一九五年三月 清明 人間万事塞翁馬 41 「事後処理は片付いたか?郭嘉よ」 「はい。腕のいい部下がおりますから、全て滞りなく」 「まこと、見事よ。我が軍の兵を一人も失うことなく、頭を悩ませておったあの者らを治めるとはな」 「はい。私の思い通りのことを、はやってのけました。一方で、必要な時に無知を恥じず、他者に意見を請える。それもまた素晴らしい、あれ程の物を持っておきながら中々出来ぬことです」 手元の書簡から視線を上げ、郭嘉を見た。 背後の開け放たれた扉の向こうには満開の黄寿丹―レンギョウ―。 見事な黄のその花を見ると春の盛りも愈々下るか、と思う。 それでも矢張り良い。 この色も香りも、春の陽気とこの青い空には最高の取り合わせだ。 詩でも詠みながら杯を傾けたくなる。 「しかし、皮肉よな。これほどの結果でなくば、内だけで済んだものを」 「そう思うのならば、内に置けば良いだろう。毎度のことながら、お前の考えが俺には分からんぞ、孟徳」 傍らにいた元譲が唐突に言った。 思わず口角が上がる。 「に武芸の手解きをしているおぬしがそのようなことを申すか。そちらの腕も目を見張るものだと、楽進や李典から聞いておるぞ」 「それとこれとは話が別だ。確かに、あいつほどの腕があれば、そんじょそこらの者には膝をつけさせぬだろう。だが、わざわざそこへ立たせなくても良いのではないか」 「優しいのう、夏侯惇」 「からかうのは止めろ。お前のそれは俺には効かん」 腕を組み目を座らせる元譲に、わしはただ肩をすくめた。 二人きりの時以外は、字を呼ばぬようにしている。 いつからか、何となくそうするようになった。 「まあ、良いわ。どこに置くかは、本人に選ばせてみるのも良かろう。おぬしもそう思うだろう?悪来よ」 「へ?わ、わしですかい?いや、わしはよく分かりやせんが…の好きに出来るってんなら、それで良いんじゃないでしょうか」 悪来を見ると、そう言って後ろ頭を掻いた。 やはり、一人ぐらい何も考えず素直に意見を言えるものがいてもいい。 正面の郭嘉が言う。 「失礼ですが、曹操殿はが何をしたいと思っているのか、ご存知なのですか?」 「いや。おぬしに分からぬことは、わしにも分からぬ。ただ、何かしたいと思っていることには気づいておる。基本の気質は素直だからな…或いは初めからここに生まれておればそうはならなかったやもしれぬが、もしそうであったならば今の様に笑うことは無かろうな…確たる理由はないがそう思うのだ」 「それは、そうかもしれませんね…しかし、結局はそれも分かりません。ですからね」 「それも一理ある」 そんなことを話していた矢先、耳に届く音色。 この楽器がどんなものかは知っている。 古銭蒐集をしている者が極稀に扱っているのを見かけたことがある。 二胡と言ったか。 西域、異民族の品でこちらでこれを奏でられるものはそう居ない。 一度手に取って試したことがあるが、中々に難しかったのを覚えている。 それをこうも美しく奏でるものがおったとは。 しかも、この楽曲は今まで耳にしたどれとも似つかぬ。 ならば、誰がこれを奏でているか、考えずとも容易い。 「はやぱっり、すげーですな」 悪来が外を見ながら言った。 元譲が続けて言う。 「まさか楽まで嗜むとはな…恐れ入ったわ」 「まったく、夏侯惇殿のおっしゃる通り。いくらでも出てきますね。に出来ないことを探す方が難しいかもしれません」 「そうやもしれぬな。うむ、聞き慣れぬ曲だがこれはこれで良いものだ、心が和む」 暫く会話をやめ、耳を傾ける。 しかし、それは殊の外短い曲で、暫くもしない内に終わってしまった。 「終わっちまいやしたね」 「そのようであるな。中々に短いが良いものであった」 悪来に相槌を打つ。 それから程なくして、それが再び耳に届く。 そしてそれは、先ほどとはまた違う楽曲であった。 優雅、というに相応しいそんな曲だ。 再び耳を傾ける。 目を閉じるとその音だけがただ響いた。 思わず聞き入ってしまう。 ただ美しく、耳に残る余韻が心地よい。 もっと近くで聞きたい、と思った。 いつまでも聞いていたい。 今が乱世であることなど忘れてしまうぐらいに清く美しい音色だった。 ――そして、それは淡雪のように消えて行った。 