一九七年 三月







     人間万事塞翁馬 77















それは暫くの間、途切れることなく軽い音を立て、眼下では白と黒が盤の上を交互に埋め尽くしていった。
最近では定期的―といっても、そこまで正確に定期、ではない―に見られる光景。
郭嘉殿と殿が棋を打ち、賈詡殿と俺がそれを見ている。
記憶が正しければ、これで十三回目。
そして今、郭嘉殿が十三勝して終わった。



「…まったく、勝てる気がしないわ……」

「いやいや、全く恐れ入るよ。置石なしで郭嘉殿からこれだけ取れれば、あんたも大したもんだ」

「……それ、フォローになってるようで、なってないです」

「…?……」



賈詡殿が、うな垂れる殿から視線を上げ、俺を見る。
俺はすぐに返した。



「助け舟、という意味らしいです」

「んー、なるほど、なるほど。のそれは、まだ慣れないねえ」



と言いながら、賈詡殿は顎をさすった。
郭嘉殿が石を片付けながら言う。



「けれど、も大分、私を焦らせるようになったね」

「……お世辞なら間に合ってます…、ずっと涼しい顔してるじゃないですか、郭嘉さん」



同じように石を片付け始めた殿が顔を上げずに返す。
郭嘉殿が手を止め顔を上げた。
いつも通り笑みを浮かべている。



「心外だね。お世辞なんかじゃなく、本当のことだよ」

「そういう顔が出来なくなったときが、焦ってるって言うんです。焦りの欠片も見えないのに、よく言います」

「あははあ、。そう言うあんたも、指してる最中は全く読めない表情(かお)してるの分かってるかい?」



いや、普段もか。
と、賈詡殿は付け足した。
殿が郭嘉殿から、賈詡殿へ顔を向ける。
暫くして、ふっと殿がため息のように、息を吐き出した。



「…分かりました。とりあえず、ここに居る方は全員、読めないってことですね」



違いない、と俺は内心殿に賛同する。
賈詡殿は声に出していたが。
それから間もなく、鐘の音が耳に届いた。
終業か、と思いながら戸外に視線をやるとまだ空は大分明るい。
日が長くなった、と俺はどこかで思った。

郭嘉殿が前触れもなく立ち上がる。



「さて、たまには四人で飲みに行こうか。勿論、先約は無いはず、だよね?」



と誰にともなく、郭嘉殿が言った。
賈詡殿が郭嘉殿を見上げ言う。



「郭嘉殿、あんたこそ、先約はないのかい?」

「勿論。のために空けてあるよ」

「皆さんのためじゃなくて?」



郭嘉殿に続いて呆れたように殿が言った。
と、同時に賈詡殿が殿を見る。
殿は一拍置いてから、怪訝そうな顔を作った。



「……なんですか?何か、違いました?」

「ああ…、いや……あんた、本当に読めない人だ。ま、俺はそれでいいとは思うがね」



賈詡殿が呆れたようにそう言うと、殿は更に眉間を寄せた。



「まあ、とりあえず行こう」



そんな二人にいつもの笑みを向けながら、郭嘉殿はそう言って回廊へと向かった。
まだ、俺は一言も返していなかったし、そもそも賈詡殿が一緒というのは気乗りしなかったが郭嘉殿と何より殿が一緒ならばいいか、と俺は視線を上げた。
その先には殿がいる。
回廊へ向かった郭嘉殿と賈詡殿を目で追っているようだった。
じっとそちらを見つめている殿は、いつも通りだが、しかしどこかいつもとは違う気がした。
俺は疑問に思ったが、このままここに居続けるわけにもいかない。



殿。俺たちも行きましょう」

「…、はい。行きましょう」



振り向いてからそう言って、殿は明るく微笑んだ。
あの、見ているこちらまで気持ちが明るくなるような温かくなるような、そんないつもの笑みだ。
回廊へ向かう殿の背を、俺は一度見てからその後を追って歩いた。










 * * *










と十三回目の棋を打った時から数日経ったある日、私は宮城の書庫にいた。
古い資料ばかりが揃うこの書庫は、例え昼でも普段から人気が無い。
だから、女官と利用することが多い。
けれど、今回は本当にちょっとした調べ物のためにそこにいた。
少し埃っぽい臭いのするそこは、日が東に位置する時以外、直接差すことはないけれど風通しのいい場所だ。
たまに抜ける風が、どこからか何かの花の匂いのような、そんな少し甘い香りを運んでくる。
その香りの元がどこにあるのかは知らない。

