一九五年八月






     人間万事塞翁馬 43















私は自分の家の書斎で力尽きた。

曹操さん達が許昌を発って大分経つ。
当初引き受けた仕事は、私の全身全霊を以て四日で仕上げた。
何より、他の専門の拾いを皆さんが迅速に対応して返してくれたからできたこと。
本当ここの勤め人、有能な人多いわ。
感動ものだわ。
提出したものを見た曹操さんから、二つ三つの要望を貰ったけどそれ以外は全てクリア。
それも別に、訂正を貰ったわけじゃない。
残りもすべて任せると言われ、先日最終報告の書簡預けた伝令飛ばしたわ。
急ぐことだと思ったので。

それで私の仕事は全て完了。
あとは曹操さんがゴーサイン出すだけ。
ちなみに、工事着手後の動きとか監督なんかは、別の人が担当する。
そもそも私、そういう官職についてないし。
ただ私がまとめたことなので、お声がかかれば一緒に動くことにはなってるらしい。

とはいえ、それ以前に尋常じゃないぐらい短い納期だったの。
ほとんど寝てない。
まあ、それだけじゃないこともしてたからなんだけど、それはいいわ。

ともかく、久しぶりにこの手のもので痺れたってことだけは本当よ。
家には風呂と着替えのためだけに帰ってたようなものよ。
その時間すら惜しかったから、誰もいないのをいいことにお泊りグッズ揃えて暫く寝泊まりしてたわ。
宿直警備してる人いるから、たまに見回りにくるけど。
付け足して言うなら寝泊まりした理由も、途中からいくつか別の理由ができたんだけど、まあそれも今はいいわ。
念のための、ついでみたいなことだったし。
風呂?まあ、どうにでもしようがあるから。

ああ、でも、やりきったっていうこの達成感。
いいね、このために私仕事してるわ。
最高に気分がいいわ。
これでビールあったら言うことないのに。
――でも、とりあえず、今は寝る。
死ぬ。
もうさっき死ぬ思いで水汲んで風呂入ったし、今はともかく寝る。
布団が遠い。
とりあえず、ここでいい。

だけど、暫くして余りに外が騒がしいので私はのっそり身体を起こした。



「…うるさい、眠れない。蝉じゃないな、これ。何、これ…」



そう思いながら、内戸の格子越しに外を覗く。
うん、うるさい。



「祭りでもしてんの?社日過ぎたばっかだから暫く無いんじゃなかったっけ?」



社日っていうのは、秋分に近い戊の日のこと。
春分に近い戊の日にも同じことしてた。
なんつーの、多分夏の終わりの祭りみたいな。
豊穣祭みたいなもの?
春はまあ、その逆よね。

どっちにしろ、どんちゃん騒ぎですごいことになってたけど、外が。
とりあえず休日で邪魔が入らないから、しこたま仕事してやったわ。
ていうのも、結局私の手を離れたあとの別の仕事の手伝いお願いされてね。
帝の宮殿以外に、この宮城の増築計画の方とかをね。
聞いたら、助っ人に残してくからって曹操さんが言ってたらしいのね。
何も聞いてない…。
…まあ、それはさておきよ。

私は縁側から外に出ながら、庭に生えてる木によじ登って塀の向こう側、城の方角を覗いた。
と同時に、どこのか知らない兵らしきものが視界に入り、慌てて木を下りる。
旗は現時点では認められなかった。

どこの軍?今の。
ウチじゃないよね。
なんか、ヤバそうな気しかしないな。
斥候に出てた人たちからも色々と聞いてはいるし…。
どう考えても、こっちの動きを見越してこれよね。
帝連れ帰った曹操さんから横取りしようとかいう算段?
…こんな馬鹿…じゃなかった、大胆なことするような人、誰?
とりあえず、着替えよう。
寝巻じゃ動けないわ。

私は家の中に戻って、出仕用の服のインナーに着替えたあと、その上に平服の上を羽織って帯を締めた。
ぶっちゃけ、こっちの方が動き回るのには楽だし目立たないでしょ。
それから髪を、竹ペンその他用に用意した竹の棒で適当にまとめて、合口を帯に挿す。
…この合口ね、こっちの鍛冶屋に頼んだらそれっぽいもの作ってくれたのはいいんだけど、駄目もとだったから出来たもの見た時びっくりしたわ。
出来は比べられないけど、まあ、有りか無しかで言ったら普通に有り。
なんなの、ミラクルだわ。
とりあえず、装備はこれで行く。
長物必要な時は、現地調達。
偵察しに行くだけだし。
頼むから、皆の留守中に面倒事起さないで欲しい。
けど、そのために私もできる範囲、領分超え過ぎない範囲で備えはさせてあったからなんとかなってる、はず。
とりあえず、先に城見に行って機密文書関係が無事かだけ確認しないと。
どさくさに紛れて持ってかれたらマズイし。

