一九六年一月







     人間万事塞翁馬 51















今日もよく晴れそうだなと思いつつ庭に残る雪を眺めた。
今私は縁側の軒先に肉を干している。
典韋さんが狩りで獲ったっていう鹿やらイノシシやらを干し肉用に加工したから。
結構頻繁に持ってきてくれるから肉には困らないけど、量が多いので保存に困っている。
今に始まったことじゃないけど、冷凍庫が無いのが不便でたまらない。
雪室は庭の隅に作ったのでそこにも一部は保存してるけど限度があるわ。
いや、幸せな困りごとだけど。
全て干し終わったところで、よし、と腰に手を当てると同時に門の方から声がした。



「おーい、!いるか?」



夏侯淵さんの声だなと思いながらそちらを見ると、やっぱり夏侯淵さん。
弓を片手に私のところへずんずんと近づいてくる。
…なんで、弓?
そう思いながら、私は夏侯淵さんに疑問を投げた。



「夏侯淵さん。どうなさったんですか?」

「その恰好ならいけるな」

「?…はい?」



腰に手を当てて、うんうん頷きながら呟くようにしていった夏侯淵さんを、私はただ不思議に思いながら見つめた。
そんな私に夏侯淵さんが元気よく言う。



「これから俺と狩りに行くぞ!弓持って来い、ほら!」

「え?ええ!?ちょ、ちょっと待ってください!」

「なんだ、俺と行くのは嫌か?かあ〜、寂しいなあ」



なんの前触れもない唐突な誘いに私はまったをかけるが、すかさず言葉を返され挙句に額を手で覆って落胆の表情。
大げさなリアクションに私は慌てて手を振る。



「ち、違いますよ!そうじゃなくて、私、狩りなんて出来ません!」

「はあ!?何言ってんだ?狩りが出来ないって…、おまえさんが?」

「出来ません。第一、私弓持ってないですし、その前に弓が出来ませんから」



と事実を述べる。
弓って…常備してるものなの?そもそも。
そんなことを思っていると、暫くの沈黙ののち夏侯淵さんが声を上げた。



「はあぁぁああ!!?」



あまりの驚き様に、私も思わず驚く。
否や、正気を取り戻したらしい夏侯淵さんが盛大に手と首を横に振って言った。



「弓が出来ないって…いや、それじゃ駄目だろ。ないない、弓出来ないのは駄目だわ」

「え?そ、そうなんですか?」



私はただそう返して眉間を寄せるしかない。
夏侯淵さんを見ながら二度瞬きをすると、これまた急に夏侯淵さんは腰に両手を当てて胸を張った。



「うしっ!んじゃ、予定変更!俺様とこれから弓の稽古するぞ!狩りはそれからだ」

「え?は!?」

「よし、じゃ来い!」

「ああ、ちょっと!そんな行き成り!」



訳のわからないまま、夏侯淵さんに腕を掴まれた私はそのまま手を引っ張られ家を後にする。
ずんずんと通りを進んでいく夏侯淵さんが前を向いたまま言った。



「まあったく、しょうがねえな。弓が出来ないなんて聞いたことねえぜ……お?ありゃ、于禁だな」



そう言って立ち止まった夏侯淵さんの後ろから前を覗くように顔を傾ける。
確かにそこには文則さんの姿があって、こちらへ近づいてくるのが見えた。



「これは、夏侯淵殿と…。失礼ですが、これからどちらへ?」

「おお、良いことを聞いてくれた!…実はよ、一緒に狩りに行こうと思ったら、弓が出来ねえとか言うんだぜ、こいつ。呆れちまうだろ?」

「……が…いや、そうか…弓を持ったことは無かったか…」



そう言って、普段の仕事モードの表情のまま文則さんが私を見る。
そしてわかる、何か多分驚かれてる…。
私は何となく居心地が悪くて、上目づかいに視線を返した。



「な、ないですよ…弓なんて…」

「な?戦場出るくせに弓使えないなんて聞いたことねえぜ」

「否定は出来ませぬ」



そんな馬鹿な、と思いながら私は二人を交互に見る。
だけど、そんな私なんて気にもせず、夏侯淵さんが私から放した手に拳を作って胸を叩いた。



「そこで、俺様の出番って訳よ!…そうだ、おまえさんも用事が無けりゃ見学して行けよ、な?いいだろ?」

「……夏侯淵殿からの申し出とあらば、この于文則、立ち会いましょう」



勘弁してくれ、と思ったのもつかの間、文則さんがそう返した。
まあ、ですよねー…とも思う。
文則さんが、自分より地位が上の夏侯淵さんの申し出を断るなんてこと、よっぽどでない限りまず無いのだ。



