人間万事塞翁馬 71 全部完璧だったはず。 正門まで一気に駆けて、胡車児に一撃を与えた。 そのあとは無我夢中で、半分何をしていたかも覚えていないけど、典韋さんが暴れまわってたのは覚えてる。 名前を呼んだら、余所見すんなって言いながら笑って返してくれた。 そう、返してくれたのに。 どうして、今目の前にいる典韋さんは、こんなに辛そうな顔で横になってるんだろう。 …ちがう…分かる、分かってる。 だって、こんなに沢山怪我をして、包帯を巻いても巻いてもすぐ赤くなる。 今、手で押さえてるところだって、もう私の手の中は濡れてるの。 辛いに決まってる、痛いに決まってる。 ああ、どうして、ここは向こうじゃないの。 向こうへ連れて行けたら、もしかしたら、助かるかもしれないのに。 助かるかもしれないのに。 どうして私は、自分の力の一つも満足に使えないの。 もう帰れないって左慈は言ってたけど、試してみないと分からないじゃない。 もし、ちゃんと力が使いこなせていたら。 それができたら。 「向こうへ行けたら、こんな…」 「」 典韋さんに呼ばれて顔を見ると、典韋さんは笑っていた。 「そんな悲しそうな顔して、どうしたんだ…おめえ…、わしの、せいか?」 「ちが…、そんなんじゃ」 「そんなら、よ、笑ってくれ。わしはの、笑った顔が一番好きだ」 一度深呼吸をした。 無意識だった。 改めて典韋さんを見ると、典韋さんは笑みを深めた。 灯りの燈されたこの空間を更に月が照らしている。 寒い筈なのに、熱くて熱くてたまらなかった。 「、ちぃっとわしの頼みを聞いてくんねえか?」 「なに?典韋さん」 私の声は震えていただろうか。 傷口を更に強くおさえたのも、無意識だった。 典韋さんが言う。 「が一番好きだって言ってた…、…ふるさと。あれ、もっかい聞かしてくんねえか」 「タイトル…覚えて、くれてたんですね。嬉しいです……、いいですよ。特別に歌います」 目頭が熱くなる。 気付かないフリをした。 声が震えてしまわないように、心が穏やかであるように、と息を吸って吐いた。 もう、これが最後かもしれないなんて、考えたくなかった。 典韋さんがそれを望むなら、私の気持ちは今はいらない。 今の私の気持ちはいらない。 いつか、典韋さんが同じように言ったとき、私はどんな気持ちで歌っただろうか。 そのときは、じいちゃんのことを思い出した。 いつか笑いあった時を思い出すと、自然に気持ちは穏やかに、そして少しだけ、晴れやかになった。 「兎追いし、かの山。小鮒釣りし、かの川」 今は典韋さんと過ごしたときのことが浮かぶ。 目を閉じると、その時の香りが香った気がした。 あの時は楽しくて、ただ、楽しかった。 「夢は今もめぐりて、忘れがたし故郷」 今それを思い出す私も、その時を思うと楽しい気持ちになれる。 あの時の、私と同じように。 ――外、空に視線を上げる。 高い位置にある月は、ここからは見えない。 視線を落とすと、丁度、典韋さんが瞼をあげた。 「わしの一番好きなの顔、一番好きなのうた、最高でさあ」 「ふふ、なんですか、それ?お世辞言っても何も出ませんよ、典韋さん」 「世辞なんかじゃねえ。、ありがとよ」 へへ、と笑って典韋さんが言った。 それから、少しだけ首を持ち上げた。 「御大将、すいません」 その唐突な言葉にはっとして、私は典韋さんが見ている方向に視線を向けた。 そこには、ずっと曹操さんが立っていた。 その脇には許褚さんが先ほどと変わらず俯いて立っている。 ゆっくりと、数歩、曹操さんが典韋さんに歩み寄りながら、その横で片膝をついた。 「気にするな。よくやった、悪来よ」 「へへ…」 どこか嬉しそうに、典韋さんは笑みをこぼした。 典韋さんが私を見る。 「…」 伸ばされた震える手を、両手で握った。 笑っている。 私は、笑えているのだろうか。 「約束、守れなくてすまねえ…嫌いにならないでくれよ」 「なりません。守って下さるでしょう?約束。待ってます、私」 「そっか、待っててくれるのか、嬉しいぜ…、…なあ、」 「はい」 「”ここ”を嫌いにならないでくれよ、わしは”ここ”も好きだ、だから」 「大丈夫、私は”ここ”が好きです。だから一緒にいるんです」 「そっか…そりゃあ、良かった……、…またな、」 口を開きかけた私の両手が、一瞬で重たくなる。 それでも、もしかしたら聞こえてるかもしれない、と私はそのまま口を開いた。 「はい。また、お会いしましょう、典韋さん。ありがとう」 手はまだ暖かい。 穏やかな顔をしている。 まるで眠っているようだった。 許褚さんが声を上げて泣いている。 私は、もしかして泣いているの? 「曹操さん」 「うむ」 「私、笑えてますか?笑えてましたか?」 「そなたはずっと笑っておった。今もそれは変わらぬ。悪来は安心したであろう」 「そっか…」 笑えていた 「…なら」 それでいい。 それで。 「先に…皆のところへ行っておるぞ」 「はい。私も、すぐに向かいます…、すみません」 「構わぬ。そなたの気が済むまでいてやってくれ」 気配が消える。 他に人の気配はない。 鼻の奥が、ツンとする。 