そんなことを思いながら、私はもう一度外に出た。
一般人が息をひそめて隠れている中、私は謎の軍勢の目を掻い潜り最終目的を軍頭指揮者の確認として、まずは城を目指すことにした。









 * * * * * * * * * * 










――城は問題なかった。
事前に備えをさせていたから、敵兵が入らないように首尾よくやってる。
文書もまずは大丈夫みたい、だけど安心はできない。
とりあえず、誰が指揮者か確認してから、何を優先するか考えよう。

そう思いながら、内城の城壁から気づかれないように許昌の中央よりやや北に位置する橋のごく近くを見下ろすと、そいつはいた。
私の視力は2.0。
小さく見えるけど、でもそれでも、あの存在感―褒めてない―。
袁の旗を見て、どっちかってきかれたら、そっちでしょって思ってたけど…多分、合ってるわよね?
曹操さんに容姿の特徴まで聞いたりしてたから、それが間違ってなければ、あれが袁術。



「…なんだろ……えっと、なんだろ…」



私は米神を押さえた。
暫く、そうしてからもう一度見下ろす。



「あいつを手っ取り早く倒したら終わりそうだけど…流石に、あんな人数に飛び込むのは私ひとりじゃ無理。兵舎も全部押さえられてるから、今から兵を動かすっていうのも多分、無理だな…そもそも兵舎に近づけない」



身体を引っ込めてから、下唇を無意識に指で押さえた。

さっき他も探りながら城壁の外も見てみたけど、なんか別のも居たし…っていうか、呂って書いてあった。
いや、いま会いたくない…。
本人たち居ないみたいだったけど、知らない、今はいい。
心の準備が未だできてない。
…どっちにしても、さてどうしたもんか。

と思いながら、私はもう一度下を見た。
これ以上なにかするつもりは向こうも無さそうだな、と思いながら何かないものかと思っていた矢先。
東の方角からピンク色の服を着た女性が一人、袁術軍の兵士に後ろ手を取られ捕まっているのが目に入った。
その足取りから推測すると、袁術のもとへ向かっているようだ。
逃げ遅れた一般女性かな、と思ったけどその背格好に見覚えがあり思わず声が出る。



「周蘭さん…!?なんで」



はっとして口元を押さえる。
恐る恐る周囲を見回すが、甲冑や武器の擦れる音が意外と溢れてるので誰にも気づかれていないようだった。

何する気か知らないけど、こうしちゃいられないわ。
城の中の機密文書も気になるけどとりあえず、向こうは人足りてたし、となったら人命優先…いやこの場合は友人優先ね。
とりあえず、もっと近づかなきゃだめだ…。

空は少し雲が立ち込めている。
私はゆっくり息を吐き出すと、意を決してどうにかして近づけないか、その経路を探した。









 * * * * * * * * * * 










――苦労の末、なんとかギリギリ話し声の聞こえる場所まで近づくことに成功した私は息をひそめた。
身を沈めると丁度、袁術が周蘭さんを捕まえている兵士と話をしているところだった。



「上手く見つけてきたか…ほうほう。なかなか良い娘ではないか…どれ、もう少し近う…」



なんて絵に描いたような…。
じゃないわ…ここまで来たのはいいけど、どの手段選んだとしても良い状況にはなりそうもない―分かってはいたけど―。
それにこのままここに居続けていたら、いつか私も見つかる、多分。

そう思いながら、私は視線を正面にめぐらせた。
袁術の他にもその護衛のためか何人かの兵士の姿がある。
物陰に潜んで息を殺していても、いま直ぐにでも見つかるんじゃないかっていう焦燥感があった。
だって、それなりの軍勢が攻め寄せてきてるんだもの。
空気が殺気立ってるっていうのはすぐ分かるわ。
上から見てた時の比じゃない。
けど、この感覚はもう何度か経験して既に知ってしまっているものだ。
焦燥感は確かにある、緊張もあるけどそれで腰抜かすとか動けないってことはないわ。

視線の先で袁術が言う。



「実に良い……どれ、曹操が帝を連れてくるまでの間、この袁術の相手をせよ…まずは、そうだな、何が良いか…」



袁術が、周蘭さんの顎をとって無理矢理上を向かせた。
周蘭さんの顔はもう恐怖のせいか、絶望しているようなそんな表情。
声すらも出せない、そんな様子だ。

だめだ、あんな状態になってるのに見過ごすわけにはいかない。
今いかなきゃ私多分後悔するし、それより何より放っておけない!
周蘭さんの性格は何となくだけどわかってる。
私みたいな性格じゃないから、こんな状況きっと耐えられないはず。
このまま静観するのは無理!
あとのことは、あとで考える!

