人間万事塞翁馬 47















「ここもちょっと手狭になってきた、かな?」

「それは否めませんね…増築工事が完了するまでの辛抱と言ったところでしょうか」



郭嘉殿の言葉に、そう私は返した。
何故なら、各々の周囲には処理すべき書簡が何冊も積まれていたから。
私の言葉を聞いてか、正面の公達殿が無言で頷き、隣の満寵殿は苦笑しながら肩をすくめた。
それから、誰ともなく書簡が山積みになっている殿の書机を見る。
当事者は不在。
いつも最低二人―基本は三人―は欠けている昨今にあって、これだけ揃っているのも珍しい中、殿の書机の上がそんな状態になっているのも珍しいことだった。
とはいいつつも、私もここにいることの方が珍しくなっていたので、殿が最近どのように動いているのか詳しくは知らない。
しかし、段々と山が高くなったのではなく、数日程前に一気に出来上がったというのは知っていた。
ただ、主な仕事はここで済むものだった筈。
例え急にそれらが増えたとしても、いつもの殿なら一日と置かず処理してしまう。
そこを考えれば、なぜあのような状態になってしまったのだろうかという疑問しか浮かばない。

そこで私は、この中で一番殿の動向を知っているであろう満寵殿に問うことにした。



「満寵殿。殿は最近いかがですか?」

「ん?…ああ、そうか。三人は向こうばかりだったっけ」



と、どうやら私だけでなく、郭嘉殿と公達殿も視線で満寵殿に問うたらしく、そんな受け答えを満寵殿がする。
筆を置かずに満寵殿が言った。



「二日前まで毎日向こうに付きっきりでここには殆どいなかったんだ。始業直後と就業直前ぐらいじゃないかな、ここに居たのは」

「それは…おかしいですね。俺の記憶だと、殿はここでの業務が主で、向こうは兼務の上での監理。毎日足を運ぶのはまだ分かりますが、なぜそのようにほぼ、丸一日もつく必要が?それではまるで殿が実際に作業でもしているような…」

「それ大正解です、荀攸さん」



そのとき、公達殿の言葉を遮りくだんの殿が執務室の扉を開けて入ってきた。
誰もが殿の名を口にするが、殿はただ笑みを浮かべ後ろ手で静かに扉を閉める。
そして、所定の場所までゆっくりと歩み、腰を下ろした。
書机の上の書簡を傍らに下ろしながら殿が笑みを浮かべたまま言った。



「といっても、伯寧さんの言う通り二日前までの話です……それにしても机の面が見えなくなる程溜まるなんて、何年ぶりかしらねー。ほんと、素敵」



どこからか鼻歌でも聞こえてきそうな雰囲気の殿を、公達殿が反応に困った様子で筆を止め視線を送る。
そこへ、満寵殿が言った。



…何か、嬉しいことでもあったのかい?」



その言葉に、殿は最後の書簡を書机から下ろし視線をあげる。
一瞬、不思議そうな顔をしたあと、小首を傾げ笑みを浮かべた。



「そう見えますか?」

「ああ、すごくね。もしかして…工事の進み具合がものすごく良い、とか?」



そうどこか遠慮するように満寵殿が問うと、殿は傾げた首を元に戻しながら満面の笑みを浮かべて言った。



「全っっ然っ!!」



それから笑みを浮かべたまま手を横に振った。



「もう、何にも進んでません!これっぽっちも」

「「「「……………」」」」

「ほんとに、絵に描いたように何もやってないんです!もう、何もやってないっていうか、もぬけの殻!」



何も返せずにいる私たちに、殿はそう言って書簡をひとつ手にした。
もちろん、笑顔のまま。
しかし、それはいつかの時の様に怒っていると言う感じはないし、呆れているという感じもしない。
何かを隠そうとしている気配も勿論ない。

というのも、そんな言い方をするのには訳がある。
それは、私たちが許昌を留守にしていた間に一部の者たちが殿を僻みや妬みの対象として物理的に何かがあった訳ではないらしいが、それでも何かしていたのだということに何となく気づいたから。
しかし、殿は一切それを自分の口からは言わないので、私たちも気づかぬふりをしていた。
それでも多分、殿はそこに気づいているのだろうと思う、私たちが気づかぬふりをしているのだということに。
かといって、矢張り何を言うでもなく普段通りに務めをこなす殿は文字通り、何かを気にかけているといった感じが一切無かった。
勿論、隠しているという気配も一切ない。