「よっしゃ!じゃ、ちゃちゃっと行くぜ!、俺様に弓の稽古つけてもらうんだ、感謝しろよ!」

「はい…ありがとうございます…」



否定するのもあれだったので、ひとまず素直に返事をして私は再び夏侯淵さんの背中を追うのだった。






 * * * 










夏侯淵殿との後ろをついて歩いていると、左前方から楽進殿と李典殿が近づいてきた。
楽進殿が夏侯淵殿に声をかける。



「夏侯淵殿」

「おお、楽進と李典か!そうだ!お前さんらもちょっと付き合わねえか?」

「なんでしょう?」

「よくぞ聞いてくれた!いやあよ、これからに弓の稽古をつけようと思ってよ」

「弓の」

「稽古…?」



私の時と同じようなことを言いながら夏侯淵殿がいつもの調子でそう二人に告げると、楽進殿と李典殿はお互いの顔を見合わせながらそう反芻した。
夏侯淵殿が先ほど聞いた話を、再び二人にする。



「おうよ!狩りに誘ったらよ、こいつ弓が出来ねえって言うんだ、ありえねえだろ!?」

「弓が出来ない…!?が!?」
「弓が出来ない…!?殿が!?」

「そんなにハモらなくても……それに夏侯淵さん、もうさっきもそれ聞きましたから…そんなにありえないですか?」



見事に重なった驚きの言葉に、が肩を落とし夏侯淵殿に疑問を投げた。
ただ、二人の驚きは私にも分かる。
そして、夏侯淵殿の言いたいことも分かる。
どちらにせよ、に出来ないものがあったとは、意外だ。

夏侯淵殿がを振り向き言った。



「あったり前だろ!もしかして、惇兄も知らないのか?」

「知らないと思いますよ…弓の話なんて一切してませんから」

「マジかよ」

「…でも、そこまで言うならもちろん皆さん出来るんですよね……?」

「当然!軍師たちだって出来るってもんだ」



そう夏侯淵殿が告げると、は驚きを隠さず目を見開いた。
得手不得手はあるが、戦場に出る者にとって弓を引くというのは基本中の基本。
ただ、はここの常識を元々知らぬ。
それを考えれば致し方ない。



「ま、ともかく、ほれ。やってみろ」



夏侯淵殿がそう言って、ここへ来る途中、兵に準備させた弓を唐突にへ渡す。
はそれを手に一瞬、硬直した。
弓を扱うのが初めてだと知っていて、中々に夏侯淵殿も厳しいと内心思う。



「…え、ええぇぇぇええ!!そんな、行き成り?なんの前情報もなしに!?」

「いいから、とりあえずやってみろって。やり方は戦で見てんだ、知ってるだろ?」

「ちょ、え…そんな…」

「ほら、早くしろって!」



夏侯淵殿に的の前に立つよう背を押されるの顔は、困惑の入り乱れる表情だ。
どこか、捨てられた子犬を思わせる。
楽進殿と李典殿は唖然とした顔で二人を見ていた。
私でもまだ、基本を教えてから立たせるが、今は夏侯淵殿が指導をしている。
私には見ていることしかできない。



「わ、分かりました…やってみます…」



はそう言って、一度ゆっくり深呼吸をすると的の前に立つ。
意を決したのか、その眼に戸惑いは無くなっていた。
相変わらず、切り替えが早い、と思う。
数多の兵を見てきているが、ここまで切り替えが早い者はそういない。
が弓を引く。
ぴたりと動きを止めて、放った。
しかし、それは的に中ることなくそのまま軌道を逸れて、土壁の前に立てかけられた木板に音を立てて突き刺さった。
が弓を下ろしながら肩を落とす。



