人間万事塞翁馬 70















砦の門前で、敵の兵に扮し敵将―陽定―を組み敷く殿を見つめながら、俺はさっきまでのことを思い出していた。



『知っていること、全て話して。時間が惜しいの。意味、分かるでしょう?』



そう言って、敵の伝令兵と思われるその男に殿は冷たい視線を向けた。
偽りは許されない、その男の後ろにまわり、首に右手を添えながらそう付け加えた。
その男はされるがまま、俺と俺の部下二人に囲まれ緊張した面持ちで言う。

軍師は、曹操軍が再び宛城に攻め寄せたその時に火計を用いる算段だ、と。
既に入手していた情報と、はじめて知る情報が男の口から出てくる。
火計部隊は二軍各五部隊あり、北と南それぞれを拠点として狼煙を合図に実行する手筈で、緊急の事態には伝令が動く。
男はその伝令が動いたときに内容を聞き、最終拠点へと迅速に伝えるため中継地で待機していたのだという。
また、拠点の部隊と伝令の間には合言葉があるそうだ。

それは何か、と殿が問うとその男は一瞬躊躇った。
口篭る男に殿は何事か耳打ちをする。
暫くして男はそれに答えた。
殿が何を言ったのかは分からない。
ただ、答えた男に殿はごく明るく笑顔で礼を述べると、同時に男の首に腕をまわして絞めた。
直後男は意識を失う。
失神したようだった。

それから俺たちは殿から南の火計部隊を抑えるべく、砦に兵を集めるよう指示を受けた。
すぐに動ける者は二十名程しかいないが、と述べると、それで十分だと返って来た。
殿はといえば、取り出した紙切れに筆で何事かを書いていく。
ぱっと見ると見たこともない字で、殿の故郷(くに)の字なのかと問うと、そうだと答えてくれた。
詳しくは話せないが郭嘉殿と二人で決めた手段、だそうだ。
聞きながら、書き出されていくそれを俺は凝視したが、ただ線がのたくっているようにしか見えず、自分で字なのか、と直感で問いはしたがじっくり見れば見るほど、とてもそれが字だとは思えなかった。
多分、仮に敵へこの書が渡っても内容を解読することはできないだろう。
見れば見るほど、読めないのだから。
一通り書き終えると、器用にそれを丸める。
いつのまにそこへ降り立っていた一羽の山鳩の足の竹筒に、先刻の鷹同様それを収めると空へと放った。
これよりも少し前、殿はその二度目の鷹を受けてから、恐らく別の山鳩だろう一羽を飛ばしていた。
新野の劉表軍が宛城へ進軍するのをけん制するため、そしてその他物資の輸送を阻止するため、許昌で待機している満寵殿と楽進へその進路を塞ぐよう援軍を要請したのだった。
そうしてから、殿は意識を失った男の鎧兜と衣服を脱がせ、それに着替え始めた。
違和感は覚えたが、俺にはその意図は分からなかった。
着替えながら―勿論、俺も他の者も背を向けていたので見ていない―、殿は策の概要を話し始めた。
危険だと感じ、俺が代わりに、と訴えたが殿は時間が惜しいのだ、と言って聞かない。
俺には他に止める手立てが思い浮かばず、結局そのまま、従うしかなかった。
それでも、その策は見事に成功し、今に至る。
一軍を束ねる将を抑え、二十名ばかりの兵で火計の主たる部隊長をけん制し、そしてまた門を制圧している。
だが、この状態では長くは持たないだろう。
殿はこれからどうするつもりなのだろうか。



「命が惜しいなら言うことに従いなさい」

「っ、…こんな…」

「従わないというのなら、構わないわ。けど、あの音が聞こえないかしら?」



殿の言葉に、俺もまた不意を突かれた。
確かに何十頭かの馬の蹄が地を駆ける音がする。
そちらに顔を向けるのと同時に見えたのは、楽進の率いる一軍だった。
奥にもう一軍見えるのは、満寵殿の軍だろう。
殿は、満寵殿と楽進に先にここへ向かうよう指示を出していたということだ。
これだけの兵で足りると言ったのはこういうことだったのか、と俺は思った。
陽定が、殿の下で言った。



