人間万事塞翁馬 44 そこに着いたとき、丁度髪を下ろしたが袁術の兵から槍を奪い脇に構えたところだった。 共に許昌へ入った荀ケ殿が後ろから言う。 「于禁殿、これは一体…」 「私にも分かりませぬ、がは無事のようです」 荀ケ殿の問いが、袁術が許昌(ここ)にいることへの問いではないことは分かる。 その問いは、今まさに目の前で起きていること、そのものへの問いだ。 視線の先でが槍を奮い、袁術を守るように立ちはだかる十数名ばかりの盾兵部隊を鮮やかに倒していく。 途中、敵兵の槍の切先がの衣―襦―を掠め、その帯を解いた。 はっとしたのも束の間、は素早く帯に挟んでいた合口―と以前聞いた―を口に咥える。 そして、帯が解け肌蹴たその襦を脱いで敵兵めがけ投げた。 視界を奪われた数人が慌てふためき陣形が崩れる。 はその機を逃さず、素早い身のこなしで相手の隙をつくと敵兵士の鎧で覆われていない生身の部分を巧みに狙う。 周囲の兵も私たちも手を出せずに、ただそれを静観するしかない。 間もなくしない内に盾兵部隊は皆、地に伏す。 命を奪ったのかまでは分からない。 視線を再びに向けると四つん這いになって逃げる袁術の目と鼻の先に、槍を投げて進路を塞いでいた。 同時に、足下に落ちている敵兵士のものであろう剣の柄をつま先で弾くと跳ね上がったそれを手にする。 口に咥えた合口を中衣の後ろの裾下から褲に挟んだのが見えた。 その時袁術の参謀であろう男が、の右後方からに向け鏢を連続して投げつける。 しかし、それもは見事にその剣で制すと宙に舞ったそれを全て、空いている方の手中にした。 私の右手側、傍らの荀ケ殿が問う。 「于禁殿、殿は…これほどまでに強かったのですか?」 「はい。しかし、いつにも増して動きが鋭い…それだけは付け足しておきましょう」 が剣を前触れなく、その男に向けて投げ放った。 そのすぐ足元に音を立てて突き立つ。 わざと、その足を縫いとめなかったのだということは分かった。 が静かに言う。 「邪魔、しないでくださいね…私いま、物凄く頭に来てるんです。命はとりませんから、ちょっと大人しくしててください」 男を見ずには言って、袁術に視線を向けた。 ふと気づくと、の後方、距離を取ったところに満寵殿と郭嘉殿の姿が確認できる。 そして、私の左隣には、ほんの少し前に荀攸殿が来ていた。 同時に、李典殿と楽進殿も確認できる。 袁術の進路の少し先には曹仁殿と曹休殿の姿が見えた。 殆どの者が、ここに戻ってきているようだが、右手わずか前方にいる一人は見慣れぬ者だ。 がまた、静かに、袁術へ向かって言った。 「さて、先ほどは結構な体験をさせて頂き、ありがとうございました。とても勉強になりました」 「そ、そ、そ、そうであろう!貴重なものであるからな!こ、このわしに感謝するが良い!異人の娘!」 この上ない程の笑顔を張り付けるに袁術は腰を抜かしているのか腕を振りながらそう言った。 なんと無様な…。 「感謝…それなら、お礼をしないとね。丁度ここに五枚あるけど、足りるかしら?」 そう言って、は手にした鏢を扇のように広げて口元を隠し目を細めた。 袁術が僅かに後ろへ後ずさり言う。 「よ、良い!礼など要らぬ!取っておくが良い!」 「あらそう、遠慮しなくていいんですよ」 「遠慮などしておらぬ!わ、わしはおまえを気に入っておるのだ!何でもくれてやるぞ!」 「へえ…流石、名門出身の方は心構えが違うのね…所詮、奴婢のような異人の私だもの、是非ともそれは見習わせていただくわ」 私は思わず眉をひそめた。 傍らの荀ケ殿が怒気をこめ、しかし小さく袁術の名を呟く。 「そ、そ、それはわしの言葉のあやであった!おまえ…そなたが奴婢のようであるはずがない!傾国の美とは、そなたのことであろうな!」 「私が国を傾けると?随分と不吉な例えをしてくれるのね」 ただ見ているだけしかないこの状況下で、左後方に居たのであろう楽進殿が誰にともなく呟いた。 「殿…相当、怒っておいででしょうか」 「ええ、間違いないでしょうね。しかも、尋常ではない…そんな様子です」 「はい、公達殿。