人間万事塞翁馬 67 それから、郭嘉殿の制止を振り切り、着替えに消えたを待つこと暫く。 いつもの、何の変哲もない平服に飾りを外し化粧も落とした普段どおりのが路地から出てきた。 私に気付き、こちらへ歩いてくる。 左右を見渡しながらが言った。 「あれ?郭嘉さん……は、中ですね。聞いた私が馬鹿でした」 言って米神に手をあて目を伏せる。 日はまだ高い。 私は懐から預かっていたものを取り出し、に視線を落とした。 「はい、これ」 「あ、ごめんなさい。私、また押し付けたりして…ありがとう」 「いいよ、のそういうところ、嫌いじゃないから」 「う…、そ、そうですか…?」 そう言ってどこか恥ずかしそうにするに笑んで返した。 そのとき、何かに気付いたように間髪入れずが小さく声をあげる。 どうしたのか、と疑問に思っているところへが視線を上げ不思議そうな顔をしながら言った。 「伯寧さんは良かったんですか?私は気にしませんから、遠慮なく」 言って、視線を女楼に移す。 言いたいことは分かったけど…、なんで…。 「…、そういう気遣いは無用だよ。念のため言っておくけど、私は郭嘉殿とは違うからね」 「そうですか?いいならいいんですけど…遠慮する必要はありませんよ?」 と、さも不思議そうな顔をするに、私はどう反応したらいいのか一瞬分からなくなった。 分からなくなったが、思わず眉間に力が入りそうになる。 「とりあえず行こう、。これ以上、他人(ひと)に勘違いされても困る」 「え?はい」 背を向けつつ、なんとかそれだけに言って、私は表通りのある方へ足を向けた。 後ろからついてくるの気配を感じながら思う。 そういうことを何も知らない、というよりは慣れている、ように感じる。 前見たあれが事実なら…。 同時に、ふと脳裏によぎるの言葉。 『何もしないって言ったばかりなのに?』 『自分の欲のためにすぐ手のひらを返す』 『何でも言うことを聞いてくれるって言ったじゃない』 『自分の好きにすればいいって、言ってたでしょ』 内心、頭を振った。 何も今、思い出さなくても…。 それでも、今なら確認できるかもしれない。 そこまで考えたが、もう一度私は心の中で頭を振る。 気を取り直して、足を止め後ろを振り返った。 「、さっき返したあれの中、見せてくれないかい?」 そう問いかける。 は目が合うと直ぐに懐に手を入れて帳を手にすると、私との距離をつめた。 そして、笑みを浮かべ私を見上げる。 「どうぞ」 「ありがとう」 通りを再び歩きながら、手帳を開く。 ほぼ丸々一冊が、あの女楼の造りについて描かれているようだった。 他とは違う特徴的な部分だけが、無駄なく図でまとめられていて分かりやすい。 所々の解説文と思しきものは私には読めないが、何を示そうとしているのかは分かる。 項によっては妓女の姿まで入っていて、ただの読み物としても十分楽しめる代物だった。 そして、何より線が活き活きとしている。 どんな顔をしてこれをがまとめていたのか、想像するのも容易い。 横に並ぶように歩くを盗み見る。 その視線は、通りに立ち並ぶ家々に注がれているようだった。 このままもう少し先に進めば市場で賑わう通りに出る。 「」 歩を止めずに呼びかけると、は私に視線を上げた。 そのまま歩きながら問う。 「はどうして、この分野に興味を持ったの?」 は不思議そうな表情を浮かべると、一拍置いてから言った。 「建築に、ってことですか?」 「ああ」 短く頷くと、直後、は足を止めずに中空へ視線を泳がせた。 今は夢のことは忘れよう。 これは、単なる好奇心だ。 ただ、純粋に知りたいだけ。 そう言い聞かせた。 は暫く空を仰いで、指を口元にあてている。 それから少しして、伏目がちに視線を落とすと、そのままこちらを向かずに口を開いた。 「んー、まず正直なこと言うと、元々は全く興味がなかったんです。それこそ、これっぽっちも」 は、そう明るく告げると一拍置いてから続ける。 「十八の頃から初めて学んで、それがきっかけで興味を持ちました、…がっかりしました?」 「いや。それ、もう少し詳しく聞いてもいいかい?」 「ええ。構いませんけど、あまり面白い話じゃないと思いますよ?」 「いいんだ、の話が聞きたいだけだから」 「…、……そういうの改まって言われると、恥ずかしいですね、ちょっと…」 そう言って、視線を外した。 暫くそうしてからは、私に視線を上げると直ぐに正面にそれを戻し、それから話し始めた。 「結論から言うと、感動したんです。その当時、祖父の家の近所にある神社の拝殿を見て」 神社の拝殿。 それが何を指すのか。 以前、私はからそれを聞いていた。 宗教建築のようなものだ、と。 