一九八年 冬







     人間万事塞翁馬 86















下邳城外に遊軍として周囲を警戒していたある日の早朝、それは耳に入ってきた。
それが兵器による音だということは直ぐに気づいたが、初めは曹操軍が下邳の城を攻める音であろうと思っていた。
とうとう、そんなものまで持ち出したか、という思いが頭を過ぎった。
しかし、それが適当な間をあけて三度目を数えた時、音源の方角に違和感を感じた。
どうも、曹操軍が攻めきた、という情報の方向からの音ではない。

そして間もなく、伝令兵の口から出た言葉は耳を疑う情報であったと同時に、捨て置けぬ情報でもあったのだ。



「沂水の方角に曹操軍…なぜそのような…」



思わず声に出し、反芻する。
騎乗したまま暫し考え、直ぐに最悪の事態に気づいた。



「沂水……、狙いは水門…水攻めか。そのような策は看過できぬ!急ぎ水門へ向かう!泗水の水門へも兵を向かわせよ!」



伝令兵に、そして自分の部下へそう告げて、私は馬腹を蹴った。
間に合うかは分からない。
だが、何としても阻止しなければ。

空気は、身を切るように冷たかったが、今はそれを気にしている余裕は私にはなかった。
一刻も早く。
得物を握る手の中に、じわりと汗が吹き出した。









 * * * * * * * * * *










水門に近づくにつれ増す、その確かな気配に、最早一刻の猶予もないのだという現実が突きつけられる。
下手な焦りを抱いてはならない、と心の内を叱咤した。
視線を上げる。
木々の先に見える兵器の先端、そしてその更に向こうへ広がる空は不気味なほど低い。
全てが、自分たちを圧倒し押し潰そうとしているように感じた。
馬を全力で駆ける。
そして生い茂る林の向こう、開けた先に兵とは違う人影を確認して、得物を握り直した。

あれが、ここを指揮する者か、否か。
それは分からないが、少なくともただの兵卒ではない。
ならば考えず、その者を討つ。

それは一瞬の間に思ったことだ。
手綱を口に咥え、そして鞍の上に屈む。
馬の速度は落とさず、手綱を持ち直して呼ばわった。



「この張文遠がお相手いたす!」



その人物が振り向く。
黄金(こがね)のような髪に、整った顔立ち。
間違いはない。
曹操軍の軍師、郭嘉だろう。
ならば、指揮者に違いなかった。

相手が得物を構えたと同時、鞍を蹴ってその懐へ向け、飛び込んだ。
だが、その空に飛んだ瞬間、鋭い殺気を感じ咄嗟に防御の形を取る。
間髪入れず、交差させた得物の柄に、射撃にしては異様なほど重たい一撃が撃ち込まれた。
手の内に振動が伝わる。
鞍を蹴ったときの推進力を失い、その場に着地した私は、すかさず視線を上げた。
態勢を立て直すと同時、彼が言う。



「策を阻もうとは、困ったものだね。……早く、先へ進まねばならないのに」

「郭嘉さん!怪我はありませんか!?」



そして突如、その目の前に飛び出してきた一人の影。
一瞬目を見張った。



「女人…?」



思わず呟いたが、それは誰の耳にも届かなかった。



「ああ、無いよ。のお蔭でね」

「それならオッケーです。ここは私が引き受けますから、代わりに郭嘉さんが水門の方へ行ってください。私、武器持ったら郭嘉さんより強いって自信、ありますから」

「…、君は……」

「なんですか?」

「…いや、後にしようかな。流石に、ここで油を売っている暇はないからね」

「はい、時は金なり」

「本当に、任せていいんだね」

「ノープロブレムです」

「…、無茶だけはしないように」

「それは相手次第、善処します」



その場を離れていく背を見て、我に返る。
目の前に残されたのは、と呼ばれた女人一人。
鞘に収めたままの得物と、見覚えのない変わった構え。



「この張文遠、なめられたものだ。まさか、女人一人を残されるとは」

「それは申し訳ありません。そんなつもりは無かったんですけど。とりあえず、名乗るのが礼儀、なんですよね」



そう言うと、構えを一度解いた。
それから言う。



「私は。ここから先へあなたを通すわけにはいかないので、全力で阻止します」



そう言い終わると、再び構え直す。
驚くほど、隙がなかった。
名の響きが聞き慣れぬだとか、先程から変わった言葉を口にしている、などといった疑問を考えている余裕はない。

妙な鋭さと威圧感を感じる。
呂布殿とは違う、圧倒的な何か。
先程の矢は彼女が放ったものだろうか。
だが、これはただの殺気とは違う。
空気を伝わって、肌に感じるこの感覚はうまく説明ができない。

感情の読めぬ瞳が、じっと自分を射抜くように向けられている。
冷たい。
あの軍師と話していた時は、このような目を彼女はしていただろうか。
こんな瞳を持っているようには見えなかった。
ただ言えるのは、自分もまた油断ができないということ。

一度構えを解いてから、彼女へ言った。



「前言撤回しよう。……その前に、先の一矢、放ったのは貴女か?」

「………ええ、私です」

「さようか。見事な一撃であった。然らば、その一矢に敬意を表し…この私も全力でお相手いたす」



構え直す。
数拍睨み合ってから地を蹴った。
再び、落雷のような音が辺りに鳴り響く。
耳に届く音は先よりもずっと大きい。
それなのに、何故か遠くで聞いているような、そんな感覚の中で私は最初の一撃を繰り出していた。