「やむをえん、従おう…」

「それは嬉しい限りだわ」

「…まさか、ここが狙われるなんて…敵の軍師も賈詡殿に匹敵する知恵者か……」



敵将の呟きに殿はただ笑みを返した。

それから瞬く間に、楽進と満寵殿の軍が砦を制圧していく。
敵将と部隊長に縄をかけ場所を移動する。
兵たちが忙しなく動く中、俺と殿のもとへ楽進が駆けて来た。



「曹休殿、殿、お見事な策でした」

「いや、俺は大したことはしていない。全て、殿が考えたことだ」



そう答え、どちらともなく殿を見ると、殿は珍しく俺たちの会話に気付かず、ただ空を見上げていた。
つられてそちらを見上げると、そこには月が浮かんでいる。
櫓のあった場所で確認した高さより、更に高い位置にある。
もう一度殿を見た。
表情は普段と変わらないように見える。



殿…」



思わずそう呼ぶと、はっとしたように殿はこちらに視線を向けた。
そこで初めて、楽進に気付いたような顔をしている。
一拍おいて、殿が口を開いた。



「ありがとう。さすが、楽進さん。このあともお願いね」

「恐縮です!殿の姿も確認できましたし、私は次の任へ向かいます!兵も待機していますから」



そう言って拱手すると、楽進は足早に去って行った。
そんな楽進の背を、殿は笑顔で見送っている。
ひとしきりそうしてから、殿が俺を見て言った。



「曹休さん、私はこのまま郭嘉さんと合流します。あと、お願いします」

「ああ、任せてくれ。狼煙が上がったら進軍し、宛城南門を攻める、だったな」

「はい…、…では行ってきます」



頷いた後、軽く頭を下げてから殿は砦の外へと向かって行った。
途中栗毛に跨り、駆けていくその背を見送る。
その姿が見えなくなってから後ろを振り返ると、満寵殿の姿が視界に入った。
思わずそこへ駆け寄り声をかける。



「満寵殿」

「ああ、曹休殿。首尾よく行きましたね」

「いや、それは殿が…」



そこまで言って、俺は一度首を横に振った。
改めて満寵殿を見る。



「満寵殿は殿に会わなくて良かったのか?…もう行ってしまったが」



そう言うと、満寵殿は不思議そうに眉を上げてみせた。
それから微笑んで言う。



「まだ終わっていないのに引き止めるわけにもいかないですからね。…それとも、曹休殿には何か心配事がおありで?」



いつもの調子でそう問われ、俺は一瞬口篭る。
図星を突かれた気がした。
殿に限らず、軍師の皆は何でも見えてしまうのだろうか。



「…いや、心配事というか……、殿が難しい顔をしていたのがちょっと気になって…」

が?」

「ああ。あんな顔をした殿は初めてだったから…何か声をかけてあげないと、と思ったんだが…」

「逆に、どうしてそんな顔をしているのか、と問われたのではないですか?」



俺は驚きの余り目を見開いて満寵殿の顔を見上げた。
満寵殿は変わらず笑みを浮かべている。



「なぜ分かったんだ?全くその通りだ」

「知りたいですか?」

「ああ、教えてくれ!」



そう告げると、満寵殿はふっと笑って言った。



「まさしく、今、そういうお顔をされていたからです」



思わず首をかしげたが、それでも意味は分からなかった。
殿にも同じようなことを言われた、とふと頭を過ぎった。



「俺は…何て言ってあげれば良かったんだろう」

「曹休殿」



改めて呼ばれ、俺は落とした視線を上げた。
満寵殿の表情はずっと変わらない。



「気に病まないでください。それで良かったんですよ、きっと」

「そうだろうか」

「ええ。少なくとも、が笑っていたなら、ひとまずそれで良かったんだと思います」



そう言った満寵殿の意図はやっぱり俺には分からなかったが、殿の笑顔を思い出したらそうなのかもしれないと、思った。
そこではた、と気付く。
俺は満寵殿になんてことを話しているんだ…。