「兎が、美味しいんじゃないんですよ、典韋さん…」 もう一度、声に出す。 その歌は、何を誤魔化そうとしたのか、分からなかった。 * * * 広間を目指す足取りは重い。 後ろをついてくる許褚が、鼻をすすった。 だが、今は感傷に浸るわけにはいかぬ。 まだすることがある。 悪来に付き添うと別れた時点で頭は切り替えた。 見定めるべきものを見誤るわけにはいかぬ。 歩みを止める理由にはならぬ。 広間が近づく。 数人の声が聞こえる。 回廊から広間へ足を踏み入れるとすぐ、視線の先に見知った顔と件の男の顔が並んでいた。 夏侯淵、郭嘉、元譲、そして賈詡。 歩み寄り、足を止めるよりやや早く、元譲が言った。 「典韋は?」 「……今し方、息を引き取った」 「は、一緒じゃないのか」 「悪来についておる」 「そうか」 一拍ほどおいて賈詡が、わしを見る。 口を開いた。 「やあ、曹操殿。もう抵抗はしない。降伏でもない、降参だ」 この場でこうも飄々と、あっけらかんと言ってのける姿は、流石というべきか。 こんな状況でもなければ、わしのこと。 もっと、飛びついていたであろうな。 「この命はもう、あんたの好きにしてくれ」 潔いことだ。 答えは決まっている。 「ならば賈詡。おぬしには我が軍に加わってもらう」 「ちょ……ちょっと待ってください、主公!処罰もなしってことですかい?それに、だってそんな…」 「私は曹操さんに賛成です、夏侯淵さん」 どこからともなく声がする。 気配に気付き顔を上げると、一本の柱の影からが姿を現した。 夏侯淵が声をあげる。 は、普段どおりの柔らかい表情を浮かべていた。 泣いた跡は見られない。 視線を向け、に言った。 「、もう良いのか?そなたはここへは来ぬと思っておった」 「見くびらないでください、曹操さん。やることはやります」 にっこりと笑みを浮かべたに、思わず右の口角をあげた。 改めて、夏侯淵を見る。 「話を戻そう。よいか、夏侯淵…、処罰が必要であるならば、まんまと罠にはまり、悪来を失った、このわしよ。軍師・賈詡の才と、策を実行した張繍の兵の練度、それらは賞賛こそすれ、罰するべきものではない。ゆえに、わしは勝者として、この者らを欲する」 賈詡をちらりと見る。 表情は先ほどと変わらない。 驚いているようには見えなかった。 郭嘉が賈詡を見る。 「賈詡……。もしやあなたは、この結末も読んでいたのかな?」 「あははあ、いや、どうだかね。とにかく寛大な処置に感謝するよ、曹操殿」 そう言った賈詡を、ただ見返した。 董卓が呂布に殺され再び混乱した長安で、王允を殺し呂布を長安から追いやって混乱を沈めたのは、たしかこの男の策だったか。 他にもいくつかを聞いているが、相当抜け目がない。 「郭嘉、おぬしは荀攸と共に、しばらくの間、賈詡から目を離すな。才は欲するが、油断できぬ男であろうからな」 「お任せを」 拱手する郭嘉を確認してから一同を見渡す。 ふと、と目が合う。 強く、迷いのない目をしている。 一人でまた、抱えたのか。 「わしは一刻も早く中原を押さえ、袁紹の南下に備えなければならぬ。次は徐州へと軍を進め、下邳を制する。敵は、あの呂布となる。皆、十分な態勢をもって戦に備えておくのだ」 全員が一斉に拱手する。 もう一度を見る。 辛い目ばかりにあわせている、という自覚はあるが、同情するのは違うと思う。 ただ、次は呂布。 は…。 心の中ばかりは誰にも分かるまい。 だが、そこまで踏み入れすぎるのも、同情するのと変わらぬ気がする。 今までどおり。 わしも、も、今までどおりにするのが一番良いのだ。 が顔を上げる、ほぼ同時に視線を外した。 直後、ふと思い出す。 皆が顔を上げ、居直ってから一拍置いてに言った。 「」 「はい」 「そういえば、文烈がそなたを探しておったぞ。衣装を預かったままだと」 「あ、そっか…そうでした…、すぐ行きます」 と、口元に手を当てて表情を変える。 皆を見渡してから、勢いよく頭を下げる。 それは久しく見ていない、”向こう”の所作だった。 「すみません。失礼します、皆さん。また後ほど」 小走りにかけていくその背に向かって言った。 「、新しいものを贈っても良いのだぞ」 「丁重に!お断りいたします」 律儀に振り返り再度頭を下げたに、思わずふっと笑みがこぼれる。 消えていく背を見て、いつもそこにあった気配がないことに再び気付き、底知れぬ喪失感を覚えた。 悪来の、を見て浮かべる屈託のない笑みが沸き起こる感情と共に脳裏に浮かぶ。 瞳を閉じるとそれすらも消えてしまう気がして、せめて少しでも長くと、目を細めゆっくりと瞼を閉じた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) なんか違う気がするけど とりあえず、やっと宛城終了 下邳まで行くのに、また長そう… 2018.12.8 ![]() |
Top_Menu Muso_Menu
Copyright(C)2018 yuriwasabi All rights reserved.
designed by flower&clover photo by