一九七年 正月 人間万事塞翁馬 69 主公と合流した地点から離れた適当な場所で黒鹿毛をとめた。 後ろを振り向き、同じように鹿毛をとめた殿に言う。 「ここで馬を下りよう」 「はい」 どちらともなく下馬する。 これ以上、馬で進めば敵に気取られる可能性があった。 ここから先は自分の足で進まなければならないが、その理由を話さなくとも、殿は既に分かっている。 部下数人の僅かな気配を周囲から感じながら殿に言った。 「ここからは、それぞれ分かれて情報を集める。基本は二人一組、時間がないから余り遠くまではいけない。この先の道を外れた場所に小さな櫓があるから、そこで俺と殿は待機して皆からの情報を待とう。有力なものが得られたら、すぐに郭嘉殿へ知らせる。殿からは他に無いか?」 「…そうですね。一人、私の協力者を南へ向かわせてもいいですか?」 「南…?」 「はい、新野方面を探らせます。劉表の動きが少し気がかりなので」 「分かった、それは任せる」 無言で殿は頷いた。 「それじゃあ、開始だ」 気配が無くなる。 しんと静まる空気は冷たく、当然のように虫の音ひとつしない。 櫓を目指し一歩踏み出す。 暫く、俺と殿の足音だけを聞きながら進んだ。 吐く息が白い靄を作るのを見ながら、左後方を歩く殿を盗み見る。 殿は口元に指を当てて視線を落とし、何かを考えているような様子で、前も見ずにただ歩いていた。 難しい顔をしている。 殿が普段、こんな顔をすることは無い。 今までだって…、練兵の指揮を任されたあの一件でも、曹仁殿のところで兵卒たちに混ざっていたときも、まして戦に出た時だってこんな顔をしているところを見たことが無い。 主公や郭嘉殿と棋を打っている時ですら、こんな顔はしない。 少なくとも、俺は見たことが無い。 いつもどこか余裕のようなものさえ見える表情で、僅かに笑みを浮かべている。 真剣な表情をしていても、難しそうに考えてる、なんて俺は感じたことが無い。 それが、今は違う。 殿は、典韋殿と仲がいい。 それは多分、皆が思ってることだ。 殿は大体誰にでも気さくに声をかけて話をするが、それでも典韋殿との時はちょっと違う、と感じる。 冗談を言い合っていたりする姿を多く見かけるからだと思う。 ……だからだろうか。 そんなに難しそうな顔をするのは。 だとするなら、どう声を掛けたらいいのだろうか。 どんな言葉なら、殿は…。 「曹休さん、大丈夫ですか?難しい顔、されてますけど」 急に声を掛けられて思わずそちらを振り向いた。 そこにはさっきまでの表情が嘘のような、普段と変わらない顔の殿が俺を見て立っている。 どこかでほっとした自分がいた。 「ああ、いや、なんでもないんだ。すまない」 「いいえ、こちらこそ。きっと私がそんな顔をしていたんですよね?人って案外、目の前にいる人と同じ表情になりがちなんですって」 そう言って、殿は笑みを浮かべた。 図星を突かれた俺は、どう返せばいいのかわからなかった。 「櫓、見えてきました。なるべく早く情報が手に入るよう祈りながら待ちましょう」 見上げた殿の視線につられて、俺もそちらへ視線を移す。 それほど大きくは無い物見櫓がそこに立っていた。 他からは見つけにくいここは情報伝達の中継地点として機能している。 前触れもなく殿が櫓の脇に立つ。 足元に視線を落とし、それから雲のない夜空をぐるりと見てから腕をあげた。 方角と月の角度を確認したんだと思う。 俺もよく知る方法だ。 だいたい拳一つ分、月が動けば約半刻が過ぎたことになる。 殿が腕を下ろしながら、ぽつりと言った。 「大丈夫…、間に合うわ、絶対……」 小さな呟きのようなものだったが、確かにそう聞こえた。 暫くして殿が不意にこちらを振り向く。 にっこりと笑みを浮かべていた。 意図が分からず疑問に思っていると、唐突に言った。 「お腹、空いてませんか?」 「え?…と、俺は、その」 返答に困っていると、殿が腰から下げた書包―かばん―から布(きぬ)の包みを取り出して手の上で広げる。 最後の折り目を払うと干し肉が数切れそこにあった。 「咄嗟に持ってきたんです。腹が減っては戦はできぬ、って言うでしょう?少しだけですけど、腹ごしらえしませんか?」 抜け駆けみたいですけどね、とどこか悪戯そうに笑いながら殿はそれを俺に差し出した。 押し付けがましいとは感じなかった。 ただ、流れのままそこへ手を伸ばす。 一切れつまみ上げると、続いて殿もそれを手にとって口にくわえた。 まだ数切れ残っているそれを再び布で包んで元に戻す。 それから口にくわえたそれを噛み切った。 その一連の動作を、言葉通り呆然と俺は見ていた。 視線に気付いたのか、殿がそれを飲み込んでから眉尻を下げ言う。 「ごめんなさい、はしたないところお見せしました」 「いや!全然、そんなことはない!…きっと、他の皆もそうすると思う。俺も、そうする」 「そうですか?じゃあ、一緒ですね」 そう言って笑みを浮かべた殿を見て、俺は何となく恥ずかしくなった。 