一九五年 九月






     人間万事塞翁馬 46















九月に入り評議で言い渡されたの兼務は宮城(しろ)の増築箇所の監理だった。
といっても、増築する場所全てじゃない。
そのごく一部だ。
そしてそれは、主公の判断ではなくて、何だか誰だかからの推薦だって言ってた。
は二つ返事でそれを受けていた。
俺は全然専門外でそんなことちっとも分からないから、ただすげえな、としか思わなかった。
そのごく一部のことだって俺にはちんぷんかんぷんで、話半分に聞いてたぐらいだ。

先月八月、許昌に戻ってくると、そのちょっと前に斥候から聞いた通り、袁術がそこを占拠していた。
が心配で、とにもかくにも中へ進んで行ったのを覚えている。
楽進に続いてそこに着くと、もうそこには于禁殿や荀ケ殿、荀攸殿がいた。
だけど、皆何をするでもなく突っ立ったままだったから、俺は不思議に思いながら同じようにその先を見た。

そこにはが立っていた―同時に曹仁殿と曹休殿、満寵殿と郭嘉殿、徐晃殿も視界に入った―。
俺が視線を上げると丁度、ほぼ背後から放たれた鏢をが手にしていた剣で制し、それを手の中に納めた。
直後に、その剣を鏢の持ち主に向かって放ちその足元に突き立てる。
わざとそこを狙ったのはすぐに分かった。
今に始まったことじゃないが、俺はその時心の底から驚いた。
どんだけ強えんだ、の奴。
勘弁してくれよ…。
俺も周りと同じように、ただ見ているだけしかできなかった。
一部始終をただ見守って袁術とのやり取りの中でが受けただろう仕打ちを知って怒りが湧いた。
けど、それとは別に去ってく袁術を見ながら思った。
何より、を怒らせると物凄く怖えってこと。

鍛練場で朝稽古してるとか、たまに外の任が一緒になった時とか、その時のの身のこなしは思わず見惚れちまうほどすげえんだけど…。
怒らせると、それが更に洗練されるような…。
いや、そんな言葉じゃ表現出来ない。
近づいたら俺らまでやられそう。
そんな空気を纏ってる。

そしてその後の周蘭とのやりとり。
の髪が前みたいに短かったら、確実にそういう風にしか見えなかった。
まあ、短いのも嫌いじゃないけど、俺は長い方が好きだな。
楽進は短い方がいいって言ってたけど。
いや、ともかく。
そんな二人を誰が女同士だなんて思うんだ?って話だ。
妬けるぜ。
っていうのは冗談だが、がやっぱりすげえっていうのは変わらなかった。
周蘭の話と袁術を追いつめてたの話、二つあわせると言葉以外に物理的にもが酷い目にあわされてたのは確かだった。
周蘭の取り乱し方は普通じゃない。
それに、そのあと近づいての顔見てやっと意味が分かったが、左頬が腫れてた。
右の口の端も切れてた。
袁術の野郎、と思ったのは言うまでもない…が、それ以前にそれが分かった今だから改めて思う。
はやっぱり強え。
力が、じゃなくて心が。

自分があんな状態で取り乱した奴を慰めるなんて普通出来るか?
俺はやっぱり難しいと思う。
だって、女だ。
いや、馬鹿にするわけじゃない。
けど、きっと二人で抱き合って泣きじゃくるっていう感じが普通じゃないのか?
賊に襲われた村を救援しに行ったりすると、大体女たちはそうしてる。
その場でだったり、あとから再会したりとかでも同じだ。
強がってる女でさえ、家族や友人と顔合わせたら泣き崩れる。
なのにはどれとも違う。

…まあ、なんてえの、濮陽の時から既にそうだったから、今さらなんだろうけどさ…。
…俺、入る隙ないんじゃないか?
いや、らしいって言えば、らしいんだが…。
その後も、いきなり気失うみたいに寝ちまったけど、まあ、それもらしいとは思った。
同時に意外だとも思ったけどな。
仕事の時とかすっげえ、ぴしっとしてるからそれ考えると意外だわ。

…そういや、それと言えばあれは悔やまれる。
の寝顔をじっくり見れなかったこと。
我ながら惜しいことをしたって思った。
の寝顔なんて濮陽の時の眉間に皺寄せた苦しそうな所しか見たことしかないしな…。

ああ、それともう一つ。
あれ、結局どうなったんだ?
丹薬飲んじまったってやつ。
………。
…………。

……ああ、やばい、気になってきた…。
確か、満寵殿が持ち帰…じゃなかった、連れて帰ったって聞いたけど…。
二人も、もちろん他の軍師たちも、于禁殿も普通にしてたよな。
…まあ、評議の時に見ただけだから、そりゃそうか。
結局、あの直後は哨戒と事後処理で全然とは時間が合わなかったんだよな。
いや、でもそんなこと面と向かって聞けるわけがない。
第一、どうやって聞くんだよ。