私は意を決して、足元に転がっていた石を数個拾い上げた。
それから、袁術の手元と周蘭さんを捕まえている兵、ついでにその周囲の数名めがけて石を投げつける。
同時に物陰から私は飛び出した。



「っ、曲者め!」

「それはあんたよ!」



合口を鞘から抜いて切りつけるも、間合いが合わず、袁術の服を掠めただけで終わる。
それでも、怯んで退かせることには成功した。



様!」

「説明はあとで、私の後ろに!」



何か言いたげに驚く周蘭さんの手を引いて、ひとまずさっき居た場所とは反対側の物陰を背にして周蘭さんを自分の後ろへ促す。

さて、ここからが一番問題。
どうしようか…我ながら困った。



「くうっ、おまえよくも!この袁公路に盾突いて無事に済むと思うな!そいつを捕らえろ!」



そう言って、袁術は周囲に顔を向けながら私たちを指差した。
正確には、私を、かな。

それにしても、本当に絵に描いたような…。



「周蘭さん、ここでじっとして動かないでいて」

「は、はい」



視線を正面から外さずに、後ろにいる周蘭さんへ声をかける。
途端、こちらへ兵が二人突っ込んでくる。
なるべくなら、周蘭さんの前で血なんか見せたくない。

私はその兵との距離をギリギリまで引きつけてから、足元に転がるさっき投げた石を一つ片方の兵めがけて蹴った。
それは眉間に命中したらしく、その痛みのせいか転げまわっている。
怯みながらも突っ込んでくるもう一人には、剣を振り上げようとして手をあげた隙を狙い顎へ蹴りを入れた。
脳震盪を起こしたらしいその兵は後ろへ倒れ気を失う。
周囲の兵達が一歩退いた。



「ええい、何をしている!小娘の一人や二人、さっさと捕らえぬか!」

「父上!私にお任せを!」

「おお、耀か。うむ、良いぞ」



どこからか駆けつけてきたそいつは、袁術の前で斧を構えた。

息子…似ても似つかない…。

と、私は内心思いながら、それでも状況の悪化に汗を握る。
何故なら、その袁耀とやらは一人で来たのではなかったから。
そして引き連れてきたのは、盾と槍を手にしたいかにも精鋭そうな兵達。
両手塞がるぐらいには人数いる。

う、ん…ちょっと、ていうかかなりマズイね。
合口だけじゃ流石に対抗できないわ。



「貴様!言うことを聞かなければ、命はないぞ!」



袁耀がそう告げると、槍を手にした兵がそれを私に向けた。

さすがにさ、リーチが…。
しょうがないな…そんな上手くいくとは思えないけど…。
勘だけど、なんとか時間を稼げれば誰かが帰ってくる、そんな気がしてる。
李典さんじゃないし、左慈の言う力のせいかも分からないんだけど、直感がある。
最近、その直感が結構当たるのよ、あんまり当てにもしたくはないけど、今はそれを当てにしたい。
だって他に手も無いし、策も無い。
だから、一か八かでそれに賭けるわ。
賭け事自体はあまり好きじゃないけどね。



「その得物を捨てろ!さもなければ、今すぐにその槍の餌食にしてやる」



傲慢そうな態度を取る割に統制は取れているのか、その兵達は袁耀の言葉に反応して槍の切先をこちらに向けながら、少しずつにじり寄ってくる。
私は合口を鞘に納めてからそれを帯から抜き取って後方の物陰へと放った。

取り上げられるよりよっぽどマシよね。
特注も特注で結構先立ったのよ、あれ。
相応だとは思ってるけど。

それが立てた音を聞きながら、両手を上げて見せる。



「どう?これでいいでしょ?その代わり、言うこと聞くんだからこの人には手を出さないでよね」

「父上、どうされますか?」

「ふむ…」



袁術が顎に手を当て暫く考えるような仕草をする。
その間にも、兵が三人やってきて、一人が周蘭さんについた。
残りの二人に、私は後ろ手にとられると数歩前に促されてから肩を押さえられ、無理矢理座らされる。

…だから、言うこと聞くって言ってんでしょうが、痛いんだってば。

そんなことを思っていると、袁術が私に歩み寄り覗き込むようにして見下ろした。
私は不快感を抱きながら、ふと気づく。
なんだろう、ちょっといい甘めのお香の香りがする…。
嫌いな香りじゃないけど、なんか、こいつからそれがするっていうのが凄く嫌だ…。