とはいえ、今回ばかりは誰の目から見ても、何が起きているのかは明らか。
見兼ねたのか、それでも普段通り穏やかな口調で郭嘉殿が殿に言う。



…私は今、君から離れているから詳しくは知らないけれど…手に余るようなら、曹操殿に相談するのも手、ではないのかな?造営についてはすべて、曹操殿が最終的な責任者だ。相談ぐらいはできるだろう?」

「珍しいですね、郭嘉さんがそんなことおっしゃるなんて。心配して下さるんですか?」

「もちろん、私はいつでものことを心配しているのだけれど……私が何を言いたいか、分かっているよね?」

「ええ。ですけど、お気持ちだけで結構です」



そう返す殿は矢張り、ただ明るく笑みを浮かべるだけだ。
一見、無理をしている様子は見受けられない。
殿が手にした書簡を書机に置きながら言う。



「とりあえず言っておきますが、無理はしてません。それから、その方法は長い目で見たら曹操さんのためにはなりません。それこそ、私が何を言いたいのか、郭嘉さんならお分かりですよね?」

「……もちろんだよ、。だけど、その前に……悪いけど、君の無理してない、ほど信用できない言葉はないよ」



郭嘉殿はそう前置きしてから言った。
殿を信じないわけではないが、それには何となく同調してしまう。
例え、表向き無理をしている様子が一切感じられなかったとしても。



「そうですか?それならそれでもいいです。ただ、やり方があるので邪魔はしないで下さい」



殿は首を傾げてから、そう言った。
同時に私は、最後のあまりに率直な言葉に驚いた。
それは、郭嘉殿も公達殿も同じ様だったが、満寵殿だけは違ったように見える。
殿が笑みを浮かべたまま言う。



「やり方があるんです、何事にも。郭嘉さんもそれは分かってくださると思うのですけど……まあ、見ててください。私これでも楽しんでますし、この手の仕事で失敗は絶対しないです」

「…随分な自信だね、

「だって、このぐらい言わないと郭嘉さん引いて下さらないでしょう?」



まさか殿がそんなことを言うとは思わず、驚くと同時に私は郭嘉殿を見た。
同じ様に公達殿が郭嘉殿を窺っている。
郭嘉殿が一度ため息を吐きだしてから言った。



「…、君って人は全く…」

「はは、これは一本取られたね、郭嘉殿」



表情こそ変えなかったが、呆れたように言う郭嘉殿へ満寵殿が視線だけ向けた。
それから三拍ほど置いてから、殿が言う。



「まあ、冗談はさて置き…私としては現状、図面通りのものが最後に間に合えばいいんです。それに彼らのこと、別に嫌ってるわけじゃないので構いません。構いませんけど…」



そこで言葉を区切り、机上の書簡を手に開く。
皆が一斉に視線を殿に注ぐ。
殿は、そこに視線を落し笑みを浮かべたまま言った。



「…仕事を穢されるのだけは頭にきてます」



言って開いた書簡を再度閉じて書机に静かに置く。
思わず生唾を呑み込んだ。
静止する周囲を余所に、殿は脇から更に一冊の書簡を手にして開き、再び視線を落す。



「…ああ、それは駄目だわ、考えるのやめよう…集中集中」



言うや、脇に積んだ書簡の中を驚くほどの速さで確認すると、それを再度並べ替えながら積み直した。
恐らく、優先順位を確認したのだと思う。
そして筆を手に、上に積まれたものから順に処理していく殿を見て、ただ静観する以外なかった。










 * * * * * * * * * *









――立冬まであと僅かとなった時分。
身を切るほどではないが、大分寒くなってきた。
特に今日と言う日は、空も雲に覆われ一段と寒く感じる。

執務室の扉を開け中へ入る。
そこには満寵殿以外、誰もいなかった。
殿の、書簡の積まれた書机を見てから満寵殿に問うた。



「…殿はまた向こうへ?」

「ああ、ついさっきね。聞いたら、今日をとりあえずの期限にしているらしい」

「彼らに課した期限、ということですか?」

「そうらしい」



満寵殿からの返答は、私が質問した以上の内容だったがそれが余計なことだとは思わなかった。
それよりも、むしろ気になっていることだ。
きっと、郭嘉殿と公達殿はそこへ向かったのだと思う。



