一九五年七月 人間万事塞翁馬 42 三月の討伐戦以来、その手の任が下されることがには多くなった。 規模が大きいときはまだ私の補佐だけれどその度に、自軍の被害を最小限にとどめ策を実行するに皆、ただ驚くばかりだ。 と同時に、戦が終わるたびが深い苦悩を重ねて日々を過ごしていることにも気づいている。 正確に言えば、漸く気づいたというべきかな。 傍に居ても、普通にしていたら全く分からないんだ。 当然そういうものを抱えるだろうということは容易に想像がつくのに、注視していてもそれが全く見えない。 の明るい表情、柔らかな笑み、平時にあっては穏やかで静かな口調。 かと思えば、驚いて声を上げて見せたり、嬉しそうにして満面の笑みを浮かべたり、楽しそうに動き回って忙しなくその表情は変わる。 その全てが愛しいと思うし、その全てに安心させられる。 それはまるで、彼女が度々奏でる二胡の音色を聞いた時のように今が乱世であることを一時忘れてしまうのと同じで、私だけでなく皆がそれを、が抱えるであろう悩みの事など忘れてしまう。 ただ、ある時。 そのの苦悩を知った時…私たちにそれを忘れさせると言うこと、安心させるということそのものがの狙いだったんだと気付いた。 私から言わせれば、策だったと言ってもいいかな。 それでも、彼女が笑ったり嬉しそうにしているそれは、本心からだということも分かっている。 けれど、それこそ彼女が利用している手段。 自分の正の感情を利用して、負の感情を隠している。 なんの違和感も無く。 それはきっと、楽しいと思う事も、笑う事も、嬉しそうにする事も全て本心からだからだろう。 無理をしてそう見せているわけではないから違和感が無い。 軍議中の今も、そう。 特に仕事をしているときのは活き活きとしていて、見ていると胸が空く。 ――本当のは、一体どれなんだろう。 そういえば、初めてと二人で飲んだあの時以来、憂えた表情を見せなくなったけれど、それはただ楽しいからだろうか。 それとも、隠してしまったのだろうか。 それこそ降るような蝉の鳴き声は止む気配はなく、暑い空気の中、伝令からの報告を受けて曹操殿が皆を呼んだのは、ほんの少し前。 「…準備が整い次第、帝のおわす洛陽へ向かう、が…、近う寄れ」 曹操殿が大まかな指示を出しながら、唐突にを名指しして手招き、そのすぐ傍を指で示した。 「はい」 机を挟んで向かい側のほぼ真ん中あたりに立っていたが、そちら側の一番の上座にいた満寵殿の前まで進み出る。 曹操殿が傍らにいた兵から三尺―74センチ弱―程の幅の巻物を受け取り、それをに差し出した。 が不思議そうな顔をしてそれを受け取る。 「開けてみよ」 「はい…」 そう言って、は巻物を両手にしてその場で開いた。 満寵殿が片眉を上げる。 私はそれが何か、見なくても分かる。 提案したのは他でもない、私だから。 「これ…図面……すごい書込み…芸術だわ、なんて素敵なの……この線の感じ…もしかして、これ曹操さんが…?」 「うむ。よくぞ、わしが引いたと分かったな」 「線にも性格が出ますから、見たら大体わかります」 流石にこの場では自制しているみたいだけれど、声で高揚しているっていうのが分かる。 そういう所は本当に可愛い。 いや、全てが可愛いと思える。 どちらかと言えば、可愛い人と言うよりは、美人の部類だけれどね。 「ところで、これは…宮殿のようですけど…」 「さよう。帝のための宮殿だ。意味が分かるか?」 「…はい。ここへ、許昌へお迎えする、そういうことですよね」 「そのとおりだ。だが、まずは帝を救いに行き、そこで一度伺いを立てねばならん。そこで許可が下りれば、早々に着手する」 一時、場の空気が変わるが、当然の様に予想できたことだ。 帝の心を慮れば、都は洛陽、となるが政治の中枢とするには適正地ではない。 もうあそこは廃墟と言っていい。 それに、曹操殿の理想を実現するためにもここ、許昌へ遷都する。 これ以上の上策はない。 「そこでだ、。そなたには、宮殿築造の着手に当たって必要な、工期や数諸々を拾ってもらいたいのだ」 「はい!?」 