名残惜しいと思いながら、ゆっくりと瞼を上げる。 外からの光は、これほどに眩しく感じるものであっただろうか。 そう思いながら、その場に立ち上がった。 「孟徳?」 「酒宴を開くぞ。時は明後日、酉の正刻より。皆に触れを出せ」 「主旨は如何なさいますか?」 「凱旋祝いだ。ついでに、この春を皆で楽しもうではないか」 「承知いたしました」 郭嘉は笑みを浮かべ、それだけ言って背を向けた。 それから再びその音色が響くことは無かったが、確かに自分の耳には残っていた。 が何か葛藤抱えているのは知っている。 自分もまた、に対し葛藤を抱えている。 誰に言うつもりも無い。 また、の葛藤と自分の葛藤は全く別のものだ。 自分が抱えるへの後ろめたさを表に出すわけにはいかぬ。 もしそれがに伝われば、に余計な世話を掛けさせる。 ならば、ごく自然に自分の感じるままただ接することが、にとっての最善だ。 余計なことはさせぬ。 ただ感じるままに楽しみ、自分のすべきことをただする。 もそれは同じであろうと思うからこそ、自分もまた同じようにそうしよう。 さすれば、も同じ様に返すはずだ。 わしの考えに気づいていようがいまいが、はそういう娘だ。 もう一度目を閉じた。 微かな黄寿丹の香りと、見もせぬの二胡を奏でる姿が脳裏に浮かんだ。 * * * 主公からの触れだ、と郭嘉殿からそれを聞いたのは二日前。 その日、は代休でいなかった。 荀ケ殿や荀攸殿たちと執務室で書机に向かっていた。 ふと耳に届くあまり聞き慣れない音色と知らぬ楽曲に、私たちは顔を見合わせ言った。 に出来ないこととは何だろう、と。 それからその音色がしなくなって、暫くのち、主公のもとへ行っていた郭嘉殿が戻ってきた。 明後日の酉の正刻から、主公主催で凱旋祝いの酒宴を行う、と。 凱旋祝い、とは言っていたが理由が別にあるってことはすぐに分かった。 もちろん、そのあと付け足された春を楽しむっていうのが、主じゃないってこともね。 主公も本当に好きだな、と思う。 宮城(しろ)の中にある宴の間に向かう。 今のところ、誰とも会っていないけど、もう皆いるのだろうか? 定刻に間に合わせるにしても少し早いかとは思うけど。 空は日が落ち始め、段々と赤く染まっていく。 薄紫に染まる雲が何ともいえず綺麗だ。 そんなことを思いながら回廊を歩いていると、後ろから字(な)を呼ばれた。 足を止め振り向くと、がほんの少しだけ歩を早めて私の前で止まる。 「やあ、。今日は兵舎に詰めてたんだったね」 「はい。李典さんと楽進さんとで反省会しながら今後の件で話を詰めてました」 「無事に終わりそう?」 「ええ、もう終わりましたから…明後日からはまたこちらに出ます。分野が全然違うので、色んな事が目から鱗です」 そう言って、は笑みを浮かべた。 が考えた策は、郭嘉殿から聞いている。 非の打ちどころがなかった。 我が軍の被害は最小限、死者はなし。 疑う余地がない。 回廊を歩きながら、並ぶように歩いてはいるが一歩後ろに引くに視線をやった。 髪が大分伸びたな、と思う。 平均に比べると、やや伸びるのが早いと感じる。 肩につくかつかないかぐらいの長さで、両耳の付け根の髪の一部を後ろの方で束ねていた。 下を向くと髪が流れて鬱陶しいからそうするのだと言っていたが、機能性を重視した割に可愛いと思ったので特に反論しなかった。 もちろん、可愛いとも言っていない。 なんとなくそれを言うと、やめる気がしたから。 に言う。 「髪、大分伸びたよね」 「そうですね、もともと伸びるのは早い方でしたけど…更に早くなった気がします。まあ、このぐらいの長さが一番鬱陶しいので、もうちょっと伸びるの早くなってもいいですけど」 そう言って、は毛先を少しつまんだ。 まったくらしいな、と私は思う。 それから少し雑談しながら回廊を歩くと、すぐに宴の間についた。 そこから見える庭園には黄寿丹が植えられている。 春にはよく見かける花。 夕空の下で見るのと、青空の下で見るのとでは印象が違う。 不意に女官に声を掛けられそちらに視線を向ける。 名を告げると席へと案内された。 客席の中では二番目の上座にが通される。 一番は恐らく郭嘉殿だろう。 