「あーあ…的に中たってすらいない…」

「おまえさん、やっぱ筋いいわ…本当に初めてだよな?」

「初めてです…楽器の弓ぐらいしか持ったことないですもの」

「初めてであれだけ引ければ十分ですよ、殿」

「楽進の言う通りだぜ。普通は足元に落ちるか届かないもんだ…あんた何者だよ」



皆の言うとおりだと思った。
これならば、ほんの少し手を加えれば直ぐにでも物になるだろう。
姿勢は悪くない。
一つ一つの動きの作り方をもう少し理解できれば格段に良くなる。
そのとき、夏侯淵殿が軽快に太腿を叩き言った。



「ま、いっか…うしっ!んじゃ、俺様が手本を見せてやるから、よおく見てろよ、

「はい、分かりました。お願いします」



そう言って、が夏侯淵殿に場所を譲る。
夏侯淵殿がゆっくりと弓を構えた。
それをは真剣な眼差しで、食い入るように見つめている。
さっきまで狼狽していた本人とは似ても似つかぬ顔付きだった。
一瞬、僅かにそよいでいた風が止む。
放つ、と思った瞬間、夏侯淵殿の手から矢が放たれた。
それは空を切り、音を立てて的の中央に中る。
夏侯淵殿が弓を下ろした。
すかさず、が声を上げる。



「すごい!ど真ん中!」

「流石は夏侯淵殿。非の打ちどころのない動き」

「やっぱり、夏侯淵殿の弓の腕前は素晴らしいですね!」

「あれに狙われたらひとたまりも無いな…」



に続き、率直に感想を述べると、楽進殿と李典殿が続く。
夏侯淵殿が胸を張り腰にて当て言った。



「ま、こんなもんよ。そしたら、!もう一遍やってみろ。今見てただろ?」

「見てましたけど……いえ、基本的に見て覚えろっていうスタイルなんですね…分かりました、やってみます」



夏侯淵殿にそう視線を投げられたは、顔を引きつらせ、半笑いになって言った。
それから、何かを諦めたように目を伏せ、ため息混じりに息を吐き出す。
そのまま目を伏せ、深く呼吸をすると目を開けて、的の前に立った。
は、ただ真っ直ぐ的を見る。
二呼吸ほどしてゆっくりと弓を構えた。
その立ち姿に、内心驚く。
姿かたちは全く違うというのに、その構えは夏侯淵殿と重なって見えた。
弓を構える姿勢も、その腕の動き、重心の捉え方、呼吸の取り方さえも、全てが全て同じに見える。

その時、が矢を放った。
それは、的の中心から下方へ、円二つ分外れはしたが、確かにそこへ音を立てて刺さっていた。
が弓を下ろしながら、残念そうに呟く。



「ああ〜、惜しい…」

「こりゃ、驚いたわ…」



思わず呼吸することを忘れていた自分に気づくと同時に、夏侯淵殿のどこか放心したような、そんな様子さえ伺わせる声が耳に届く。
夏侯淵殿を見ると、目を見開き、何度も瞬かせていた。
楽進殿や李典殿も同じような表情をしている。
そのことにまだ気づいていないが、夏侯淵殿の方を見た。
それから首をかしげ、口を開く。



「あれ?どうしました?…なんかマズいことしましたか?私…」

「いや、…あんた今、何やったんだ…?」

「何…って、どういう意味…」



李典殿の呟きに、が戸惑いながら返す。
私は李典殿の言葉に補足する意味もこめて、に問うた。



。今、何を意識して弓を引いたのか聞かせてくれるか?」

「え?はい…さっき見せて頂いた、夏侯淵さんの動きを極力真似るように意識しました。筋肉の使い方、重心、呼吸…なるべく同じになるよう動いてみましたが…腕力に差があることを忘れてました……軌道の修正が必要でしたね、かなり難しいです」