そんなことを思いながら、俺は主公の執務室の前に立った。
北からの冷たい風がよく吹くようになったと思う。
紅葉した木々の葉も大分枯れ落ちている。
今は許昌のどこに居ても、普請を進める音が響いていた。

扉に向かって声を張ると、ちょっと間を置いたあとに、中から主公の返事があった。
俺は一度拱手してから扉を開け、促されるまま中へと進む。
みなまで言うことなく、顔を上げた主公が手を差し出したので、俺はその意図を悟ってそのまま手にしていた報告書を主公へ渡した。
主公がそれを受け取りながら言う。



「ご苦労であったな、李典。どうだ、変わりはないか?」

「はい。問題はありませんよ。陛下のお力でしょうね。まあ、静かなもんです」

「そうか。ならば良い……まだ宮殿が出来ておらぬ故、人員を全てそちらへつぎ込んでおるからな…何かあっても困るのだ」

「まあ、もしその時は俺らにお任せください、そういう時のための俺らですからね」

「ふ、頼もしいことよ。ならば、一安心だな」



そう言って、主公が笑みを浮かべた。

この人の、このどっしりと構えている感じが、本当に頼もしいと思う。
何事にも動じない芯の強さが、変な意味じゃなく、俺は好きだ。
それに、見た目の印象よりずっと、この人は優しい。

その時、ふと俺はあることに気づき、主公に質問をした。



「あれ、主公…典韋殿と許褚殿はどちらに?」

「ああ、宮城(しろ)の増築現場に借り出しておる。力仕事はあの二人がおれば嫌でも捗ろう」

もいる場所ですか?」

「いや、別な場所よ。は手間の複雑な場所におる……おお、そうであった」



言うや、主公は何かを思い出したように、傍らから巻物を取り出した。
それを机に置いて主公が俺を見る。



「これを悪いがに届けてはくれぬか。人手が足りなくてな、遣わす者も今は欠いておる。おぬしに頼むのも可笑しな話ではあるが…頼まれてはくれぬか?」

「そんなこと、お安い御用です!この李曼成にお任せあれ!」

「うむ。すまぬな」


そう言ってその巻物を主公は俺に差し出した。
俺はそれを受け取る。
最中、主公が言った。



ならば中を見れば意を解するはずだ。だが、万一分からぬようであれば聞きに来いと伝えてくれ」

「わかりました」

「うむ。それと…手間を掛けさせるが、の受け持つ現場がどのようであったか進捗を含め、わしに教えてくれんか?」

「それは、構いませんが…俺、専門的な事全然分かりませんよ?」

「良い。おぬしの言葉で見たままを教えてくれればそれで良いのだ」

「そんなことで良いんでしたら、お任せを!では、行ってきます」



拱手する俺に、主公は短く相槌を打った。
主公の執務室を出て扉を閉めたあと、俺は回廊を暫く進んだ。
そして、途中で重大なことに気づいた。

が居る場所が分かんねえ…。
何やってんだ、俺。
主公も言ってくれれば…ああ、いや…。
確か評議の時に言ってた気がする…。

俺は立ち止まって顎に手を当てた。
…が、どんなに考えても、”それ”以外思いつかない。
なんでか、すごく気まずいがそれしかねえ。
意を決してから、回廊を再び進む。
行く先は、の執務室。
軍師たちの巣窟へ。

…なんてな。
ああ、気が進まねえぜ…。









 * * *










私以外誰もいない執務室で作業に当たる。
最近はよくあることだ。
詳しく聞いていないので各々がどこに居るのかは知らないが、の所在だけは知っている。
基本的にの仕事はここでのことが主だが、増築箇所一部の監理を兼務している関係で折を見てはそこへ足を運んでいるようだ。
通常、監理は一人の人間がひとまとめでするものだが、そこは棟としては独立しているせいか、他とは違うらしい。
まあ、ご多分に別の事情が絡んでいるようにしか思えないけどね。

ところで、が私の邸に居たのは先月の話だ。
袁術の一件で改めて分かったことは、はやっぱり激情家ってことかな。
普段はそんな感じは一切ないけど、東平の時のこととか今回のことを踏まえると、そう思う以外にない。
いや、だからって何もそれは悪いことじゃない。
ただ、自分を顧みない悪癖に拍車がかかる、それがよろしくない。