私はと同じ通り―主公の席に向かって左手側―の末席。 他にはまだ誰も来ていないようだった。 腰を下ろしながら、そんなに早く来てしまっただろうか、と思っているとすぐに荀ケ殿と荀攸殿がやってきて私の向かって正面に荀ケ殿、その隣―向かって右、荀ケ殿の左―に荀攸殿が腰を下ろした。 そうなるとあとは早くて、続々と集まってくる。 これだけ集まると、席順がよく分かった。 一番の上座の通り、上から順に、郭嘉殿、楽進殿、夏侯惇殿、典韋殿、曹休殿、荀ケ殿、荀攸殿。 私の席のある通り、上から順に、、李典殿、夏侯淵殿、曹仁殿、于禁殿、私だ。 宮城で行う割に、参加者は我々だけか、と思う。 席順に意味があるのかは分からないが、楽進殿が李典殿より上座に居るのは功が上だからに他ならない。 李典殿がと何か話をしているが、何を話しているかまでは把握できない。 そこへ全員が揃った所を見計らったかのように、主公が現れた。 皆が私語を止め立ち上がる。 席に向かいこちらを振り向くと、それが合図のように皆その場で拱手した。 主公がそれを制し言う。 「すまぬな、下準備に手間取って遅くなった。本来ならばわしから出迎えるべきところ、無礼を許せ」 「いいえ、曹操殿。この席は凱旋祝い、とのこと。このような場を設けて頂き、礼の言葉もございません。その曹操殿を無礼などと、誰が思いましょうか…ねえ、?」 「はい。席を設けていただき、勿体ないことです。もしそこで無礼だと申すならば、それを申す者こそ無礼でしょう。この場には相応しくありません」 「二人がそう申すならば、わしも一安心よ。此度の主役はそなたらだからな。無論、楽進、李典、おぬしらもだぞ」 主公がそう言うと、郭嘉殿と、そして楽進殿と李典殿が同時に拱手した。 こういう対応をしているを見ると、まるで別人のように思える。 だが、そういうことも一種必要なことだ。 そんな中、女官たちが杯に酒を注ぎ各人それぞれに差し出す。 それを受取り、皆が主公に向き直った。 それは宴の始まりに他ならない。 主公が祝いの言葉を述べる。 言葉の終わりに、その杯が掲げられた。 皆同じようにして、一気に飲み干す。 そして、宴が始まった。 主公が呼び寄せたと言う妓女たちが歌曲と舞を披露する。 流石と言うべきか、見目麗しいとはこのことだろう。 興味がない訳ではない。 杯を傾けてから卓に置いた。 隣の于禁殿に視線を向ける。 こういう場にあっても、相変わらず堅い表情だ。 いや、悪くはないと思う。 「于禁殿はの活躍をもう聞きましたか?」 「ああ。兵達が騒ぐ故、嫌でも耳に入る。しかし皆の規範となる働きだ。見事という他ない」 「兵達が騒ぐって…噂にでも?」 「うむ。だが、噂が独り歩きする前に制した。暫くは静かであろう」 「さすが…于禁殿」 于禁殿が杯を傾ける。 兵の制し方が自分と全く違う、と思ったが、それも当然か。 まあ、于禁殿のような人が居るのは有り難いことだけどね。 そんなことを話していたら、妓女たちが引いていく。 引きがやけに早い、と思っていると、それは唐突に聞こえた。 「私がですか!?」 そちらに視線をやると、が主公と話をしているらしかった。 皆が自然、そちらに注目する。 しかし、はそれを気にしていない。 というか、主公と話すので精一杯のようだ。 思わずその会話に集中する。 「無論だ。二日前に弾いておったろう」 「え、それ聞こえてたんですか…?」 「当り前であろう。この場の皆が知っておることだぞ」 「うそっ」 言って、が辺りを見回した。 夏侯淵殿が親指を立てたのが見えた。 きっと、素晴らしいぐらいの笑顔だろう。 それから、それをやっと理解したらしく、は両手で顔を覆った。 「そんなに…!?恥ずかしい…聞かせるほどのものじゃないのに!」 「、そんなに恥ずかしがらなくても、君が思っている以上に素晴らしかったよ。そこは安心するといい」 「そういう問題じゃないんです、お分かりでしょう?」 「もちろん」 まあ、この一連の全てがらしいとは思ったよ。 普通、筒抜けだって気づく筈なんだけどね…。 主公が言う。 「そういう事だ、。今更弾けぬとは言わせぬぞ」 「わ、わかりました…向こうでも接待の一環で歌ぐらいは歌いますし、そういうことと諦めます」 接待…って…、どういう…。 