一九七年 正月







     人間万事塞翁馬 72















今日は特別長閑でいい日だ、と戸外を見やると空を横切る目白が目に入った。
正面に視線を戻す。
荀攸殿が相変わらずの仏頂面で筆を滑らせている。
その隣の席は空いている。
今は外している。
左手側に視線をやる。
一段上がったその席も空いている。
そこは空いていることが多い。

あの御仁は、俺を監視する気があるのかねえ。
ま、喰えないお人だってことは周知のことで、監視の仕方もいくつかあるのは皆同じ。
どちらにせよ、何かするつもりは、今のところ俺にはない。
今思い出したって、あの日のことはもう、全て、降参だ。
それに、まさか…。



「郭嘉さんと違って、仕事に真面目なのは喜ばしいことですね」

「相変わらず辛辣だね、お嬢さん」



今まさに思い出していた人物の声に、俺は視線を上げた。
そこには青空を背に、黒と見間違えるほどの濃い紺色とそれよりも鮮やかな瑠璃紺を基調にした衣装を身に纏った、女にしては長身の彼女が立っている。
手には書簡が一本握られていた。
すらりと伸びるその姿は、いつぞやの兵卒風情のそれとはまるで違って見える。
あのときは、本当にただ小柄な少年兵か何かだと思っていた。
声を聞くまでは。

彼女は無言のまま俺の前まで進み出て、ぴたりと歩みを止める。
見上げた彼女の表情は、宛城の広間で見たその時から変わらず、柔和で穏やかだ。
あの日から、それほど日は経っていない。



「これ、預かってきました。あと、よろしくお願いします」

「これはすまないねえ。言ってくれれば、取りに行ったんだが」

「お気になさらず」



そう言って、彼女は笑みを浮かべた。
席へと戻っていく彼女の背を盗み見る。

恨み言の一つや二つ、言われる覚悟はしていた。
あの巨漢―典韋殿とは相当仲が良かったのだと、郭嘉殿から早い段階で聞いていたからだ。
だからこそ、それを考えると俺は腑に落ちない。
彼女がこうして俺に笑みを浮かべ、他の者と変わらぬ姿で接することに。
無理をしてそうしているなら、すぐ分かる。
だが、そんな気配は微塵も感じられない。
現に何度か鎌をかけているが、気付いているのかいないのか、乗ってこない。
宛城での俺の策を見破ったのは、半分は彼女の功績だ―後から知ったことだが―。
そこまで頭の回る御仁が気付いていないとは思えないんだが。

まあ、俺は罪滅ぼしだとか恨み節を言われてみたいだとか、そういう下らんことで彼女に鎌をかけてる訳じゃない。
何となく、好奇心だ。
こういっちゃなんだが、頭があれだけまわるくせに、なんていうか彼女はどこか浮世離れしている。
戦慣れしていない。
いや、慣れてはいるが…なんか、こう、引いて見ていると違う気がする。
それが何か、何となく気になっているってだけだ。
それに、たまたま聞いてしまったあの言葉。