欲しい情報に一通り目を通し終え、手にしていた竹簡を書棚に戻そうとしたとき、背後の気配に気づいた。



「郭嘉さん」



同時に、の声が耳に届く。
私はそのまま竹簡を書棚に納め、それから後ろを振り向いた。
まっすぐ、私の目を見つめてくるを確認してから口を開く。



「どうしたのかな?そんなに、改まって」



そう、改まって。
そういう顔をしている。

は私を見たまま、暫く口を閉ざした。
けれど、目はまっすぐ私に向いたままだ。
私はふっと笑ってから、に言った。



「もしかして、お願いしに来たのかな?私に、房中術の相手をして欲しい、って」

「違います!そっちは薬で解決できてますから、結構です!」



そうは即答すると、拳を握り肩を震わせる。
耳の先が真っ赤、とまではいかないけれど、赤い。

耳を赤くする明確な理由は、さてどこにあるのかは分からない。
けれど、出会い始めのころからを考えると、多少前進した、といえるかな?
意識させるという意味では。

は肩を震わせながらもすっと息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。
それから先ほどと同じように、私にまっすぐ視線を向ける。
そして言った。



「私の質問に、正直に答えて下さい」



まさしく、藪から棒に。
そのまま答えた。



「他ならぬからの質問、だからね。いいよ」



はほんの僅か黙ってから、再び口を開いた。



「身体…調子が良くないんですよね?いつからですか」



よく通る声でそう言った。
内心、思う。
調子が良くないんじゃないか、ではなくて、いつからか、と問う。
つまり、既に調べたか若しくは山を張ったか。
どちらにしても、それを答える気は今のところ、ない。



「いつからも何も、私は至って健康そのものだよ。は何か勘違いをしているのではないのかな?」

「勘違いなんかじゃないです」



そう言って、は懐から小さな紙切れを出した。
四つに畳まれているようだ。
それを無言で、押し付けるように私の前に差し出した。
何の変哲もない紙切れ。
中に何か書いてある。

そこには生薬名と効能が羅列されていた。
内容に見覚えがある。
いや、よく知っている。



「これが、どうかしたのかな」



視線を上げると、は私を射抜くように見つめている。
そんなに向かって、私は口元を緩めた。
が言う。



「郭嘉さんのお屋敷に定期的に出入りしている、商人風の若いお医者さん。…その方が処方している薬の内訳です。知らないなんて言わせません」



そこまで知っているのか。
率直にそう思った。
下手な嘘は通用しないか。



「確かに、の言うとおりだ。それは認めよう。…それで?」

「…この期に及んで……」



はそう呟くように言って、表情を険しくする。
どこか泣いているようにさえ見える。
実際は泣いてなどいない。
けれど、そう見える。
そして、そう思えば思うほどが愛おしくてたまらなかった。
恐らく、心配してくれているのだろうから。
いつも素っ気無い態度の、あのが。

思わず目を細める。
その時。
何の前触れもなくが私との距離をつめ、私の首をその両手で挟んだ。
触れる手が冷たい。
さらりとした肌の感触。
が私を見上げ、険しい表情(かお)のまま言った。



「いつからですか。いつから、こんなに体温が高いんですか。いつから、脈がこんなに定まらないんですか」



僅かに甘い香りがして、風がそよいだことを知る。
の使っている香の匂いがいつもより少しだけ強く香った。



「たまたまなんです、たまたま師事している医者(せんせい)のお弟子さんの一人に彼がいた。たまたま、薬屋に行ったら彼を見かけた。たまたま、郭嘉さんのお屋敷から出てくる彼を見た。全て偶然知ったことだった。そのあとのことは調べました」

「…。君は本当に忙しい人だね。医者の真似事までする必要は無いと思うのだけれど」

「自分のしたいことを成すためです。そのために必要だと思うことは、できる限りします。何もせず後悔することだけはしたくない…だから私は……」



そこまで言って、は口を噤んだ。
触れている手はやはり冷たい。

しっかりと休息すれば、まだ大丈夫だ、とは言っていた。
まだ。
それもきっとは知っている。
一度目を閉じてからが言う。



「向こうではすぐ治せても、ここでは治せない。そういうものが沢山あるんです。疲れが溜まっているだけなら、無理せず休めば治ります。けど、もし無理を押して手遅れになったら治せないかもしれないんです。私が自由に行き来できたら治せる薬を持ってくることも、治す為に誰かを連れて行くことも出来たかもしれない。けど、それはできない」