ですが、それは私も同じです…袁術が殿にどんな暴言を吐いたのか、そして何をしたのか…殿の言葉から推察するだけでも我慢なりません」 そういう荀ケ殿に、意外と激しい気性を持っているのだと、私は思った。 そしてまた、そう思うのは私とて同じこと。 その間にも袁術が言う。 「そ、それも言葉のあやだ!分かるであろう!そ、そうだ!わしは名門の出!わしに出来ぬことは無い!そなたのいう事なら何でも聞こう!」 「ふーん、何でも?」 「な、な、何でもだ!」 「それは嬉しいわ。名門出身者はやっぱり違うのね…じゃあ、お言葉に甘えて言うことを聞いてもらおうかな。私の言葉通りに言える?」 引きつった顔を縦に振るだけの袁術に、変わらずは笑顔を向ける。 何度も頷く袁術に、は言った。 「じゃあ、こう言って。’周蘭様に怖い思いをさせて申し訳りませんでした。様の言葉に従います’」 それを聞いて、私は耳を疑った。 周蘭…まさか、周蘭が…。 しかし、なぜ周蘭が出て来るのか、その時の状況は私には分からない。 視線をただ、袁術にやると袁術は口ごもったまま一言も話さぬ。 が言う。 「言えないの?言えるわよね?だって、奴婢風情の私に言えたんだもの。名門出身で何でもできるあなたに出来ない筈ないですよね?袁術様?」 口元は隠されているが、袁術へ向けるの目はただ鋭く、そして当事者ではない自分も戦慄するほど冷たかった。 見下すその目は、人を見る目ではない。 だが、の言葉から推察される状況を考えれば、それは当然と言えよう。 「わしが、わしが悪かった!そなたを奴婢などと言ってすまなかった!だから、だからどうかゆるし…」 「ちょっと!勘違いしないでもらえる?私は自分が奴婢風情だとか言われたことで怒っているわけじゃないの。言いたかったら好きに言って頂戴、私は何とも思わない。そんなものはどうだっていいのよ。私が言いたいのはそれじゃない。いい?よく聞きなさいよ、一回しか言わないわ」 これほどを怒らせるものとは何なのか。 まさか、と思っていたそれはまさかだったが、それでも私は内心驚いた。 「私はね、周蘭さんを怖い目に遭わせた、泣かせたあんたに怒ってるのよ。私に赦しを請う?謝罪する?見当違いも甚だしいわ。本当はね、周蘭さんの前で土下座させたいぐらいなんだけど、あんたの顔を二度と周蘭さんに見て欲しくないの。だからね、同じ目を見てもらうわよ」 言うや、前触れも無くは袁術のついた左手、指先のすぐそこへ鏢を一枚放った。 狙ったのであろうそれは、寸分違わずそこに突き立つ。 袁術が慌てて手を引き後ろへまた退いた。 「動くな。同じ目を見てもらうと言ったわ、聞こえなかったの?…ついでに、私に素敵な経験させてくれたお礼よ、あなたにも素敵な経験させてあげる。これは私からのプレゼント、受け取ってもらえるかしら?ねえ、袁術様?」 戦慄く袁術に、は私たちの知らぬ単語を口にする。 それから、知らぬ言語を口にしながらは手にしていた鏢を三枚、投げ放った。 「This’s for you. I hope you like it!」 「ひ、ひいいぃぃっ!」 それらは袁術の左上頬、右頬にそれぞれ赤い線を描き、一枚は身体の横で地面につく右手の指先に突き立った。 歯を鳴らして恐怖に顔を歪める袁術からは名士などと言う風体は一切ない。 残った一枚を手にしながら、は笑顔を張り付ける。 しかし、目は笑っていない。 「今の言葉。異人ではないあなたには、分からないわよね?…知らないだろうから教えてあげる。こう言ったのよ……’これをあなたにあげる、気に入って貰えたら嬉しいわ’どう?気に入って貰えたかしら」 「き、き、気に入った!気に入ったぞ!」 「あら、そう?意外ね。てっきり気に言って下さらないのかと。じゃあ、おまけにこれもつけてあげる」 そう言って、最後の一枚をは袁術の広げた股の間に投げ放った。 袁術の衣がその下の地面に縫いとめられる。 情けない声をあげる袁術に、が言った。 「I’m glad you like it!」 それからは、中衣の胸元辺りから竹の棒を一本取りだして手早く髪を低い位置で纏めながら続けた。 視線は袁術に向けたままだ。 「’気に入ってくれて嬉しいわ’」 言って、は腕を組んだ。 