あとで聞こう、と思った。 「うむ。そこに準備させた、期待しておるぞ」 「前に出るんですね…やだなあ、もう…人前で楽器なんて慣れないことしたくないわ」 「二胡を奏でていたのは、聞こえていたんだけれどね」 「もう、聞こえてたのはこの際どっちでもいいです…そうじゃなくて、がっつり見られて弾くのとそうじゃないのとじゃ、心構えが違うでしょう…」 渋々と言った感じで言いながらは、主公から見て右前、の席のごく正面あたりに準備された椅子に同じく準備された二胡を手にして腰掛けた。 楽器の名前は知っているものの、それを演奏する者を見たことがない。 かなり珍しい部類の楽器だと記憶している。 それをは腑に落ちないような表情を浮かべながらも、調律する。 音を出しながら何かを確かめているようだが、楽の心得は全くないため、よく分からない。 主公が、そんなに声をかける。 「楽曲はに任せる。そちらのものならば何でも構わぬが、詩のついているものが良い」 「…分かりました、何か考えます……春だからね、春…」 は常の通り、独り言を呟きながら音を出す。 唐突に、主公を見て言った。 「ところで、曹操さん。これ…すごく良いモノですね」 「分かるか?」 「分かります、全然音が違う。いい音です、私が弾くには勿体ないぐらい…」 「そうか、それは良い」 「…良くないです、せめてお酒が入る前にしたかった……けど、楽しむには最高です」 そう言って、は視線を室の外に真っ直ぐやった。 つられて外に視線をやると、日が落ちて薄暗がりになるそこを満月が照らしていた。 薄く雲がかかり、霞がかっている。 視線をに戻した。 が居ずまいを正す。 構え直してから言った。 「…では、一曲。朧月夜、編曲して演奏いたします」 一礼してから、ゆっくりと弓を引いた。 高く澄んだ音が響く。 皆が注目する中で、が息を吸おうとしているのを見て、前奏が終わると思った。 同時に、の声が耳に届いた。 「菜の花畠に入り日薄れ、見わたす山の端霞ふかし」 の澄んだ声は、普段のものとは全く違う。 いつか聞いた童歌を歌う声とも違う。 嫌らしい感じはしないけど、艶のある声だ。 けど、耳に心地良い。 そして、何より詩の情景が目に浮かぶ。 恐らく同じように何かを思い出しているだろうのそれと、同じなのかは分からないけど。 「春風そよふく、空を見れば、夕月かかりてにおい淡し」 ゆったりとした曲調がすごく良い。 誰一人、身じろぎひとつせずに聞き入っている。 「里わの火影も森の色も、田中の小路をたどる人も」 を見やると、いつか見た夢の話をしてくれた時と同じように、何かを懐かしむような顔をしていた。 この歌曲に、なのかは分からないけどきっと何か思い出があるのだろうと思った。 「蛙のなくねも、かねの音も、さながら霞める朧月夜」 が外に視線をやる。 目を細めて見つめたのはきっと、この詩と同じように霞んだ朧月だろう。 「さながら霞める朧月夜」 最後の節を二胡だけで再度奏でる。 ゆったりと、すっと消えて行くその余韻に誰もが浸った。 三拍ほど置いてから、が静かに言った。 「お耳汚しをしました、ありがとうございました」 頭を下げ礼をしてから顔を上げるに、まだしんとする空気のなか主公が言った。 「、そなた…なんとも艶のある声をしておるな。どこから出ておるのだそれは」 「艶のあるって…どこからと言われましても……言いたいことはそれだけですか…」 眉根を寄せるに、郭嘉殿が問う。 「ところで、。大体は想像できているんだけれど、念のため聞かせてくれないかな?ほかげとかわずが何なのか」 「あ…分からない単語がありましたか?すみません、うっかりしてました…」 「いや、構わないよ」 「えーっと、火影は、火の光、灯火、灯影のことです。蛙はカエルです」 「ありがとう。よくわかったよ」 そう言う郭嘉殿に、はただ笑って返した。 主公がを見る。 「。実に良かったが、一昨日耳にしたものと曲調が違うな。何故だ?」 「おとといのものは、別の国の曲です。いまのが私の国の曲。だからじゃないでしょうか」 「ふむ、なるほど。では、一昨日聞いたようなもので、他には何か弾けぬか?詩のついているものとか」 「んー、おとといのようなもので歌詞のついているものを私は弾けないんです。