人間万事塞翁馬 88 「さらばだ呂布よ。最強の武を誇りながら、この下邳に果てるがいい。……だが、その前に」 そう、曹操殿は唐突に、一度言葉を区切った。 俺は、先ほどから気づいていた気配に、ふと背後へ視線を向けそれから曹操殿に視線を戻す。 今、目の前には捕えられた呂布が往生際悪く喚いている。 その横、少し離れたそこで、同じく後ろ手に控える張遼とは、まるで大違いだ。 呂布の向こう側には、向かって左から楽進殿、夏侯惇殿、李典殿、そして于禁殿が立っている。 そして、俺の左手側には劉備が、その少し後ろに荀ケ殿や荀攸殿の姿もあった。 防衛の任を任せた曹仁殿と満寵殿は例外だが、ここにはこの下邳攻めに参戦した、ほぼ全ての、主だった将が顔を揃えている。 皆、一様に険しい顔をして呂布に視線を注いでいた。 いつもと然程表情に変わりがないのは、俺たち軍師ぐらいか。 ただそこに、の姿はない。 曹操殿が言った。 「おぬしに会いたいと言っている者がおってな。あとのことはその者に任せておる」 「…この俺に、会いたいだと?」 「さよう」 短く答えてから、曹操殿は視線を正面に向けたまま言った。 「もう、そこにおるのであろう?出てきて良いぞ、」 そう呼ばわって、そしてそれに応じるようにが内城(しろ)の中から姿を現した。 劉備の驚いたような顔が視界に入る。 雪がしんしんと降る静けさの中、の足音だけが耳に届いた。 目に映るその表情は、いつもどおり。 その口元には微笑すら浮かべて、これから行われるであろうことを考えれば、まるで正反対の表情をしている。 どこか清々しさすら感じられるその顔を見ながら、俺は数歩後退した。 そして間もなく、俺が立っていたその付近でが足を止める。 俺に軽く会釈をして、それから呂布に視線を移し、ほんの僅かな時間じっとそれを見つめた後、曹操殿に視線を移してから言った。 「曹操さん。少し、彼と話をしてもいいでしょうか?」 「構わぬ。そなたの好きにすればよい。こちらの話は、もう終わっていることだしな」 「…感謝します」 そう言って、ふっと笑うとが呂布の前へと進み出る。 足を止め、そして、ごく明るい声音でが言った。 「ご無沙汰しております。ご機嫌麗しく」 「誰だ、貴様は」 「あら、私にお土産までくださったのに、覚えてらっしゃらない?それならこれで、思い出せるかしら」 言うや、は唐突に、結い上げていた髪の紐を躊躇いなく引いた。 無造作に髪を手で梳いて、それから一度首を振る。 風は吹いていない。 呂布が、あからさまに眉根を寄せた。 「貴様は……、…思い出したぞ。確か陳宮がやけにこだわっていた小娘だな」 「思い出してくれてよかった。お土産お返しするのに、思い出してもらえなかったらどうしようかと」 は胸に手を当て言った後、髪紐を懐に仕舞いながら代わりに一本の竹の棒を出した。 そして、それを使って無造作に、髪を高い位置で器用に結い上げる。 を見上げ、呂布が言った。 「それでお前は、俺に何の用だ」 「…そうね。ざっくり言うとお土産お返ししたいってところかしら。……でもね、それも実を言うとどうしようか、ついさっきまで迷っていたし、元々こうして話をする気もさらさらなかったのよ。ただ、今までのことは飲み込んで黙って送ろうと思ってた」 「送る、だと?」 「そう。だけどさっき、陳宮さんと話をして、気が変わったわ。やることはちゃんとやってから送らないと、私だって聖人君子じゃないから、やっぱり気が済まないし。あなたの言葉をしっかり聞いてからじゃないと、心から敬意を表することなんてできないって」 「敬意を表する?貴様、一体何を言っている」 それは、俺も同じだった。 は一体、何に敬意を表すると? あの呂布のどこに、そんなものがある。 ただの皮肉、か? だとするなら、も中々やるね。 それとは別に、陳宮に敬称をつけたことも疑問だった。 そのとき、が唐突に、膝を抱えるようにその場に屈む。 呂布と視線を合わせるようにして、言った。 「そう。けど、それを話す前に、まずはお土産、熨斗付きでお返しするわ。どうぞ、納めて頂戴」 言って、は呂布が跪くその膝の前に、懐から出したそれほど大きくはない布包みから、更に包み紙を取り出して置いた。 俺の位置からははっきり見えないが、それのどこかをは指差しながら言う。 