人間万事塞翁馬 62 視界に見知った天井が飛び込んできた。 右手が少し重い。 視線を右に向けながら、そちらへ首を動かすと自分の手に人の手がのっているのが見える。 握られているんだと認識したのと同時にその先の寝顔が目に入って、私は思わず目を見開いた。 左手で目をこすり、再度見る。 …な、なんで伯寧さんがそこに寝てるんだ……? そうか、これは夢ね、きっと。 起きろ、私! と、思いながら首を戻して目を瞑り、三秒ほど数えた。 …が、違う。 よくよく考えなくたって、これは夢じゃない…。 私は恐る恐る、そしてゆっくり、目を開けながらもう一度首を右に向けた。 瞬間、伯寧さんと目が合う。 私の中の時間は完全に止まった。 「私の寝顔、いま見たよね?」 「わあぁあ!ごめんなさい!」 それこそ、にっこり笑って言う伯寧さんの言葉で我に返った私は、手近にあった布団を手繰り寄せその中に入った。 な、な、なんで伯寧さんが私の横で頭あずけて寝てるの!? 混乱と恥ずかしさと、色んなものが入り混じっている私に、伯寧さんが言う。 「謝らなくていいよ、。別に私はに寝顔見られるぐらい、どうってことはないからね」 笑い混じりのその言葉に、私は布団をそろそろとずらしながら伯寧さんの方を見た。 足の低い椅子に腰掛けているらしい伯寧さんが、笑みを浮かべてこちらを見ている。 目が合うと、一秒ほど置いてから伯寧さんが言った。 「体調はどうだい?」 「…え、と…、だるさも頭痛もなく、すっきりしています…」 全部言う前に、額に手がのった。 生ぬるい…っていうか、少し手の方が体温高い、かな…。 「うん、熱はもうないみたいだね」 離れていく手を目で追って、私は布団を顔から下げた。 伯寧さんが安堵したような表情で微笑む。 「良かった。君が命を落とさなくて」 「…、…ごめんなさい、ご迷惑をおかけして…」 目頭が熱くなるのを感じて、私はそれを誤魔化すようにそう言った。 「迷惑なんかじゃないし、謝る必要もないさ」 そう返す伯寧さんが浮かべる笑みは、ただ優しい。 なんとなく、この寝ている状態を見られているのが恥ずかしくなって、私は身体を起こす。 あのだるさが嘘みたいにすっきりしていて、身体が軽い。 外が白んでいるのを確認しながら、私は伯寧さんに言った。 「…ありがとう……」 「どういたしまして」 そう返されて、やっと心が落ち着いたとき、視界にあの小瓶が入った。 そういえば、死んでいないってことは私はあれを飲んだのよね? …で、一晩、私はどうしたの? 『一晩苦しみに耐えねばならぬ』 とかって左慈が言ってたけど、何がどうなったのかしら…? 何も覚えてないんだけど…、とりあえず、聞いてみればいいかな。 私は改めて、伯寧さんを見た。 「あの、伯寧さん」 「なんだい?」 「私…よく覚えていないので、教えて欲しいんですけど…」 「ああ、何でもどうぞ」 その返事に、私は一拍置いてから聞いた。 「死んでないってことは…あれを飲んだってことで、いいんですよね?それから、寝てる間に何かありましたか?」 「……え?」 「え?」 「まさか、…何も覚えていないのかい?」 「はい…ああ、いえ。ここに来るまでは何となく覚えてます。左慈の話していたこととかも…あの辺りから意識が朦朧とし始めたので、しっかりっていう訳ではないです…けど…」 「ここに来るまでって…私が一度退室したのは覚えてる?」 私は不安そうな表情を浮かべる伯寧さんを見ながら、その出来事を思い出そうとするが上手くいかない。 着いた、っていう声を聞いた気がするけど、それが伯寧さんちの外だったか中だったかも不明。 思わず首をかしげた。 「…さあ……もしかしなくても私…自分で飲んでました?」 いや、飲んだなら自分で飲んでるのは当たり前なんだけど。 ただ、進んで飲もうと思っていたわけじゃないし…。 袁術の一件があったせいで丹薬なんて名のつくものは、得体の知れない物すぎて余り口にしたくないと思っていたのは確かなんだから。 …説得されて飲んだのか…、それとも自棄で飲んだのか…。 いや、もう終わってるからどっちでもいいけど…。 飲んだのかどうかだけ分かれば。 そう思ったので伯寧さんに聞いてみたが、直後、伯寧さんは信じられないといった顔で口元を押さえた。 …え?正解なの? そ、それとも私、まさか…まさか、飲まない方の選択を…。 「もしかして私、伯寧さんに変なことしましたか!?ご、ごめんなさい!結婚前の大事な身体に!!!」 