人に何かを気取られないようにする それには表情に出さないのが一番だ 分かっているけど、結構それは難しい 人間万事塞翁馬 45 ぱっと目を開けて、私は思い切り起き上がるとぐっと伸びをした。 「あー、良く寝た!ちょっと、寝過ぎたかもしれないけど、今までに無いぐらいすっきりしたわ」 これで明日も気持ちよく仕事に行けるぞ、と思いながらぐるっと室内を見渡す。 それから、着ている服にも。 …あれ? 「ん?これ私の服じゃない……それと、ここどこ?私んちじゃないぞ……もしかして、文則さんち…でもなさそう」 おや、と思いながら私はその寝台から足を下ろした。 履いて下さいと言わんばかりにそこに準備されていた履物を借りながら、首を傾げる。 それからもう一度部屋を見回す。 部屋の扉の右脇。 衝立で区切られたそこにある机の上に、寝起き後の身支度に使う水盤やらが置いてあった。 似たものをずっと文則さんちに居候していた時に使わせてもらっていたから、その使途はすぐに分かる。 少しだけ考えて、多分そのまま使えってことだろうと合点し、寝起きのままでもあれだから、ととりあえずそれを使わせてもらうことにした私。 顔を洗いながら右の口端の切れてるところが沁みるなと思いつつ、はて、と考える。 昨日を朝の時点から順を追って思い出す。 口を濯ぎながら、そう言えば口の中を切っていたと思い出し、沸々と袁術への怒りが再燃し始めた。 しかし、そんなこと思い出しても多分、今の状況を解決する役には立たないなと思い至り、気持ちを切り替える意味を込めて前方やや上に視線をやった。 部屋の窓の格子越しに見える空は青い。 今年は五月が二回あって―閏月っていうの?―今は八月だけど気候はもう向こうの初秋に近い。 今日もいい天気だ、と関係のないことを思う。 それ用の容器に水を吐き出して、用意されていた手拭で口元をぬぐった。 使ったそれらを机の片隅に片付けながら、もう一度、格子越しに、今度は外を見える範囲でぐるっと見回してみた。 ふと気づいて、私は部屋の扉に近づき、そーっと開けて外を覗く。 そこから見えたのは、さっき思った通り明らかに文則さんちよりも立派な造りの房の数々。 いや、文則さんちも嫌味が無い程度に結構立派だよ。 なんか、そうじゃなくてさ…。 まあ、流石に庭に池とかはないよ、流石に。 だけど、明らかにここ金の掛け方が違うわ。 いや、あからさまな感じではないのよ。 なんていうの細部のね、さりげない金のかけ方。 必要最低限でありつつも、金の使いどころを知っている感のある…。 そっと扉を閉めて、私はくるりと反転した。 腕を組んで首を傾げる。 「誰の家…?」 口元に指を当てて数歩、部屋の中央へ向かって無意識に歩く。 ていうか、私、袁術はともかく昨日もう限界だって思った後、どうしたんだっけ? 自分で家に帰ったのかな? ん?どういう状況でここにいるの?私。 徐々に冴え始める頭でそう思いながら、一度ぐるっと部屋の中を見回した。 文則さんちの部屋の造りと似てるけど、ちょっと違う所もある。 大工の違いかな? と考え始めたら、細部の納まりが気になった。 「ああ、そういう納め方もあるのか、へえー……これはどう納まってるんだ?ああやってこう?それともこうやってこう?まだまだ知らないことが沢山あるなー…知らない楽しみが沢山あるっていうのは幸せだわ」 と例に漏れずスイッチの入った私の背後から、突然それは聞こえた。 「やっとお目覚めかい?、おはよう」 「っっっっっ!!!!!」 急に声を掛けられたのと、それが知っている人物の声だったのとで私は驚きのあまり悲鳴を呑み込んだ。 目いっぱいに吸い込んでしまった息をゆっくり吐き出しながら、もう一度ゆっくり息を吸う。 後ろを振り向くと、案の定そこにはどこか爽やかに微笑む伯寧さんの姿。 平服姿で、水注と杯の載った盆を左手にのせ、右腕を開けた扉の建具枠にあてて寄り掛かるようにしている。 まるでさっきから、そこでそうして私を見てたみたいな感じだ。 