一九八年 晩秋 人間万事塞翁馬 79 執務室に戻る途中、口内で欠伸をかみ殺した。 代わりに、ため息が出る。 一瞬閉じた目を開けると、視線の先に荀ケさんがいた。 ばっちり目が合って、とりあえず私は曖昧に笑って会釈する。 荀ケさんが近づきながら言った。 「顔色が優れないようにお見受けしますが…どこか、具合でも悪いのですか?」 目の前、数歩先で立ち止まった荀ケさんへ、私は少しだけ見上げるようにして視線を向ける。 荀ケさんは心配そうな顔をしていたが、それでも私は自然と口元が緩んで、恐らく、普段どおりに言った。 「いえ、どこも。ただ、最近寝不足で」 「何か悩み事でも?」 私は首を横に振った。 「星を見るのが最近のブームで、うっかり夜更かししてしまうんです」 「…最近の」 「ああ!ごめんなさい、夢中…熱中してしまって」 「そういうことでしたか。止めはしませんが、くれぐれも程ほどに」 荀ケさんがそういい終わるのと同時ぐらいに、誰かが荀ケさんを呼ぶ声が耳に届いた。 そちら―荀ケさんの後方―へ視線を向けると、文官が一人足早にこちらへ向かってくる。 荀ケさんもそれに気付くと、一度、私に視線を戻した。 それを確認して、荀ケさんへ言う。 「私のことはお構いなく。お急ぎみたいですし」 「すみません。またゆっくりお話させてください」 「はい、こちらこそ」 会釈してから去っていく荀ケさんの背中を見送る。 その背中が見えなくなってから、私は内心ため息をついた。 星を見ているのは事実。 だけど、寝不足の理由は夢見の悪さ。 本腰入れて呂布を攻める。 その日が段々近づいてきていると感じる。 いつ攻めるか、そのタイミングを見計らっている今、もうそれは時間の問題。 何がきっかけで軍を動かすか、それ次第。 そう思い始めてから、あの日のことを頻繁に見るようになった。 私は、あの2人を前に立っていられるだろうか。 あの2人のいる戦場に立たず、別の場所で戦うってことも難しいことではない。 後方支援とか、物資補給とか、色々あるわけだし。 でも、そこに逃げたら、私はこのあともずっと逃げ続けてしまう気がする。 何かけじめをつけないと、私はきっとあの2人…ひいてはこの先の戦やそれこそこの時代、そのものから逃げ続けてしまう気がする。 もう、向こうには帰れない。 ここで生きていかなきゃいけない。 だけど、逃げ続けながらここで生きるなんて…多分、私には出来ない。 ここまで関わっておいて、今更逃げるなんて出来ない。 知らないフリなんて出来ないし、都合のいいときだけ逃げる、なんて選択も出来ない。 覚悟は疾っくに決めたの。 だから、逃げない。 …けど、別の話。 それが仕事だと思えば、きっと”知らないフリ”だって訳ないことなのに。 「やっぱ、不器用だな」 結局、うまく割り切れない。 ふと、郭嘉さんの顔が過ぎった。 あの人の、諸々のあれは…仕事にしてもなんにしても、やっぱり、何か割り切ってやってることなんだろうか…。 全部とは言わないけど、何となく、そんな気はする。 見た目全然分からないけど。 それから、他の皆の顔が浮かんだ。 向こうもここも、同じ”割り切る”なんだろうけど…。 「やっぱ、皆すごいなー…ため息しか出ないや」 ここで過ごす月日が過ぎれば過ぎるほど、そう思う。 呟いてから視線を上げると視線の先の向かいの回廊を賈詡さんが歩いていくのが目に入った。 何かというと、よく言われる言葉が頭に浮かぶ。 『あんまり、考え過ぎなさんな』 同時に、文則さんの言葉も思い出した。 『あまり考え過ぎるな』 そういえば私、結構人に考え過ぎるなって言われてるわ、と思う。 