それに、もともとこの楽器のために作曲されたものではないので、歌詞なしのものでもいくつかは覚えてますが…ここで弾ける曲となると多分片手で数えるぐらいが限界です。出せない音がありますから」 主公が顎に手をやる。 首を傾げて言う。 「その楽器はここには無いか?」 「ありませんね。作るのも難しいです」 はっきりとがそう言うのだから、本当に作るのは難しんだろう。 そうでなければ、既にが作ってしまっていてもおかしくない。 そう思う。 「そうか、それは残念だ。はその楽器の方が得意か?」 「二胡に比べたら断然そうです。実際、二胡を持つのも十二の頃以来です。覚えている奇跡に自分が一番驚いています」 「そなた、それでよくその難しい楽器を操れたな」 「ですから、私が一番驚いているんです」 主公が難しいと言うぐらいだ、本当に難しいんだろう。 主公が言う。 「どうやって音を把握したのだ」 「もちろん、順に出してです。それで位置を確認しました。基本は理解できてますから…どの位置でどの音が出るかさえ分かれば、まあ後はなんとでもなります」 「これは恐れ入った…」 「そうですか?…お世辞言っても何も出ませんよ」 「。君、曹操殿を黙らせている自覚あるのかな?」 「え…す、すみません…」 郭嘉殿のため息が聞こえる気がした。 は自分が非凡であることを、そろそろちゃんと認識した方が良い気はするな…。 主公がに視線を上げる。 「気にするな、。わしは素直に感服したのだ」 「恐れ多いです………ありがとうございます」 「うむ。ところで、そのここにはない楽器と言うのは、何と申すのだ?」 「はい、ピアノといいます」 「ぴあの?」 「ええ、ピアノです。私の国の楽器ではありません」 「それがどんな形状をしているのか教えてくれぬか、次の機会で良い」 「はい、もちろんです」 そう言って笑みを浮かべるに、主公は黙ってうなずいた。 それから言う。 「、あと二曲ほど弾いてはくれぬか」 「この際ですから、構いません。リクエスト…希望はありますか?」 「そうよな…一曲は一昨日聞いた、二曲目が良いな」 「…ノクターンですね、夜想曲…もう一曲はどうされますか?」 「そなたの好きな曲か弾きたい曲で構わぬ。どちらから弾くかも任せよう」 「承知しました、ありがとうございます」 は笑みを浮かべて主公を見た。 主公と話をする。 それが何と言うか、自然に見える。 まるで、元々知己であったかのようだ。 が言う。 「では…少し曲調を変えて、この曲からにしてみましょう。好きな曲で今ピアノで弾きたい曲の内の一つですが、二胡で上手くできるか…まあ、やってみます」 「構わぬ、好きにせよ」 「はい。お言葉に甘えて」 そう言って、はもう一度音を確認した。 何度かと二人で飲んだ時に思ったけど、やっぱりお酒が入ると多少話しやすくなる。 それほど分かり易い変化でもないけど。 それでも、やっぱり少しだけ変わる。 人懐こくなる、というのかな。 そんなことを思っていると、音合わせの終わったらしいが言った。 「では…モーツァルト作曲。ピアノソナタ第11番イ長調、第3楽章トルコ行進曲。編曲して演奏いたします」 聞き慣れない言葉だ。 何もかもが。 そして弾き始めたその曲は、それこそ聞き慣れないものだった。 なんというか、すごく陽気だ。 こういう曲を好きだと言ったが、少し意外だと思った。 だけど、嫌いじゃない。 気が滅入っているときには良いかもしれない。 耳触りということも無い。 こんな曲もあるのか、とそれこそ目から鱗だった。 それから演奏しているを見る。 足で歩調を取っているのが分かる。 本当に楽しそうに演奏をしている。 それから、指の動きが凡人離れしている。 今までよりも、調子が速いその節は、流石にの顔が難しそうなそれに変わる。 だけど、それも楽しんでいるように見えた。 同じ様な節が連続していることは分かったが、演奏する前に編曲すると言った言葉通り、少しずつ弾き方を変えて魅せてくれる。 まったく飽きない。 これが楽しませ方を知っている、と言うのだろうか。 そして、段々とゆるやかになって、それは終わった。 がゆっくり息を吐き出す。 