素っ頓狂な声を上げるに、何人かが吹き出し、または顔を逸らす。 私も思わず、口元に拳を当てた。 まだこういう反応が出て来る内は、安心できる。 完全に仕事に没頭してしまったは本当に味も素っ気もないからね。 「は、この規模の経験はないか?」 「あ、あるわけないですよ!工法は全然違いますが、せいぜいこの今いる城の三分の二ぐらいまでです、設計も監督も」 「ほう…ならば、出来ぬこともあるまい、嫌か?」 「い、嫌じゃないです…大変魅力的なお話ですけど…その前に帝の宮殿なんて畏れ多い…」 「なぜそう思う?」 「いや、だって…半分部外者みたいな感じでしょう?私。出身国違うし、なんか、こうもっと、その…帝を慕う方とかの方がいいんじゃないんですか?」 思わず、黙ってを見つめた。 今更部外者、とは。 しんとした空気から、きっと皆同じだろう。 「ほう。そなたが適任と思うた故の話だが…は仕事の差配に情を優先するか?」 「いえいえ、そういうんじゃないです。何ていうのかな、帝って…私のところの所謂、天○○下だとすると、その宮殿っていうのは御所よね…いや、想像しただけでも畏れ多い…」 「なるほど、でもそのようなことを気にするか」 「お言葉ですけど、私ただの平和ボケした一般人ですからね…もちろん、言い訳にするつもりはありませんが」 曹操殿とこれだけ言い合える人間が一般人とは…よく言う。 「言いたいことはわかった。だが、やる気はある、そういうことだな?」 「はい」 「ならば、良かろう。但し…」 その曹操殿の言葉と鋭い視線に、の顔が一瞬強張る。 「わしに直接問いたきことあろうとも、先を急ぐ故五日の猶予しか与えられぬ。五日の内に、主要なものを拾えるか?」 「い、五日…この規模を、五日…」 「難しければ断わって良い、慣れているものに任せ、そなたは共に従軍せよ」 暫く、はその手元に視線を落した。 表情を見ればわかる。 落胆しているだとか、そういう類のものではない。 あれはもう、計算を始めている顔。 自分に出来るか、同時に曹操殿が何を求めているのか見極めようとしている顔だ。 徐に、視線を曹操殿に上げる。 が言った。 「お受けします、曹操さんが確認したい事項全て、五日以内に拾いましょう」 「できるか?」 「できます」 流石はだ。 曹操殿の意図をこれほど早く汲み取れるなんて。 曹操殿が満足そうに笑みを浮かべる。 「よし、しかと聞いた…時間が惜しかろう。もう行って良いぞ」 「はい、失礼いたします」 言って、は開いていたそれを巻き取ると、拱手してから踵を返した。 真剣な表情で、しかしどこか楽しそうな表情を浮かべていた。 曹操殿のあの視線を受けて尚、問われた言葉にできると断言する。 なんて大物なんだろうね、は。 まあ、できると確信したものにできると答えるのは、私も同じだけれどね。 それでも矢張り、五日以内の意図に図面を見ただけでこれほど早く気づけるは徒者じゃない、かな。 それから暫く、のいなくなったこの部屋で軍議は続いた。 * * * が軍議室を出て半刻を迎える少し前、軍議が終わりひとまず私たちは執務室へと向かった。 は今回は従軍しない。 陛下のための宮殿築造に当たり、その前準備を行うためだ。 回廊を郭嘉殿や荀ケ殿、荀攸殿について歩いていると、執務室のある方向から竹簡を数本抱えた文官が一人足早にやってくる。 私たちに気づき、回廊の脇に控えたあと頭を下げ持す。 郭嘉殿がその文官に声をかけた。 「やあ、ご苦労様。大分、急いでいるようだけど、どこへ行くのかな?」 「はい、張高様のもとでございます」 「誰のお遣い?」 「様でございます」 「ふうん、ありがとう。引き止めてすまなかったね、行っていいよ」 「はい」 言うや、文官は回廊をまた足早に去って行った。 それを聞いて、私は驚きをそのままに言った。 「張高殿のこと…は一体どこで知ったんだ?」 「私が教えてあげたんだよ、以前、ね」 そう言って、郭嘉殿がいつものように笑みを浮かべてこちらを振り向いた。 荀ケ殿が郭嘉殿に問う。 「以前とは…?それに、どういった経緯なのでしょうか?」 