『私が、もし…忘れていなかったら…』

誰もいない宮城(しろ)の庭の片隅で、桃の、まだ固い蕾を見上げていた。
どうも、あの言葉がひっかかる。



「賈詡、あなたはまた何を企んでいるのかな?」

「おや、郭嘉殿。今日はお早いお帰りで」

「あなたがこんなにも早くここに馴染んでくれて、私は嬉しいよ」

「あははあ、お褒めに預かり光栄だねえ」



音もなく現れた郭嘉殿に、流れで返しながら彼女を見た。
書机の上から視線を外さず、荀攸殿と同じように筆を滑らせている。
気にした風もない。



「上司殿がお帰りだ、お嬢さん」



そう、声を掛けると彼女は筆を止め少しだけ視線を上げてから一瞥した後、再び筆を動かし始めた。
そして、手を止めずに言う。



「何か、お遣いですね。どこへ向かえば良いですか?」

「流石。曹仁殿と満寵殿が君を至急、借りたいそうだ」

「わかりました、直ぐに向かいます」



筆を置いて立ち上がる。
視線を感じて顔を上げると、郭嘉殿が俺を見ていた。
微笑んだまま言う。



「あなたもだ、賈詡」

「俺も?監視はどうする」

「もちろん、が監視するに決まっている」



彼女と目が合った。
肩をすくめてから立ち上がる。
一度拱手してから回廊に出る彼女の背をそのまま追った。

郭嘉殿のことだ、そうは言いつつどこかで監視しているだろう。
例え、このお嬢さんが別命で監視を言いつけられていたとしても、だ。
まあ、今は、とは言ったが初めから俺は、何かするつもりは更々無いんだがね。
心底降参だと思ったのは、後にも先にも、あれだけだ。

回廊を歩きながら横目で空を見やると、目白が二羽、飛び去っていった。










 * * * 










「すまぬな、殿、賈詡殿。どうか、ご助成願いたい」



そこに着くと、開口一番曹仁さんにそう言われた。
いいえ、と首を横に振るとその横に立っていた伯寧さんが続くようにして言う。



「どうしても人手が欲しくてね。よろしく頼むよ、。それから賈詡殿」

「ま、俺はついでみたいなもんだろう?なんせ、ここにきて日が浅い。ひとまずはお手並み拝見、といこうかな」

「いえいえ。賈詡殿にもしっかりと働いていただきますとも。頼りにしていますよ」



そう言って伯寧さんは腰に手を当てると笑顔で二度頷いた。

賈詡さんはどうも、皮肉屋のようだ。
接していてそう思う。

賈詡さんの言った通り、まだ一緒に仕事をするようになってそれほど日は経っていないけど…。
思い出したように、私にも皮肉を言ってくる。
…多分、皮肉、だと思う。
けど、わざわざ宛城でのことを引き合いに出すのは何故?
典韋さんのこと…と関係しているとは思うけど。
私は…少なくとも私は、典韋さんの仇を討とうなんて、思っていない。
というより、仇だ、と思っていない。

…これはおかしいのかな。
いや、おかしいと思う。
だけど、なぜか仇なんだと思えない。
もし、私が賈詡さんの立場だったら…きっと、同じような選択をした気がするから。
ここでは…、きっとそうしたと思うから。
だから、そう思えないんだと思う。
理由が…はっきりとは、自分でも分からないんだけど。

典韋さんがいなくなってしまったのは、悲しい。
もう会えないと思うといてもたってもいられなくなる。
どこにもいない、もう、どこにもいない。
ただ、苦しくて、悲しい。
だけど、気持ちでは泣きたいのに、泣けない。

…誰かのせいじゃない……、なら何で典韋さんは…。
私が、忘れていなかったら…。

…ダメだ、いつまでも下を見てばかりではいられない。
忘れていなかったとしても、何が出来たのかは…今となっては分からないことだわ。
今は、やることをやらなきゃ。

そして、典韋さんが曹操さんを守ったように、私も私のやり方で曹操さんを守る。
曹操さんが曹操さんの思う形でこの乱世を平定するために。
それはきっと、伯寧さんのためでも、文則さんのためでも、…良くしてくれるみんなのためでもあると思うから。