思わず視線を落とす。 干し肉を口に運んだ。 典韋殿、どうか無事でいてくれ。 肉を噛み締めた。 * * * * * * * * * * 半刻は経っていない。 唐突に殿が腕を高く上げる。 間もなくそこへ一羽の鷹が降り立った。 よく見ると、足に小さな竹筒が結われている。 殿は慣れた手つきで、そこから何かを引っ張り出した。 紙切れだった。 「殿、それは」 「南に向かわせた者からの情報です。思っていたより早く届けてくれました」 殿が個人で抱えている斥候。 情報収集のほか、ちょっとした工作もできるらしい。 何か特別に契約を交わして雇っているのだと小耳に挟んだことがある。 その手腕は疑う余地がない、と主公から聞いていた。 軍師の皆のお墨付きもあるそうだ。 ただ、殿がどうやって彼らを見つけ出したのかは誰も知らない。 あの郭嘉殿ですら、だ。 そして、殿本人も、それだけは教えられないと言っているらしい。 彼らとの約束なのだと言う。 殿は不思議な人だと、何かの折につけ、俺は思う。 目の前の殿が丸められた紙を開く。 鷹はいつのまにか肩に移動していた。 ただじっと、殿の手元を見ているようだ。 暫くしてから俺は殿に言った。 「なんて書いてあるんだ?」 「どうやら劉表が宛城へ、兵糧などの物資を援助しているようです。拠点は新野。援軍を送る準備も整っているみたいですね」 「すごい、殿の読み通りだ…!」 「……、…木材と松脂が多く運ばれている……」 「木材と松脂?宛城へか?」 「いえ、宛城の南に位置する砦のようです」 「なんでそんなものを…?」 首を傾げるが、殿からの返答はない。 ただ、指を口元に当て何かを考えている様子だった。 暫くすると、紙切れと筆を取り出し何語とごとかさらりと書き出す。 それから手早くそれを巻くと鷹の足の筒に入れた。 「殿、それは?」 「もう一つ探らせます、確実ではないけど、可能性は高い」 そう言って飛び立つ鷹を見送る殿の横顔を俺は黙って見ていた。 * * * からの報告が届いてからどのぐらいの時間が経っただろうか。 長い気もするけれど、短い気もする。 夜空に浮かぶ月の位置は、先とそれ程変わらない。 陽動の守備は上々。 敵の目がそちらに引き付けられている分、こちらの真の動きにはまだ気付かれてはいない。 ただ、敵の軍師は曹操殿の目を欺くほどの策士。 迅速に進めなければ、気付かれるのは時間の問題だろうね。 まさか自分の城で火計を企てるなんて、中々大胆なことを考える。 それでも、立て続けに入ってきた斥候からの情報をもとに、既に手は打った。 そして、時同じくしてもたらされたからの報。 既に灰にしてしまったけれど、要約すればこう書かれていた。 『南はお任せを。新野牽制のため、伯寧さんと楽進さんに援軍を要請しました。次に知らせが届いたら移動願います、例の地点で落ち合いましょう』 思い出すたび口元が緩む。 任せるといったのは私だけれど、それでもここまでされたら出番がない。 余りにもおかしくて、思わず笑ってしまう。 ふと、羽音が耳に届いて空を見上げた。 山鳩が一羽こちらへ向かって飛んでくる。 先と同じように手を差し出すとそこへ降り立った。 その足に結われた竹筒の蓋を確認する。 他の者に開けられた形跡はない。 改めて蓋を開けると中には何も入っていなかった。 ということは、初めからそこには何も入っていない。 それが意味するのは、予定通り、ということだ。 この連絡手段はの申し出が発端だった。 中の書き方は私からの提案ではあるけれど、中々便利で良い。 ただ、がどうやって山鳩や鷹にここまでのことを覚えさせているのかは不明な点が多い。 本人曰く、基本しか教えていない、そうだけれど。 実際、探ってはみたが、事実そのようだった。 自身も何かを隠しているような素振りもない。 本人が言うように、ただ異常に懐かれているだけ、なのかもしれない。 気にはなるけれど実用的に機能しているのであれば、この場合、理由はそれほど重要ではない。 腕を軽く振ると、鳩は飛び去っていった。 それをひとしきり見送ってから鹿毛に跨る。 誰にともなく、呟いた。 「さて、そろそろ行こうか」 手綱を握る。 長く息を吐き出した。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 一通りクリアしてるけど、未だに曹休がそれぞれをどう呼んでたか分からなくなる… 録画し忘れた人とか、セリフ確認するためだけに章の始めからとかプレイするの、時間無い時は結構きつい 間のイベントとかも鑑賞できたらいいのに、とすごく思う今日この頃 鷹の肩乗せはよくないらしいけど、まあ無双だから← 2018.12.8 ![]() |
Top_Menu Muso_Menu
Copyright(C)2018 yuriwasabi All rights reserved.
designed by flower&clover photo by