「ほう…こうやって見ると、なかなかにいい女子ではないか」



自分の眉間に物凄く皺が寄っているのが分かる。
その品定めしてるみたいな言い方…気に食わない。



「いいだろう、そこの娘には手を出さぬ…とはいっても、おまえ次第だがな」

「そう…確かに聞いたわ。約束よ」

「ふん、だからおまえ次第だと言っておる」



ふんぞり返る袁術を、私は張り飛ばしたい衝動に駆られた。
後ろ手にされた腕に力が籠る。
ぐっと堪えた。



「さて、その前に…おまえの名を教えろ」

「名前…?なんでそん」

「いいから教えぬか!そこの娘がどうなっても良いのか!?」



そんなに噛みつくことないでしょ…まったく…。。
名前呼ばれたくないから苗字でいいや。



よ」

?変わった名であるな…おまえ、異人か?」

「そんなところね」



言うや、袁術はにんまりと笑う。
ああ、だめだ…生理的に無理だ、ごめん、マジ無理。



「異人でこの美貌…それを名門本流のわしが手にする…実に気分が良い」



美貌ってあんたね…。
名門…成金の間違いでしょ。



「いつ私があなたのものになったのよ」

「その減らず口はいけすかぬな」



袁術はそう言うと、間髪入れずに私の左頬を思い切り平手で打った。
口の中にしょっぱいような味が広がる。

口の中切ったじゃないよ…痛い。



様!」

「ん?」



周蘭さんが私の名を呼んだので、袁術が訝しむ。
私は前を向かされてるし、両側に兵が立ってて邪魔だから周蘭さんの顔は振り向いても見れない。
ただ、ここで周蘭さんの顔を見てしまうとなんとなく気を遣わせる気がしたので私はただそのままじっと黙った。
袁術が言う。



「おい、おまえ。名はと言うのではないのか?」

「そうよ」

「では、そこの娘が呼んだのは字か?」

「…違うわ。。それが私の名前よ、字は無いわ」

「ほうほう。全く変わっておるな…姓が、名がということか…聞き慣れぬが良い響きをしておる」

「あんたに褒められてもちっとも嬉しくない」

「何?また減らず口を!」



左頬をまた平手で打たれる。

…うっかり言っちゃったのよ、勘弁してよね。
ていうか、痛い。
切れてるんだってば、だから。
以外と腕力あるのね。



「忘れておらぬか?そこの娘が無事で済むかどうかはおまえ次第なのだぞ、



ああ、こいつに名前呼び捨てにされるの本当に嫌。
でも大丈夫、周蘭さんのせいじゃない。
こいつがそもそも間違ってるのよ。



「そうだな、まずは…この私に頭を下げて、申し訳ございません、袁術様に従います、と言え」

「はあ?どの口が…」



直後お約束の様に、また左頬を平手で打たれた。

思わずまた言ってしまった…。
相当自分疲れが来てるなと思う。
ちょっと、いやかなり頭が回らなくなってる。
だけどともかく、時間稼ぎしないと。
これならこれで、方法はあるかも。

袁術が私の顎を掴みとってその顔を近づける。
ぎり、とどこからか聞こえそうなほど、乱暴に力を込めて掴まれた。
かけられた指に力を込められると、切った場所に奥歯が当たって痛い。
そして、何より…近くでその顔を見たくない。



「黙れ、小娘。おまえを今この場で辱めてやっても良いのだぞ!」

「名門が聞いてあきれるわ。そんな下品な趣味」

「言わせておけば…ならば、先にそこの小娘からにしてやろうか」



周蘭さんが小さく声を上げた。
袁術が、私の目を覗きこんでくる。

この目を潰してやりたくて堪らないけど、我慢よ。
周蘭さんをそんな目に遭わせるわけにはいかないわ。
そして決定、こいつは女の敵。

私は一度目を閉じてから、袁術を見た。



「…分かったわよ、言えばいいんでしょう?」

「最初からそう、素直に従えばいいのだ。いいぞ、言え」



離れていく袁術を視線で追う。
見下すその目を一瞥してから、私は後ろ手に膝をつかされたその状態のまま、頭だけを下げた。
地面を見ながら言う。



「申し訳ございません、袁術様に従います」

「心が籠っておらぬ、もう一度だ」



いい気になるなよ…。
時間稼ぎのためだからね。



「申し訳ございませ」

「もう一度だ」

「……申し訳ご」

「ええい、もう一度だ!全く心が籠っておらぬ!請うように言えぬのか!」



再び裏手で今度は右頬を打たれる。
周蘭さんが短く上げたその小さな声が耳に届く。
ごつい指輪が思い切り当たったのか、血が地面に散った。
それが視界に入ったのと痛みとで、口端が切れたのが分かる。