普段の上衣を羽織っていないせいか、背筋が常の如く伸ばされると、よりその線が細く見える。 再び笑顔を袁術に向けるが至極、穏やかな口調で言った。 「どう?いい経験できたでしょう?何か贈り物をする時に使ったらいい話題になるかもね…有りがたく思いなさい、あなたに聞かせてあげたんだから。とても貴重な体験よ…だけどね」 しかしその時、声が一段低くなる。 そして、が続けた。 「周蘭さんが経験した恐怖はそれ以上よ。私の大切な友人に手を出したらどうなるか…今日は見逃してあげるから、よく覚えておきなさい」 「は、はいぃ、も、もうしませんんん…!」 袁術はそう言って立ち上がろうとするも、矢張り腰が抜けているのか何度も腰を地面に打ち付ける。 なんとも情けない姿だ。 それを見兼ねたのか、が大きく溜息を吐き言う。 「息子!どこ?いるんでしょう?あなたの父よ。さっさと連れ帰って!自分達が何をしたのか、郷(くに)へ帰って頭冷やしなさい!」 それが聞こえていたのか、準備をしていたのか、袁耀が馬車を用意して現れ袁術をそれに乗せると早々にその場を去って行く。 それに促されるように、袁術の兵達もまた引いった。 倒れている袁術の兵は皆気を失っているだけらしく、我が軍の兵達が捕虜として連行していくのを目で追う。 が地に伏した盾部隊の者たちも、どうやら気を失っているだけでその命は奪ってはいないようだ。 そんな中、腕を組み眉根を寄せたが、また溜息を吐く。 誰ともなく、のもとへと歩み寄った。 その時、満寵殿と郭嘉殿のいる後方から、の居る方へと駆けて行く桃色の影が見える。 それが周蘭であるということは、すぐに分かった。 * * * 「様!」 そう言いいながら、脇を駆け抜けて行ったその子―周蘭―がに勢いよく抱きついた。 それを振り向きざま受け止めるの顔を見て、の行動から推測していたそれが確信に変わり、今さらながら袁術への怒りが再燃する。 道理で満寵殿が怖い顔をしているわけだ、と私は思った。 のその赤く、僅かに腫れた頬に周蘭が手を添え、今にも泣き出しそうな声で言った。 「ごめんなさい!私のせいで、様が…!」 「大丈夫、周蘭さんのせいじゃない。ここも痛くはないから、そんな顔しないで」 そう言って、は周蘭の手に自分の手を重ねる。 痛くない筈はない、と思いながら私はを見た。 優しく微笑むが更に言った。 「そんなことより、周蘭さんに怪我が無くてよかったわ。どこも痛んだりはしてない?」 「私は、大丈夫です。様が私を庇ってくれたから…私、私のせいで様があんな酷い目に…ごめんなさい、ごめんなさい!私、本当に…!ごめんなさい!」 「ああ、ほら、泣かないで、周蘭さん。あれは周蘭さんのせいじゃない、あいつのせいよ。そんなに泣かれちゃったら、私も困っちゃうわ」 優しくあやすように言いながら、周蘭を抱いてはその頭を撫で続けた。 の履物の踵が高いせいか、周蘭の顔はの胸のやや上ぐらいに留まる。 私は思ったままを呟いた。 「…何て言うんだろうね、想い人同士なのかな、二人は…嫉妬してしまうね」 「君は誰にでも嫉妬する人だったのかい?」 「おや、満寵殿も同類だと思っていたよ」 「…頼むから、君と一緒にしないでくれ」 満寵殿が呆れたように、額へ手を当てた。 それからの方へと視線を戻す。 が周蘭を身体から離しながら言った。 「それにね、謝らないといけないのは、私の方」 「な、なんでですか!?様は私を助けてくれたのに」 「ううん、違うの。時間を稼ぐためとはいえ、結果的に周蘭さんに怖い思いさせたり、辛い思いさせてしまったことに変わりはないもの。もっと他にいい方法があったのかもしれないけど、ごめんなさい……私の力不足に付き合わせてしまったわ。そんなことがなかったら、周蘭さんを泣かせずに済んだのに」 矢張り、と呟く満寵殿の言葉を私は聞き逃さなかった。 周蘭が声を上げる。 「ちがいます、そんなことは!だって、私が最初から捕まってさえいなければ、こんなことにはならな」 しかし、それを遮るように周蘭の目の前では右の人差し指を一本だけ立てた。 そしてそれを徐に自分の口元へ持って行く。 笑みを浮かべるが、今は何故か女性を口説く同性のそれに思えた。 