「お、おはようございます、伯寧さん……あの、ここ、もしかして伯寧さんのお宅ですか?」 「ああ、そうだよ。お気に召したかい?」 言いながら、伯寧さんが扉を閉めて寝台の傍らにある脇机に歩み寄ると、そこへその盆を置いた。 一度、衝立横の机に視線をやって、ちゃんと使ってくれたね、とか言っているのを聞き流しながら私はその一連の動作を目で追い、生返事で答える。 「ええ、はい……じゃなくて!伯寧さんってもしかして、いいとこの出なんですか?」 「いいとこの出って…まあ、可もなく不可も無く、じゃないかな」 途中、さっきの今で熱い私の中の話題が疑問になって口から出る。 呆れたように眉尻を下げる伯寧さんが、口元に手をあてて、考えるようにそう言った。 私はそれを聞いて何となく納得する。 「道理で…」 「そんな納得されるようなことを私は言ったかい?」 「はい」 伯寧さんの質問に私は即答した。 それが疑問でしかなかったらしい伯寧さんが目を閉じ首を傾げるようにして考えている。 何かね、こう所々で滲み出るのよね。 ちょっとした育ちの良さがさ。 荀ケさんとか荀攸さんとかは何かこう、レベルが違うってことは早々に気づいたんだけど…―だって諸官方の反応が違うんだよ、そもそも―。 ああ、何かちょっと納得。 なんで今まで気づかなかったんだろう。 まあ、聞かなかったからなんだけど。 それから一回、伯寧さんが息を吐き出してから、小さくまあいいか、と呟く。 一拍ほどおいて、伯寧さんが私を見て言った。 「とりあえず、座らない?水、持ってきたけど飲める?」 「…はい。えっと、飲めます」 「うん、それは良かった」 そう言って笑みを浮かべた伯寧さんが杯に水を注ぐ。 それを受け取りながら、私は寝台に腰を下ろした。 その横に、伯寧さんも腰を下ろす。 そして、いま正に水を飲もうとしている私に言った。 「寝ているに水を飲ませるのは結構私も骨が折れたからね、自分で飲めるなら何より」 「っ!」 私は噴き出しそうになったそれを寸でのところで無理矢理に呑みこむ。 そういえば口の中切れてたんだった、と思い出すぐらいには沁みる感覚もあったけど、それどころじゃない。 それのおかげで盛大にむせた。 咳が止まらない私の背中を伯寧さんがさする。 今、なんて…!? 「ごめんごめん、冗談だ」 「か、勘弁して下さい!陸上で溺れるところでした」 「はは、上手いこと言うね」 「笑い事じゃありません!」 咳が落ち着いたところで、伯寧さんが手をはなす。 私は再度、落ち着かせるために杯に口をつけて飲み直した。 それから杯を脇机に戻そうと手を伸ばすが、伯寧さんがそれを受け取ってくれる。 杯を脇机に置きながら、伯寧さんが悪びれも無く言った。 「まあ、でも寝ている間に飲ませたのは本当だよ。私じゃなくて侍女が、だけどね」 「そ、そうですか…それはご迷惑を……ん?」 ちょっとまって、なんで一晩寝てるだけで、寝てる間に水を飲まされなきゃいけないんだ? 「伯寧さん…私、どのぐらい寝ていたんですか?あと、伯寧さんは今日お仕事じゃないんですか?昨日の今日で事後処理が片付くなんて思えません」 「流石、。気づくの早いね」 「いや、いや、冗談言ってるんじゃないんですって…それに…質問ばかりですけど、そもそも、なんで私、伯寧さんちで寝てるんでしょう?」 「うん。それじゃあ、順に答えようかな。まずはどのぐらい寝ていたのか?それは…丸一日さ」 ………。 「ま、丸一日!?ってことは、今日出勤日!!」 「…そこに反応するなんて、流石だよ」 伯寧さんの顔が呆れているけど、なんで呆れられるのか分からない。 けど、今それどころじゃない! 「いや、だって無断欠勤なんてマズイですよ!今までそんなのしたことない!ウソでしょっ」 私は頭を抱えた。 じょ、冗談…二日酔いで休むやついたけど、それ以上じゃない! 寝過ごすって…だ、だめだ…。 「立ち直れないかも…」 「まあまあ、。そこは安心していいよ。主公から、が目覚めたら明後日まで休めって伝えるように言われているから」 「休み…?」 「ああ、そうだよ。