女の顔を何度も殴るとは最低な奴だな。
そもそも、時間稼ぎとは言えなんで私が請わなきゃいけないわけ。
私は周蘭さんを助けたいだけだし、誰かが早くここへ来るのを待ってるだけなんだってば。
それに、そもそも徹夜続きでもう体力の限界も近いのよ。



「申し訳」



言うや、頭を押さえつけられた。
髪が解ける。
纏めるために使っていた竹の棒が地面に落ちた。
膝をついた先、左前方30センチぐらいのところ。

かろうじて地面とのキスは免れたけど、なんだこいつ、自律神経か?



「心を込めろと言っておるのだ!袁術様申し訳ございません、だ!言え!」



私の後ろの方で、周蘭さんが小さく何度も謝っているのが聞こえる。

ああ、駄目だこれだと。
時間稼ぎする前に、周蘭さんの精神が心配だわ。
この辺で潮時だ。
仕方ない、誰のためでもなく周蘭さんのために全力の演技してやるから見てなさいよ。

この瞬間だけ自分を捨てる。




「……袁術様、申し訳ございません…袁術様に従います」

「…ほう、やればできるではないか!そうだ、それでいい!どれ顔を見せてみろ」



喋ると口内の傷に歯が当たって痛い。

袁術が私の頭を押さえていた手をどけたので、私はそのまま身体を起こした。
もう演技はいらない。

目があった瞬間、袁術が一瞬怯んだ。
それから言った。



「な、なんだ!その目は!いけすかぬ、いけすかぬぞ!」

「言うことは聞いたわ。それで何がいけ好かないとあなたは言うの?」

「全てだ!その、わしを見下すような、その目!わしをそのような目で見るな!異人ならば奴婢のように請えば良いのだ!」



そう言いながら袁術は一度腕を横に振った。

…大分きてるな……。
全然違うけど、以前対応したヒステリッククレーマー思い出しちゃったよ。
あのお姉さん…ていう歳でもなかったけど…どうしてんのかな、今。
ていうか奴隷にされてる人たちに謝れ、似非名門め。



「まったくいけすかぬ、奴婢風情が…こうなれば、見ておれ……これは高価ゆえ、別なところで使おうと思っておったが…有りがたく思え、おまえに使ってやろう」



そう言って、袁術は懐から趣味の悪い柄の巾着を取り出した。

何、あれ…。
私はその悪趣味袋に訝しむのも忘れ、堪らず呆れた。



、おまえ…いま呆れおったな?これはわしの目利き品であるぞ!無礼な小娘め。だが、その余裕も今の内よ。誰か、水を持て!」

様!私のことはもういいです、だから」
「誰か、その娘を黙らせろ!」



袁術の言葉に思わず後ろを振り向こうとするが、兵に制される。
だけど、ちらっと見えた。
近くにいた兵に、周蘭さんが口を塞がれたのを。

同時に、袁術が吐き捨てるように言う。



「そこの娘!下手な真似をすれば、こいつをこの場で辱める!意味が分かったら大人しくしていろ!」
「ちょっと!」

「ふん、案ずるでない。口を塞ぎ黙らせただけではないか…だが、いい気分だ。その焦燥に駆られた表情、実に気分が良いぞ。おまえも大人しくしていろ、あの小娘をここで剥かれたくは無かろう?」



私は袁術を一瞥してから、地面を見た。

本当に、何とかしないと。
私はいいけど、ともかく周蘭さんが…。
ああ…何も出来ない。
何やってるんだろう、私。
私、なにか間違えたかな…。

でも、自分に絶望してる暇はないわ。
何となくだけど、本当に誰か来そうな気がするの。
仕事中に耳にした斥候からの話でも、なんか所々で交戦中みたいなことは聞いてるけど日程的にはそろそろ誰かがここに来てもおかしくない筈なのよ。
だから、もう少し時間稼ぎするわ。
いまさら引き返せない。
そのせいで周蘭さんが苦しいと感じてるのは分かる。
けど、最悪のことを考えたら、まだマシよ。
どんなに考えたって、周蘭さんがこんな目に遭うよりよっぽどいいに決まってる。
こいつの言う事、大人しく聞いてたら何させられるか分かったもんじゃないわ。