懐かしむような表情と笑みを浮かべは続けた。 「その拝殿は築二百年ぐらいのもので、造りはそれ程珍しいものではないですし、文化財に指定されているわけでもない、ごく普通のありふれた造りのものだったんですけど…」 言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。 通りには、表通りに近づくにつれ、徐々に人の賑わいが増していた。 「…ふと見上げて目に入った、整然と並ぶ垂木、流線を描く緩やかに伸びた庇、それを支える斗供…それらで構成された姿かたち、静けさの中厳かに佇むその全てが、何て美しいんだろうと思ったんです。私にはその時それが、神々しく見えました」 ふと立ち止まり、空を見上げるは、どこか遠い、ここではない何かを見ているように見えた。 「同時に、こんなに素晴らしいものを人の手で作れるんだと思ったら、もっと色んなことを詳しく知りたい、と思った。こんなにも合理的で形の整ったものを人の手で生み出せるなら、もっとこれを知って、もっと他のものを見たい、知りたいと、興味が湧いたんです」 何かを懐かしむようなその表情が、どこか憂いを帯びているように見えたのは、恐らく勘違いではないだろう。 心のどこかで、あの夢はやはり事実なのだ、と思った。 ただ、そう確信めいたものを感じたからと言って、何がどうなるわけでもない。 それが分かったところで、の苦しみがなくなる、ということはないだろう。 「それから色々見に行ったり、本を買い漁ったり、もっと身近なものにも興味が湧いて…学生の間、凄い無理を言って近所の大工の棟梁に加工の仕方とか道具の扱いを教わったりして…まあ、そんな感じで今に至るってところです」 言って、は私に視線を向け笑みを浮かべた。 「すごく、平和な理由でしょう?よっぽど生活が豊かじゃなきゃ、きっとそんなこと考えもしないですよね。改めて、世界が違うなって思っちゃいました」 そう言うと、直後、ははっとしたように表情を変える。 それから慌てたように手を振って、深い意味はないですよ、と付け足した。 「いいんじゃないかな、理由は人それぞれで。がそれを好きだって気持ちに変わりはないんだろう?」 笑い混じりに返すと、ほんの一瞬驚いたような表情を見せてからが言った。 「ええ、もちろんです。そういう縁があったことには、感謝してます」 そう笑みを浮かべ、は背を見せた。 足早に歩き始めたその背を、ただ見つめる。 苦しみがなくなることはないだろうけど、せめてこのぐらいなら。 「」 その背に呼びかけた。 立ち止まって振り向くに私は距離を数歩つめながら言った。 「今度、中岳寺に行ってみないかい?」 「中岳寺…って中岳廟のこと…?…伯寧さんと?」 「そうだよ」 目をぱちくりとさせて聞き返してくるに、短く相槌を打つ。 「許昌(ここ)からなら日帰りで行けるから、休みをあわせてどうかな?興味ない?」 それから数度、は目を瞬かせた。 そのまま時が止まってしまったようなに、内心唐突すぎたか、と思いながらも反応を待つ。 暫くすると、の表情がぱっと変わった。 「いえ!興味あります、すごく!この時代の建物は残ってないから、どんなものが建ってるのか、とか!私の知ってる中岳廟とどう違うのかとか!考えただけでもドキドキします!いつにしますか!?直ぐに直ぐだと予定立たないですよね?あ、メモ帳一冊で足りるかな?カメラとかここないし……、あっ」 目を輝かせながら半ば自分の世界に入り込んでしまったに、私は笑いを堪えきれず口元を押さえた。 そんな私に気付いたらしいが、はっとした表情を浮かべてから顔を両手で覆う。 「ご、ごめんなさい!私ったら一人で盛り上がっちゃって…!」 「いや、いいよ。そんなに嬉しそうにしてくれるなら、私も提案した甲斐があるってものだ」 そう告げると、は顔を上げバツが悪そうに眉尻を下げた。 そんなに笑みを返す。 「さえ良ければ、十日後のの休みの日はどうだい?今、仕事は忙しい?」 「…いいえ、今は落ち着いてます。都合もつきますから、是非その日に!」 「じゃあ、決まりだね。詳細は後日改めて」 「はい、お願いします!」 そう言っては満面の笑みを浮かべた。 その笑みに、私はただ安堵する。 が心から笑っていられるなら、今はそれでいいと思う。 同時に胸の高鳴りには蓋をして、市で賑わう通りの雑踏へ一歩踏み出した。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 迷走、の一言につきる 2018.11.21 ![]() |
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