記憶をなくしてしまった今、私にできることは何?
もう、同じ思いを抱きたくない。

………私が、忘れていなかったら、もしかしたら、典韋さんは…。
怖い…。
みんな、私にとっては大切な人なの。
もう、誰かが…。



「お嬢さん、ちゃんと聞いてるかい?」



賈詡さんの声に顔を上げる。
それから伯寧さんと曹仁さんを順に見た。
私を見ている。



「私が伯寧さんと囮役に。曹仁さんと賈詡さんは本陣に身を潜めて手薄と見せかける。そこへ賊を招き入れて、一気にたたく。でしたっけ?」

「ざっくり言うと、そういうこと」

「うむ」

「あははあ、さすがさすが。ぼーっとしてるように見えたから、てっきり聞いていないものかと」

「そうでしたか、それはすみませんでした。私の不徳です」

「ああ、いやいや。俺は別に責めていない。ま、同じ軍師として頼もしい限りだ」



そう言って、賈詡さんは顎に手を当てた。

賈詡さんは…、責めて欲しいのだろうか。
…考えすぎ、自惚れ、かな。
私にはその気はないし、仮にそうだったとしても…、私には関係のないことだわ。
典韋さんがいなくなってしまったのは、賈詡さんのせいじゃないし、…私の、せいでもないし。
多分、誰のせいでもない、と思う。

だけどきっと、私が直接奪った命は、それがなくなってしまうのは、多分、絶対、私のせいだと思う。
まだ、迷う。
私が出来ることは何?
私にやれることって何?
私がやらなきゃいけないことって何?

私に必要な覚悟。
私にはきっと、まだ、時間が必要なんだわ。
その時間は、大して無いんだけど。










 * * * * * * * * * *










何度目かの寝返りを打つ。
眠れない。
ここのところずっと、寝つきが悪い。
夢を見るから。
それもある。
だけど一番は、心が落ち着かないから。

どうして典韋さんが死ななければならなかったの。
曹操さんを守っただけなのに。
どうして。

ただ、それだけがぐるぐると頭の中を回る。
答えなんて無い。
こんなことを思うのは、私がここを、まだ知らないからだろうか。
どうして典韋さんが死ななければならなかったの。
そこを、どうしてと思う私は、まだ何も知らないからだろうか。
笑っていた典韋さんを思い出すと…、待っている、と答えた自分を思い出すと、このままじゃいけないと思う。
だけど、どうしたらいいのか分からない。
どうやったら、この気持ちはおさまるの。

…賈詡さんを、仇だと思ったら収まるんだろうか。
けど、仇だなんて全く思えない。
そんな気持ちは一切湧かない。

――誰かのせいにしたい訳じゃない。
誰のせいでもない…と、思うから。
ただ、どうしたらいいのか分からない。
どうにかしたい。
どうにかしたいのに。
生きてる限り人が死ぬのは当たり前。
それは仕方の無いこと…、だけど、典韋さんの死は本当に仕方の無いことなの?
私はまだ、ここを知らない――。

身体は時間を覚えている。
布団から起き上がって縁側の戸を目指す。
雨戸をほんの少し開けると、まだ空は暗い。
今の時期、日の出の時間は八時頃。
空が白み始めるのはその約一時間ぐらい前。
その時間が出勤時間。

――稽古場へ行こう。
最近は前よりも早く稽古場へ行く。
誰もいないうちから兎も角身体を動かしていれば、自然に気持ちは明るくなる。
誰かに会う前に、気持ちを上げる。
今は、その方法でしか昼間の自分を保っていられない。
そんな気がしてる。
だけど次の戦の備えも出来て、一石二鳥、だよね。

ふと、曹仁さんと伯寧さんの応援に行った、先日のことを思い出した。
賊の一人に止めを刺す瞬間、伯寧さんに、もういい、と言われて腕を掴まれた。
あれは、なんで止めたんだろう。
分からない。
――もういい。
何が、もういいんだろう。

盥に張った水にしずくが落ちる。
そこに映る自分の顔は、過去の私。
だけど、これが今の私。
私の知ってた自分の顔より、幼いと感じる私の顔。
口角を上げる。
笑った顔の自分が映る。
これでいい。

家を出た。
息はまだ白い。
歩きながら、消えていく靄を眺める。
暫くして稽古場に着くと、誰もいない。
当たり前だ。
こんなに早くここに来る人はいない。
せめて、もう一時間ぐらい待たないと。
そして、その時間は私が家へ帰る時間。
仕事に行く準備をしないといけないから。
汗流したまま、朝から仕事なんて…夏でもない限り、ご遠慮願いたいわ。