「見に行ってみるかい?荀ケ殿」

「……そうですね、行ってみましょう。郭嘉殿たちも行っているのでしょう?」

「ああ。お手並み拝見、とか言って出て行ったよ」



そう言って、満寵殿は笑みを浮かべた。
多分、満寵殿も同じ気持ちのはず。
気になってはいるはずだ。
それでも、ここに残ったのは恐らく私を待ってくれていたのだと思う。

数拍おいて、私は満寵殿を見た。



「行きます」

「ああ、行こう」



私と満寵殿は殿のいるであろうそこへ向かった。










 * * *









「あんたが出来るのにやらずにいたのがいけないんだろう!どうするんですか、じゃなくて、あんたがどうにかしろってんだ」



いつもこういう所から出くわすな、と思いながら、相変わらず言っていることがめちゃくちゃだと思う。
向って左側に男が、右側にが立っている。

傍らにいる荀ケ殿が言った。



「あれが……なんて出鱈目なことを…」

「全くだね」



荀ケ殿はもちろん、ここに来るのも初めてだ。
の声が聞こえる程度の距離でそれをただ見守った。
他の現場は問題なく進んでいるような中で、そこだけが異様に見える。

声を上げる男とは対照的に、常のようにはただ静かに言った。



「お言葉ですが、今日までに間に合わせると約束して下さったのはあなたです。私が手を出したのは、他でもないあなたが私に加工手順を聞いたから。それも、期日までに完了させるという条件付きでした。それを反故にして、なぜ私がどうにかしなければならないのですか?」

「それがあんたの責任だからだ、あんたの仕事だろうが!責任取るのがよ」

「仕事…責任…私の仕事はこの場の監理であって、作業そのものをすることではありません。作業を実行するのはあなたの、あなた方の仕事であり責任です。いまはまだ、私はその責を負う段階ではありません」

「屁理屈を言いやがって。いいのかよ、それで本当に間に合わなかった時、飛ぶのはあんたの首なんだぜ。それが嫌ならあんたが自分でやるんだな」



のその表情は柔らかくはないが、険しくもない。
中々に表情を読みにくい。
怒っているようにも困惑しているようにも見えない。
言うなれば、無表情に近かった。



「私を脅迫して自分の仕事を押し付ける、と…己の義務すら果たさない、そういうことでしょうか?」

「義務だと?そんなもん、どこにある!」

「…ここに。これ、覚えてらっしゃいますか?ここにいらっしゃる方、一人一人に私の目の前で署名若しくは拇印を押していただきました。忘れたとは言わせません」

「……覚えてるぜ。けどよ、そんな紙切れがなんだっていうんだ」



が懐から出し、手にしたそれは何かわからない。
そして、が何を意図してそんなものを用意していたのかも当然、分からない。
署名…?…は一体何を…。

空を覆う雲が日差しを遮り辺りを薄暗くする。
どんよりとした空気と、普請を進める音が響く中、の声ははっきりと耳に届いた。



「これ、今回のために特別に準備した私と貴方たちとの労働契約書です。ここへの出入り許可は勿論、成すべき行為、それに違反した場合の罰則、全てここに書いてあります」

「なん……知らねえぞ、そんなもん書いてあるなんて…」

「知らない?私は、署名頂く前にちゃんと読んで下さいね、といいましたよ」

「……それが…なんだってんだ…」



が口にしたそれは、ここでは聞き慣れないものだ。
主張を覆そうと思えば、まあできなくもない。
しかし、あの男は既に頭が回らなくなっているようだ。
今までただ穏やかにそれこそ諭すように言葉を伝え、表向きは大人しく言うことを聞いていたであろうはずのが、まさかあんな行動に出るとは思っていなかったんだと思う。
ここで見かけた今までのが見せていた表情や声音と、今ののそれは全く違う。
言うなれば、は攻勢に転じた、そんなところだろうか。

そんな、狼狽えた様子の男を傍目に、が言葉を続けた。



「そうですね……その前に、まず大前提のお話をしましょう。さっき、あなたは私を脅迫しましたよね。その脅迫行為はこの契約書に関係なく、この国の法で刑罰を受けるべき行為として定めがあります。その他、契約を反故にした場合の刑罰についても定めがある。参考までにそれらが何条に規定され、どういう刑を与えられるか、またあなたが今まで私にした行為を挙げながらご説明しましょう。よく聞いていてくださいね」



