人間万事塞翁馬 82 「、おめえ危なっかしいなあ…やられるんじゃねえかと思って冷や冷やしたぜ」 「それは、ごめんなさい。張飛さん」 下馬しながら殿は眉尻を下げて、翼徳へ笑みを向けた。 兵が殿の青毛を厩へと引く。 私は殿へ歩み寄りながら声を掛けた。 「しかし、殿に怪我が無くてよかった。任せるとは言ったが…やはり怪我をされては心苦しい」 「劉備さんは優しいんですね。戦場に出る以上、怪我の一つぐらいは普通でしょう?」 「いや。それとこれとは話が別だ。例えそうであっても、やはり血が流れるのは辛いのだ。そして命を落とされるのはもっと辛い」 思ったままを伝えると、殿は笑みだけを返した。 優しいその笑みは、どこか心を温かくする。 翼徳が言った。 「よっしゃ、んじゃ俺はちょっくら次の準備でもしてくるぜ」 「…あ、張飛さん。何もそんなに急がなくても、まだ…」 早々に去って行った翼徳の背に、殿がすかさず声を掛けるも、聞こえていないのか翼徳はそのまま行ってしまう。 雲長が殿を見て言った。 「殿、気にすることはない。翼徳のことだ、じっとしておれぬのだろう。ひとまずは好きにしてやってはくれまいか」 「ええ、まあ……。準備なら、し過ぎて損をすることもありませんし、そうですね。それよりも…」 切り替えるようにして言った殿に、私は視線を向けた。 それを受けて、殿は笑みを浮かべたまま私を見て言った。 「敵陣の様子が気になります」 「うむ。ならば場所を変え申そう」 意味を理解した雲長がすかさず相槌を打つ。 私もまた頷いて、ひとまず私たちは城壁へと登った。 いつにも増して空が低い。 階段を上りきって城壁の縁に歩み寄り、敵陣のある方向を見渡す殿の背に雲長が唐突に言った。 「殿は中々の腕をお持ちのようだ」 その言葉に、殿が後ろを振り返る。 不思議そうに、雲長を見上げた。 「なんのことでしょうか?」 「上手く隠されてはいるが…あそこに斃れる敵兵らは、そなたの幸運による偶然で斃れたのではない。そうであろう?」 「…………」 「どういうことだ、雲長」 黙る殿を一度見てから、雲長に視線を向ける。 殿が百余りの敵兵を相手に”勝負”をする一部始終を私たちは見ている。 確かにそれだけを相手に動けるのは只者ではないが、最中の動きはお世辞にもいいとは言えないものだった。 翼徳が先ほど言ったように、危なっかしく見ていて落ち着けない。 だが、雲長はそうは見ていない。 事実、何度か殿のもとへ行こうとした翼徳を雲長は止めていたし、それは殿自身から、何があっても手出しをせずに見ていて欲しい、と言われたからということだけでは無いような気がしていた。 運がいいだけ、ということのみが、何事も無くここへ戻ってきたその理由だとも思えない気もしている。 しかし、それでもあの動きを思い返せば、一種の”手練”のようなものは一切、それこそ微塵も感じられない。 殿に改めて視線を向けると、どこか読めないような表情で口元には微笑を浮かべている。 雲長が言った。 「翼徳も気づいてはおらぬようであったが、殿のおぼつかぬ動きは演技でござる、兄者。中々出来ることではござらぬ」 「なんと。それはまことか」 思わず殿を凝視する。 その視線に気づき、殿が私を見る。 二拍ほどおいて、殿が表情を崩した。 それから雲長へ視線を上げながら、殿は言った。 「…さすが関羽さん。やっぱりバレますよね。気づかれないようにするって本当、難しい」 「いや、少なくともあそこに陣を構える呂布軍には気づかれてはおらぬであろうよ」 「それなら、とりあえずはいいんですけど」 そう言って、殿は柔らかく笑った。 思わず呆気にとられ、言葉に詰まる。 「やだ、劉備さん。深呼吸、深呼吸!そんなお顔なさらないで下さい。大将は動じず、どしっと、ですよ」 「あ、ああ……、いや、すまぬ」 不意の殿からの言葉に、我に返る。 圧し掛かるような重たい空とは対照的に軽やかに笑っていた。 無意識に目を細める。 二拍ほど置いてから、私は殿に言った。 「殿…それは、やはり策か何かなのだろうか」 「ええ、そうです。どこから漏れるか分かりませんから、これ以上は話せませんが……強いて言えば、数で勝てないなら心を攻める、というところでしょうか」 「心…」 「はい。ご存知の通り、心を鍛えるって言うのは、一夕一朝ではできませんからね。その隙を狙います」 「…うむ。