そんなことをぐるぐると考えていた時、袁術が俄かに言った。



「おお、やっと来たか!」



視線を上げると、袁術はにんまりと笑っている。
そして私を見ている。

気持ち悪い。



「例え嫌でも、このわしに請いたくなるぞ、見ておれよ……まずはこれ」



言って、袁術は持っていた巾着の中から多分、1センチないぐらいでやたら鮮やかな紫色の丸い物体を摘まんで出した。

なんか、よく分かんないけど…。



「…丸薬?」

「そうだ。異人のおまえはこれを見ても何か分かるまい。だが、これは特別で希少なものなのだ。この私でも二粒しか持っておらぬが、特別に全ておまえにくれてやる、感謝せよ」

「そんな得体のしれないもの貰ったって嬉しくないわ。マー●ルチョコじゃないんでしょ?」

「ふん。訳のわからぬことを…まあよい、それを後で欲しいとせがむようになるのだ、その言葉よく覚えて置くがいい」



なによ、それ…。
怪しすぎない?
ほんと、マー●ルチョコじゃないわよね。
何、麻薬か何かの類?
嫌だ、要らないわそんなもん…。
ダメ、ゼッタイ。



「さて、こいつはそのまま飲んでも十分効くが…減らず口が過ぎるおまえにはすぐに分からせてやるため、少々手を加えてやろう。この方法ならば、すぐに効果が得られる上、一度口に入ってしまえば例え吐き出しても効き目は残る、嫌でもな」



そう言って、袁術は傍らに控えていた兵からどこから持ってきたのか、水が入っているらしい杯にその丸薬を二粒落した。
そしてそれを、これまた控えていた兵が差し出した匙でかき混ぜる。

んー、嫌な予感しかしないよね。
だって、さっきから後ろで周蘭さんがすごく何か言ってる気がするの。
声が声になってないけど。
ちょっと、さっきまでと周蘭さんの反応が違う気がする。
こっちの人なら見てすぐ分かるぐらいのものなの?それ。
私まだその情報に行きついてないんだけど。
とりあえず、飲んで死ぬなら、欲しくなるなんて言わないよね?
ってことは、やっぱ麻薬?幻覚剤?廃人決定?
…嫌だ、それは、嫌だ…。
廃人になったら何も出来ないじゃない。

袁術が匙を兵に渡す。
杯を手に、数歩私に近づいた。



「上を向かせるのだ、充分にだぞ。一滴も無駄には出来ぬからな」



言うや、後ろ髪を引っ張られる。
余りに強く引っ張るので、痛みに思わず眉間を寄せた。
目いっぱいに真上を向かされた挙句、背中に膝か何かを当てられる。
上体が嫌でも反る。

結構に、無理な体勢だわ。
息苦しいし。



「良いぞ、そのまま押さえつけておくのだ。指一本動かさせてはならぬぞ」



言いながら、袁術が私に近寄る。
顎を乱暴に掴まれた。
口内の切ったところにまた、奥歯が当たって痛い。
思わず口が開く。

それから間髪入れずに、袁術が杯の中の水を高いところから少しずつ流し込んだ。
ちらりと見えたそれは、見事に紫色に染まっていてどう見ても身体に良さそうな気はしない。
口内の奥の方に流し込むそれが当たって苦しい。
息苦しくて思わずそれを飲んでしまう。
一度飲むと、もう止められなかった。



「良い眺めだ。その苦しそうな表情、たまらぬな。気分が良い」

「……っ…」



声を出せない。

何か、こういう状況…似たことあったよね、前…。
思い出したくない。
なんで私、こんな役回りばっか…。
いや、周蘭さんを助けるためよ、これを周蘭さんが飲まされなかっただけでも良しとしなきゃ。
…けど、その前に絶対許さないぞ、こいつ。
しかも、よく息子の前でこんな醜態晒せるな!
そっちのがびっくりだ、私は。



「さあ、空になったぞ。いよいよお楽しみの時間だ、感謝するのだ。このような経験、またと出来ぬのだからな」



やっと髪からも手をはなされて、多少さっきより自由になった私は、思い切り咳をした。
ちょっと気管に入ったじゃないよ、咽るわ。

ちょうどそんな時、急に西の方角が騒がしくなり思わずそちらを見やる。
向こうから何かが雪崩れ込んでくるのが見えた。
ふと、掲げた軍旗が見えて私は思わず呟く。



「帰ってきた…」

「な、何だ!何が、どうなっておる!」



袁術が狼狽える中、袁耀が盾を装備した槍部隊を引き連れてそちらへ向かっていく。

手薄になった…。
今しかないけど、まだこいつらの手の力の方が強い。
抜けられるかな。

そう思ったのと同時に、知らない人物の声。



「徐公明、推参!覚悟!」



袁術の向こう側、水路を飛び越えてそこにいた兵の塊りへと攻撃を繰り出すその人。
いなや、私の手を掴んでいた兵の力が緩む。
私は一、二も考えず、その兵の顎の位置だけ確認して思い切り立ち上がった。