言って、は今まで男から受けた行為の数々を引き合いに現行法の具体的な条文を挙げはじめた。
それがなんていうか…あまりに適格すぎて、驚くほかない。

はまだ、ここにきてから一年をやっと数えたばかりだ。
が言うように、また、から話を聞くかぎり、ここと向こうでは社会のしくみが異なる。
それは法も同じはず。
それをここまで使いこなすなんて、驚く意外にどう反応できるだろう。
それに、そもそもいつはこれらのことを覚えたんだろうか。
不思議でならない。

荀ケ殿が視線を外さずにいう。



「労働契約というものは初耳ですが、これは…恐れ入りましたね。まさか殿が現行法まで網羅なさっていたとは…」

のこういう隙のなさには、毎回舌を巻くよ…ほんとに」



私はそう相槌を打った。

実際、はここまでの展開を見越して、あらかじめその労働契約書とやらに署名させたんだろう。
勿論、今みたいに利用するために。
それは何手か先を読んだというより、すでに似た経験をしていた、という風に見える。
いや、それだと説明が上手くない。
経験をもとに先読みし、道を作ってそこに彼らを誘い出した、がこの場合は近いかな。
どっちにしろ、敵に回したくはないね。

呆然としているような男に、は構わず続ける。



「…以上、ざっと挙げればこのぐらいですが、ひとまずここまでにしておきましょう。キリがありませんから」



そう言って、はそこで一度両手を合わせて鳴らした。
我に返ったらしい男に、が声音を少し高くして極明るく言い放つ。



「さて、ところで今、最も重要なことはこの現場を無事に工期内に完成させること…ですが、現状それは無理そうです、残念なことに。ということで、私は今から最高責任者に頭を下げて、それから工期延長をお願いしようと思います…が、流石にこの現状の説明を私だけで行うのには無理があります、そこで」

「あんた、なに言って…」

「なに、じゃないです。あなた、私と一緒に来て説明補助をお願いできますか?もちろん、一緒に行っていただけますよね?あなたは自分に非が無いとおっしゃるんですから、あなたの思うまま説明して下さればいいんです。必要なら、ここにも来ていただきましょう。その方が分かりやすい、そう思いませんか?」

「い、いいぜ…だけど、あんた後悔するなよ。ここの責任者はあんたなんだ、泣いたって知らねえぜ」

「ええ、後悔なんてしませんし、泣きません。あなたの後ろにどなたがついてらっしゃるのかは知りませんけど、私は自分の仕事の結果がどんなものであろうと後悔なんてしませんから。そのぐらい、私は自分の仕事に自信とプライド…誇りを持ってます。あなたは自分の仕事にどのぐらい自信と誇り、持ってますか?」



強がりのように言った男には全く気にした様子も見せずに言う。

そしてはその言葉通り、自分の仕事にはいつも自信を持っている。
だから、結果が良かろうが悪かろうが、常に全力で取り組んでいるからしてみれば、それはすべて受け入れられる結果なのだろう。
後悔することに時間を費やすなら次を考えることにその時間を使う、それがだ。
少なくとも、現時点で私の知っているは、そう考える。
多少泣くぐらいの弱さはあってもいいと思うけど…。

の言葉を聞いた男の顔は、ただ引きつっていた。
焦りも見える。
多分、もう自分のことで頭の中はいっぱいの筈だ、それこそ何も考えられていないに違いない。
恐らく、男をこの状態にする、追い詰めることこそが思い描いていたことだと思う。
が言っていた、やり方っていうのはこのことなんだろうか…。



「さ、行きましょう」



はそう言うと、くるりと男に背を向け歩き出す。
一切の躊躇いもない。
その表情はただ明るく、笑みすら浮かんでいた。
その時、の後ろで俄かに男が両膝をつき、そして言った。



「ま、待ってくれ!…俺が悪かった、頼む、助けてくれ」

「助ける…?何を助ければいいんでしょう?」



そう言ってが一度立ち止まる。
視線だけ男に向け、疑問を口にした。
男が言う。



「お、俺はただ、あの…」

「ストップ!待って、それは言わなくていい。それから、それとこれとは話が別よ。何を助けて欲しいの?」



はそこで声を上げ、男を振り向いた。

が止めた言葉の先はきっと、その男の後ろについている者の名だろう。
だけど、が男の口からまず聞きたいのはそれじゃない。
何て言ったって、だ。
この場の仕事が、まず優先だろう。