「い、いや、ちょっと待った、!それを言うなら、私に変なことされていないか、じゃないか?ああ、いや、何もしてないし、されてもいないけど…って、そうじゃなくて」 思わず顔を両手で覆った私は、伯寧さんのその言葉を聞いて手を下ろし、その顔を見た。 伯寧さんが、一つ咳払いをして言う。 「あの薬は…が自分で飲んだし、寝ているあいだ君はずっとうなされてたよ」 「うなされてた?…本当ですか?」 「ああ、間違いないよ。嫌な夢でも見ていたんじゃないのかい?」 私はそれを聞いて、一瞬頭が混乱した。 確かに夢は見ていた。 けど、その夢はうなされる様な内容の夢ではなかったし、それこそ嫌な夢でもなかった。 寧ろ、どちらかといえば良い方の夢だ。 「もしかして、夢も覚えてない?」 「いえ…そうじゃなくて、覚えてるんですけど…」 「どんな夢か聞いても?」 伯寧さんの問いに、私は視線を上げながら頷いた。 「はい。昔の夢なんですけど…祖父と庭の紫陽花の世話をする夢です」 「…あじさい……」 「ああ、紫陽花っていうのは私の国…島の固有種で、紫に太陽の陽に花って書いて、アジサイと読ませるんです。読んで字の如く、原種は花…厳密には花ではないんですが、兎も角、原種の花は紫色をしていて、他にも青とか濃い桃色とか、白いものとかもあります。庭にあったものは、与える肥料の種類で、青、桃、紫と色を変えられるものだったから、よく祖父の横についてそれを見ていました。思い通りに色を分けるのって結構難しいんですけど、祖父はそれが上手くて…、…そんな夢です」 「…それだけ?他には何も見ていないのかい?」 「え?…んー…うーん…覚えてないだけかもしれませんけど、多分…」 答えながら伯寧さんに視線を向けると、難しそうな顔をして考え込んでいる。 …私、そんな酷いうなされ方をしてたんだろうか…。 どんな夢? いつもの陳宮の夢? また何か私、口走ったの? それとも戦場に出たときの夢? 確かに、たまに自分の叫び声で起きることあるけど…。 …もしかして、私何か叫んでたり、とか? だとしたら、とんだ迷惑を……。 悶々と考え始めたとき、ふわりと頭に感触がした。 顔を上げると伯寧さんの手が私の頭に伸びている。 二度、撫でられた。 「ごめん、不安にさせて」 離れていく手を目で追う。 「あんなに苦しそうにしてたんだ。それをわざわざ思い出す必要なんてない。私が悪かった」 「いえ、別に…大丈夫です……それより、伯寧さんが大丈夫ですか?」 「私かい?」 「はい。何か、辛そうな顔してるので…寝てる間のことですから、よく分かりませんけど……、もし私がうなされてたことでそんな辛そうな顔してらっしゃるなら、それは忘れて下さい。左慈の言っていた苦しいことが、もしそのうなされていたものと関係があるなら、その苦しいことは私の中にあるってこと…つまり、私自身の問題です。伯寧さんが気に病む必要はありません」 「…」 「そんな顔するっていうことは図星ですね。なら、尚のこと気にする必要はありません。そんなに気にされると、逆に私が辛いです。お互い辛くなっちゃったら、変じゃないですか?だから、やめましょう?気にするの。たまには忘れるのも必要ですよ」 どこか呆然とするも、段々とまた眉根を寄せて悲しそうな顔をし始める伯寧さんに私はもう一度言った。 「だから、そんな顔するのやめましょう。外も大分明るくなってきましたし、伯寧さん、今日は出勤日ですよね?私もそろそろ着替えて帰りますから…」 「それは駄目だ」 足を寝台から下ろそうとした直後、言葉を遮って伯寧さんが言った。 え、と思いつつ、私はそちらへと視線を向ける。 いつもの調子に戻っていた伯寧さんが目を細めていた。 続けて言う。 「昨日から一晩、あんな異常な高熱出していた張本人が何を言ってるんだ。宮城(しろ)から帰ってきたら邸まで私が送るから、それまで出歩いたりしたら駄目だ」 「え、いや…まあ、そうですけど……、熱があっただけで病気してた訳じゃないですし、とりあえず薬も飲んでこうしてピンピンしてるじゃないですか…もう、すっきりしてますし、身体も軽いです。いっそ朝稽古にこのまま行きたい、ぐらい……」 更に目を細められた。 「そんなこと、もっての外だよ。病気じゃなくたって…というか、この場合は病気以上だ。熱が下がったからって何も起きないっていう保証はないんだから」 「…そう申されましても…第一、家の主が不在のお屋敷にお邪魔し続けるって言うのは、如何なものかと……」 「そんなこと、が気にする必要はないさ。