「それは言わない。だってそれも周蘭さんのせいじゃないんだから。捕まえる奴が悪かったのよ、ね?それとも、周蘭さんは何か悪いことでもしたの?」 周蘭は首を一度、横に振る。 は指を下ろし、肩に手をのせた。 「ほら。なら、もうこれはこれでおしまい…そうね、お互いさまってことにしましょ?」 「で、でも…私…」 言ってまた、泣き出しそうな声を出す周蘭をはその目元を指で拭ってからそっと抱いた。 右の頬を周蘭の頭に寄せるようにして手を添え、片方の手でその背をさする。 そうしながら、が言った。 「それじゃ……また今度、市場に連れて行って。それから色んなもの一緒に見て、また教えて?周蘭さん料理に使う材料のこと、使い方も色々知ってるから…私、本当に助かってるの。だからまた、教えてくれたら嬉しい」 それから周蘭が顔を上げ、を見上げた。 はただ、優しくそして、ただ明るく微笑んでる。 「はい。分かりました。様が喜んでくれるなら、私も嬉しいです」 「良かった。ありがとう、周蘭さん」 そんなが、眩しいと思う。 ただ、同時に気がかりだった。 自身が無理をしていないのかが。 袖で周蘭が涙を拭う。 一区切りがついたところで、于禁殿が二人に近づきながら言った。 「周蘭。大事はないのか」 「ご主人様…はい、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。大事ございません」 「そうか、それならば良い。李楡、楊娥。ひとまず、周蘭を頼む」 それに短い返事が二人分。 于禁殿の後方から現れて周蘭に小走りで駆け寄る。 ひとしきり三人は抱き合った後、に向かって幾分背の高い一人―李楡―が言った。 「様、申し訳ございませんでした…私たちもあちらの建物の中にいたのですが、ただ見ているだけで…何も出来ず…」 言って指し示す建物をは一瞥してから、笑みを浮かべ僅かに首を傾けた。 「いいの、李楡さん。何も出来なくたって、それが悪い訳じゃない。あの状況じゃ当然のことよ…二人も無事ならそれでいい。それよりも、周蘭さんをお願い」 「はい…すみません」 「気にしないで。三人は私がこちらに来て初めて出来た同性の友人なの。畏まったり、変に気を遣う必要もない。また、三人でお茶しましょ」 「はい」 「ありがとう」 は始終笑みで返すと、一礼して去っていく三人をただ視線で見送った。 その姿が見えなくなった頃、は一度静かに息を吐き出して、それから徐晃殿の方を向いた。 彼がここにいる経緯は満寵殿から聞いている。 けれど、の行動の意図が分からずただそれを見る。 「はじめまして。私はと申します。既に袁術との会話の中でご存知の通り、私はこの国の出身ではありません。他の皆さんには下の名、で呼んで頂いてますので、そちらでお呼び下さい」 「丁寧なあいさつ痛み入る。拙者は、徐晃。徐公明と申す。以後お見知りおきを」 言って互いに拱手しあうと、一拍ほど置いてが再び口を開く。 「ところで、徐晃さん。先ほどはありがとうございました。あなたが先陣を切って下さったお蔭で、私は周蘭さんを連れて袁術の手から逃れることが出来ました。感謝を申し上げます」 「いや、礼を受けるほどのものでもござらん。拙者は当たり前のことをしたまで。それは殿のお力あればこそ」 「いいえ。徐晃さんがあそこで来て下さらなかったら、私は多分、兵の手から逃れられませんでした。徐晃さんのお蔭で、兵が怯み、その隙をつけたのです。そうでなければ…」 押し黙る徐晃殿に何か言い留まってからが続ける。 「いえ…何れにせよ、最悪の結果にはならなかった。それは矢張り、徐晃さんがあそこで来て下さったからです。重ねて御礼を申し上げます。ありがとうございました」 「そこまで申されては……お気持ちだけ受け取っておくでござる」 そう返す徐晃殿に、はただ笑みを浮かべて返した。 一区切りついたところで、私はに歩み寄る。 どこまでも、は自分のことを他人事のように話す。 そんなに、私はやっと声をかけた。 「、それよりも一番心配なのは君のことなんだけれど…その顔…」 「いっ…」 の正面に立ち、その左頬に触れる。 