自分の手の中の杯にも酒を注ぐ。 お互い、少しだけそれを掲げ、口をつけた。 杯を下ろす。 ふと視線を上げると、張遼が一度、俺の左手側に視線を向けてから直ぐ、その逆方向へ視線をそらしたのが視界に入る。 何かと思い、その方向を見ると、そこには淵たちと笑い合うの姿があった。 張遼に視線を戻し言う。 「…そういえば、お前はに負けたのであったな。そんなに強かったか?は」 「お強い」 間髪入れず、俺を見ながらそう答えた張遼は、杯を手にしたままへ徐ろに視線を移した。 そして続ける。 「あの方は、本当にお強い。…あのような強さを持っている者と対したのは、初めてです」 色んな捉え方の出来る言い方だ、と思った。 ただ、呂布のような強さを指して強い、と言っているわけではない事だけは分かった。 それは自分もよく知っていることだ。 から視線を外さぬ張遼を、暫し見る。 「気になるか?」 「はい。なぜ、あのような強さをお持ちなのか」 「そうか。ならば、俺から伝えられることは一つだけだ」 張遼が俺を見る。 目が合ってから言った。 「生半可な覚悟で知ろうと思わぬことだ」 「…、失礼ながら…それは、どういう…」 「なに、あいつと関わりを持てば、そのうち分かる」 無言の張遼をそのままに、俺は杯に口をつけた。 横目で自分の席の方向を盗み見る。 まだ孟徳がそこにいる。 珍しく一人で大人しくしていると思ったが、表情(かお)を見ると何か良からぬことを企んでいるようだ。 面倒な遊戯を思いつかれる前に一旦戻った方が良いか。 そう思いつつ杯を下ろした。 張遼を今一度見る。 「すまん。来たばかりだが、一人にさせると厄介な奴がいるのでな…俺は戻ろう。邪魔をした」 「そのようなことは…。お心遣い、感謝いたします」 言って頭を下げる張遼に俺は思わず、お前もか、と言いそうになるのを寸でのところで飲み込んだ。 一言相槌だけ返し、立ち上がる。 杯を手に、張遼へ背を向けたところで、ふと思い出し振り返った。 疑問をぶつけるような視線で俺を見上げる張遼に言う。 「一つ言い忘れていた。は異国出身だ。俺達と違うことをしたりするが、あまり驚かぬことだ。…そうでなくともキリがない」 言い終わってから、再び背を向けた。 視界にの姿が入る。 周囲と溶け込んでいる。 それはもう、前からそうであるはずなのに、何故いままたそんなことを思ったのか疑問が頭を過ぎったが、視界の端の孟徳の表情(かお)に今はそれを考える時ではない、と俺は普段より幾分広い歩幅でそこを目指した。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 4月中に書き終わらせていたのがあったのをすっかり忘れていたという 勢いで書き始めた部分をまとめ直したい衝動に駆られますが ひとまず完結させることを目標に見て見ぬふりをします 恥さらし 2019.06.16 ![]() |
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