男が言い直す。



「ここを…ここを間に合わせるにはどうしたらいいんだ、あんたなら出来るんだろう…!?見てれば分かる、だから、助けてくれ!なんでもする!」



そう言って、男は頭を下げた。
は男を見下ろしながら腰に手を当て、静かに言う。



「なんでも……オーケイ、分かったわ。いま言ったこと、絶対忘れないでね。いいわ、助けてあげる…その代わり」



腰に当てた手を放し、は人さし指を立て男にそれを見せるように向けた。



「私がこれからすること、一つの工程も間違わず同じ様に進めるって約束して。でなければ、助けない。最初に言うことを聞いたふりして、あとで違うことをしても同じよ。私に誤魔化しはきかない。一度でも変な真似したら、私はもう助けないわ」

「わかった、そのとおりにする」

「いいわ。それじゃ、道具を一式とそれから尺杖(しゃくづえ)、ある分だけ並べて。さあ、はじめましょう」



そうは言い放つと、羽織を脱ぎ、更に上衣をその場で脱いで中衣姿になる。
もちろん荀ケ殿と同様、驚いたのは言うまでもない。
そこは女性なんだから、もう少し恥じらいってやつを…。
そんなことを私が思っている間にも、は髪紐を解くといつかのように右の袖を少したくし上げてその紐で結ぶ。
中衣の合わせから竹の棒を取り出して髪を高めの位置で纏めた。
脱いだそれらを手早く畳んで積まれた材木の傍らに置く。
そこで私は初めて、そこに巻物が一本置いてあることに気づいた。
大きさからすると、図面ではなさそうだ。

その時、が男たちの方を振り向き言った。



「施工図と詳細図を渡していたわよね?見せて」



そこへ歩み寄り、図面を受け取る。
ひととおり目を通すと傍らにそれを置いて、加工台に据えられた材の横で男たちの顔を一瞥したのちが言った。
材の状態を見てから、尺杖をあてる。



「いい?よく見てて。何するにも必ず、やり方、順序というものがあるわ。それはいわば、道理、理よ。筋道立ててしっかりやれば、自ずと作業速度は上がるし、理にかなったやり方を実行していれば必ず綺麗なものが出来上がる。それを間違えれば、効率は下がるし出来も悪い。それもまた道理よ」



言いながらも、の手元は止まらない。
尺杖から印を落とし、足りない所は曲尺(かねじゃく)をあて印を落とす。
流れるようなその動きには一切の躊躇いもなく、滞りもない。
頭の中に、進め方も出来上がりの姿も、すべてが入っているからこそ出来る動きだ。
男たちの内の一人が言った。



「お、おい…あんた、図は、寸法は見ねえのかよ…」

「すべて頭に入っているわ。今自分が何を加工しているのか、次に何をして、どこを作り納めるのか。そして最終的にどういう形になるのか、それをしっかり考えて動けば寸法は勝手に頭に入ってくる」

「じゃ、じゃあ、あんたなんでさっき…」

「それも手順よ。先に図を見て筋道立てる、それが基本。設計図があるならそれを確認してから作業にあたる、それは道理よ。設計図無視したら、設計する意味なんかないわ…それに」



印をすべて落とし終わったらしいが鑿と玄能を手に、一度言葉を区切り、それから言った。



「自分の設計如何に関わらず、この手で一度でも引いた図面は絶対に忘れない。それが私の仕事に対する誇り。だって引く前にもう、私の頭には図が出来上がっているんだから。それを忘れるってことは仕事を忘れるってことよ。実際の図は確認のために使うもの。それから、今あえて言うなら、あなたたちへの連絡手段、会話することと同じよ」



そう言いながら材を刻むの目は真剣で、それはきっと向こうで仕事をしていた時も変わらなかったんだろうと思うと、なぜか胸が締め付けられた。
戦のない世の中で、は一体どんな生活を送っていたんだろう。
が言う、その道理に気づいたきっかけは何だったんだろう。
そこにが辿りつくまでの道がどんなものだったのか今更ながら、知りたい、と思う。