私たちが留守の間、が色々動いてくれていたお蔭で袁術が攻めては来たものの大きな混乱も、問題も無く済んだっていうのが分かったからね。ゆっくり休むようにと言われている。それから、報告ご苦労って言ってたよ」 「そ、そうですか…分かりました、それなら一安心です……とりあえず良かった…無断欠勤なんて生き恥晒すようなものだわ」 「…もしかしなくても、仕事に命かけてる?」 「当り前です。当然ですよね?伯寧さんもそうでしょう?」 「う、うん。まあ、間違いはないよ」 何か、また呆れられてるみたいだけど、まあいいや。 それから、伯寧さんは一度咳払いをすると、気を取り直すようにして言った。 「さて。じゃあ、二つ目。今日が私の出勤日じゃないか、ってことだけど…半分正解かな」 「なんですか、その曖昧な答え…」 「そうだね、元々は出勤日。だけど、さっきも話したけど、が上手く動いてくれていたお蔭で私も最低限の事務処理だけで一昨日、昨日と済んでしまったから、主公からと同じ様に代休を頂いたんだ…まあ、それとが私のところに居るっていうのも知っているから一緒に居ろ、ってね」 「そういうこと…郭嘉さんや荀ケさん、荀攸さんもですか?」 「いや、あの三人は出てるよ。帝を迎えたことで、やることが増えたから仕方ないっていえば、仕方ないさ。特に荀ケ殿は中央関係を任せられることも多くなるだろうし、実際そのようだから暫くは休む暇もないんじゃないのかな」 「やっぱり、出来る人っていうのは違うのね」 「羨ましい?」 そう言って、自分の膝に肘をついて両手を絡め前かがみになった伯寧さんが、私に視線を向ける。 私は視線を合わせながら首を振る。 羨ましそうに見えたんだろうか? 「いえ。出来る人がやればいいと私は思ってるので、そこはちっとも羨ましいとは思いません…それを羨ましいと思う感覚が私にはまず分かりませんし」 「なるほど。まあ、は羨ましいとか考える前に、自分でやり方を考えてどうにかしちゃう人だからね」 「……それ、伯寧さんから見た私ですか?」 「私からじゃなくても、皆大体同じように思っていると思うけど?に出来ないことを探す方が難しいってね」 ど、どういうこと…。 いつからそんな評価されてるんだ、私。 そう思っていると、伯寧さんが身体を起こして寝台に後ろ手に手をつく。 それを目で追った私は、ほんの僅か右側に上体を捩った。 伯寧さんが言う。 「それとも、私からの評価、って言った方が良かったかい?」 「いえ…その、深い意味はないです」 「そう?……まあ、は…」 そう言って意味深に区切り、ただ私をじっと見てくる伯寧さんの次の言葉を私は待つ。 唐突に身体を起こした伯寧さんが私の右頬に手で触れながら、にっこり笑って言った。 「可愛いと思うよ」 「…は…?…」 「寝顔が」 最初は徐々に、だけどその後は急激に、耳が熱くなった。 「ね、寝顔…見て…」 「おや、私はこれで二度目だけど?の寝顔を見るのは」 「や、ち、ちが…そういう問題じゃ…なく…っ」 その瞬間、何故か私は寝台に押し倒された。 その意図も、まず何より、自分に起きていることが理解できない。 腰の左側に片膝をつかれている。 両腕を上から押さえられてるこの状態だと、上半身から起き上がるのは無理があった。 知らない人間にされたなら、まあ何とかして蹴り上げるとかしたんだろうけど、そんな頭はこの時にはなかった。 混乱している、それ以外無かったから。 そんな私に、ごく近い距離から真っ直ぐに私をみてにっこりと笑ったままの伯寧さんが問う。 「恥ずかしい?」 「と、当然です!誰だって、そんな無防備な状態見られたら恥ずかしいと思いますけど!」 自分の状況も上手く判断できていない混乱するだけの頭じゃ、それだけ言うのが精一杯だった。 そして、それは事実。 寝顔見られて嬉しい人なんているのか…? 相変わらず、顔と顔の距離が近いまま伯寧さんが言った。 「そこまで分かってるなら、忠告」 さらに意味が分からない私は、ただ疑問符を浮かべた。 同時に、伯寧さんがすっと身体を起こして数歩、寝台から離れる。 