――はきっと、今後も戦場に出ることだってあると思う。
それを考えると、それがいつか大きな仇にならないか…、今考えても仕方ないんだろうけど、心配でしかない。
一番は戦場に出さないこと、だけど、もう今更それは無理な話だ。
今だって結局何もできずに傍にいてやることすらできないんだから…。

そういえば私の邸にいた、あのとき、は一体何を思い出していたんだろうか。
あのときっていうのは勿論、私が薬を取りに立ったときだ。
が落ち着くまで入室するのは控えたけど…。
いや、自分から振った話題ではあったから、なんとなく想像はつく。
だけど、それだけ、だったんだろうか…?
ああ、いや…そんなこと考えるのはやめよう。
ただでさえ、それの前にを…。
…郭嘉殿じゃあるまいし。
ただ想像通り、後日出仕してから郭嘉殿に全く同じようなことを言われたとから聞かされたっけ。
事前に心の準備が出来てたから良かった、なんて言いながら感謝されたけど…。
気まずいのは私だけか…?

と、思わず目を閉じて眉間を寄せた時、扉の向こうから意外な人物の声がした。
どうぞ、と一言返すと扉を開けて入ってきたのは、李典殿。
巻物を一本手にしている。
大きさから、それが図面であることはすぐに分かった。
主公に何か頼まれでもしたのだろう。

そんなことを思いながら、私は李典殿に声をかけた。



「珍しいね、李典殿がこちらにいらすとは。なら出てるよ」

「ああ…えっと、そうなんですけど」



歯切れが悪そうにする李典殿を見て、私は直感する。
筆を置きながら言った。



「案内しよう」

「え…いいんですか?」

「もちろん。丁度息抜きでもしようかと思っていたところだしね」



その場に立ち上がり、扉へ向かう。
後ずさりながら回廊へ出る李典殿の脇を抜けて私は扉を閉めた。

のことも気がかりだし。



「さ、行こうか」



短く相槌を打つ李典殿を確認して、私はのいる現場へと足を向けた。

それから暫く回廊を無言で歩いていると、どのぐらいか来たところで後方の李典殿が唐突に言った。



「あのー、満寵殿…」

「なんだい?」



視線だけちらりと後ろへやってから、相槌を打つ。
どこか言いにくそうに続けた。



「なんで、その…俺がに用事があるって分かったんですか?」

「ああ、それはだね」



私は後ろを振り返りながら立ち止まると、李典殿が同じようにぴたりと止まって不思議そうな顔をしている。
その手にしている巻物を指差して私は言った。



「それを持っていたからさ」

「これ?」



分からないと言った風に、李典殿は手にした巻物を少しだけ持ち上げる。
私は頷いた。



「そう、それ。その大きさの巻物は図面によく使うんだ。だからだよ。あの部屋で今、それが必要そうなのはぐらいだからね。簡単だろう?」

「言われれば、まあ……けど、俺には難しいですね」

「そうかい?」



ええ、という声を聞いてから私は再び李典殿に背を向けて回廊を進んだ。

ここまでくると、鎚で打つ音がかなり大きい。
少し声を張らないと、互いの声が聞き取りづらい。
しかし、そんな中でもそれははっきりと、そして何の前触れもなく耳に届いた。



「だから、なんで口先だけの娘っ子の言うことを俺らが聞かなきゃなんないんだ、え!?」



増築現場の一角に面した回廊で足を止め、またか、と思いつつその方向に視線を向ける。
そこには恐らく私と同じぐらいか、それよりも少しばかり背の高い男がの胸倉をつかんでいる。
体格はその男の方が私よりずっとがっしりとしていた。
その後ろには十人ばかりの同じ現場を受け持つ男たちが突っ立って傍観を決め込んでいる。
はただ、つま先が地面につくかつかないかぐらいの所でされるがまま、しかし涼しい顔で真っ直ぐに男を見上げていた。
傍らの李典殿がそれに気づくや、飛び出していこうとするのを私は肩を掴んで止める。
勢いよく李典殿が振り向いた。



「なんで止めるんだ!あんた…」

「いいから、の邪魔をしないでやってくれ」

「なん…っ…」



私はただ、李典殿を睨んだ。
気持ちは分かるが、そうせざるを得ない。

私も一度同じことをして―その時は止めに入った―そのあと、他に誰もいない執務室でに怒られた。
やり方があるから手を出すな、と。
お願いだから邪魔をするな、とまで言われた。
といっても声を荒げられたわけじゃない、声音は静かで落ち着いたものだった。
勿論、言い方もそんな言い方じゃなかった。
だけど、その目には確かに怒気が含まれていた。
そして、それは私に対してではなく、何よりも自身に対して抱いている、そんな感じがしたんだ。
もしそれが当たっているとするのなら、私たちが手を出せば出すほどは自分を責めるだろう。
そうなると、それは多分何の解決にもならない。
手を出すのは簡単だが、それではきっと駄目なんだ。
それに…。