「私の国の作法だから簡単に説明するわね。…これが熨斗。普通はお祝い事とかの進物に添えるものよ。こっちは水引。そして…」 続いてはその紙包みを開いて、言った。 「お土産は、特注した三途の川の渡り賃…六文銭。これも、私の国の通貨よ。昔の、だけどね。まあ、これで無事に川を渡って頂戴。ここも、あの世が同じなのか知らないし、あの世があるのかも知らないけど」 「貴様…ふざけるな、小娘が!この俺を馬鹿にするつもりか!」 その時、同時に小気味のいい音が辺りに響いた。 が、呂布の頬を平手で打った音だった。 思わず呆気にとられ凝視する。 他の者も、ほぼ、同じような顔をしていた。 が言う。 「馬鹿にしないで。先に馬鹿にしたのはあなたの方よ。自分がしたことには責任を持ちなさい」 俄かに、呂布の雷のような雄叫びが耳を劈く。 呂布がに向かって吠えた。 「小娘!絶対にゆるさんぞ!なぜ俺が、こんな目に合わなければならん!!」 「それはこっちの台詞よ。なんで私がこんな目に合わなきゃならないの?あなたに殴られたとき、そんなこと思う余裕すらなかったけど、多分その余裕があったら私もそう、思っていたわ。無防備な小娘に、追討ちをかけるなんて本当、最低よ」 その話を、俺は知らない。 の声は、何かが吹っ切れたようにも聞こえるし、どこか他人事のようにも聞こえる。 言えるのは、呂布と違って冷静だということだ。 流石にそれは分かっているのか、はたまた単純に言い返せないだけか、呂布は唸りながらも黙る。 だが、明らかな殺気を放っていた。 誰一人、言葉を発しない。 兵たちに至っては、呂布の迫力に圧されて完全に引け腰になっていた。 が呂布と正面で視線を交わしたまま、言う。 「許せないものは、絶対に許せない性分なの。ごめんなさいね。…性格が悪いのは自分でも承知しているわ、許してくれなくて結構よ」 言い終わると、その場に立ちあがって呂布の真横には立った。 まだ身体を揺らす呂布を足元に、が口を開く。 「だけど、あなたには感謝もしているの。何も知らなかった私に、教えてくれた……、ここでの生き方を、少しだけ、ね」 「ぐ…、う……小賢しい減らず口を!」 「小賢しいの結構、減らず口結構。どう思うかは別として、伝えておくわね。…あなたが、あなたの人生、魂…、全てをかけて最強の武を求めた、その覚悟……、素直に敬意を表するわ。あなたの、呂布という名前は、確かに私は知っているもの」 敬意を表する、の意味はそういうことか。 感じた違和感を考える前に、まずそう思った。 それを理解したとき、がゆっくりと抜刀する。 そして徐に構えた。 肩に担ぐようなその構えは、見たことが無い構えだ。 晴れてもいないのに、刀身が鈍く光っている。 その姿を見て、肌が粟立つ。 美しく、そして鋭い。 「だから、私はあなたのその尊い魂に敬意を表して、ただ一刀……そして、首の皮一枚を残す。動かないでね、手元が狂うから。苦しむのはあなたよ。……私の全身全霊、全てをかけて、送ります………何か、言い遺しておくことがあれば聞くわ」 よく通る声。 場の空気に似合わず、心が落ち着いてしまうような声。 呂布が吠えた。 「そんなもの!!貴様のような小娘に、この俺が殺されてたまるか!!俺は呂布!最強の武を持つ、呂奉…」 ぷつりと、声は途絶えた。 その一瞬、明らかに空気が変わったのを確かに感じた。 戦場で感じる殺気とは違う、肌を突き刺すような感覚。 全身がぞわりと粟立ち、指先一つ動かすのも、呼吸をすることさえも躊躇うほどに強烈な。 一種の恐怖に似ている。 我に返り、を注視する。 片手で構えていた刀のその柄には、今両手が添えられている。 全く、一切のブレもなく、天を仰ぎ咆哮のように叫んでいた呂布のその首の一点を狙ってその刀身は滑るように落ちて行った。 初動は全く見えなかった。 ただ、息をのむほどに綺麗で、瞬時に落ちた首はの言っていた通り、皮一枚を残してその上半身と一緒に前のめりになって崩れた。 だが、崩れたといってもそれは、首さえ落ちていなければまるでただ、座っているようで無様を晒しているようには見えない。 切られたばかりのそこから、血が流れ出てゆっくりと広がっていく。 は静かに、納刀と共に手にした布(きぬ)で刀身を拭うと、それを丁寧に畳んだ。 