「の、狼煙が上がったら直ぐに動けるように、俺は上へ……、満寵殿!こ、ここは任せた!」

「はい、お任せを」



その声を背中で聞いて、俺は城壁を登る階段を目指した。
駆け上った階段の先で夜空に上がる狼煙を見たのは、それから暫く経った頃だった。









 * * *










狼煙を遥か後方に臨みながら栗毛を駆ける。
途中で自分の馬―鹿毛―を離れ、櫓まで歩いて待機していた私は今、が駆けてきた栗毛に乗っている。
鹿毛は今頃部下が回収しているだろう。
手綱を握るのはだ。
私よりの方が手綱捌きが上だ。
思っていた通りの細いその腰に、腕を回す。
に言った。



「報告は受けていたけれど、私以外の男の衣装を着ているだなんて聞いていない。どういうことかな?」

「さっきも話しました、策の一環です」

「そういうことではなくてね」

「私は郭嘉さんの部下と言う立場ですが、プライベートのお付き合いをしているつもりはありません」

「そこまで分かっているのに、どうして分からないのかな」

「すみせん、これ以上郭嘉さんが何をお考えなのか、私には分かりません」



程なくして、ため息のようなものが聞こえた。
宛城の影が徐々に大きく、迫るように近づく。
普段どおりのやりとりだが、の手綱を握る手が僅かに震えているのを見逃す筈がなかった。
栗毛が地を蹴る音だけが耳に届く。
白い靄がいくつも出来ては過ぎていった。



「怖い?



ただそれだけを問う。
暫く沈黙が続いて、それからがぽつりと言った。



「怖い」



それから続けた。



「大切な人が急にいなくなるのは、怖い」



前をまっすぐ見るの横顔を見る。
それから同じように前を見た。
が素直に返したのが、意外だと思う。
この状況がそうさせたのかと思うと、少し妬けた。



「…私がいなくなっても、そう思うのかな?」

「当然です。だから、私は…」



が大きく息を吸う。
の手ごと、手綱を握った。
繊細な手だ。



「大丈夫、典韋殿はまだ戦っている。、君のここまでの策は完璧だった。だから、今度は私の番。任せてくれるかな?」

「もちろんです、お任せします」



宛城の南門が迫る。
先行していた曹休殿の軍がそこを攻めている。
喧騒が大きくなる。
月明かりが砂埃で霞んでいた。
門は開いている。
途中、待機させていた兵から馬上のまま、どちらともなく得物を受け取り一気に駆けた。
門をくぐる寸前、に指示を出す。



はこのまま正門へ。典韋殿と合流して胡車児を一気に攻める、君にしか頼めない。あとは分かるね?」

「はい!郭嘉さん、ご武運を!」

もね。あとで会おう」



それだけ伝えて、栗毛から飛び降りる。
受身をとって顔を上げると、駆ける栗毛に追っ手を差し向ける紫の布を頭に巻いた男が目に入った。
砂埃を払う。
視線を向けると私に気付いたその男もこちらを見る。



「もしかして、君が噂の軍師、かな?」

「あははあ、それはこちらの台詞だ。よくもまあ、見事に策を見破ってくれたもんだ」



喰えなさそうな男だと内心思う。
まあ、軍師なんて呼ばれる者は、皆そうだろうけれど。
男が大仰に言った。



「まあ、いい。俺の名は賈文和。ここで会ったが運のつきだ。一人、取り逃がしはしたが、多勢に無勢。問題じゃない」

「それはどうかな。あまり甘く見ない方がいい」



そう、の身体能力は普通じゃない。
だから、こういう時のために、三月(みつき)の間兵卒の真似事をさせて基礎を探りなおした。
いざとなれば、私の手足となって前線を駆け、裏にもまわる。
と二人で話し合って決めたことだ。
――そして、もしものときには、頭にもなり得る。
にはそこまで話していないが、これは私の切り札。

得物を構える。
それから付け足した。



「ああ、忘れていたよ。私は郭奉孝。運がつきたのは君かもしれないね、賈詡」

「あははあ、あんた…喰えないねえ」

「それはお互いさま、じゃないのかな」



暫く視線を交わしてから地を蹴ったのは、ほぼ同時だった。















つづく⇒(次は死ネタです



ぼやき(反転してください)


戦う軍師
そして夢主が超人になっていく…
やりたいことだけやってたら、酷いことになりそう
もう、酷いけど

2018.12.8



←管理人にエサを与える。


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