それからすぐに手をはなして、に視線を向けた。
まだ、二人は先ほどのまま微動だにせずじっとしている。

そこを見ながら私は言った。



「今に始まったことじゃない……に止められているんだ、頼むから邪魔をしないでやって欲しい」

「…っ……主公は知っているんですか?」

「ああ、ご存知だよ。けど、気づかぬふりをしている」

「なんで」

「仕方がないんだ。人の出入りが多くなるってことは、それだけきな臭いことも増える。色んな事を利用しようってやつが増えるんだ。まあ、今回のはちょっと性質が違うけどね」

はそのこと…」

「気づいているよ。主公から話があった時、推薦した者の名を聞いて大方理解した、と言っていた。同時に、一番の問題はそもそも自分だ、ともね」

「それってどういう」

「全てが終わったら、に聞いてみるといい。私も詳しい理由はから聞いたんだ…ただ、馬鹿々々しくて反吐が出る」



李典殿を振り向いて、私はそう言った。
ぽかんとしている李典殿を見て私ははっとしながら、口元を押さえる。



「おっと、失敬…今のは言葉のあやだ、忘れてくれ」

「あ、ああ…」



それだけ絞り出すように言った李典殿に私はただ笑みを向けた。
その時、また思い出したようにその声が響いた。



「だから、それが分からねえって言ってんだ!」



視線を再びそちらへ向けると、突き飛ばされたらしいが体勢を崩す。
その場で踏みとどまり、倒れることは無かった。

の担当している現場以外―そのごく周囲にあるいくつかのそれを担当している者たち―は、もうこれがあたり前だと言わんばかりに見て見ぬふりを決め込んで、ただ黙々と自分たちの作業を進めている。
私は李典殿の殺気にも似たそれを感じながら、平静を装って振り向きながら言った。



の邪魔にならない程度に、近くへ行こうか」

「…ああ」



そう答えて後ろをついてくる李典殿に、私は二、三歩歩みを進めた所で一度立ち止まり、顔だけ向けた。



「李典殿、その殺気だけおさめてくれるとありがたいんだけど」

「……満寵殿、それ言ったら、あなたもなんですが」

「おや、そうだったかい?それは失敬」



私はただ、肩をすくめた。










 * * * 










満寵殿の言いたいことは分かったが、正直なところ納得はできねえ。
ただ、満寵殿が恐らく一回は止めに入っていて、そのあとにお咎め貰ったっていうのは分かった。
それで、の考え尊重してるんだってことも分かった。
だけど、それでもやっぱ納得いかねえ。
できるだけ我慢するけど、駄目なときは駄目だ。

満寵殿に続いてそこに近づくと、普請の音が鳴り響いていてもの声を耳にすることが出来た。
襟元を直しながら、が男に言う。



「そうおっしゃるということは、やり方さえ分かれば再開して下さる、そういう解釈の仕方でいいですか?」



思いのほか、穏やかな言い方だった。
表情だって全然硬くない。
多分、俺と満寵殿の姿はからは見えてる筈だ。
だけど、その表情でいられるのはそれが理由ではないらしい。

袁術の時のことを思い出した俺は、意外としか思わなかった。
傍らの満寵殿の顔を盗み見ると、こちらも意外にも涼しい顔をしている。
ということはやっぱり、以前も同じ様なことがあった、てことだよな。
そこに一度、満寵殿は出くわしてるってことか。
想像すりゃ分かることだけど、これでとりあえずは確信したぜ。

俺はと男のやりとりを、満寵殿の言葉に従ってただ見守ることにした。
男が言う。



「なんだ?あんたが教えてくれるのか?いいぜ、そんな可愛い手で何が出来るのか知らねえが、やり方を見せてくれや。そしたら俺らもその通りやってやる」

「…わかりました。見せればいいんですね、そうしたら次に取りかかって下さると……約束、して下さいますか?」

「ああ、約束でも何でもしてやる。きっちり綺麗に仕上げられたらやってやるよ」

「わかりました。それでは、すみませんが…どなたかの道具を一式、お借りできませんか?」

「へっ、簡単に言いやがるな…だが、いいぜ。おい、準備しろ」



男は後方に控えていた一人に声をかける。
その一瞬、その男がそいつに目配せしたのを俺は見逃さなかった。
だが、それには満寵殿も気づいている筈なのに相変わらず表情も変えない。
俺もただ、それに倣ってじっとしていることしか出来なかった。