侍女たちにも言いつけて出て行くからね。外に出たいと言っても私が帰ってくるまで出すなって」 「それって、ほぼ軟…」 「何か言いたいことでも?」 「…いいえ、何でもありません」 結構強引なところあるよね、伯寧さんって…。 と思ったことは、口にしないでおこう。 「さて、私は支度してくるから、はもう少し横になっているように」 そう言って立ち上がる伯寧さんを目で追いながら、私は言った。 「横になるほど眠くないですし、さっきも言ったとおり、寧ろ身体を動かしたいぐらい…」 じっとりと見下ろされる。 「…例え話です、ただの」 私は目を逸らした。 伯寧さんが腰に手を当てため息をつく。 「ともかく、寝なくてもいいから大人しくしていること」 「はい…」 そう答えると笑みが返ってきた。 扉の向こうに消えていくその背を見送る。 それから暫く――。 出仕用の服に着替えて戻ってきた伯寧さんは、何故か竹簡を数冊抱えていた。 扉の脇にある卓に置きながら言う。 「暇つぶし用にの興味ありそうな書を見繕っておいたから、お好きにどうぞ」 と、意表を突かれ私はすぐに反応できなかった。 続けて伯寧さんが言う。 「それから、私が出て行ったあとに侍女がここへ来るから身の回りのことを済ませるといい。その他のことは言いつけてあるから、何か不便があったら遠慮なく侍女を呼ぶように。それと…」 一度言葉を区切った伯寧さんが、こちらを振り向き歩み寄る。 目の前まで来ると、私の両肩に手を置き視線の高さを合わせるようにして言った。 「なるべく早く帰ってくるようにするから、ちゃんと大人しく待っていること。言いつけ破ったら、今度君を抱えたまま宮城の中練り歩くからね」 すっっっごい笑顔だ…。 本気だ…きっと本気だ、これ…。 「破りません…大人しくしてます…」 「うん。確かに聞いたよ」 そう言って身体を起こす。 扉へ向かう伯寧さんの背に向かって、私は言った。 「行ってらっしゃいませ。お帰りお待ちしております」 「ああ、行ってくるよ」 顔だけ向けて笑みを返す伯寧さんが扉を開ける。 一歩踏み出そうとする伯寧さんを、私は咄嗟に呼び止めた。 「あの、伯寧さん!」 「…なんだい?」 こちらを振り返る。 一瞬、どうしようかと躊躇った。 けど、ちゃんと伝えておきたい。 真っ直ぐに見てくる伯寧さんを、私も真っ直ぐに見る。 「ありがとう」 眩しいぐらいの逆光。 だけど、表情は見える。 伯寧さんは、ただ優しく微笑んでいた。 何を言うでもなく、ただそれだけが返ってきた。 数拍おいて、静かに扉が閉まる。 遠のいていく気配に、私はゆっくり目を閉じた。 言葉のない優しさに、懐かしさがこみ上げてくる。 少しだけ、泣きたくなった。 * * * 『忘れて下さい』 …確かにあのとき自分も、忘れるから、とは言ったけど……。 「そんな簡単に忘れられる訳がないか…まいったな…」 天井を見上げると太い梁が視界に入る。 何となく、その一点を見つめる。 どれだけ考えても、やはりあれはの夢、過去で合っていると思う。 流石の私も自分の想像を超えたものを夢になんて見ないだろう。 それなら、あれは私の夢ではない。 そして、の夢だと仮定して、最後に会話をした、あのセーラー服とかいう衣装を着た。 彼女の言っていた言葉。 『勝手に人のことを覗き見して、何か分かったつもり?』 人のこと、というぐらいだ。 それが指すのは、自身の何か、ってことだろう。 陳宮と呂布のことを思い出しても、やはり、人の”こと”は過去、で間違いはないと思う。 何度考えても、それ以外考えられない。 …とはいえ。 それで、なぜ私はの夢を見ることができたんだ? 手を握っていたからか…? それとも、あの丹薬のせいか? 両方? 単純に近くにいたから? に不思議な力があるから? 自邸(やしき)にいた他の者は、そんな夢は見なかったと言っていた。 なら近くにいたまま、私が寝てしまったからか? もしそうなら、あの場にいたのが私ではなくても、他の誰かであっても同じものを見たのだろうか? 「分からないことだらけだ」 「分からないのは一向に構いませんが、することをしてから考え事に集中して頂けますか?満寵殿」 その声に私は我に返って視線を向けた。 そこには、少しうんざりしているような、そんな空気を漂わせている荀攸殿が立っている。 「これは荀攸殿。私に用かい?」 「はい。用がなければ来ません。