私はそれを目で追いながら、起き上がった。 背を向けていた伯寧さんが私を振り向いて言う。 「郭嘉殿も君の寝顔を見ているから、同じこと言われる覚悟はしておいた方が良いと思うよ」 「か、郭嘉さんも…?」 頭の中を落ち着かせつつ、だけどどこから突っ込んだらいいか分からない。 そんな中、私の頭は手っ取り早く、ああ私のために言ってくれたのね、と割と安直な答えを引っ張り出した。 そしてその後も、その答えから進展することも無かった。 伯寧さんが、続ける。 「そう。君、一昨日皆の前で気を失うように寝てしまったの、覚えてる?」 「いえ…限界、と思った所までは覚えてます」 「その直後に寝てしまったんだ。于禁殿が察知して上手く支えてくれたけど」 伯寧さんが呆れたように腕を組む。 最中、私は思った。 …なんとういう失態を…。 「……あ、あとでお礼と謝罪を言いに行ってきます」 「まあ、それは良いと思うけど、心配はしてるみたいだから顔ぐらい見せた方がいいかもね」 私、本当、文則さんにどれだけの失態を犯せば気が済むんだろう。 と思いながら、ため息交じりにそういう伯寧さんに私はただ視線を向けた。 そのまま、伯寧さんが説明を続ける。 「それでその後、于禁殿がどうしてもそこを離れないといけなくなってしまって、私が任されたって訳さ。君のことをね」 「はあ……それにしたって…なんで私がここに…」 一部始終は分かったけど、それでもなんで私が伯寧さんちで寝ることになったのかは分からなかった。 だって、私はすでに自分の家があるし、その場所だって伯寧さんは知っている筈だから。 そんな私の純粋な疑問に、伯寧さんが腕を組んだまま顎に手を当てて答える。 「それはだね。初めこその邸へ、と思ったけど勝手に上がるのは気も引けたし、何より身の回りのこと流石に私じゃ出来ないからね。それで、私の邸なら侍女もいるしってことで、ここに連れてきた」 「ああ…そういう経緯で」 「そういうこと。納得できた?」 「はい…そして、すごくご迷惑をお掛けしたことも分かりました」 思わず眉間に指を当てた。 穴があったら入りたい。 だけど、そんな私とは対照的に伯寧さんはごく明るい声で言う。 「それはいいさ。が私たちの留守の間、なにをしていたのか全部分かったから…今回ばかりは、その無理、様々だよ」 「…ていうことは、皆さん全部吐いちゃったんですね」 「それだけど…そんなに隠すことかい?」 というのは、私が皆の留守中に自分の仕事以外でやってたこと。 ざっくり挙げれば、留守中嫌でも手薄になる許昌の防備。 物理的にもそうだし、所謂機密文書とかの内部情報も含めて。 もちろん、それは郭嘉さんとか荀ケさん、荀攸さんも伯寧さんも、皆手を打って出て行ったけど、まあ現場にいない分限界ってあるよね。 留守中に発生する問題とか、その後の対策とか。 やっぱり、人がすることだもの。 いや、完璧は完璧だったのよ、割と発生した問題に対する対策とか残していった指示、ほぼほぼドンピシャだったし。 神か?って思ったわ。 けど、それを実行するのは本人たちじゃないでしょ。 そうなると、やっぱりそこでまた問題が生じたりするのよ。 いや、気にしなきゃいいのかもしれないけど、なんかこう、細かい所が気になっちゃって。 私の悪い癖だとは思うんだけどね…。 それでもどうしても気になるし、それ放っておいたらあとで凄い問題発生しそうだったから…自分の立場超え過ぎないギリギリのところで自分が動いたり、指示出したりして動いてもらってたってわけ。 伝令飛ばして指示待つような時間なんて無いぐらいのものだったし。 それで、連日のようにほぼ徹夜で仕事する羽目になったのよね。 ま、それは自業自得だからいいわ。 で、伯寧さんの言う隠すっていうのは、動いてもらってた人たち―元々その仕事を振り分けられていた人達―に口止めお願いしてたのね、私。 悪いことしたとは思ってないんだけど、余計な事が漏れた時に、当事者が仕事してないって思われちゃうの申し訳ないな、と思ったから。 …まあ、向こうだったらそんなに気を遣わないんだけどね。 なんか、よく分からないのよ、そこんとこの…。 私は、伯寧さんの問いに、一拍ほど置いてから答えた。 「…加減が分からなかったんです。私はいいですけど、他の皆さんが自分の仕事を関係ない人間に手伝わせた、とか言われでもしたら逆に申し訳ないっていうか、何ていうか…」 「まあ、君の言いたいことはよく分かるよ。そういう風潮もあるからね。時に過度じゃないかと思うぐらい領分は超えない、侵さないっていうのが。だけど、結果を見ればそれが必要だったと分かるんだから、そこまで気にする必要もないと私は思う」 そう言って、伯寧さんが私を見下ろす。 たしかに、私もそう思う。 だけどね、そうじゃない人の方が多かったのよ。 私は、伯寧さんから視線を外しながら答えた。 「…皆が皆、伯寧さんみたいな考えなら、私もそうしますけど」 「………もしかして、留守の間何かあった?」 そんなことを伯寧さんが言うので、私は視線を戻して言った。 「いえ、何もないですよ。ただ、そういう考えが存在しているのは確かなので、その兼ね合いが難しいと思っている、それだけです」 それは、半分本当で半分嘘だったけど、まあそこまで気にしていることじゃない。 大体、そういう類のことは向こうでもあったことだし、今さら気にしたところで解決はしない。 人間の本質なんて基本はどこ行っても同じ。 私はただ仕事に打ち込めればそれでいいし、そういう人間に認めてもらいたい分けじゃないもの。 仕事に関して言えば結果はさておき、その経過までを誰かに認めてもらいたくてやってるわけじゃない。 強いて言うなら、自分一人が自分を認められればそれでいいや、ってぐらいかな。 そんな何でもかんでも認めてもらいたいなんて考えてたら身動きできなくなるもの。 それにしても、中々鋭いな、やっぱり……伯寧さんに限ったことじゃないけど。 今さらだけど生きてる世界が違うからかな…。 「そう。そういうことなら、いいけど……遠慮してない?」 伯寧さんがそう、どこか神妙な面持ちで言う。 私は、そんなことを言われると思っていなかったので思わず声を出して笑ってしまった。 でも、その笑いが出た確たる理由は私にも分からない。 伯寧さんが驚いた表情で私を見てる。 私は、目尻を指で拭いながら言った。 「…ごめんなさい、自分でもよく分からないですけど何故か可笑しくて……遠慮なんてしてないですよ。遠慮する位なら行動しないです」 私は、起した行動を口止めしたことに対して言ったのだと思って、そう答えた。 だけど、伯寧さんの顔を見ると、それじゃなかったらしい。 ということは多分、留守の間にあったこと、を言わないでいることかなと思った。 でもそこに気づいたところで、それに合点してしまうと何かありましたよ、って言っているのと同じだよね、さっき否定したのに。 それに、私はそこまでそれが問題だとは思ってないし、遠慮して言わないでいる訳でもない。 私はそこに気づかなかったことにして、そのまま言葉をつづけた。 「遠慮、しているように見えましたか?」 「なんとなく、ね」 「じゃあ、遠慮しないように心がけます」 私はそれだけ答えて口元を緩めた。 それから寝台から立ち上がる。 「さて、このまま長居するのも気が引けますし、着替えて家へ帰ります」 「…そんなに急がなくても…まあ、どうしてもっていうなら、止めないけど…もう暫く外には出ない方がいいんじゃないかな?」 と、何だか歯切れが悪そうに伯寧さんがそう言った。 それから、部屋の扉に向かって左側にある、背の高い棚へと向かう。 なんだろうと思っていると、手鏡をそこから取り出して私のもとに持ってきた。 それを私は無言で受け取って、促されるまま顔を写す。 左の頬を見て、納得した。 「ああ…見てわかるぐらいには微妙ですけど腫れてますね……丸一日冷やしても、あと一日二日は引かないか…」 「どうする?」 「んー、そうですね…気にしなきゃ気にならないですけど…流石に……そうだ!周蘭さんはどうしてるんですか?