…すげえ、じれったいぜ。
同時に、情けねえ。

はそんな中でも始終けろっとしていて、おまけに笑みまで浮かべてる。
それも作ってるって感じは全然なくて、なんだか見守ってるっていうか、そういう類の表情だった。

なんで、あんな顔してられんだ…。
あからさまだってのは分かってんのに。

その時、は唐突に懐から棒のようなものを一本取りだすと、束ねた髪の結び目へ無造作にそれを挿した。
それから、出仕の時には必ず羽織っているそれを脱ぐ。
手際よくそれを畳んで、傍らに積み上げられていた材木の山の隅にそれを置いた。
そして、その畳んだ羽織の中から同じく畳んだ布(きぬ)のようなものを出して、その上に置く。
その後、挿したそれを髪から一度抜いて上衣の胸元の合わせに挟んだ。

…何する気だ?のやつ。
そんなことを俺が考えている間にも、は束ねた髪の結い紐を解いてその片端を口に咥えると、右の袖をほんの少したくし上げながら上腕の中間あたりで結ぶ。
そのまま流れるように、今度は下ろした髪を合わせに挟んだ棒を使い、そのごく高い位置で纏めた。
それから、胸の前で両手を組み、それを手の平から前方に押し出すようにして伸びをしている。

ひとしきりそうしたあと、男たちのもとへが向かう。
そこで立ち止まり、並べられた道具を見て開口一番に言った。



「…一式と言ったのだけど、具体的に言った方が良かったでしょうか?」



その問いに、一度男は押し黙ったあと、それを準備した男へ向けて視線を送り顎を振る。
新たに道具が一式追加されて、はそれに礼を述べると一言断わりを入れてから作業を始めた。

このための前準備だったのか、と思ったのも束の間。
ただ黙々と淡々と真剣な眼差しで、けどどこか楽しそうに鋸や鑿、鉋をまさしく操るようにが手を動かす。
そういう作業をしているを、俺は初めて見た。

杖みたいなものをあてたり、物差で寸法を取ったりしながら俺には名称が分からない道具で印だかをつける。
墨の入っているらしいそこから糸を引っ張り出しそれを摘まんでまた印をつける。
そこへ鋸や鑿をあてがって切る、削る。
俺は何にも分かんねえが、けど、そこにその作業の進め方に無駄なものが一切ないってことだけは分かった。
だが同時に気づく。
他の任についているときも、同じような顔をしているけど、少し違う。
何をしている時とも、ちょっと違う雰囲気で、似ているけど似てない眼差し。
俺はふと思い出した。

もう大分前に、がそれを差し出しながら、こう言った。

『そのままにしておくの、やっぱり気持ち悪いから…これ弁償品。気に入らなかったら捨てちゃって』

その時、要らないと言いながら受け取った箱は味も素っ気もないもので、中を確認してから初めてその箱もが作ったんだと知った。
その箱は、気づいてみれば、確かにちょっと変わった造りをしていた。
器用なことするな、ぐらいにしか思ってなかった。

けど、いま目の前のを見て、俺は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
なぜか、って。
きっとあの箱も…味気ないからおまけで作った、と言っていたあの箱も、きっとああいう顔して作ってたんだって、やっと分かったから。
それがなんだって言われたら、それまでだけど。
ただ、物を作るその時々で、はその時の自身の気持ちを全部詰めて作ってるんだっていうことが、何となくだけど分かった。
そういう感じの顔してるんだ、今俺が見ているは。

だから、今のはあいつらに…言葉で伝わらないあいつらに、ただ行動とその結果で何か伝えようとしてるんじゃないかと俺は思った。

それから暫くして、全ての作業を終えたのかが徐に、そこから数歩退いた。
そこを、周囲でただ見ていた十人弱の男どもが覗き込むようにする。
その内の一人が声を上げた。



「すげえ!あんな速さで狂いも手違いも無くこんな綺麗に仕上るなんて…あんたいった」

「よおく、分かった…あんたの言うとおりに進めてやる」



さっきの男が、声を上げた男の言葉を遮って、に吐き捨てるように言った。
はただそれを笑みで受け止めて、そして言う。



「ええ。よろしくお願いします」



それから、は使っていた道具を一式、持ち主へ帰しながら言った。



「大事な道具を貸して下さって、ありがとうございました」

「……あ、いや………」



気まずそうにする男に、は微笑むようにして返すと、もう一度あの男にお願いしますと告げて、踵を返す。
木くずを払い落としてから羽織の上の布を拾い上げ、指先を拭う。
そのためのそれか、と思いながら羽織をさっと羽織るをただ見つめた。
懐にその布を戻しながら、がこちらへ歩いてくる。
それでも、ただ俺は呆然とそれを見ていた。