「大変、お耳汚しを致しました」 「中々に面白い曲だな」 「はい。ですけど、やっぱりこれはピアノとは比べられないですね」 言いながら、は再び音を合わせる。 それから言った。 「では最後に、リクエストいただいた曲。ショパン作曲、ノクターン第2番変ホ長調作品9-2。演奏いたします」 そうして二胡を構えると、は静かに演奏を始めた。 まったく違う曲調。 二日前に耳にしたそれ。 繊細で、か細く優雅な音。 けど、芯のある強い音。 主公が目を閉じて聞き入っている。 私もまた、一度目を閉じた。 その音色だけが自分の中を流れているように錯覚する。 ふとに視線やると、また何かを懐かしむような表情。 柔らかく微笑んで、それは誰かに向けて演奏しているように見えた。 一体、誰を思い出したんだろうか。 外へと視線を移す。 満月に照らされて浮かぶ黄寿丹の花。 こういう夜にぴったりの曲だ、と思った。 名残惜しくも消えて行く音。 静寂に包まれた後、その空気を壊すことなくが二胡を置き静かに立ち上がって言った。 「お聞き下さり、ありがとうございました」 拱手する。 それから主公を振り向き拱手し言った。 「ありがとうございました、感謝いたします」 「わしからも礼を言うぞ。実に素晴らしいものであった」 「勿体ないお言葉です」 「その二胡はわしが持っておく。また弾いてくれるか?」 「考えておきます」 「よかろう。下がってよいぞ」 「はい」 が席に戻ると、主公の一声で宴が再開された。 主公が順に席を回っている。 が李典殿と言葉を交わしているのが見えた。 夏侯惇殿や典韋殿がの席へ向かう。 皆、それぞれ移動して席が疎らになった。 隣で淡々と杯を傾けている于禁殿に声をかける。 「于禁殿は、のもとへは行かないんですか?」 「強いて行く必要もあるまい」 「…まあ、確かに」 それもそうだと思いながら、杯に手を伸ばした。 それから一つ、疑問に思ったので改めて于禁殿に問う。 「ところで、于禁殿はとどんなことを話しますか?よく一緒に飲むとから聞いたのですが」 于禁殿はただ、一瞥してから何かを思い出すようにして、それから言った。 「改めて聞かれると、中々出てこぬが…市場で珍しいものを見つけただとか、私の邸の侍女と山菜を摘みに行ったというようなことが最近は多いか…」 「于禁殿からは話題を振らないんですか?」 「…私にそのようなことが出来るとお考えか?」 「ははは…いえ、悪気はありませんよ」 笑うしかなかった。 相変わらず于禁殿は眉間に皺を寄せたままだ。 常のことだが、怒らせたのかも、不快にさせたのかも、何もわからない。 付け足して言うならば、は分かるらしい。 明言はしていなかったが、そのようだ。 「そういえば、もう何月か前のことだが…満寵殿に縁側での昼寝を禁止されたと、嘆いていたことがあったな」 于禁殿が呟くように言ってから、私を見た。 確かに言った。 言うつもりだったその時に色々あって言えなかったので、後日に飲みに誘われたときに改めて言ったんだ。 「ええ、確かに禁止しました。余りに無防備が過ぎたので…発見した時は肝が冷えましたよ…」 「うむ、当然だ」 「分かってくれますか?…まあ、本人に全く自覚がないのが問題ですけど」 「そうであるな…夏侯惇殿について武芸を磨いているとは言え、限度がある」 「于禁殿は稽古中のを見たことがおありで?」 「早朝、修練場でたまに見かける」 「なるほど」 多分、夏侯惇殿に指導してもらっている姿と自主稽古の両方かなと思った。 朝、出仕するとの髪が少し湿っていて、同時に普段と違う香りがする時がある。 大体は一日置きだ。 その日、恐らく朝稽古をしているんだと思う。 元々は、十日に一回だったそれだから。 「中々の腕だが、どんな者でも寝ているところを襲われれば、ひとたまりも無いであろう」 「全くです…まあ、そこは分かってはいるようですけど」 「満寵殿の言いたいことは分かった。難しい問題ではあるが…次第と言うべきか」 「おっしゃるとおりで」 私たちはどちらともなく杯に口を付けた。 それから暫くして、于禁殿が風に当たると言って出て行く。 私は手持無沙汰を感じながら、荀ケ殿と荀攸殿のいる向かいの席へ移動した。 の席の周りには人だかりが出来ていた。 * * * 宴の間を離れて回廊を少し歩き、喧騒が離れた所で欄干によりかかった。 薄く雲のかかった夜空に満月が浮かぶ。 が歌った詩のように、霞がかる月。 風に当たると言って離れたが、杯は持ってくれば良かったとどこかで思った。 ただ暫くそうして、何をするでもなく月を見上げる。 幾何か時が流れた。 「こんなところにいらしたんですね」 唐突に声がしてそちらに視線を向けると、が立っていた。 杯を両手にしている。 片方を私に差し出した。 虚を突かれた形の私は、ただ黙ってそれに視線を注いだ。 が笑みを浮かべる。 「不要でしたか?」 「いや…欲しいとは思っていた、礼を言う」 「いいえ」 さらに笑みを深くするに、思わず口角が緩みそうになるのを堪えた。 眉間に力が籠もる。 だが、はそれを気にした風も無く、私の横に並んだ。 そして、月を見上げ、杯を傾ける。 その横顔を見て改めて思う、整った顔立ちだと。 しかし、即座に内心頭を横に振った。 慎むべきことだ。 私は気を取り直してに問う。 「良いのか?主役ともいうべきがこの様な所に居ては、皆が探すのではないか?」 は私を見上げて言った。 「大丈夫です。いま、腕相撲大会したり酒飲み大会したりしていて、結構ぐっちゃぐちゃですから。それに、皆さん大分酔いが回ってらっしゃるので、暫くは気づかないと思います。こっそり抜けてきましたし」 「そうか」 目を細めるに私はそれだけ返して、視線を月にやった。 どこかで嬉しいと思う自分に、再度慎めと言い聞かせた。 大分、自分も酔いが回っていると思う。 「は酔ってはおらぬようだな」 「いえいえ、酔ってますよ。妓女さん達が舞い始めてちょっと経った頃ぐらいから普通に酔ってます。だから、ハメを外しすぎないようにするのが結構大変です」 そう言って、は私を見上げてまた笑みを浮かべた。 そんなことを言える余裕があるうちは、酔っているなどとは言えぬ。 確かにいつもより表情は柔らかい上、口数も多い。 主公からの要望に対しても、意外にあっさり受けている。 それを考えれば酔っていると言うのかもしれぬが、そういう問題ではない。 共に杯を交わすたび思うが、強い。 一般的に言う、酔っている状態のをただの一度も見たことがない。 は酔うことがあるのだろうか? 今のところの最大の疑問はそれかもしれぬ。 杯を重ねる数が一定を超えると、自分が先に記憶を飛ばさぬか時に不安に思うことがある。 「そう言う割には、楽曲の音に狂いはなかった。安定した澄んだ音だった」 「本当に恥ずかしいです…緊張してたの、顔に出てませんでしたか?」 「…いや、まったく。緊張していたのか?」 「はい、物凄く。もちろん、私なりに楽しませては貰いましたけど…最初の一曲は心臓壊れるんじゃないかと思いました…顔に出ていなかったのなら一安心です」 そう言って、は胸に手を当てた。 本当に、緊張していたなどと全く気づかなかった。 だが、わざわざ私に自分から話すぐらいだ、嘘ではないのだろう。 「そうか…接待で歌う時も同じか?」 接待、が何を指すかは既に聞いている。 もう大分前に酌の仕方を質問され、その時に知った。 ただ、その接待とやらに歌うことがあるなどということは初耳だった。 こちらで似たものと言えば、即興で行う剣舞と言ったところだろうか。 が一度視線をこちらに寄こしてから言う。 「…はい。歌い出すまでが恥ずかしいです…動悸がして心臓が止まるんじゃないかと思う時があります……歌い出してしまえばなんとも思いませんが」 「先の楽曲を奏でた時も同じか?」 「そうですね…歌う時以上に緊張しました…楽器の演奏なんて思い起こせば母や祖父や一部の人の前以外ではまともにしたことありませんでしたから…教室の発表会の時は必ず体調崩して演奏どころじゃなかったですし」 「教室の発表会?」 私は思わず聞き返した。 未だに、の住んでいたところの習慣は未知の部分が多い。 大分話を聞いていると思うが、それでもやはりまだ聞き足りない。 「はい、楽器演奏を教わる教室…学校の縮小版みたいなところで、年に一回、生徒の身内や不特定多数を集めてその人たちにお披露目会をするんです。これだけ弾けるようになりましたよ、って。