わざと、ほんの少しだけれど力を込めた。 その瞬間、が一瞬目を瞑って肩を揺らす。 「それから、ここも」 「っ…」 右の口端を指で触れようとするも、それは顔を逸らされ逃げられる。 満寵殿がとの距離を詰め、私の右後方から言った。 「。それがどういうことなのか、説明してくれる?」 満寵殿を一瞥してからを見る。 は一度視線を泳がせてから、言った。 「説明も何も…袁術に左側から平手で三回、右側から裏手で一回打たれただけです。口の中も切れてるので、それで痛いってだけで…他は何ともありませんし、このぐらい舐めとけば治ります」 「…君は犬や猫じゃないんだ。ちゃんと医者に診てもらった方が良い」 「全く、満寵殿の言う通りだね。打たれただけ、痛いだけ、とは言うけれど、君はさっきの周蘭を見ているだろう?だけ、では済まされないことを君はされたんだ。分かっているよね?」 「だから、袁術にキレたんです、私」 「周蘭のことをいま話しているんじゃないんだけれど」 「、君は…」 「!」 そこへ、唐突に満寵殿の言葉を遮って、于禁殿がを呼んだ。 普段取り乱すことなんて殆どない于禁殿が、血相を変えての左肩を掴む。 は一瞬驚いた顔をして、そのあと不思議そうにしながら于禁殿を見上げた。 「はい、え?どうしたんですか?文則さん…」 「今、李楡から周蘭に聞いたと報告があった…、何を袁術に飲まされた」 「ああ!そのことすっかり忘れてた!」 「飲まされた?」 のそれと、私の反芻したそれが重なる。 同時に、に呆れ一瞬だけ自分の眉根が寄った。 満寵殿がに言う。 「、どういうこと?何を飲まされたの?」 「え、えーと……このぐらいの直径の、やたら鮮やかな紫色したマー●ルチョコみたいな丸薬を二錠分、溶かされた水……なんだかすごく希少で特別だってふんぞり返ってたけど、袁術…」 よく分からない単語はさて置き…何て言ったのかな?今。 鮮やかな紫色をした丸薬? すごく希少で、特別? そんなもの、あれしか思い浮かばない。 私は何も知らないのであろう、指でその丸薬否、丹薬の大きさを形作るを信じられない気持ちで注視した。 しんと静まる空気から、この場の皆が同じことを考えている。 その空気に気づき、が周囲を順繰りに見ながら言った。 「え?そんな深刻なもの…?もしかして、やっぱり麻薬みたいな類のもの?幻覚見るとか、廃人になったりとかしちゃう系のもの?…死ぬってことは無いよね?袁術が、欲しいとせがむようになるって言ってたもの…てことは、死ぬわけではないよね?」 「そうだね、それは合っているよ。死にはしない…けれど」 「…殿…いいですか?落ち着いてよく聞いてください」 「は?はい」 荀ケ殿の言葉に、はそちらを向いて返事をする。 皆がただ、に注目し、そして荀ケ殿との会話に耳を傾けた。 「殿が飲まされたものは、道士が房中術を行う際にその相手に対して使用する丹薬です。それを使うことで、よりその気を養えると言われています」 「んー…えっと、房中術って…確か…端的に言うと陰陽和合の養生術、でしたよね?」 「そうです」 「ん?それに使うっていうことはつまり……どういうこと?相手に使う?…てことは精力剤とかじゃなくて…媚薬みたいなものっていうこと?」 「…限りなく近いです」 「へえー………」 そう言ったまま、は暫く静止した。 それから言う。 「…それで、それの何がまずいんですか?ただの媚薬だっていうなら、しばらく我慢してれば済む話なのでは?」 「それなら私たちもそこまで深刻に考えたりはしないよ、」 「ですよねー…まあ、伯寧さんが言いたいことはわかりました…けど、その深刻になる理由がわかりません」 まあ、流石に仕方ないかと内心思う。 ちょっと呑気すぎるけれど。 だけど、これ…は知ったらどうするかな? ひとまず、教えてあげるしかないか。 「それは私が教えてあげるよ、」 「…はい、お願いします…」 「その丹薬の効果の出方はね、飲んだ人間の身体を選ぶんだよ」 「随分、お高く留まった薬ですね」 「君、いま状況がわかっていないみたいだから、単刀直入に言うよ」 周囲の空気が呆れたのがわかる。 自分の置かれている立場が分かっている…訳がない、か。 