人間万事塞翁馬 84















小沛につくと、既に城の包囲網は崩れていた。
の斥候と二回目に接触したとき、預かった伝言の一部を思い出す。
包囲網が崩れていた場合は…。

『小沛到達後、包囲網が崩れていれば速やかに小沛正門へとまわり加勢願いたい』
『主軍と合流すべく、既に撤退を開始している』

以前、徐州を攻めた時と同じような、厚い雲に覆われた空を一度見上げてから視線を正面に向ける。
後ろを振り向いた。



「劉備たちを救援し、その後、主軍との合流地点を目指す。指示通り俺に続け、遅れるなよ」



部下たちの、応の声を聞いてから、俺は馬腹を蹴った。
頭のどこかで、無茶をしていなければいいが、とを思い出しながらそう思う。

徐々に城との距離が詰まる。
横目に見送り、正門前へと抜けた。

呂布軍と劉備の軍が交戦している。
ひと目見て、劉備の側の兵数が情報よりも少ない、ということに気づいた。
馬を駆けながら左右へ視線を配る。
馬上にある関羽の姿は確認できたが、劉備と張飛の姿は確認できなかった。
の姿も確認できない。



「劉備たちと先に撤退したのか?」



殿(しんがり)に関羽だけを残したということか。
…いや、考えにくい。
少なくとも、の性格を考えると、それは考えにくい。
この戦場のどこかにまだ居るはずだ。
何よりも先に探し出したいが、まずは劉備たち…関羽を撤退させねば。

後方へ指示を出し、更に馬腹を蹴った。
関羽のもとを目指す。



「…ちっ、劉備を助けねばならんとは……。いや、孟徳の指示ならば、それに従うのみだ」



それを放棄したとあっては、も流石にいい顔はせんだろう…。



「ええい、どいつもこいつも」



周囲の喧騒に掻き消されたその呟きは、俺自身の耳にも届かない。
関羽が視線の先で得物を振るっている。
鮮血が散った。
倒れる兵を視界の端に捉えながら、手綱を引き馬を止める。



「関羽よ、劉備たちは無事か」



声を掛けると、関羽が顔をこちらへ向ける。



「おお、夏侯惇殿!かたじけない。殿のおかげで無事、ここより撤退し申した。ここに残るは我らと、殿のみでござる」

「そうか。ならば、あとは俺たちに任せて、お前も早く退け」



言いながら、どちらともなく襲いかかる兵を得物で屠る。
関羽が口を開き、何かを言いかけたその時、見知った影が視界に入った。
それを目で追う。
変わった構えに、長い髪。
間違いない、だ。
将と対峙している。
相手は、高順か。
それを取り囲むようにしているのは呂布の兵のようだが、味方の兵は他に見当たらない。
そして、は騎乗していなかった。
その愛馬もどうやら近くにはいない。



「あの馬鹿!何をやっている!」



気づくと馬首をそちらへ向けていた。
馬腹を蹴る。



「夏侯惇殿!」

「関羽、お前は早く退け!分かったな!」



馬を駆る。
との距離がみるみる詰まる。
視線の先で、二人が一線、交わった。
二拍ほどおいて、高順が得物を落とす。
膝こそついていないが、ひと目で深手を負ったと分かった。
同時に、兵の何人かがに向け弓を引く。

問題はない、間に合う。

そう思ったのと同時に、放たれたその矢を馬上から払い落として、直後俺はに手を伸ばした。
馬上へ引き上げるまでに見えたの表情は、驚きそのもの。
寸前の動作から、どうやら敵の射撃には気づいていたようだったが、流石に'これ'は予想外だったらしい。
引き上げたときの態勢のせいで、俺の前で横座りになったが挙動不審に首を振る。
そんなに俺は言った。




、お前の愛馬はどうした」

「兵に、貸しました。ここには居ません」

「そうか。ならば、このまま退くぞ」

「え、夏侯惇さん!あの!」

「関羽ならば先に退かせた、それならば良かろう。それとも他にすることがあるのか?」

「いえ、ありません」

「ならば、退く」



そのまま俺は声を上げて、撤退を号令した。
恐らく呂布の軍はこのまま小沛に陣取るだろうが、士気は低いようだ。
後に続く遊軍が、やつらの持ち直しまでに間に合えば問題はない。
それに、水門を壊すまでの間、こいつらをここで縫い止める事ができるなら、それが一番いい。
先のからの伝言もそういう話だった。
こいつが愛馬を貸した経緯はここを無事に抜けてから聞くことにしよう。