頭突きをその顎に入れる。
それから、素早く拾い上げた竹棒を怯んだもう一人の兵の太腿に思い切り突き立てた。
口元を拭いながら、転げまわる兵を飛び越える。
その先にいるのは周蘭さんだ。
そこについていた兵は狼狽えて、周蘭さんから手をはなしていた。
飛び越えながら私は叫ぶ。



「周蘭さん!伏せて!」



周蘭さんが咄嗟にその場へ頭を両手で抱えながら屈む。
私は、そこに残った兵の顔面めがけて回し蹴りを入れた。
飛ばされて地面に伏したのを一瞥してから、周蘭さんの手を取る。
放った合口を物陰から拾い上げて、西に視線をやった。
混戦の最中、一騎こちらに駆けてくるのが見える。



「周蘭さん、怪我はない?」

「ありません」

「それじゃ、ひとまずここから逃げよう!走れる?」

「はい、大丈夫です」



絞るような周蘭さんの返答に私は無言で頷いて走った。
その駆けてくる人に向かって。

髪が鬱陶しいと思いながらも間もなくしない内に、その人と私は合流した。
さっき袁術が居た場所からはそんなに離れていない。
後ろをちらっと見た時、袁術はこっちを追ってきているようだった。

けど、今はともかく。



、怪我は!?それに、その子、確か…」



馬から飛び降りて、その人、伯寧さんが駆け寄る。
何に気づいたのか分からないけど、はっとする伯寧さんを見上げて私は言った。



「はい、文則さんのところの侍女さんで、周蘭さんです。私たちに怪我はありません、それよりも」



言いながら、私は周蘭さんを伯寧さんの方へと促す。
周蘭さんの肩に伯寧さんが得物を持たない空いている方の手を置いたのを確認しながら私は言った。



「周蘭さんをお願いします!」

「ちょっとまって、!君、どうするつもり…それに怪我はないって、その顔の」

「説明はあとです!私はあいつを蹴り飛ばさないと気が済みません!行ってきます」

「あ、ちょっと!」
様!」



後ろを振り返って私は全速力で引き返した。
背中で二人の声を聞く。

このままにしておくなんて、絶対無理。
ともかく何でもいいからお返ししてやらないと、気が済まないし、夜も寝られないわ。
本当、あったまきた!

段々と近づく袁術の姿に、それでも半分吐き気を催しながら私はただ走った。










* * *










許昌に戻ってくると、袁術の軍勢がそこを占拠していた。

予想通り、帝を己の庇護下に置きそれを利用しようとする諸侯が各地から兵を挙げて向かってきているとの情報が早い内に耳に入る。
しかし、まさか袁術が許昌を占拠するなんて、中々に大胆なことをする。
いや、単純に考えていないだけか?
そう思ったのと同時に、私は許昌に残ったを真っ先に心配した。
恐らく、皆がそうだったと思う。
それでも、すべきことはしなければならない。

途中、楊奉殿の軍にいた徐晃殿を説き伏せ、一度別れたあと許昌へと向かう。
他の皆も、すぐ近くまで来ていることは分かっていたが、既に許昌へ入っているかは不明だった。
正確に言えば、曹仁殿と郭嘉殿の軍は、私たちのすぐ後方まで来ている。
そんなことを頭の片隅に置きながら、正門から許昌城内へと入った。

袁術軍の兵数は情報通りだった。
後に控える曹仁殿たちも間もなくここへ到達するはずだろうから、私の一軍だけでは多少数で劣るとしてもどうにかなる。
それよりも、が無事なのかが心配だった。
民たちは袁術軍に見つからぬよう息をひそめ隠れているようだったが、も同じ様にしているだろうか。
邸にいるのか、それとも宮城(しろ)にいるのか、それは分からない。
だけど、何ともいえない胸騒ぎがあり、嫌な予感がしていた。

許昌の正門と東門を繋ぐように通る大通り。
袁術軍とは違う、そして彼らと交戦中の見慣れない格好の兵達を見て、先に徐晃殿がここへ到達していることを知った。
それに倣うように、自軍の兵達も雪崩れ込み次々に袁術の兵達を退けていく中で私は号令を出し声を張る。
馬上から東の方角へ視線を向けた時、この状況には相応しくない桃色が視界に留まった。
逃げ遅れた一般民かと思い至り、馬首を向け駆ける。