だけどまさか私も、こういう話をこういう状況でにするとは思わなかった、かな。 「未経験なら、さっきが言ったように…まあ、一晩我慢すればなんとかなる。けれど、経験者だったなら、さい」 「わ、分かりました!」 そうは私の言葉を遮ると、腕を組んで考えるような仕草をする。 そして誰にでもなく、呟くように言った。 「え、えげつなー…そんなもの私飲まされてたの?えー、うそ、気持ち悪い…冗談は顔だけにしてよ…なんか、急に気持ち悪くなってきた…」 そう言って、は口に手を当てる。 この反応…はどっちなのかな? 暫くして、見かねたのか荀ケ殿がに声をかける。 「大丈夫ですか?殿」 「…ええ、まあ……ごめんなさい、話の途中ですけど、ちょっと失敬…」 そう言って、が水路のある方へ駆けていく。 の姿が見えなくなって水音がしたあと暫くしてから、が少し目を潤ませながら顔を水で濡らして戻ってきた。 不謹慎なのはわかっているし、それが生理的な理由だってことも分かっている。 勿論、を心配しているのは確かなんだけれど、それとこれとは話が別だ。 その話のあとでこれは…が無防備すぎるっていうことでいいのかな? いや、今に始まったことでもないけれど。 私と満寵殿の立つ丁度中間あたりの正面に、肩を落としてが立つ。 それから両側の米神を押さえるように片手で掴んで言った。 「だめだ…あんなえげつない色してたのに何の色もついてなかった…何?化学反応?それとも吸収されたっていう解釈でいいの?だとしたら、絶対研究すべきね。あんなミラクルとんでもないわ。だってさっきの今よ。例え水でも胃からその先に行くのに何十分か時間かかるはずよね、それは経験済みよ。なのに何で?これ解明出来たら絶対医学や薬学の進歩に役立つわよ…なんでここに研究用機材がないのかしら、もったいない」 「…大丈夫かい?」 「ええ、大丈夫です…しいて言うなら、そろそろ、ていうかいい加減、体力が限界…」 常に見る、考えるようなその癖をしながら言うの言葉に、私と満寵殿は顔を見合わせた。 もう一度に視線を戻す。 相変わらずのに問う。 水に溶かされたものを飲んだというなら、情報通りだとすると、もう大分きているはずだけれど。 「、身体に変化はない?」 「どういう変化か知らないですけど、何もないですよ」 「本当かい?……まさか、無理しているわけじゃないよね?」 「してないです、これっぽちも。とりあえず、話すたびに口の中が痛い、体力の限界、そのぐらいです」 体力の限界、の意味がよく分からいけれど、確かにそちらの無理をしているようには見えない。 そもそも、肌が上気している感じがない。 これもその手の人間から得ている情報だけれど、無理する以前に我慢できるような代物じゃないと聞いている。 それを二錠分とは、どうなるのかよく分からない。 それに私もそんなものを使ったことはないし。 そういうものが存在する、というのは有名な話で何かと金に余裕がある者ならば…まあ、それでもかなり頑張れば手に入れられるもの、という認識ではある。 間接的には聞くことのできる話だから、民の間でもそれなりに飛び交う話題だ。 故に、偽物も多い。 見分ける方法は、水に溶かすこと。 色が付くか付かないかで判断できるらしいが、そうなると、さっきのの話から飲まされたものは本物と見ていい。 ――だとしても。 いま目の前のは至って、普通、だ。 もし、目に見えて効果が無いとして、そこに可能性があるとするなら理由は一つ。 は道士であった左慈に力があるだとか、素質があるだとか言われていた。 それが何か働いている、と仮定するのが妥当かな。 だけど不確定要素ばかりだ。 時間差というのも考えられる。 念のため、聞いておこうかな。 今のこの状況なら重要なことだとは思うけれど…まあ、好奇心も大いにある。 「、教えてくれるかな?」 「はい?」 「は未経験?それとも経験済み?」 しんとする空気の中、が顔を上げる。 何度か目を瞬かせて、それから言った。 「そんなこと、こんな皆さんいるところで言えるわけないでしょう!例えどっちでも言えません!当たり前です!それなんていう羞恥プレイ…!