軽くストレッチをしてから稽古用の鍛錬棒を手に構える。
今日は、長物の稽古。
何種類かの武器を扱えるようにしておくのは何かと便利だ。
普段は刀を使っているけど、いざって時、何が起こるか分からないから。
それに、郭嘉さんの指示でちょっとした動きをするときは刀を預けておくことが多いし。
多少、色々と扱えておいた方がいい。
初めの内は、みんなの動きを真似させてもらってたけど、今は自分の身体に合わせてアレンジしてる。
けど、変な癖がつくのは嫌だから、その辺りは人に見てもらってる。

薙ぐ、突く、構える。
それを繰り返す。
動きをいくつか交えて構える。
一度息を吐き出して身体を起こした。
何となく、気配を感じてそちらを見ると、そこに人が立っている。
月明かりに姿が浮かぶ。



「文則さん…」

「精が出るな。一つ、手合わせ願いたい。疲れているのならば、無理にとは言わぬ」



一瞬、どうしてここにと思ったけど、それ以上私は考えなかった。
少しだけ、緊張している。



「いえ。…、こちらこそお願いします」



そう答えると、文則さんは頷いてから背を向けた。
数歩間合いを取ってから向き直る。
どちらともなく構えた。
空気が変わる。
眼光に鋭さが増す。
ぴりぴりと肌を突き刺すような緊張が走る。

これが初めてじゃない。
何度か手合わせしてもらっている。
リーチが凄く広くて、それでいて結構動きが早い。
文則さんだけじゃないけど、力押しになったら私は負ける。
力で返すことを考えてはダメ。
素早く流して、懐に。
間合いを取られる前に、その中へ。



「っ……」



瞬間、咄嗟に後方へ地面を蹴った。
胸の前を棒が薙ぐ。
着地と同時に、次の手が迫る。

…ダメだ。
考えすぎてはダメ。
私に出来ること、私がやらなきゃいけないこと。
私がやりたいこと、私がやると決めたこと。
迷う必要は無い、多分全部、そこに繋がってる。
今は考えない。

巡っていた色んなものが、一度止まった。
何合交えたかは分からない。
ただ、それは唐突に終わった。

突きを繰り出した瞬間、それをかわした文則さんに左手首を掴まれた。
顎の下に棒がある。
上がった呼吸を整える間に、それらは離れていった。
身体を起こしながら文則さんを見上げる。
目が合うと同時に、文則さんが言った。



「そろそろ戻らねば、出仕に間に合わぬであろう」



言われて空を見上げた。
星の位置からすれば、確かにそうだ。



「そうですね、そろそろ戻ります」



空から視線を戻しながら、そう答えた。
息はまだ、上がったままだ。



「動きは悪くない。以前より、攻撃が重くなった。確実に上達している」



文則さんを見ると、私をまっすぐ見ている。
そのまま続く言葉に耳を傾けた。



「…だが、粗が目立つ。がむしゃらに動いても、いつか疲れて動けなくなるだけだ。適度な休息も必要だ」



返せる言葉は見つからなかった。
頷くこともできなかった。
息だけ吸い込んで、それを飲み込んだ。
なんとなく、目をあわせていられなくなって、自然と俯く。
足元は、意外に輪郭がくっきりと見える。
不意に、頭に感触がある。
それは軽く乗って、それからすっとひと撫でして消えた。
はっとして視線を上げると、手が戻っていく。
意味が分からないまま、更に視線を上げると、いつもと変わらない表情の文則さんが私を見ていた。



「埃が被っている。早く戻った方が良かろう。仕度に、時間がかかるのではなかったか?」

「…、…はい。戻ります」



自然と口元が緩んだ。
頭を下げてお礼を言ってから、私は稽古場を後にした。















つづく⇒



ぼやき(反転してください)


賈詡に夢主をなんて呼ばせようか…
と、もやもやしながら打ちました
まだ先が見えない

2018.12.27



←管理人にエサを与える。


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