そう言っては顎に手を当てて小さく唸る。
そんなを見て、私は矢張り、驚くほかなかった。
誰でも出来ることではない。
ほとんど経験がないというのに、一度その動きを見ただけで、あそこまでそれを真似るなど。
ただ、そういう才に長けてはいるのだろう、ということには気づいていた。
朝錬のときなどに見る身のこなしは、手にする得物にもよるが、誰の動きを参考にしているのか一目で分かる。
それでも、その呼吸の仕方や細部の動きは独特のものだ。
だから真似ているのではなく”参考”にしているのだろうと思っていたが、今これを見て私はその考えを改める。
恐らくは、最初は真似ているのだ。
そっくりそのまま。
そして、何かを自分の中で掴み始めたとき、それを参考にして自分のものへと変えてゆく。
そういうことなのだろう。



「夏侯淵さん、もう一回やってみてもいいですか?」

「そりゃ、もちろん」



が再び弓を構える。
呼吸の取り方は変わらない。
僅かに腕の位置が高くなっただろうか。
矢がの手から放れる。
今度は的の中心より円一つ分上方に中った。



「やっぱり、ど真ん中っていうのは難しい…練習あるのみかな…」

、あんた…反則だろ…」

「反則って…何が…」



李典殿の呟きに、が訝しみながら返す。
しかし、今は私も李典殿のその呟きに、内心同意したい気分だった。
他の者の何十倍以上も飲み込みが早い。
これもが道士の資質を持っているということと何か関係があるのだろうか。



「ま、いいだろ!それじゃ、。おまえさん、もうちっとここで弓の稽古だ、分かったな?」

「え?はい…」

「慣れたら今度は騎射だ」

「きしゃ…騎射!?この後ですか!?」



暫く考え事をしていると、そんなの声が耳に届き我に返る。
夏侯淵殿も全く無茶を申される、と思う。
だが、それをはこなしてしまうだろう、と思うのもまた事実だった。
夏侯淵殿が笑みを浮かべ言う。



「そうだぜ!まあ、大丈夫だ。おまえさんなら、すぐ物にしちまうからよ!この夏侯妙才様が教えてやっから心配すんなって!」

「え、と…はい、よろしくお願いします」

「よおし!んじゃ、いつ狩りに行くか決めとかないとな!」



控えめに頭を下げるに夏侯淵殿がそう軽快に言って両手を腰に当てる。
戸惑うようにが夏侯淵殿を上目遣いに見やって言った。



「そ、そんなに狩りに行きたいですか…?」

「おうよ!俺はおまえさんと一度狩りがしてみたいと思ってんだ!いいだろ?」

「…なんか、よく分からないですけど、それはそれで嬉しいです。頑張ります」



言っては笑みを浮かべた。
それを見た夏侯淵殿は二度頷いてみせる。
そして、満足そうな顔をしてから唐突に後ろを振り向き、楽進殿と李典殿に向かって言った。



「さて、と。このまま、おまえさんらにも稽古つけてやるとするか!まさか、に後れを取るなんてことしたかないだろ?」



その表情はどこか悪戯そうに、左の口角が少しだけ上がっている。



「恐縮です!お願いします!」

「うし!じゃ、とりあえず準備して二人とも構えろ!」

「はい!」

「え?いや、俺は…」



元気よく応じる楽進殿とは対照的に、李典殿は狼狽えている。
夏侯淵殿が通りすがった兵に弓を二人分準備するよう指示を出しているのを聞きながら、私はに向き直った。





「はい」



名を呼ぶと、素直に返事をしては私を見上げる。
声を掛けたのはいいが、何かを言おうとしていた訳ではなかった。
三拍ほど、何を考えるでもなくただじっと、不思議そうに見上げてくるの顔を見つめた。
何も言わぬからであろう、小首を傾げるに、私は漸く口を開く。



「…怪我を、せぬようにな」

「はい」



それだけ告げると、は私に笑みを返す。
それから一度頭を下げて的に再び向き直るの横顔を見てから、私はそこを後にした。












つづく⇒(次は人の腕や首が飛んだりしますので苦手な方はご注意下さい。)



ぼやき(反転してください)



みんな弓扱えるのでヒロインにも覚えてもらおう、という回
またこの先いろいろ無茶ぶりな話が多くなりますが…
お付き合いいただける方だけお付き合い下さい

2018.08.23



←管理人にエサを与える。


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