 * * *










私が合流する頃には呂布軍もまたそこにいるかもしれないと、事前に聞かされてはいた。
故にこれは想定内、なのであろう。
だが視線の先でと、呂布陣営内でも特に名高い武の持ち主、張遼が得物を交え睨み合っている。
それは、私にとっては想定外だった。
どれほど前からそうしていたのかは、当然分からぬ。
その間に入る隙はない。
それは遠巻きに二人を眺めている敵味方問わぬ兵たちの姿が、何よりも物語っていた。
攻め手の速度はが上。
だが、それを凌がれては決定打に欠ける。
かすり傷程度は負わせているようだが、所詮かすり傷。
致命傷にはならない。

その時、なんとも形容し難い音を立て、水門が破れた。
同時にが首をそちらへと向ける。
それは間違いなく、できた隙。
それを張遼が逃すはずがない。
張遼が地を蹴る。
私もまた地を蹴った。

だが、私は直ぐに足を止めた。
振り向き際、一瞬見えたの口元に笑みが浮かんでいるように見えたからだ。
そして、今まさに張遼がへの攻め手に転じたその時、それよりも一歩早く、が張遼の懐深く、それこそ己の得物を抜刀できぬ程深く入り込んだ。
瞬間、張遼が後のめりに倒れる。
すかさずその上へ、馬乗りになるようにしては刀身の半分を鞘に納めたまま、残りの刃先をその首元へあてがった。
私はそこへ歩み寄る。
張遼が言った。



「…不覚。今の隙…、よもや、罠であったとは…」

「他に、方法が思いつかなかったので。ただ、水門が壊れたら私の中では勝ちだったんですけど…武に生きる方は、違うんですね。勝負を仕掛けてくるなんて、勉強になりました」

「ははは…、さようか。私は武にも、戦にも負けた。貴女は大した方だ。…我が全力の武をも退けるとは……、お見事。私は貴女がたに降ろう」

「……、大した方はあなたの方です。顎下を柄頭で突き上げたのに気を失わないなんて…、寸前で急所を外されたんでしょう?」

「さて、どうであったか」

「…本当に、びっくり」



呆れたように言うに、私は目を細めた。
ひとまず、大事がなくて良かった。
内心、胸をなで下ろしたところへ、郭嘉殿がこちらへ歩んでくるのが視界の端に入る。
直後、頭上から鷹の鳴き声が降ってきた。
が天を仰ぎ声を上げる。



「ホーク!」





そんなに近くまで来た郭嘉殿が声をかけた。
首をそちらへ向け、が言う。



「郭嘉さん!丁度いいところへ。泗水の水門も破壊完了したようです」

「うん、素晴らしいね。これで、こちらの任務も完了かな。……ところで、君も素晴らしいことをしているようだね」

「…何の話ですか?」



そう言いながら、は立ち上がると、無意識なのか張遼に手を貸す。
私はひとまず、張遼並びに捕虜となった兵たちへ縄をかけるよう、部下に指示を出した。
その間にも、郭嘉殿がに向かって言う。



「これが終わったら、私の上に乗ってくれて構わないよ」

「…なんで、私が郭嘉さんの上に乗らなきゃいけないんですか。そういう趣味なんですか?」

「そうだと言ったら、乗ってくれるかな?」

「乗りません」

「ううん。はいつになったら私の相手をしてくれるのかな」

「心外ですね、いつも相手してるじゃないですか。これ以上何を望むんですか」

からの愛かな」

「……こんなに人がいるところで、よく恥ずかしげもなく、そんなこと言えますね…。沢山のお姉さま方から貰っているでしょうに。寝言は寝てから言ってください。無駄口叩いてる暇があったら、ちゃちゃっと曹操さんたちと合流しますよ」



郭嘉殿が肩をすくめる。
そこへ、音もなく現れた賈詡殿が腰に手を当て言った。



「なら、郭嘉殿とは先に行っててくれ。俺と于禁殿で捕虜のことやらなんやらはやっておこう」

「そう?それは助かるね。お言葉に甘えて、ここは賈詡達に任せようか」

「…と、いうことだから頼みますよ、于禁殿」



言って、賈詡殿が私に視線を向ける。
私はただ、短く相槌を打って頷いた。

それから間もなく、準備を整え下邳を目指すを私は呼び止めた。
騎乗しようとしていたが手を止め、私を見上げる。
その目を見て言った。



「無茶だけはするな」

「色んな人がそうおっしゃるから、もう耳タコです」

「………」

「耳にタコができてます」



一瞬意味が分からず口を噤むと、そう言い直しては笑みを浮かべた。
下邳には呂布と陳宮が居る。
どうしても、無茶をするなと言いたくなる。



「陳宮と呂布には、私から会いに行くんです。だから、会うことは、私にとって悪いことじゃありません。"会ってしまう"んじゃない。会うべくして、会うんです。必要なんです、これが…、…」



何か言葉を飲み込んでから、微笑む。
その顔を無言で見つめた。
が、呂布と陳宮の名を口にするようになったのは、ごく最近だ。
それまではその名を口にすることは全くと言っていいほど無かった。
覚悟を決めた。
そう見るのもいいだろう。
だが、敢えてその名を口にすることで何処か距離を取ろうとしている、私にはそう見えた。
呂布、陳宮の両名とも、そして周囲で見守る他者とも、距離を取ろうとしている。
そう感じる。

伸ばそうとした手に拳を握った。



「…そうか。他ならぬ、が決めたことだ。健闘を祈る」

「はい。感謝します、文則さん。……先に行きます」



騎乗する。
その背を見送る。

吐き出した息が白いことに今更ながら気づき、私はふと空を見上げた。















つづく⇒(次は流血表現あったり、主に死ネタです)



ぼやき(反転してください)


夢主に張遼を勝たせようか勝たせまいか悩んだ末、勝たせました




2019.03.30



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