「あの、夏侯惇さん…、退くのはいいんですが、せめてこの態勢…直させてもらえませんか」

「そんな暇はない。振り落とされんようにしっかり掴まっておけ」



それだけ言い捨てて、俺は真っ直ぐ、視線を向けた。
撤退を続ける劉備の兵が、先へと細々、伸びている。
が言葉通り掴まる様子はない。
短くため息をついてから、俺は速度を上げる。
漸く、しがみつくようにしてが掴まった。
まったく素直ではない、と内心思う。
まだ日は高い筈だったが、辺りは重苦しく薄暗かった。









 * * *










、礼を伝えるのを忘れていた」



丸太材に腰掛けて焚き火の中の炭をつついていると、不意に後方から声が降ってきた。
見上げると、同時に夏侯惇さんが私の横に腰を下ろす。
その一連の動作を目で追って、そして私は夏侯惇さんを見上げた。



「何のお礼ですか?」

「……お前、前々から思っていたが、それはわざとか?」



曹操さんとの合流地点に向かう途中、私達は野営を組んだ。
幕を張らない簡易なものだけど、少し休むには十分。
ちょっと腰を下ろして、少しだけでも温かいものを口にできたら、疲れって結構忘れられるものだから。
休みすぎると、逆に動けなくなるけど。

出発は明朝、日が顔を出したら直ぐ。
それまでは休む。
小沛を攻めてきた呂布軍もそれなりに疲弊しているから追ってはこない。
それが分かってるから、ともかく今は休む。
変わった動きがあれば、直ぐに斥候から知らせが来るからそこも抜かりはない。

私は、訝しげな視線をこちらへ向ける夏侯惇さんの顔を見てから首を傾げた。
それって…、それ?

間もなく、夏侯惇さんが隠しもせずに溜め息を吐き出してから、もう一度口を開く。



「そうか、お前でも気づけぬことはあったな…、今のは忘れろ」

「…はあ……」

「話を戻そう。定陶でのことだ、物資を事前に準備してくれていたおかげで手間取らずに済んだ。それの礼だ」

「ああ、それのこと。いえ、礼を言われるほどのものでは無いです。お役に立ったのなら、何より」



返しながら、さっき言われたことを反芻する。

…ああ、そういうことか。
まあ、想像がつかない…わけでもないけど…。

その時、ぼすっと頭に手が乗った。



「忘れろと言っただろう。素直に聞いておけ」

「…はい…」



夏侯淵さんや数日前の張飛さんみたいに頭をぐしゃぐしゃにされることはない。
なんていうか、多少加減されてる乱暴さ。
そういうところが、夏侯惇さんらしい。

手が離れる。
顔をあげると、目が合った。



「なんだ」

「いえ。…こちらに来てから色んな人の優しさに触れる機会が本当に増えたな、と思いまして」



そう答えると、一瞬眉根を寄せて、それから夏侯惇さんは言った。



「それだけお前が危なっかしい、ということだ」

「…そう、ですか?」



今度は私が眉根を寄せる番。

そんなに危なっかしいかな…。
ていうか、私が危なっかしいとどうして皆が優しくなるのかしら…。
……よく分からないわ。

そんなことを考えていると、不意に溜め息が聞こえた。



「…お前は本当に分かりやすいのか、分かりにくいのか、素直なのか、素直ではないのか、分からんやつだな」



言いながら、夏侯惇さんは項垂れるように額に手を当てた。

そんなこと言われてもなあ…。

と、私は夏侯惇さんを見てから、焚き火に視線を戻した。
脇に置いておいた枯れ枝を何本か放る。
手にしていた枝も同時に投げ入れて、それから新しい枝を手にした。







炭をつついていると、暫くして夏侯惇さんが言った。
顔を向けると、こちらをまっすぐ見ている。
目が合ってから、言う。



「孟徳と合流したら、お前も下邳へ行くのか」

「はい。当然です」

「…陳宮、呂布と邂逅することになってもか」



私は、焚き火に視線を戻した。

まだ夢に見る。
思い出すと、指先が疼く。
決めたことだけど、まだ躊躇っている部分もある。
それでも逃げるのは嫌だ。



「だからです。先へ進むために、むしろ、会いたい」



暫く、沈黙が続いた。
静かというわけではない。
火の爆ぜる音。
野営内の作業音、生活音。



「お前は、孟徳と似ているところがあるな」

「…そうですか?似てますか?」

「ああ、似ている。困難を前にしても尚、それを糧として先へ進もうとするところがな」

「そうですか。…もしそれが本当なら、光栄ですね」



自然と笑っていた。
夏侯惇さんは、一瞬驚いたような顔をして、それからいつもの表情に戻る。



「つくづく、変わったやつだ、お前は。そこも似ている」

「その自覚はしてますが、そこは似たいと思いませんね」

「…、そうか」

「はい」



どちらともなく笑いを零し、そして笑い混じりにそう答えた。
それからまた暫く、夏侯惇さんとは雑談をした。
とりあえず、くろを劉備さんのところの兵士さんに貸した経緯を道中話していたので、このあとも貸したままにするのか、とか。
夏侯淵さんから頂いた弓の威力はどうだったか、とか。
そんな話。