荀ケ殿が呟くようにして言った。



殿の中には、すでに殿の理が出来上がっているのですね…」

「ああ、そのようだね。だが悪い事じゃない」

「ええ。共感できます」

「私もだよ。きっと彼らも同じだろう。少なくとも、同じ”仕事”をしている立場からしたら、あれ以上の道理はないと思う」

「そうですね、私もそう思います」



をまっすぐに見る荀ケ殿を一瞥してから、私もまたに視線を戻した。
ただ黙々と刻んでいくの視線はずっと手元にある。
時に全体を見渡して調子を見ている。
そんなの目は、矢張りずっと真剣で…だけどそれだけじゃないことが分かる。
どこか楽しげで、そして希望に満ちているように見えた。

暫く時が過ぎて、空を覆う雲が薄くなり始めたころ道具を手から放したが身体を起こす。
そこから数歩後退しながら言った。



「さあ、できたわ。これが、あなたたちに作ってもらうもの、そして、後世に残っていくものよ」

「やっぱ、すげえ…」

「見なくても分かる…こいつは継ぎ目が分からなくなっちまうやつだ…こんな綺麗な仕上がり見たことねえ」



男たちが感嘆の声を上げる中、はただ明るく言う。



「大丈夫、あなたたちなら出来るわ。腕は確かだもの。ただ、守らなければいけない手順を守らずに自分流でやってしまうのがいけない。すべてそうしろとは言わないけど、絶対に踏まなきゃいけない手順もある。それを無視してしまうから最後の詰めが甘くなる」

「あ、あんた…そこまで見て…」

「当然よ。だけど、私はあなたたちを信じてるわ。その腕も、道具の扱いを見ていれば分かる。手入れも本当に丁寧にされてる。道具を大切にする職人は基本腕が良いって相場が決まっているのよ、それもまた道理だわ」



そんなを男たちはただ不安そうな顔をして見ている。
が言った。



「自信持って。あなた達なら、ちゃんと進めれば三日で終わるわ。そうすれば十分、あとの工期にも間に合う。自分に自信を持ちなさい、それだけのものあなたたちは持ってる。保証するわ」



雲間から光がさす中、はふわっと微笑んで優しく言った。
荀ケ殿が言う。



殿はこれも見越していたのですね」

「ほんとに、恐れ入るよ」

「はい」



呆れる気持ちで返すと、荀ケ殿もまた呆れたように相槌を打った。
視線の先で、が畳んだ上衣の傍らから巻物を拾い上げて男たちに差し出す。



「それから、これ。もし分からないことがあったらこれを開いて確認して。そして、万が一これを見ても分からないことがあったら、私のところへ聞きに来て。すぐによ」

「私のところって…そんなもん」

「ああ!これ!」



詳しいことは分からないが、きっとのことだ。
彼らがのいる場所を知らないだろうことを見越して、案内図でも書き込んであるんだろう。
全く、恐れ入る。



「そこに基本はいるわ。折を見てここにも来るから、それで勘弁願えるかしら」

「願うのはこっちだ。わかった、これから早速かかるぜ」

「ええ、早急にお願いするわ」



そう言ったの表情はただ優しさに溢れていた。













 * * * * * * * * * *










執務室へ戻ると、ほぼ同時に皆が戻ってきた。
それぞれが自分の書机の前に腰を下ろす。
そのとき、郭嘉殿がに視線を向けて言った。



「見事なものだね。がまさか、あそこまでのはったりをかますなんて…そういうこと、だよね?」

「ええ、そういうことです。労働契約なんてものがこちらではあまり通用しないことは承知の上でしたし」



書机から書簡を下ろすに私は言った。



「だけど、それが彼らには通ると踏んでいたんだろう?」

「もちろんです。それが無かったらもっと別の方法を取りました。彼らは基本的には素直なので…まあ、それだけではありませんけど、私としては嫌っていないんです。腕はいい線いってますし…ですけど、まさかこちらでも向こうと同じように法武装する羽目になるとは思いませんでした」



書簡を下ろし終わったはそう言うと、呆れたように言った。
郭嘉殿が感心しながら言う。



「それにしたって、よくあんなに条文を覚えたね。その気になれば、司空の仕事も出来るんじゃないかな」

「冗談やめてください…!それ、曹操さんの仕事のことでしょう?そんな付け焼刃の知識でどうにかなるものじゃないですよ」

「そうかな?私は結構本気で言っているけれど」

「それこそ本当にやめてください!壁に耳あり、障子に目あり、です。もう…恐ろしいことを…これでも一応分は弁えてるんです、身分なしの私に何ができるんですか、問題発言ですよ、それ」