思わず込み上げた欠伸をもう一度かみ殺した。 回廊の庇越しに見える青空と羊雲を見上げて思う。 考える時間あったら、寝た方が賢明かも。 ――まあ、眠れないんだけども。 羊数えたら寝られるかしら。 もう一度ため息をついてから、私は回廊を再び歩き出した。 それから数日後、その日は唐突に来たのだった。 * * * 関羽が孟徳に目通り願っている、と兵が知らせに来てから間もない。 わざわざ外まで迎えに出る孟徳が気に喰わず、足早に房(へや)を出たその背中に思わず悪態をついたが、にたしなめられた。 そして、孟徳の指示通り郭嘉と荀攸を伴ってがここに来たのもつい先のことだ。 賈詡は席を外しており、探す時間もないのでそのまま来た、とのことだった。 使いは出したからそのうち来るだろう、とは荀攸の言葉だ。 それから程なくして、関羽が姿を現した。 流れる汗とその様子から、馬を駆けてきたのだろうことは容易に想像できる。 孟徳の前で立止まり拱手して言った。 「曹操殿、急な訪問、失礼いたす。我が義兄(あに)・劉玄徳が拠る小沛が呂布の軍勢に包囲され申した。どうか、呂布を撃退するための兵をお貸し願いたい」 「…ふん、呂布め。またぞろ動き出したか。下邳に籠もっていればいいものを」 忌々しい奴だ、と思いながら俺はちらりと横目でを盗み見た。 郭嘉のやや後ろに控えるその表情に変わりはない。 にとってみれば、本来なら呂布の名前すら耳になどしたくはないはずだ。 だが顔色一つ変えず、手前に立つ郭嘉と同じように一見何を考えているか分からないような、普段通りの顔をしている。 そこは流石だと思うが、呂布とここで対峙することとなるならば、…、そして孟徳はどうするつもりか。 …いや、考えずとも分かってはいるが。 孟徳が思案するようにして言う。 「呂布の討伐は我らにも利がある。だが、今動けば劉表に後背を突かれるやもしれぬ。荀攸、おぬしの意見を聞かせよ」 「今、盛んに動いているのは呂布のみ。呼応する勢力はありません。袁術などと組む前に、呂布を討つべきでしょう」 「だが、城攻めとなれば、時がかかろう。その間に、他の奴らが動き出せば厄介だぞ」 荀攸の意見に、率直な言葉を述べると間髪入れず、郭嘉が言った。 「ならば、こういう策はどうでしょう。沂水と泗水……下邳を流れる二つの川を氾濫させ、城を濁流で洗い流すのです」 「上策です。下邳は城内にそれらの川を引き入れています。水門に手を加えれば、すぐに水は暴れるでしょう」 「よし、わかった。この戦、水計にて迅速に決着をつける。今こそ乱世の獣・呂布を討つ時よ!」 誰ともなく無言で頷く。 二拍ほど置いて、孟徳が言った。 「郭嘉、荀攸。子細はそなたらに任せる。急ぎ軍を編成せよ」 「「はい」」 二人が拱手して頭を上げたのとほぼ同時に、関羽が言う。 「それでは、曹操殿。拙者は一足先に小沛へ戻らせていただく」 「曹操殿」 関羽が言い終わったと同時、声を上げたのは郭嘉だった。 郭嘉へ自然、皆の視線が集中する。 もまた、郭嘉へと視線を上げた。 それを気にせず、郭嘉が言葉を続ける。 「これは、関羽殿にもお願いしたいこと、なのですが」 「ほう…」 孟徳はそう声を漏らすと、窺うように関羽へ視線を向ける。 関羽はといえば、孟徳と郭嘉の視線を受けると口を開いた。 「なんでござろうか」 「…小沛へ先にお戻りになるというのであれば、どうかこの、の同行をお許し願えませんか」 「郭嘉…それはどういう意味だ」 思わず問うと、郭嘉は微笑を浮かべ答える。 「もちろん、この先の戦に備えてのことです、夏侯惇殿。が先行することでいち早く前線との情報共有もできるし、状況に応じた判断もし易い。