 * * *










こちらへ歩いてくるが足を止めずに言った。



「ごめんなさい、お待たせしました」

「いや、いいよ。私はただ息抜きがてら李典殿を案内しただけだから」

「息抜きに…なりましたか?」

「それなりに」



そう答えると、はそうですか、と言って首を傾げた。
それから李典殿に向き直る。



「ごめん。李典さん、待たせて……それ、曹操さんから?」

「ああ、そう、これ。主公が…中、見れば分かるだろうって言ってたけど、分からなかったら聞きに来いってさ」

「分かったわ、ありがとう」



李典殿は、が敬語を使わない二人の内の一人。
もう一人は、楽進殿。
どういう経緯でそうなったのか私は知らない。
ただ、気づいたときには既にこうだった。
そんな二人を私は黙って見つめる。

は図面を李典殿から受け取ると、その場で開いて中を確認した。
なんとなく私も、李典殿もそれを覗き込む。
相変わらず、主公は綺麗な図面を引く。
無駄のない書込みも、主公らしい。

が一通り目を通してから、分かりましたと言って、それを巻き直した。
そんなを見て、李典殿が驚いたような表情で声を上げる。



「おい、まさか今のもう分かったのか?」

「え?うん。ざっと確認しただけだけど…」

「嘘だろ!?何が書いてあったんだよ…第一どういう意味」

「ん?今やってるところの二工程先が終わった後のものだよ。まあ、追加でやってくれってことだね」

「それがあの一瞬で?分かったのか?」

「いや、そんな難しいことは書いてないよ。指示も書き込んであるし、すごく分かり易いもの…まあ、でもちょっと念押しはしたいから後で曹操さんの所へは行こうかな」



言っては笑みを浮かべた。
李典殿は驚いたまま、ふと私に視線を上げる。
私は、何か?、と意を込めて首を傾げて見せた。
李典殿が言いにくそうに質問する。



「…もしかしなくても、お分かりで?」

「何が書いてあるか、ぐらいならね」

「流石ですね…専門外だから俺にはさっぱりだわ」

「まあまあ……正確に言ったら私もこればかりは専門から外れるよ。この宮城(しろ)は戦専門に使う分けじゃないからね」

「その違いすら俺にはさっぱりなんですよ」



そう言って肩を落とす李典殿に、助け舟にならなかったか、と私は頭を掻いた。
まあ、仕方ないかと静かに息を吐き出す。

丁度その時、近くも遠くも無い所から何かが高所から落ちる音と、直後に人のざわめき。
そちらへ視線を向けると、人だかりが出来ていた。
そのすぐ後ろ側には竹で組まれた足場。
多分、誰か落ちたんだろうと思った。



「なんだ、事故か?」
「ごめん、これ持ってて!」

「え!?!」



李典殿が呟いたのと同時に、が私に図面を渡して制止するのも聞かずにその人だかりへ走っていく。
先月も同じ場面に出くわした気がする―状況は全然違うけど―。

人だかりをかき分けて消えたを私はただ茫然と見ていた。
それから我に返って李典殿を見ると、李典殿も同じ様子だ。



「とりあえず、私たちも行こうか」

「ああ…はい」



生返事で返す李典殿を一度見てから、私はの向かった場所へ足を向けた。

そこへ着くと、他の持ち場の職工がそれぞれの持ち場へ丁度戻り始め、人だかりは早くも疎らになっていた。
持ち場の責任者が自分たちの作業へ戻るよう早々に指示を出したんだろう。
そこには、その怪我をしたらしい、地面に足を投げ出して座る男と同じ持ち場と見える職工の男たちだけが残っていた。
だけど、それも全員ではないようだ。