先に説明を受けたときと同じ質問をするが……それで、勝てると申されるか」 雲長が殿を真っ直ぐに見て言う。 「勝ちの形によりますが…、既にお伝えしたとおり、今回は夏侯惇さん達と合流するまで持ちこたえられたら、私たちの勝ちです」 満面の笑みを浮かべ、殿はそう雲長を見上げて言った。 そして続ける。 「ですからそのためにも、このあとも引き続き、ご協力よろしくお願いします」 雲長、私と視線を移し拱手する殿に、私は言った。 「それはこちらの台詞だ、殿。こちらこそ、改めてよろしく頼む」 深く、殿が頷く。 それから数拍置いて、殿はくるりと背を向けると、もう一度敵陣を見渡すように首を動かした。 そして、ぴたりと動きを止める。 その方角は、下邳の城のある方向だった。 暫くの沈黙に、雲長とお互い視線だけを交わす。 程なくして、殿がこちらを振り向く。 今までどおりの笑みを浮かべて言った。 「次の準備を進めつつ、私は少し休ませてもらいますが…もし、何か変わったこと、気付いたことがあれば教えてください。今の時間は……、」 言いながら、左手首を返してそこへ視線を落とす。 直後、声を上げた。 「あっと、いけない。無いんだった…ええと…今日は雲が厚いな」 それから空を仰ぎ見る。 その、手首を見るという不思議な一部始終に、私と雲長はどちらともなく顔を見合わせた。 そんな私たちに殿が言った。 「今、未刻ぐらいですから、まだ次まで時間がありますし…とりあえず、四半刻後にもう一度ここへ来ますね」 私は笑みを返して頷く。 「ああ、承知した。休めるうちに休んでくれ」 「はい。では」 相槌を打ってから階段へ向かう殿の背を見送る。 城内の幕舎の間を歩いていく殿を確認してから雲長に言った。 「陳宮が言っていた言葉…覚えているか?雲長」 「………、殿を手に入れた者が最も天下に近い者となる」 「そうだ。…あの言葉の意味、実際のところどういう意味なのであろうな」 「なんとも…、拙者には分かりかねる。兄者は如何か?」 「私もだ。確かに、殿は私たちとは違うものを見ているような気はするが…、それとこれとが結びつくような気は今のところせぬのだ」 「ほう…」 雲長が声音を変える。 こちらを振り向く気配がして、私は雲長を横目で見た。 真っ直ぐにこちらを見てくる雲長に顔を向ける。 雲長が言った。 「兄者は殿が別のものを見ていると、そう感じられておられるのですな」 「いや、何となくだ」 「ならば、陳宮の言っていたもう一つの方はどう思われておいでか」 「もう一つ…」 言われて、頭を過ぎる陳宮の言葉。 『あの娘は、あの娘は、曹操に騙されてその傍近くに居るのです』 「曹操殿に騙されて、その傍近くにいる……」 『もしも、もしもあの娘、殿と劉備殿が接触するような機会がありましたら、どうかそのお力で助け出してやって下さい。不憫な娘なのです』 腑に落ちない言葉。 もし、陳宮が殿を求めているというのなら、何故私に助け出して欲しいなどと言ったのか。 その意味とは…? 「兄者?」 「あ、ああ…」 雲長の言葉で我に返る。 改めて雲長を見上げた。 「そうだな…少なくとも、曹操殿のもとに無理をして仕えている、という風には感じられぬな。それは雲長も同じであろう?」 「…いかにも。ただ、曹操殿は何をさせても巧みでござる。もし、それそのものが騙されているが故のものであるとするならば、その可能性を否定することは出来申さぬ」 「確かに、それもそのとおりだ。それが真実ではないと信じたいが……だが、本当に雲長の言う可能性が、万が一まことであるのならば、私は彼女を救い出したいと思う」 今一度、城内へと視線を落とす。 翼徳と話をしている、その後姿をじっと見つめた。 心を暖かくするような笑顔。 心を穏やかにする二胡の音色。 どれを思い出しても、戦とは縁遠い。 そんな彼女が戦場に立つ姿を見るのは何よりも辛い。 自分の国には戦はないと言っていた。 それがきっと彼女の人となりを形成しているのだろうと思う。 そうであるならば、例えどんな理由があろうと、やはり彼女が戦場に立つ姿を見ていたくはない。 戦を知る私ですら、戦は辛いと感じるのに、それを知らなかった者が戦を知るというのは、如何ほどに辛いものであろう。 私には想像できない。 きっと、曹操殿は彼女の事情を知っている筈だ。 