悪いですけど、そういう趣味はありませんからね!」 まあ、こうなるのは分かっていたけれど。 「因みに、その」 「簡単に言うと、遊びって意味です!」 「なるほどね」 そう答えながら、腕を組むを見た。 一拍ほどおいて、が言う。 「そんなことより、私、本当に冗談抜きで体力限界なんです…もうなんだっていいですよ、それは。なんかあったらその時に考えます」 そう言ってため息をつくを見て、再び私は満寵殿と顔を見合わせた。 それに気づいたが言う。 「……もう限界なので事情を話しますけど…私、本当ここ最近徹夜続きで寝たいんです、さっきだって寝ようと思っていたらこれなんですもの、人の睡眠を妨害するなんて何様のつもりなの…折角寝る気満々だったのに」 「徹夜続きって…、君また何でそんな無理を」 「必要だったんです、どうしても…ああ、もう本当に眠い…」 満寵殿の問いに答えながら、はまたため息をついた。 言葉も動作もはっきりしているし一見すると眠そうには見えないけれど、確かに疲れてはいそうかな。 話を無理にすり替えているっていう感じもない。 それから気を取り直したように背筋を伸ばして、私と満寵殿に背を向ける。 同時に数歩前に出た。 そして、後方に円陣を組むようにしていた荀ケ殿たち他、この場の全員を順繰りに見ながらが言う。 「…改めまして、皆さん、お帰りなさい。ご無事の帰還何よりです。ご無礼は重々承知しておりますが、私はこれにて、一足先にお暇させていただきます。皆さんお疲れ様でした」 そう言って、は拱手した。 いつもながら綺麗な所作で、幾分ゆったりとしている。 けれど、身体を起こした直後、溜息をついた後には呟くようにして言った。 「あ、だめだ…もう無理、失態だわ…おやすみ、なさい…」 その時、まるでこのことを予感していたかのように、于禁殿が音も無く前に出た。 そして、そのまま後ろのめりに倒れ込むを支え、流れるように横抱きにする。 この一部始終に驚いて呆然とする周囲を余所に、于禁殿が私たちの方を振り向いた。 慌てたように満寵殿が、于禁殿に横抱きにされているの、やや俯くその顔を覗き込む。 それから間をおいてから顔を上げて、誰にでもなく言った。 「大丈夫、本当に寝ているだけみたいだ」 そう満寵殿が言うので、私は同じようにの顔を覗く。 確かに寝ているようだった。 耳を澄ませると、その規則正しい寝息が聞こえる。 それにしたって初めて見たよ、のこんな無防備すぎるぐらいの寝顔…。 まあ、初めて見るのは当然なんだけれど。 私は顔をあげながら于禁殿に問う。 「失礼ですが、于禁殿はなぜが眠ってしまうとお分かりに?」 「感覚的なもの故、説明するには些か無理がある」 そう答えた于禁殿は、眉一つ動かさず常の如く眉間を寄せている。 「なるほど、感覚…ね」 そう呟くと一拍ほど間をおいて、于禁殿が言った。 「満寵殿」 「はい」 于禁殿が満寵殿の方を僅かに向く。 満寵殿が返事をしたのを確認してか、于禁殿が先を続けた。 「のことを頼みたい」 「え?あの、于禁殿は…?」 「本来であれば、このままの邸へ連れ帰るべきだが、今しがた部下より要請を受けた。私が行く他ない故、あとのことは満寵殿に」 「そういうことでしたら、分かりました。私にお任せを」 それに于禁殿は無言で頷くと、を満寵殿へ渡す。 それから、于禁殿は二言三言、満寵殿と話をしてから去って行った。 それに倣うように、曹仁殿が事後処理をと告げ曹休殿と共に去っていく。 楽進殿と李典殿もまた、哨戒に当たると告げてその場を後にした。 そこへ、徐晃殿が満寵殿に言う。 「満寵殿。拙者も新参ゆえ、ひとまずは哨戒に当たり申す」 「ああ、すまないね徐晃殿。私から声をかけておきながら、ほったらかしで」 「いや、事情は承知いたした。それに、殿が皆に好かれているのだということも分かり申した。拙者には構わず、そちらを優先されよ」 「あはは…そう言って貰えると、すごく助かるよ、徐晃殿。まあ、また後で落ち着いたら、ゆっくり積もる話でもしよう」 「うむ。では、失礼いたす。ごめん」 言って、徐晃殿が拱手してその場を後にした。 