そう言って眉根を寄せるを見て、郭嘉殿は笑みを浮かべたまま首を傾げた。
それにしても、身分なし、か…卑下して言っているわけじゃないことは分かるけど、そういう風に言っているのを聞くと、ちょっと切なくなるな…。
突き放されていると感じてしまうのは、私だけだろうか。

そんなことを考えている間に、が言う。



「…まあ、話を元に戻しますけど、私は法を覚えること自体はそんなに苦だとは思ってません。私のいたところは、なんていうか官民関係なく法に胡坐をかいてるような、そんな法治国家ですから…色々とこちらより世知辛い部分があるんです。好き好んでいるわけではないですけど、法武装は基本です…なんでもかんでも、法規制されてないからいけないとか規制されてないからいいだろとか、そんなことどこにも書いてないから知らない、とか…もういろいろ都合よく考えすぎです」



そういうの表情は、どこか憂いを帯びたように見える。
よっぽどその辺りで苦労したんだろうか。
だけど、それもまた仕方ない面もあるとは思う。

私はに言った。



「それは…法で国を治める限り避けては通れない問題だろうね。その年月が長くなればなるほど」

「はい、伯寧さんの言う通りです……法は人によっては守りにもなるし悪用しようとする人間からすれば攻めにもなる…守られているようで守られてはいない。場合によっては、罪もないのに罪を着せられる…法で縛ることは便利で簡単ですけど、その抜け道をなくすことはそれ以上に難しいです。人の作るものがいかに不完全か、考えさせられますね」



荀ケ殿が言った。



殿は…そういう被害に遭われたことが?」

「いえ、私が直接訴えられたわけではありませんが……まあ、そういう遭遇率が高い業種ですから、建築関係は。関わる法律が多岐に渡るので、そういうところを利用してやろうと考えるんでしょうね……誠意をもって仕事をしても、それを悪用してそれこそ仇で返すような人間はいくらでもいます。時にはその出鱈目が通ってしまうこともある…全く、世知辛い」



一度、は言葉を濁したけど、多分は直接関わってたんだろう。
きっとそういうところで、隙を作らないようにするにはどう立ち回ればいいのかってことを鍛えられたんだろうな。
戦が無い世っていうのも、なかなかに難しそうだ。
まあ、どんな仕事を選ぶかにもよるんだろうし、なんとなくの経験は特殊なもののような気がしなくもないけど。

が続けて言う。



「けど、その代わり知らなかった分野を勉強できたことは喜ばしい事です。それは純粋に楽しめましたから」

「そこまで来ると殿の知識欲には愈々、敵いませんね」



荀ケ殿が笑みを浮かべて言った。
まったく、その通りだと思う。
が笑みで返す。



「…ともかくこれで、無事に進むでしょうから後は粛々とやるべきことをこなしていくだけです」



私もこれを終わらせないと、そう付け加えては書簡を捌き始めた。
瞬く間に山積みだった書簡が処理されていく。
それは、普段より気持ち早く感じた。

―――それから約一月後、無事に工事は終わり増築部分はが受け持っていた場所も含め全てが完成した―陛下の宮殿完成はまだまだ先だが―。
の受け持っていたそこは、予定していた工期よりも早くに完成したそうだ。
それからの計らいで、あの職工たちは主公からの評価が上がり活躍の場が増えたらしい。
また、どう動いたのかは知らないけど、あの職工の弱みを握り裏で動いていたくだんの人物にもなりの制裁を加えたとか…。
は笑って誤魔化すだけでその辺りを一切話してくれなかったので、何をしたのかは謎のままだ。

そして、そんなは今日、現場完成の打ち上げだと言ってあの職工を始め、完成までに関わった他の職工に声をかけて酒楼で集まるらしい。
労う意味と祝いの意味だそうだ。

そういう分け隔てのない気の遣い方が、の所へ人が集まってくる大きな理由なんだろう。
私はそんなことを思いながら、この日の終業を迎えた。
十一月にもう入る。
外は粉雪が舞っていた。












つづく⇒



ぼやき(反転してください)



書きながら、この話いるか?と自分がまず疑問でした…。
195年に帝お迎え設定してしまったせいで宛までが長いです
まだ暫く、内容的には平和な話が続きます、多分

2018.07.13



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