その男の傍らに膝をついて何かを確認していたらしいが男を見ながら言う。



「受け答えは出来る、手足に感覚もある、痺れはない、頭と背骨はひとまず大丈夫ね…身体誰でもいいから、ちょっと支えててくれる?腕を吊るから」



言って一人男が前に出てきてその男を支えると、は既に添え木のあてられているその腕を懐から出した先ほどとは違う大ぶりの布(きぬ)で手際よく首から吊るように結んだ。



「これでいいわ…自分で立てる?無理なら遠慮しないで無理だって言って」

「あ、いえ…大丈夫っす、立てます……痛たたたっ!」

「痛いのはしょうがないわね、折れてるから。まあ生きてる証拠よ……どう?立ってみて気持ち悪いとか眩暈がするとないかしら?」

「ねえっす…痛いぐらいっすかね…これじゃメシ食うのも大変っすわ」

「オーケイ、冗談もほどほどに。とりあえず、それだけ言えれば問題ないわ……誰かこの人の付添い出来る人いる?」

「あ、俺行きます」

「それじゃ、お願いするわ。このまま救護場へ連れて行ってあげて。腕は動かさないように。固定してるけど一時的だからずれるとマズい。それと…」



慣れたように指示を出すの顔は、不安そうなものではないものの、本当に心配しているのだと言うのが一目で分かる。
指示を出しながらは腰に下げている書包から紙の包みを取り出して、中からそれほど大きくはない葉のようなものを摘まみ負傷した男に噛むように促した。
男の顔は一気に歪むが、痛みを誤魔化すものだから、とは笑みを浮かべ付添いの男がその男を連れ救護場へ向かうのを見送る。
それで終わりかと思ったが、こちらを振り返るでもなく、は負傷した男がもともと居たらしい足場を見上げた。

見た目には問題の無さそうな足場だが、何か気にかかることでもあるのか、暫くそうしてから唐突にがそこを登り始める。
登ると言ってもよじ登るようではなくて、身軽に跳ぶように上へと上がっていった。

の身体能力が高いことは知っているけど…あとでお小言言わせてもらおうと密かに思う。

私が内心呆れている間に、は二丈半―約6m―ほどの所まで登りきると、組まれたそこを凝視してから周囲を見回した後、何やら結び直した。
同じ様に、他の数か所も作業床を何段か降りながら、そうして結び直していく。
それから一通り終わったのか、はそこから飛び降り着地すると、その足でそこを担当しているらしい男の下へと向かった。
何事か話をしているが、他の音が邪魔で何を話しているのかは分からない。

暫くして話が済んだのか、がこちらへ向かって歩いてくる。
私の数歩先で立ち止まってが言った。



「ごめんなさい、伯寧さん…行き成り押し付けてしまって」

「いや、いいよ。ところで、今どんな話をしたの?」



言いながら図面を渡し、問う。
それを受け取りつつ、が答えた。



「足場の紐の結びが甘い箇所があったのでそれを伝えました。それから、結びに慣れてない人間がいると思われるから同じ事故が起きないよう、もう一度全員を集めて指導を行き渡らせるように、と」

「なるほどね」



向こうとこっちでは流れは似てるが作業の細かいところは全然違うとがいつだか言っていた。
けど、それでもそういう所に気を配れるということはどちらにせよ、あらゆる工種に明るいということに違いはない。
そして、どんな時でもどんな場所でもどんな形であっても、より良いものをとは思っているんだろう。
多分、殆ど無意識に。
だけどまさか、があそこまで見事な応急処置をできるとは思っていなかった。

李典殿が驚きを隠さず、に問う。



、あんた医学の心得まであるのか?」

「全然…そんな大それた知識はないよ。たまたま母が医者だったから、色々見たり聞いたりして知ってるだけ。簡単な応急処置ぐらいしか出来ないわ」



にかかれば、あれが簡単、になるのか…。
それにしても、母親が医者とは。
こちらでは考えられないな。

そんなことを考えている間にも、李典殿がに言う。



「それにしたって用意周到だよな?あの布とか薬草とか」

「それはまあ、備えあれば憂いなしって言うじゃない。母もよく大判のスカーフ…ああ、布(きぬ)は念のため持ち歩いとけって言ってたわ。それに…現場出る限り怪我人が出そうなことは想像できるし…とりあえず、死人が出るとか、大きな事故なく終わってくれればそれでいいの」

「感心するしかないわ、俺」

「それは私も同感だね」



もうそれ以外の感想がない。
余程その母という人は、その辺りに抜かりのない人だったんだろうな。
いや、の性格に因るところも多分にあるんだろうけど。

そんな私たちに、が笑みを浮かべて言う。



「それはさておき、とりあえず戻りましょう。他にもしなきゃいけないことがあるもの」



そう言って、は回廊に向かった。
そのあとを私と李典殿が追う。
一度、あの男たちをもう一度見ておこうかと思ったが、余計なことは詮索も含め今はやめておこうと思い至り、結局私は後ろを振り返らずにそのまま歩を進めた。