距離が徐々に詰まる中、その人影が誰かに手を引かれて逃げているのだと気付いた。
一瞬、兵かとも思ったがすぐにそれが違うと分かる。
その手を引く人物は長い髪を揺らしてこちらへと向かっていた。
そしてそれは誰か。
間違う訳が無い。
――だ。
いつもと少し違う取り合わせの格好をしているが、間違いない。
どういう理由でこの状況なのかは分からないが、ともかくが女性の手を引いてこちらへ走ってきているのだけは分かった。

私は自然、馬腹を蹴ってその速度を上げる。
充分距離が詰まったところで、馬を制止させながら思わずそこから飛び降りた。
同時にに安否を問う。

それから、近づいてみてやっと分かったがが連れていたのは于禁殿のところの侍女の一人だ―が名を教えてくれたけど、私は既にその名を知っている―。
加えて、怪我はないと答えたの左頬は見てすぐ分かるぐらいに赤くなり、それほど酷くはないが腫れていたし、右の口端は切れている。
何があったのか推測しようと思えば出来るが、詳しい状況は分からない。
そして、それを問いただそうにもは周蘭を私に託すや否や、取りつく島も無く踵を返し来た道を引き返してしまった。

あの口ぶりだと、あいつ、に何かをされたのはすぐ分かる。
それから、あいつが袁術のことだろうということも大体分かる。
けれど、相変わらずのに出鼻を挫かれた形でどう反応したらいいのか分からない。

その時、周蘭が私を見上げて言った。



「お願いします、満寵様!様を、様が…私の、私のせいで…!」



私の上衣をつかみながらすがるようにして言う周蘭の目は今にも泣き出してしまいそうだった。
そこから窺えるのは、罪悪感。

不安感を極力与えないように、私は努めて優しく彼女に言った。



「とりあえず、落ち着こう周蘭。君のせいじゃない。さあ、ゆっくり息を吸って…それからゆっくり吐く、もう一度」



私は彼女に深呼吸をするように促す。
数回して落ち着きを取り戻し手を下ろしたのを確認してから、私は彼女に質問をした。



「…まずは何があったのか、教えてくれるかい?話せる範囲で良いから」



それに周蘭は無言で頷くとぽつりぽつりと話し始めた。



「全部、私が逃げ遅れてしまったのがいけないんです…そこを袁術の兵に捕まって、袁術の前に無理矢理連れて行かれて、それで本当に怖くて、私…どうしたらいいか分からなくて、私、私…」

「大丈夫、ゆっくりでいいから、落ち着いて」



裙の上でかたく拳を握る彼女の肩に、私は手をのせて落ち着くように言う。

これが普通の反応なんだ、と頭のどこかで思い、が引き返した先に視線を送った。
が袁術―らしき人物―を蹴り飛ばしているのが見える。
流石、といいそうになったのを呑み込んだ。
ただ、私の中の袁術に対する怒りは消えていない。

周蘭が先を続ける。



「そしたら、様が助けに来てくれました…けど、兵があまりに多くて、それで様は私を庇って代わりに…そのせいで袁術の…袁術が様のお顔を……ああ!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

「ごめん、辛いことを聞いたね。いいんだ、君は何も悪くない。悪いのは袁術ただ一人だ…もう一度、ゆっくり息をしてみよう。できるかい?」



深く息を吸って吐くように促す。
それ以上聞くのはどう見ても無理そうだった。
顔を両手で覆って泣き出す彼女に、これ以上何が聞けるだろう。
だが、どういう状況だったのかは大体分かった。
一部始終だけど。
簡単にまとめれば、袁術に捕まった周蘭を助ける途上でも捕まり、そこで恐らく袁術と交渉した末、自分がその身代わりになったんだろう。
ただ、なんで顔を殴られるに至ったのかは分からない。
また濮陽の時の様に、何かいいくるめようなんて考えたんだろうか。

私は、周蘭の背中をさすりながら遠くのに視線をやった。
兵から奪ったらしい槍を操るを見て、確かにこの周蘭と同じぐらい辛い目に遭ったであろうはずなのに、この違いは何故なのか、と思った。
しかし、その理由は何となく分かってはいるので、自然複雑な気持ちになる。
ただ、それでも袁術に対する怒りが沸々と込み上げてくるのは間違いない。
自分の部下が傍らに来たのを確認して、二言三言伝えてから、周蘭を任せた。
もちろん、周蘭にも言葉をかけることは忘れていない。

私はのもとへと向かった。













つづく⇒(次も大人的なネタが入ったり、セクハラ的なネタが入ったりします。苦手な方はご注意。)



ぼやき(反転してください)


献帝護衛が一話で終わらなかった…
そして、相変わらず次はちょっと大人なネタです
セクハラも含みます
愛はありません、多分

2018.06.19



←管理人にエサを与える。


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