であるならば、なぜ彼女に、率先して戦場へ出すようなことをさせるのだろうか。 それがどうしても、私には分からなかった。 私に、何が出来るだろうか。 ――ただ、それでも今は彼女の策に頼るほか無い自分の非力さが恨めしかった。 * * * 『日が暮れたら再度城外に出ます』 『私が合図するまで絶対にその場を離れないで下さい』 『合図は、私が左手を上げて指笛を吹いたときです』 『指笛を吹くと、くろが私のもとへ駆けますから、それと同時に陣外へ出てきた呂布軍を攻撃して下さい』 『銅鑼が鳴ったらタイムリミット、退却の合図です。確認次第、城へ引き上げてください』 『それまでに、なるべく沢山の敵を戦闘不能にしてください。よろしくお願いしますね』 「へっ、腕が鳴らあ」 身を潜めながら得物を握りなおした。 の指示を思い出すが、細けえことは忘れちまった。 ともかく、の合図があるまではここでじっとしてりゃいい。 指笛が聞こえたら突撃だ。 そんなことを思いながら俺は空をふと見上げた。 昼間の曇天が嘘みてえに晴れ渡っていやがる。 いつもより星がくっきり見えた。 そんな日は、大概寒い。 今だって寒くて敵わねえぜ。 吐き出す息は白かった。 そういや、息するときも合図があるまでは気をつけろ、とか言ってたな。 俺は手の中で息をするように、空いた手の拳を口元に寄せて静かに息を吐き出した。 視線を前方に向ける。 松明に照らされて浮かぶの姿は、暗闇でもそれと分かる青い衣が目立って見えた。 耳を澄ませば微かに聞こえる会話で、これからの言っていたとおり、呂布軍(やつら)の陣から兵共が出てくるらしいことが分かる。 は、うまく曹性を釣れればそいつを倒せ、とも言っていたな。 だが、続けて言ったのは、多分釣れないだろう、という言葉。 まあ俺にしてみりゃ、暴れられて勝てれば何だっていい。 それよりも、合図があるまでは自分ひとりで敵にあたる、と言っていたのことが気になった。 どう考えたって、あんな危なっかしい動きのあいつをそのままにしておく方がこっちの不利ってもんだ。 本人が気付いてんのか知らねえが、俺の後ろで待機している兵(こいつら)だって、不安でたまんねえって言ってんだぞ。 あいつ、それ分かってんのか? 眉間に力がこもるのを感じながら、じっと視線をに向ける。 それでも何故か言う事を聞きたくなる。 本当に危なくなったら、そんときはそんときだ。 もう一度得物を握りなおした。 の動きに注視する。 そのとき、やつらが一斉に目掛けて走り出した。 はと言えば、ほんのちょこっとだけ間を置いて、それからその後方へ踵を返して走り出す。 つまり、小沛の城に向かって走り出した。 ――あいつ、何やってやがんだ。 そう思ったその時に、が唐突に足を止めて振り返る。 それから何かを投げる動作を繰り返した。 同時にやつらの何人かが倒れる。 何が起きたのかよく分かんねえが、視線の先のは攻撃の手を止めない。 気づいた時には既に接近戦を繰り広げて、昼間見ていた動きが嘘のように、合口―とから聞いた―を手にやつらを次々倒している。 この俺様でも驚くほどの身のこなし。 昼間と同一人物とは思えねえ。 「なんでえ、の奴、すげえじゃねえかよ…」 思わず呆気にとられる。 直後、指笛が聞こえた。 視線の先のは間違いなく、左手を高く上げている。 「よっしゃ、おめえら、行くぜ!突撃だ!」 「「「おう!」」」 声を聞きながら横目で部下共を見る。 の計らいで敵にばれずにここまで来たが、元々やつらの包囲があっただけあって抜け出して来れたのはそんなに多くねえ。 だが、俺と同じようにの動きを見ていたこいつらの顔は、活き活きとしていた。 が来る前から湿気た面してやがったこいつらが。 暴れられるというのとは別に、うずうずする気持ちを抑えることなく俺はやつらに向かって突っ込んだ。 負ける気なんてする訳がねえ。 銅鑼が鳴るまで暴れまくってやるぜ。 いつのまにか刀を手にしているを視界に捉えて、俺は無意識に口角を上げていた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 最終的に相手二択にしてる割に、まあ絡まないよね 色々どうするんだろうね 2019.03.19 ![]() |
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