「そうだね、まだと二人っきりで仕事していた時に、に何か知りたいことはあるかと聞いたら”内政としての普請のあり方を知りたい”というから、色々教えてあげたんだよ。誰が何を得意としているか、とかね。まあ、それはついでみたいなものだったんだけど…」 「…まさか、何かを見越してそれを聞いた、という分けではありませんよね?」 荀攸殿が問う。 郭嘉殿が言った。 「いや、違うよ。あれは単純な好奇心のようだったね。もし仮に荀攸殿の言葉通りだったとするならば先見の明、なんていう言葉だけでは済まされなくなってしまう。流石に私も、尋問したくなるかな」 「尋問とは…穏やかじゃないね…」 私は思わず呟いた。 郭嘉殿が肩をすくめる。 「冗談だよ、満寵殿。可愛いにそんなことはできない……でも、まさかとは思っていたけれど、それを本当に覚えているなんてね。もう一度聞いてくれるかと思っていたのに、そこは残念だよ」 そう言って、郭嘉殿が回廊を再び歩き出したので、私たちはそれに倣って回廊を進んだ。 相変わらずの郭嘉殿に、内心ため息をついた。 本当に隠しもしないな…今さらだけど。 執務室まであともう少しと言ったところで、その更に奥の隣室の扉の前で文官が一人待機しているのが見えた。 誰ともなく、その隣室まで足を延ばす。 そこは普段は空室で何に使っているわけでもない。 予備室みたいなものだ。 だが、そこを覗くと普段誰もいない、何もないそこにがさっき主公から渡された図面をはじめ、真っ新な竹簡や巻物、その他の資料を床に広げて両膝をつきただ黙々と作業をしていた。 の髪は出会い始めのころほどではないが、もうすっかり伸びている。 それを普段は一つに束ねているけど、今はがいつも携帯しているという竹の棒―墨刺しや竹ペンだとか言うものに使うのだと言っていた―を簪代わりに一本使って無造作に纏めてあった。 その状態を私は何度か見ている。 の邸工事をしていた頃、自身が実演した際に鬱陶しいと言いながら目の前で纏めていたから。 どうも、それは何か作業をする時の癖らしいと、その頃知った。 それはさておき、の周囲には他に、数本の筆と硯。 当のは左手に筆を持ち、紙に図を起こしながら右手で算盤をはじいている。 算盤の珠の数が慣れないと以前言っていたけど、既に慣れてしまったようだ。 凄まじい速さで珠をはじいている。 そのごく傍にもう一人、文官が持していて、すでに竹簡を一本手にしていた。 計算を終えてから、竹簡に何事か記し連ねていく。 そしてそれを巻き、その者に渡した。 「それは史武さんに、それと…」 言いつつ、再び新たな竹簡へ今度は右手に取った別の筆で再び記す。 不意に、左の筆を耳の付け根に挟んで、空いたその手で図面を指でたどる。 そうしながら、さらさらと竹簡に字を連ね、書き終えると巻いて文官にまた渡した。 「それを伍圭さんに。すべて、猶予は三日以内欲を言えば二日。出来うる限り早く返事が欲しいと伝えてください」 「はい」 その文官が一礼してから私たちの横を抜けていく。 は次に紙の巻物を広げるとその真っ白な何も書かれていない所に図を起こし始めた。 数字拾いのための図面であることはすぐに分かった。 定規を使わず引いているのに、驚くほど真っ直ぐで端正な線だ。 耳に挟んでいた筆を左手にとって、両方の筆を使い書き込んでいく。 なんて器用なことをするんだ、と思った。 いろんな場面でそう思うけど、これは流石に私もできない。 真剣な表情で図を引くに思わず見惚れてしまう。 再び左の筆を耳に挟んでから暫く、再び竹簡に何事か記しながら唐突に言った。 「そこのあなた」 「はい」 回廊で控え、私たちの傍にいた文官が中へ入る。 その文官がの傍らに立つと同時、が竹簡を巻き渡しながら言った。 「これを至急、樟巳さんへ。本日中に返事が欲しいと伝えてください」 「はい」 それを文官は受け取ると、また足早に回廊を去っていく。 その背を見送った後、視線を室内へ戻すと、が立ち上がる。 身なりを整えてから、こちらを振り向き歩み寄った。 いつの間にか筆は、全て筆置きの上にある。 「軍議、お疲れ様でした。