そして、そこへ片膝をつき、畳まれたそれを傍らに置く。 そのままじっと動かずにいるは、今や動かぬ呂布の身体をただ見つめているようだった。 僅かの間そうしてから、唐突に手を合わせそして少し、俯いた。 目も閉じているようだ。 誰一人、未だに一言も発せぬその場で、目に映るのその姿は、どこか神聖で厳かな雰囲気に包まれていた。 そして正しくそれは、が言っていたとおり、その死を悼んでいるというよりは、敬っているように見えた。 ただ、礼を尽くす。 そういう姿を、見ている気がした。 それから暫くして、は手を下ろすと、すっと立ち上がる。 こちらを振り向き際、ちらりと張遼の方へ視線を向けたようだったが、それは一瞬のことだ。 すぐさまこちらを真っ直ぐに見て、それから曹操殿のもとへ迷うことなく進み出る。 その前で立ち止まってから、拱手して顔を上げた。 「長々と、申し訳ありませんでした」 「いや。ご苦労であったな」 いつもどおりの声音。 何事もなかったかのような表情。 今のは夢か何かか。 そう思って視線を外せば、そこには呂布の亡骸がある。 夢ではない。 「声を掛けるまで、下がっていて良いぞ。……良いな、郭嘉よ」 曹操殿はそう、に告げてから、俺の後ろの方に立っていた郭嘉殿を見やる。 郭嘉殿は微笑を浮かべ短く、はい、とだけ答えた。 それを確認して曹操殿は無言で頷くと、へ視線を戻す。 遅れてもまた、郭嘉殿から曹操殿へ視線を移すと、二拍ほど置いてから言った。 「では、失礼いたします」 簡潔にそう告げて、拱手する。 間もなく、ここに来た時と同じように、の足音だけが響いた。 結い上げられた髪が背に流れていないせいか、ぴんと張るその後ろ姿は、いつもより一層、凛として見えた。 * * * 曹操殿へ礼を述べ、雲長と翼徳を伴って殿を探していた私は、耳に届くその歌声に足を止めた。 内城の中の通路、石畳の続くその先は右へ向かう通路のみ。 どうやら、そこから声は聞こえてくる。 一度立ち止まった。 「雪やこんこんあられやこんこん、降っては降ってはずんずん積もる、山も野原も綿帽子かぶり、枯れ木残らず花が咲く」 その歌は、独特の調子で楽しげに聞こえる。 翼徳が言った。 「なんだ?聞いたことのねえ歌だな」 「殿の故郷の歌やもしれぬな」 雲長が相槌を打つと、同時にまた声がする。 その歌声を聞きながら、私達は殿が居るであろうそこへ歩を進めた。 「雪やこんこんあられやこんこん、降っても降ってもまだ降り止まぬ、犬は喜び庭駆けまわり、猫はコタツで丸くなる」 角を曲がると予想通り、視線の先で石壁の開口の縁に片肘をつき上半身を預けながら、殿が歌っている。 まとめ上げられていた髪は、髪紐で結い上げられただけの、もとの形に戻っていた。 ちらりと垣間見えるその表情は、歌声ほど楽しそうな顔ではない。 歌が終わるのを見計らって、私は殿に声を掛けた。 「それは殿の故郷の歌だろうか?」 「うひゃあ!」 いつにない、初めて見る反応に思わず声を掛けた自分が驚く。 気を取り直して、殿に言った。 「すまない、驚かすつもりは無かったのだが…」 「……、劉備さん…、ああ、いえ……こちらこそすみません。誰もいないと思っていたので…お恥ずかしいところをお見せしました」 そう言って、殿は向き直りながら頭を下げた。 その一部始終に、安堵した自分がいる。 私は、雲長と翼徳を交互に見てから殿のもとへ歩み寄った。 足を止めると、殿が言う。 「もう、お発ちに?」 「ああ。殿には本当に世話になった。一言、礼をと思ったのだ」 「気になさらなくて良いんですよ。命(めい)がなければ、ご一緒出来なかったと思いますし」 「いや、それでも恩は恩。礼をしなくても良いという理由にはならぬ」 「律儀ですね、劉備さんは」 そう言って、殿はふわりと笑みを浮かべた。 今まで見てきた殿と同じ表情。 呂布に手を下す一瞬の瞳、そして、あの場を去るその時、こちらを見るその瞳は息を呑むほどに冷たかった。 同一人物とは思えないほど、冷たく、感情のない目をしていた。 あれは、勘違いか何かだろうか。 思い出すと、どこか心が痛んだ。 不意に翼徳が言った。 「ところでよ、さっきの歌はおめえの故郷の歌か?」 「ああ、ごめんなさい。