「…中々、于禁殿とはまた違って堅そうな方だね、徐晃殿は」 「それが彼の良い所でもあり、難しい所さ」 「違いないだろうね」 そう満寵殿と話をしていると、荀ケ殿と荀攸殿がこちらへ歩み寄る。 一度の顔に視線を落してから、荀ケ殿が言った。 「まだ解決していない問題がありますが…ひとまず、殿は満寵殿にお任せして、私と公達殿は一度宮城(しろ)へ戻ります。この混乱に乗じて情報が洩れていないか、確認しなければ」 「それはそうだね、ここが普段より手薄になっていたことは知られていることだ」 「はい。文若殿との話の中で浮上した懸念事項もありますし……郭嘉殿はどうされますか?」 「うん、私も行くよ。流石に自分で確認しないと落ち着かないこともある。は満寵殿に預けておけば大丈夫だろうし。ね?満寵殿」 「…任せてくれて構わないけど、その含みのある言い方はやめてくれるかい?」 満寵殿の呆れたような反応に、私は肩をすくめて返した。 そこへ荀ケ殿が言う。 「ところで、満寵殿。殿を邸へ帰すのは良いと思いますが、その状態の彼女を一人で?」 「ああ、それは私も考えたよ。流石に一人でそのままにっていうのは不安だし、そもそも勝手に邸へ上り込むのも気が引けるからね…とりあえず、私の邸へ連れて帰るよ。身の回りのことをするにしても、侍女がいないと難しい」 言って、満寵殿がに視線を落す。 満寵殿が続ける。 「…まあ、本当は于禁殿のところが一番なんだけど……周蘭があの様子じゃ、暫く一緒にしない方が良いと思うんだ。于禁殿も同じ考えのようだったし」 そこで、さっき于禁殿が満寵殿に何か伝えていたのはこのことか、と合点した。 荀ケ殿が相槌を打つ。 「そうですね。彼女のあの様子を考えれば、先程は殿の言葉で落ち着いたようですが…殿のその、顔の腫れや傷が癒えるまでは会わせないようにした方が賢明でしょう。殿も、恐らく同じようにする筈でしょうから」 「ああ。本来なら、も同じぐらい取り乱していてもおかしくはないはずさ…だけど……まったく、世話が無い」 に視線を落しながら、満寵殿がそう言って溜息を吐く。 その気持ちは、私も同じだった。 「それは同感だね。もうちょっと塩らしくしてくれたら、可愛げもあるのに…物怖じもせずに盾兵を伸したり、神業みたいなことをしてくれたり、おまけに袁術にまで……けれど」 私は一度言葉を区切って、の顔を改めて覗き込んだ。 何度見ても、無防備な寝顔をしている。 そしてやはり、聞いた歳が信じられない程あどけない顔だ。 女性の寝顔っていうのは数多見てきたけれど…。 「本当に、この寝顔は最高だね…見ているだけで、食べたくなってしまう」 「郭嘉殿…」 満寵殿に名を呼ばれ、顔を上げる。 それから突き刺さる視線に、荀ケ殿と荀攸殿を順に見た。 一拍おいてから、私は肩をすくめる。 「そんなに揃って怖い顔しなくても、もちろん冗談だよ」 「君のそれは全く、冗談に聞こえないよ」 「おや、そうだったかな?」 三人分のため息が聞こえた気がするね。 満寵殿が気を取り直したように言う。 「さて、とりあえず行くよ。それが済んだら、私も宮城へ向かおう」 「ええ。では、私たちも行きましょう。郭嘉殿、公達殿」 荀ケ殿の言葉に、その場で皆、ただ頷き合った。 荀ケ殿と荀攸殿が先に歩き出す中、私はもう一度満寵殿を振り返る。 それに気づき、満寵殿が私に身体を向けた。 「なんだい?」 「いや、が可愛いからって、うっかり食べてしまわないようにね、満寵殿」 「…何度でも言う。君と一緒にしないでくれ」 「だといいんだけれどね……まあ、冗談だよ。お先に」 だから冗談に聞こえない、という満寵殿の言葉を背中で聞きながら、私は荀ケ殿と荀攸殿の背を追った。 つづく⇒(次も大人的なネタが入ったりします。苦手な方はご注意。) ぼやき(反転してください) 色々とあれな感じなのに何も起きずに終わります 次も微妙に大人なネタが入ります、けど、何も起きません 2018.06.19 ![]() |
Top_Menu Muso_Menu
Copyright(C)2018 yuriwasabi All rights reserved.
designed by flower&clover photo by