の手が離れていく。
俯いたその表情は見えない。
ただ、なんとなく嫌な予感がして私はの言葉を遮ろうとした。



「もう、あの時代には戻れないんです!」
!」



ほんの一瞬、の言葉の方が早かった。
その声と私の声が重なったと同時に、物音が耳に届く。
が弾かれたように私を見た後、すぐにその物音の出所へと視線を移した。
私もまた、そちらを見るが明り取りの窓に嵌められた格子の先が眩しく見えるだけで人影などは確認できない。
けれど、確かに何かの気配があった。
数拍の間、ただそこを見つめる。
気配が薄らいだように感じる。

不意に小さな鳴き声が僅かに聞こえ、つられて扉の方へ視線を向けると、半開きになったその向こうから一匹の猫が姿を現した。
茶色い、虎に似た模様の毛並みをしている。
同じようにそこへ視線を注いでいたが扉へと駆けると、猫はさっと逃げ出した。
それを気にすることなく、は回廊の先をじっと凝視する。
気配を感じたその方向を、探るようにただじっと、そうしていた。
私は扉のほうへ近づいてから、微動だにしないへ向かって言った。



。君の言いたい事は分かったよ。けれど、誰が聞いているか分からない場所で、あの言い方は良くない。気をつけないと、ね」

「……、すみません。少し、取り乱しました…、気をつけます」



私のことだけを取り上げてが言っているわけではない、ということは分かってはいるけれど、それでもが自分を気にかけてくれていることに変わりはないのだと思うと、自然、口元が緩む。
日がまた高くなったのか、開いた扉の先から差す日は、ここの位置する場所と相俟って、殆ど書庫内に入っていない。
敷居から数寸、内へと入った所に日と影の境界があった。



「さて。…ところで、そのこと勿論まだ、誰にも話してはいないね?」

「…はい。私はただ、郭嘉さんに休んでもらいたいだけですし…、休んで下さるなら他人に言い触らす気もありません」



は頷いてから、そう言った。
の足元が日に照らされている。
少し落ち着いたのか、表情の険しさは消えていた。



がそこまで言うのなら、大人しく休みを取ろうか」

「そうして下さい。それなら私も安心です」

「それは中々、嬉しい言葉だ。…けれどね、



そう切り返すと、にはその返しが意外だったのだろう。
不思議そうな表情を浮かべ、顔を上げる。

自分を、例え僅かでも気にかけてくれるのかと思うと、どうしても、衝動を抑えきれない。



「それは私も同じことだよ。時に危険なことを任せる私が言うことではないのかもしれないけれど…君にもしっかり休んでもらいたいと思っているし、薬で解決しているといってもね…やはり心配なんだよ、の身体のことが」

「…そ、それは……大丈夫です、心配して下さるのはありがたいですが、ひとまず解決してますから…」



何かを感じ取ったのか、僅かに身を引いたに一歩詰め寄る。



「私の話は以上です、戻ります…っ」



踵を返そうとしたの腕を掴んで引き寄せた。
無理やり上を向かせて、その唇を奪う。
そのまま書庫の奥へと進み、書棚に押し付けた。
動きを封じてしまえば、抗うことは出来ないだろう。
柔らかい感触のそれを舌で割る。
の香りが、今までのどの時よりも近い。
直後。



「っ…!」



不意の痛みに、思わず後ずさった。
が、脇をすり抜けていったのが気配で確認できる。
鋭く疼く痛みに口元を押さえながら、後ろを振り向き顔を上げるとが眉根を寄せ私を睨んでいた。
身体の前で握る拳は、小刻みに震えている。
当然、それは恐怖からではなく、怒りからだろう。
何か言いたげに僅かに開いていた唇が、不意にきゅっと結ばれた。
一度、一層きつく、私を睨み上げてからが声を上げる。



「ちゃんと、休んで下さい!…、…っ……、知りませんからっ!」



途中、何か言葉を飲み込んで、はそれだけ言い放つと書庫を飛び出していった。
足早に、遠のいていく足音はまるでその怒りを表しているようだ。
まだ、ずきずきと痛むその感覚に、ふと記憶が蘇る。
そういえば昔、似たようなことがあった、と。
その時は、確か頬を叩かれたのだった。
ではない、と出会う、もっと前のこと。
その時の相手は、涙を浮かべていた気がする。

私は何故だかおかしな気分になって、今度は笑い声を押し殺す為に口元をぐっと押さえた。















つづく⇒



ぼやき(反転してください)


途中で手が止まると単語が出てこない
読書不足でしょうな


2019.02.15



←管理人にエサを与える。


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