質問に答えてませんでしたね。そうです。子供が歌う歌ですけど」 「ほう。わらべ唄でござるか」 「…まあ、似たようなものです」 「じゃあよ、こたつってなんだ?」 「コタツですか?コタツは…」 そう言いながら、殿は腰に下げ皮の書包から紙束と筆を取り出すと、何やらさらさらと書き始めた。 そして書き終わったそれを私達に見せる。 そこにはそれを使う人を交えた簡易な絵と、炬燵、の字が書いてあった。 それを指さしながら、殿が言う。 「コタツはこんな感じの器具で、中に豆炭などを入れた容器を置いて暖を取るものです。それで、コタツはこう書きます」 「ほう…これは確かに暖かそうだ。しかし…この字はあまり、見ぬ字だな」 と、私は燵の字を指さした。 「ああ、それは国字ですから、ここには無い字です。ええと、確か他にはこういう字を当てたりします」 そう言って、その横に火榻と火闥の字を付け足した。 それならば、示す意味が分かる気がする。 雲長が言った。 「なるほど。殿は何でもご存知でござるな。ところで、これについては何かご存知であろうか?」 と、言うので私は殿と同じように、雲長に視線を向けた。 雲長が殿を真っ直ぐに見て言う。 「殿を手に入れたものが最も天下に近くなる。そう生前、陳宮は言っており申した。その意味…殿は何か、ご存知であろうか?」 何ということを聞くのだと思った。 何も今それを、本人に聞かずとも良いのに。 しかし、私の思いとは正反対に気にした様子のない殿は、驚いたように目を丸くすると、直ぐに眉尻を下げ困惑したように首を横に振った。 「なんですか、それは?初めて聞きました。私にそんな価値があるなら、まず自分が利用してます。変な評価をされるのは余り好きじゃないんです、いい迷惑ですね」 言いながら、殿は困ったように笑みを浮かべた。 私はそんな殿を見て言った。 「すまぬ、殿。雲長が変なことを聞いた」 「いえ、お構いなく。特に気にしてませんから」 「そう言ってもらえるなら、ありがたい」 そう伝えると、殿はにこりと笑み直した。 ひとまず安堵する。 ――確かに、陳宮の言っていた言葉は気になる。 しかし、やはりそれを本人に問いただすのは違う気がした。 それとは別に、他に聞きたいことは山程あったが、どれから聞けば良いのか、整理ができない。 そして、何よりそれらを殿に問うて良いのかが疑問だった。 それでも、どうしても聞きたい問いがある。 ここで聞かなければ、もう聞くことは出来ない気がして、私は殿に言った。 「殿。殿は…」 「、こんな所にいたのか」 私の声を遮るように、夏侯惇殿の声。 視線の先に立っている。 殿が後ろを振り向くのとほぼ同時に、夏侯惇殿が言った。 「孟徳が呼んでいる。行くぞ」 「はい!今行きます」 夏侯惇殿は、そこで殿を待つように立っている。 殿が私を振り向き、視線を上げた。 「すみません、もう行かないと…」 「ああ、いや。私のことは気にするな。また会う機会があれば、話をさせてくれ。殿の話は新鮮で面白い」 「はい。機会があれば」 そう言うと、殿は二、三歩後退する。 拱手して言った。 「では、劉備さん、関羽さん、張飛さん。また、お会いしましょう」 それから踵を返し、夏侯惇殿のもとへ去っていく。 翼徳が腕を組みながら言った。 「ちっ…折角、こっちが話してるっていうのによ、邪魔ばっかしやがって」 「翼徳…」 「わかってるよ、兄者。黙れって言いたいんだろ?…全く、面白くねえ!」 雲長の言葉を遮ると、翼徳は言ってそっぽを向いた。 二人の姿が見えなくなる。 まだ耳に届く足音を聞きながら、雲長と翼徳に言った。 「ひとまず、我らも行くとしよう。機会があれば、また会うこともできよう」 「うむ」 「おうよ」 二人の声を聞いてから、私は回廊を一歩踏み出した。 言いかけた言葉は、いつまでも自分の中で残り続けていた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) この先が激しく不安 張虎氏の存在を華麗にスルーしていきますのでご容赦を 背景の色のせいで反転の意味は全く無い件… 2019.04.17 ![]() |
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