自分のことなんてどっちだっていいんだった」 「…全く、君って人は…どっちだって良くないよ……とりあえず、彼女なら今朝、背の高い方の侍女と一緒に市場に出ているのを見かけたよ。普段と変わらない様子だったけど、実際どうかまでは分からないな」 「…そうですか……無理してなきゃいいんだけど……」 ということは、可能性は低いけど周蘭さんに出くわさないとも限らないな…。 大体、間が悪い時に限って出くわすものなんだよね、そういうのって。 ほんの僅かだけ考えて、鏡を伯寧さんに返しながら答えた。 「…暫くお邪魔しててもいいですか?腫れが引き次第、帰ることにします」 「ああ、構わないよ。私としては身体のことも心配だから…ここで明後日まで、大人しくしててもらいたいと思ってるぐらいだよ」 「身体のこと……?」 「とりあえず、医者から貰った薬持ってくるから楽にしてて」 脇机の方を見て考えこむ私に、伯寧さんはそれだけ告げると、いったん部屋を出て行った。 扉が閉まって、それから数秒後に私はその答えにたどり着く。 「ああ…あれね………え、もう解決してるんじゃないの?」 ていうか、どうなったんだっけ、それ。 何事も無かったってことで、いいのよね? え、ちょっと待って…何事も、無かった…んですよね? 現状、自分の身体の状態は何もない状態ですが…? いや、でもあったとしたら…おととい、昨日の話だから、まあ何もない状態にはなるよね…。 ………。 「だめだ、どっちにしても恐ろしくて聞けない…!」 私はその場で頭を抱えた。 い、いいや…考えないようにしよう。 だって、今の状態で顔から火が出るぐらい熱いんだって。 いま夏じゃないよね!? 知ってるわよ、そんなこと、もう彼岸も秋分も過ぎてるのよ! ただでさえ、あの時―郭嘉さんが単刀直入に言ったあとから―全力で平静を装ってたのに。 まあ、でもあの時は本当体力の限界でそのあと、一気にどうでも良くなったのは事実よ。 だけど…それでも、自分のことだって認識したら、無理、絶対無理。 伯寧さんが戻ってくる前に落ち着かせないと。 向こうじゃ大して気にしないけど、こっちで生活してる分、それがものすごく…。 …恥ずかしすぎて死ぬわ。 その時、郭嘉さんが言った言葉が甦った。 『は未経験?それとも経験済み?』 「な、なんてこと聞いてくれたんだ、あの人…!」 お願いだから、誰も気づかないでいて! そこへ追い打ちをかけるように、過去の出来事が浮かぶ。 もうすっかり、そんなことは忘れたと思っていた。 いや、実際さっきまで忘れていた。 記憶の彼方に飛んでいたと言ってもいい。 なのに、この瞬間からのこの鮮明さ。 さらに恥ずかしくなって、私は顔を両手で覆った。 ああ!違う、あれは若気の至りってやつよ! 私だって青い春(とき)の一年や二年あったのよ! 好きな奴の言うことを無条件に呑んだことだってあったわよ! 流石に写真撮らせるとか馬鹿なことはしてない! だけど無知って怖いわ!ああ!黒歴史! 何も知らないって本当怖い!! 何やったの自分…! だめだ!恥ずかしすぎる! 「ああ!だめだ!本当に忘れよう!覚えてても何の得にもならないよ!」 落ち着け、落ち着け、私。 深呼吸よ、深呼吸。 なんか別のこと考えよう! 別のこと! 別のこと…。 「だめ!こういう時に限って何も思い浮かばない!あ〜、うそうそ!思い出したくない!」 嘘だと言って! あんなものとっくに克服したと思ってた! 他人事他人事、全部他人事! 私は暫くそのまま顔を覆っていた。 伯寧さんが来た時には元に戻っていたけど、私はどうやってその無の境地に達したのか、自分でも覚えていなかった。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 全く遅々として進みませんね そして最早満寵夢…? 迷走しすぎないように気を付けます 2018.06.28 ![]() |
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