まだ早いかもしれませんが、皆さん道中お気をつけて。この陽気ですから、熱中症にはくれぐれもご注意ください、水分補給はこまめに…書庫へ急ぐので、失礼します」 そう言ってはこれまた綺麗な所作で拱手すると回廊を颯爽と去って行った。 何事か、呟きながら。 もちろん、それは数量拾いに関係することだ、そんなことはこの場の皆が既に知っていること。 ふと、のさっきまで座っていたところに視線をやると、これもまたいつのまやら書き付けをそこに置いていた。 すなわち、書庫にいます、と。 待機の役目の文官がいないからだろう。 荀攸殿が言った。 「ねっちゅうしょう…とは、何を指すのでしょうか?どなたかご存知ですか?」 「私にも分かりません…聞き慣れませんね。満寵殿は如何ですか?」 「いや、もちろん、私も知らない」 自然、郭嘉殿に視線が行く。 しかし、当然の様に郭嘉殿も首を振った。 「私もだよ…陽気と水分補給に関係するものか…流石に医学の心得は無いから見当がつかないけれど、夏季の練兵中にたまに倒れる兵士がいる、あれのことかな?」 「ああ…なるほど、近いかもしれませんね…」 「まあ、落ち着いたらに聞いてみよう、それが一番早い」 荀攸殿が相槌を打つも、郭嘉殿のその言葉にその場の誰もが頷いた。 それから隣の執務室へと向かう。 さっきの主公とのやり取りを思い出しながら、ふと疑問に思った。 「さっき…主公は、慣れている者に任せるって言ってたけど…誰に任せるつもりだったんだろうか?」 「…真相を知りたい?」 口から洩れた疑問に、郭嘉殿が視線を向ける。 私は口元にあてた手を下ろしながらそちらに視線をやった。 「真相って…まさか…」 「うん、そのまさか。曹操殿は元々以外の者に、それを任せるつもりは無かったんだよ」 「もしが断っていたら、どうするつもりだったんだ…」 内心、呆れる気持ちで言った。 郭嘉殿が表情を崩さずに言う。 「さあ…それは分からないね」 「郭嘉殿…提案したのはあなたですね?」 「ご名答だ、荀ケ殿。これ以上ない適任者、あなたもそう思うだろう?」 「おっしゃるとおりですが…満寵殿がご指摘するように、もし殿が受けなかったらどうするおつもりだったのですか?」 「それはないね」 目を細め、即答する郭嘉殿に私たちは顔を見合わせた。 それから、私は郭嘉殿に問う。 「どういうことだい?それは」 「の仕事ぶりを今のところ、一番長く傍で見ているのは私だよ?そこを読み違えるっていうことは、まずない」 「随分な自信だね」 「そうかな?満寵殿だって同じように思うはずだけれど…実際、さっき話を聞いていた時、は受けるだろうと思っていた、違うかな?」 「……違わないよ。の性格を考えたら、ああはいいつつも断らないだろうと思った。もちろん、好奇心で受けたわけじゃないことだって分かってるさ」 「ふうん。そこまで分かっていながら、満寵殿は何を心配しているのかな?」 「心配なんかしていない。単純に疑問に思っただけだ」 そう答えると、笑みを張り付けたまま郭嘉殿はどこか意味深な目で私を見る。 それから三拍ほど置いて、一度目を目を伏せると言った。 「深読みしたくなってしまうんだ、どうしても」 「いいさ。それはこの場の全員が同じようなものだろう?」 「たしかにね」 そう言って、郭嘉殿は肩をすくめる。 荀ケ殿が言った。 「そろそろ、私たちも準備を進めましょう。今回は特に先を急ぎますから」 「荀ケ殿の言う通り。こんな所で油を売っている暇はない」 郭嘉殿がそう返す。 そして、私たちもまた慌ただしく洛陽へ向かう準備を始めた。 つづく⇒(次はヒロインが痛い目にあったり、大人的なネタが入ったりします。苦手な方はご注意。) ぼやき(反転してください) 一回で献帝護衛の袁術まで行こうとしたら 字数がとんでもないことになったので分けました 次がそれですが… また痛い目見たり大人的な際どい表現出てきますので 苦手な方はご注意を 2018.06.12 ![]() |
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