ですが…その前に、早く彼らを次の任に向かわせてあげて下さい」 「彼ら?」 荀攸殿の言葉に疑問を浮かべながら、私はその指し示す方向へ視線をやった。 その先には、開いた扉の前を埋める文官たちの姿。 手にしている書簡から、私からの承認印待ち、といったところだろう。 困り果てたような彼らの顔を見て、私は頭を掻いた。 「あはは…すまない。どうぞ」 彼らを促すと同時に、荀攸殿のため息が聞こえた。 ――それから、文官たちの書簡に全て目を通し、一部はそのまま受け取って印を押したあと、荀攸殿の用件に入る。 一通り済んだ頃、荀攸殿が言った。 「礼を言います、参考になりました」 「そうかい?それなら何よりだ」 「ところで、何をそんなに考え込んでいたのですか?…まあ、満寵殿らしいと言えば、らしいですが」 「いや、別にそんなに大したことじゃないんだ」 「そうですか…、ならば俺は行きます。考え事の邪魔をしてはいけませんから」 そう言って、荀攸殿は拱手すると早々に扉の向こうへと去って行った。 また、一人になった。 「…相変わらずだなあ。ま、それが荀攸殿の美点か」 筆を置いて戸口に向かう。 開け放したそこから空を見上げた。 朝のうちは肌寒いと感じたが、今は過ごしやすい陽気で暖かい。 春の陽気だ。 前触れなく、思考は先に戻る。 ――しかし、仮にあの夢がの夢だったとしても、本人がまったく別の夢を見ているというのは、どういうことなんだろうか。 の言うように、私が見ていた部分は忘れているだけで、私が目を覚ました後も続いていた夢の一部、ということだろうか。 それなら、別の夢を見たのではなくて、その先があった、というだけだ。 だけど…。 『あいつが壊れたら、が壊れるから』 あの空間で唯一会話の成立していたあの子は、そう言っていた。 あの子達が一体何かということもそうだが、それも含めて何かあの言葉の意味と関係があるような気はする。 気はするが…、そもそもあれがの夢、いや過去なのかどうか、ってことだ。 ……。 「堂々巡りだな…」 私の夢ではないのなら、あれはの夢だ。 過去なのかどうなのかということだって、そうだ。 あのときの、あの濮陽での場面はから聞いていた状況とまるっきり同じだった。 寧ろ、私の想像していたものよりも酷い。 であるなら、あの後の出来事が過去ではないと、なぜ言える。 ごく普通に考えて、あの流れで言えばあの後のことがの経験した過去ではない、という確率の方が低い。 それが答えだと思うことに、何を躊躇う必要がある。 「…やはり、自分勝手だな」 ただ、認めたくないだけだ。 あの過去の出来事を。 に嘘までついて、私は何をやっているんだ。 どうしようもないな。 視線を正面に戻し、回廊に出る。 次いで、足元の傾く影に視線を落とした。 「そろそろ終業か…帰るか」 書机の上を一通り片付けて、部屋を出た。 行く途中、鐘の音を耳にしながら自邸を目指す。 そこで待っているであろうのことを思い出しながら、ため息を吐き出した。 * * * 朝言ってたとおり、終業時間に城を出てきたんだな、という頃合に帰宅した伯寧さんとそのお屋敷を出てから、まだ然程時間は経っていない。 暫くお互い無言で通りを歩く。 隣、やや前を歩く伯寧さんの顔を盗み見た。 帰宅したときは普通そうだったけど、やっぱり、まだ何か考えているような顔をしている。 視線を正面に戻す。 通りの往来は、それほど多くない。 …今朝の今だもんなあ……。 あんまりしつこく言うのも違う気がするし。 かと言って、あまり変な心配されるのも…。 んー、まあ暫くはしょうがないかな。 時が経てば、気にしなくなる、かなあ。 とりあえず、向こうからのアクション待ちで、それでも状況が変わらなかったら、そのとき考えよう。 今はやたらに言うより、こっちが気にせず普通に過ごしてるのが吉よね。 ていうか、もしかしたら仕事でまた難題抱えただけかもしれないし。 …そこだけ確認しとこうかな。 「仕事、忙しいんですか?」 足を止めずにそう声をかけると、二秒ほど間を空けて伯寧さんがこちらに視線を投げた。 「どうして?そう見えたかい?」 「ええ。何か、考え事してらっしゃるように見えたので」 「なるほどね。に隠し事はできないね」 「その言葉、そっくりそのままお返しします」 お互い笑って返すと、暫くしないうちに伯寧さんが言った。 「…実は、兵器のことなんだけどね」 「兵器…ですか?」 「ああ。