自身も計に精通しているし、腕も立つ。ご存知の通りですが」 「確かにそうだが…」 「どうでしょう?関羽殿。許可、願えませんか?」 「…ご自分の身をご自身で守られるというのであれば、拙者は構わぬ」 一拍ほど置いて視線が集まる中、孟徳が言った。 「ならば、よ。先行して、関羽と共に小沛へ向かってくれ」 「はい、承知しました」 思わず声を上げそうになったが、に視線で制された。 僅かに微笑んだその表情に、何故だ、と苛立つ。 関羽がに視線を向ける。 「であれば、拙者は門で待ち申そう」 関羽の言葉とその視線に、が顔をそちらへ向ける。 向き直って言った。 「失礼ですが、小沛へは街道を行かれますか?」 「…うむ」 「でしたら、先に出発していて下さい。準備して、すぐに追いつきます。時間が惜しいですし」 「しかし、それでは…」 「関羽よ、案ずるな」 関羽の怪訝そうな声音に、孟徳が釘を刺す。 「はこれでも、軍内一、二を争うほどの手綱捌きの持ち主だ。愛馬も中々の暴れ馬でな」 「曹操さん…それ、ちょっと悪意のある言い方じゃないですか?賢い子、なんですよ」 「そう聞こえたか?それはすまんな」 目を細めるに、悪びれもなく笑い混じりに孟徳は言った。 関羽が言う。 「ならば、殿。後ほどお会いし申そう。お先に御免」 拱手して足早に去っていく関羽の背を見送って、間もなくが向き直って言った。 「それでは、私も向かいます。戦場でお会いしましょう」 ゆったりと拱手する。 顔を上げると同時、郭嘉が言った。 「いつもの方法で」 「はい」 視線を交わしてから、は軽く会釈してその場を去って行く。 その背中が小さくなってから、郭嘉と荀攸へ孟徳が何事か指示を出すと、暫くして二人もまたこの場から去った。 俺は改めて孟徳に向き直った。 「孟徳、おまえ何故あんなことを」 「あんなこと?の手綱捌きが軍内一、二を争うほどのものだということか?」 「それではない!茶化すな、分かっているだろう!」 「まあ、そう熱くなるな」 そう言って、孟徳は俺に背を向けると歩き出した。 それを追う。 歩を止めずに、孟徳が言った。 「能力を考えれば、当然であろう。戦は遊びではない。才あるものはしかるべき場で、その能力をいかんなく発揮してもらわねばならん。それはとて例外ではない。乱世収束の最短を行くならば、そうでなければならぬ」 「それは分かっている」 「ほう、ならば何が言いたいのだ、夏侯惇」 「わざわざ呂布と邂逅するかもしれない前線にを先行させずとも良いだろう。斥候でも十分のはずだ」 「斥候では策は練れまい。兵の指揮も然り。それにの使う手段は斥候よりも伝達が早い」 確かにそうだ、と思い言葉に詰まる。 だが、やはりどうしても納得は出来なかった。 「同情しておるのか?珍しいこともあるものよ」 「そうではない!そうではないが……、…ちっ」 思わず舌打ちをする。 そう言われると、同情しているのではないかという気がしてきて、徐々にまた、苛立つ。 「もうこの話は終わりだ」 一方的に打ち切って、俺は先を歩いていた孟徳を抜いた。 そんな俺を他所に、後ろからついてくる孟徳がところで、と関羽の話を切り出す。 暫く相槌を打っていたが、話が終わる頃には俺の苛立ちが最高潮に達していたのは言うまでもない事実だった。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) やきもきする惇兄 関羽と二人旅 とりあえず、口調が分からなくなる問題ね 2019.03.05 ![]() |
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