今はただ、を信じよう。










 * * *











執務室に戻ると、は自分の書机の上の書簡にいくつか目を通してから主公のもとへ行くと言って外で渡した図面を手に、またそこを出た。
俺も主公の所へ行かなきゃならなかったから、と一緒に主公の執務室へと向かった。
行く途中から、俺らの方はどんなことやってるんだ、とか楽進はどうしてる、とか段々寒くなってきたから肉まんが美味しい季節だ、とか何か色々質問されるまま話をしたけど、結局、俺の方からは俺が気になってることを、ただの一つも聞けなかった。
そんなことしながら主公の執務室についたのはほんのついさっきで、今はが先に主公と話をしている。
相変わらず、何の話してんのか全然分からねえ。
の頭ん中はどうなってんだ…?
あ、いやそれ言ったら、主公や満寵殿もだ……どっちにしろ、どうなってんだろうな…。



「…それで構わん。すまんな、。手間を掛けさせる」

「いえ、滅相もない。それが仕事ですから」

「うむ。何か不足があれば遠慮なく申せ。陛下の宮殿とは違い、こちらはまだ融通が利く」

「ありがとうございます。その時があれば、遠慮なくお願いを申し上げに参ります」

「そうしてくれ」



それでは戻ります、と拱手してから、俺に一言断わりを入れるとは部屋を出て行った。
相槌だけ打って残された俺は、が遠ざかっていくのを足音で確認する。
主公が俺を見て言った。



「すまんな、李典。まさかが直接来るとは思っていなかった故、無駄足を踏ませた」

「いえ、お構いなくってやつですよ。それよりも、主公。は…」



俺はそこまで言ってから言葉を飲んだ。

主公は気づかぬふりをしていると満寵殿は言っていた。
そこへ俺がのことで何か言うのは余計なことなんじゃないのか…?
第一、主公は俺があの瞬間に出くわすことを読んでいたんだろうか?

俺にはそれを一瞬で判断するのは難しかった。
そのまま黙った俺に、主公が言った。



がどうかしたか?李典」

「ああ、いや……俺、が金槌とか持ってあんな作業してるところ、初めて見たもんで、その…」

「そうか、おぬしも見たか!見事であっただろう?あそこまで出来るものはそうおらぬぞ。道具の扱いまでよく心得ておる。満寵から聞いてはおったが話だけであったからな、実際目にするのとでは訳が違う」

「主公も行ったんですか?あそこへ」

「うむ、こっそりな。夏候惇には言うでないぞ、またお小言をもらう羽目になる」

「なんですか、それは?…まあ、分かりました、主公のために黙っておきますよ」

「助かる」



主公は悪戯そうにそう言って頷くと、椅子から立ち上がって俺の右手側にある窓へ向かった。
腰の後ろに手を回す主公の背中を俺はただ見る。

窓外を見ながら主公が言った。



「陛下の宮殿はまた別の話だが……増築部分が完成するまで、あとひと月半は要すであろうな……」

「そう、なんですか…?」

「李典。おぬしはそれが、早いと思うか?それとも遅いと思うか?」

「え、俺は、そういうのは…」



とは言ったが、主公が言いたいのはそういうことじゃないんじゃないか、と俺は何となく思って一度黙った。

ほんの少しだけ考える。
工事自体のことはよく分からないし、見当もつかない。
ただ、ふとを思い出すと、その一月っていうのはやっぱり…。



「なんとなく、ですけど…遅い、んじゃないですかね?」

「そうか、遅いか……そうかもしれぬな。工事の進捗としては早い方だが、治世を考えれば遅いか」



俺はそれには答えなかった。
主公が結局何を言いたかったのか、俺には分からなかった。
言葉のままだとは思えなかったからだ。

背を向けたままのそこを、ただ見つめる。
唐突に主公がこちらを振り向いた。
そして言った。



「引き止めてすまなかったな、李典。下がってよいぞ」

「いえ、そんなことは……失礼します」



俺は、拱手して部屋を後にした。
扉を閉めてから回廊を歩く。
普請の音がまだ響いている。
材木を削っていた時のの表情が、ふと目に浮かんだ。



「邪魔するな…か」



俺はにそう言われたわけではなかったが、思い出したの表情はそう言っているようにも見えて、回廊を歩きながらため息を吐き出した。












つづく⇒



ぼやき(反転してください)



まあ、現場監理とか割とテキトーに書いてるので流してください
職人のことは職工とか工匠とも言うみたいですけど、資料探しが曖昧なのでもう、そのままで
無双だし←
その辺がおいついてないので、結局当時、司空が土木までやってたんだか
宮殿は尚書の五曹の内の一っぽいようなこともどっかで読んだ覚えがありますけど
なんかもう考察してる時間も読み直してる時間も惜しいので、今は触れずにおきます
深く考えたら負けです←
そしてこのくだり、一話で終わらせようと思っていたのに…自分でも訳が分からなくなりました
とりあえず、終わらなかったので、次も続きです
宛城行くまでに、多分関係ない話がまだ沢山入ります
すみません

2018.07.13



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