強度のことを考えると、試作の段階も含め、どうしても過剰に材を使わざるを得ない。だけど、その財源にも限りがある」 「節約したいってことですか?」 そう問うと、伯寧さんは無言で頷いた。 …やっぱり、私の考えすぎだったかな? それならそれでいいけど。 そんなことを思っていると、伯寧さんが言う。 「けど、中々いい方法が思いつかなくてね。例え試作とはいえ、けが人を出すわけにもいかないし」 「それなら、計算するのはどうですか?」 空に視線をやっていた伯寧さんが、私に視線を向け立ち止まった。 つられて私も足を止める。 「計算?」 「そう、計算です」 向き直って見上げた。 「強度なんかを数値化して、それを計算で導き出すんです。例えば最低必要な構造的な強度と、これから作ろうとしている物の構造的強度。その数値を右項と左項で比較して足りるか足りないか出せば良いのでは?」 「の言いたいことは分かったけど、そんなこと出来るのかい?」 「不可能ではないと思います。ただ係数を正確には出せないので、それに見合った近似値をあてて…そこに安全側を見た数値を足したり減らしたりしないと使えないと思いますが…。どちらにせよ、私がいたところでは建物が大きくなったり高くなったりすればするほど、普通に用いられてた方法です。というか、それをしないと建てられないことになってます」 「へえ…係数…。それ、もしかしなくてもは…」 「はい、一通りできますよ。向こうでは、手計算ですることなんて殆どありませんけど、数字や式は全て覚えてます。ただ、建物と工作物、それに可動物かそうではないか、では勝手が違います…出た数値を参考に伯寧さんの工学的な判断…経験を生かす必要があると思いますが、計算式を使わない場合に比べて、ずっと設計はしやすくなるんじゃないかと」 ほんの数秒、沈黙した。 それから伯寧さんが言う。 「それ、今度教えてもらっても?」 「ええ、構いません…、…とはいえ、絶対という保障はできません。あくまで、参考に使えるのではないか、ってことです」 「それで十分だ、試してみる価値はある。ただ初めの内は、あまり大き過ぎるものには使えないけどね」 「はい。それでいいと思います。結局は参考値みたいなものだと私も思ってますから。絶対なんてものは、この世には存在しません」 「それもそうだ。けど、今度そちらへお邪魔するよ」 「はい、お待ちしてます」 勘違いならいいや、と思いながら私は笑みを返した。 それからお互い、再び足を動かして私の家を目指す。 さっきの流れで、なんとなく構造計算の話をしながら、気づくと家についていた。 返しそびれた竹簡を二巻き、伯寧さんに渡す。 玄関からの見送り際、伯寧さんがところで、と切り出した。 「あの小瓶の中身のことだけど」 「はい」 「どうするつもりか、聞いてもいいかい?」 私は正面に立つ伯寧さんを見上げながら、懐に入れたそれを取り出した。 手のひらの上にある小瓶に視線を落とす。 握り直した。 「とりあえず、もう、一度飲んでますし…効果は分かりましたから、左慈の言うとおり、六ヵ月後にまた飲みます。他に方法もありませんし…」 いや、あるけど…、今のところその選択肢は無いな…。 …無いでしょ…。 と、内心顔を引きつらせていた私とは対照的に神妙な面持ちで伯寧さんが言った。 「そのつもりなら、一人のときに飲むのだけはやめて欲しい」 まっすぐこちらを見て言うその言葉に、否定の言葉は返せない。 いや、返そうと思えば返せる。 けど、それは許されない気がした。 そんなに酷いうなされ方をしていたんだろうか。 多分、そういうこと、よね。 ここまで言うって事は。 「わかりました。これを飲むときは、伯寧さんか…事情を話して文則さんについていてもらうようにします」 「そうしてくれ、必ず」 「はい、そうします」 一度頷いた。 今は素直に従おう。 また明日、そう言って踵を返した伯寧さんの背を私は見送る。 門の向こうに消えてからも、暫く私はそこに立っていた。 胸がざわつく理由は分からない。 もう一度、小瓶に視線を落とした。 手が少しだけ、震えていた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) …ちゃんと回収できるのかな、この話っていうか設定… 不安視… 2018.10.11 ![]() |
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