ちなみに、くろを兵士さんに貸したのは、その人が自力で撤退できないような重傷を足に負ってたから。
小沛の城からタイミングを見計らって出たのは良かったんだけど、予想通り最初の内は大混戦で撤退指示出してる間に負傷したみたい。
たまたまその近くに私がいて、見かねてくろを貸したのよね。
拒否されたけど、足以外は普通に動くし元気だし、それ見て見捨てるなんて当然できないわけで。
有無を言わせずその人の知り合いとかいう兵士さんに手伝ってもらって騎乗させて、それでくろに走れって指示出したわ。
おかげで私自身の予定が狂っちゃったけど、どうにかなったから結果オーライで。

そのあと野営組んで直ぐに、その人のところへ怪我の状態の確認を兼ねて行ってみたんだけど…やっぱり、骨折してたみたい。
応急処置はなんとか済ませたけど、あれじゃ歩かせられないわ。
ともかく、曹操さんたちと合流するところまではくろに乗ってもらって、向こう着いたら直ぐに典医さんに見てもらう。
そのあとは、荷車か何かで近場の定陶まで連れて行ってもらうしか無いわね。
本当は、小沛か彭城の方が近いけど…それどころじゃないし。
ドクターヘリとかあったらひとっ飛びなんだけどなー、許昌まで。

と、たまにそんなことを考える私。

今日は雲が凄く厚くて、それは夜も同じ。
月の光も、星も何も見えない地上は本当に真っ暗で、火の向こうに見える草木が茂るそこは闇そのもの。
黒くて、何も見えない。
ともすれば、何か出てきそうで、逆に何かに引き込まれそうで…、だからなのかここで横になりたいと、目を閉じたいと思えない。
得体の知れない不安感が胸のあたりでざわついている。
刀でもなんでも、武器を手にすれば必ず感じる、私の身体ではないような、あの感覚。
いつか私は、あの感覚に普段の時も支配されるんじゃないか、と心の何処かで思っている。
その私を支配するものは、今目の前に見えている火の向こうの暗闇と同じような気がした。

何かが出てくる。
何かに引き込まれる。



。火の番をしておいてやるから、お前はそこで先に休め」



ぼーっとしていたのか、はたと我に帰った。
夏侯惇さんの方を見たのと、私の手から夏侯惇さんが枝を取り上げたのはほぼ同時。
その枝を視線で追ってから、夏侯惇さんの横顔を見る。
こちらを見ずに火を見ていた。
それを交互に見てから、私は言った。



「夏侯惇さんは、戻らなくて良いんですか?」

「ああ、問題はない。それよりも、今は戦の最中だ。女のお前が一人で休む方が、余程問題がある。戦場での経験も、もう乏しいとは言えん。流石にその自覚はしているだろう?」

「…、…ええ、まあ」



それは、勿論。
聞いた話によると、戦の最中、あとってそういう意欲が凄く湧くらしいわ。
…大変ね、男の人って。



「だから、お前は先に休め。お前が頭以外に身体も張っていたことは、関羽たちから聞いている。曹性を退かせた、とな…全く無茶をしおって…」

「あはは…」

「笑い事ではないわ……ともかく、先は長い。休める内に休んでおけ」



と言われても、結構寝てるところ見られるのって、恥ずかしいよね。
なんて考え始めたらどうしようもできないので、これも仕事と割り切って私は言葉通り、休むことにした。
丸太材に腰掛けたまま、上半身だけ横にする。
腕を枕代わりに目を閉じた。
仕事と割り切ったら、全てがどちらでも良くなった。
暫く、火の爆ぜる音を聞いていた。















つづく⇒



ぼやき(反転してください)


惇兄が頑張って気にしてないふりしてたら美味しいと思う←
本当に気にしてなくてもいいと思う
つまりどっちでもいけます←


2019.03.22



←管理人にエサを与える。


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