それをまあ、俗に発表会って言ってます」 「なるほど…そこで体調を崩す、というのは?」 そう問えば、は軽く握った拳を口元にあてて視線を逸らした。 耳が赤い。 「わ…笑わないで下さいね……緊張しすぎて、気持ち悪くなったりお腹痛くなったりして、立っていられなくなっちゃうんです……そんな状態だから、もう発表会で演奏するどころじゃなくなって、いつも寝込んでました」 「…が?」 「そうです…元々すごい緊張症で、だからなるべく気にしないようにはしているんです……小さいころに比べたら、もう随分気にしなくなりましたけど……けど流石にさっきのは、特に初めの一曲の時はどうしようかと思いました」 あまりの驚きに、言葉が出なかった。 先ほどそのような状態になっていたこともだが、幼少期のそれというのは特に驚き以外の何物でもない。 想像が出来ぬ。 それが事実として、何が契機でが今のような肝の据わり方をするようになったのか。 まったく、わからぬ。 そのとき、がはっとして片手で顔を覆った。 「い、今の話…忘れて下さい…ちょっと、飲み過ぎたかも…さっきのことも、小さいころのことも、もう、そんなこと何だっていいです…」 そう言って、は更に耳を赤くすると、小さくなった。 それを見て、何か衝動に駆られる。 自分を戒めねばならぬと、誤魔化すように杯に口を付けた。 はまだ顔を片手で覆っている。 それから、杯を傾けた。 それでも、どうしてもそれだけは抑えられなかった。 「」 「はい?」 「先の話を聞いた上でこのようなことを請うのも可笑しな話であるが…もう一度聞かせてはくれぬか?」 「朧月夜、ですか?」 僅かに目を見開いてはそう問い返した。 私はただ、頷いて返す。 断わられてもいいと思っている。 は一度目を逸らしてから、何かを考えるように視線を泳がせた。 やはり、困らせたか、と半ば後悔した。 しかし、は一度目を伏せると息を吐き出してから私を見上げる。 ただ柔らかく、笑みを浮かべていた。 「いいですよ。文則さんに何かをお願いされるのって、こちらに来てからだと初めてですね」 「そうであったか…?」 「はい。この際ですから、お酒の力を借りてもう一回だけ歌います」 稀に、の方が年が上ではないかと思う時がある。 それはきっと、自分よりずっと年が上の者たちをまとめながら務めを果たしていたからだろうと思っている。 それは自分も同じだが、そうは言ってもは女人だ。 自分のそれとは違う。 が月を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。 息を吐き出してから、再び吸う。 そして、瞼を上げた。 「菜の花畠に、入り日薄れ、見わたす山の端、霞ふかし」 二胡を奏でていた時よりも、幾分ゆったりと歌う。 何かを確かめるように、噛みしめるようにが歌う。 「春風そよふく、空を見れば、夕月かかりて、におい淡し」 まるでその詩を待っていたかの如く、湿り気を帯びた風が僅かにそよいだ。 黄寿丹の花の香りが漂う。 の声だけが霞んだ満月の下で響いた。 「里わの火影も、森の色も、田中の小路を、たどる人も」 月を見上げつつ、時に目を伏せるはどこか懐かしそうな顔をする。 その心情が乗るせいか、聞いている私もどこか懐かしいと感じる。 耳触りの良い声。 常に聞くの声とはやはり違う。 また、いつか聞いた童歌を歌っていた時の声とも違う。 「蛙のなくねも、かねの音も、さながら霞める、朧月夜」 声が余韻を残して消える。 が静かに俯いた。 ふと、その童歌を歌っていた時のを思い出しながら、私は言った。 「礼を言う」 「いいえ……文則さん。私、思い出したんですけど」 そう言うに私は短く相槌を打った。 が続ける。 「前に歌った、どんぐりの歌…あれの三番」 私もまた思い出していたそれを、が言った。 しかし、記憶にあったものと違う情報に、私は聞き返す。 「二番までしかなかったのではないのか?」 「ええ、二番までしかないんです。けど、それは作詞した方が子供たちに自分で作って欲しいからと、真相は分かりませんが、あえて作らなかったと言われています」 言って、は杯の縁を指でなぞった。 「…そうか」 「はい。それで割と有名な、どなたかが作った三番では、仲の良い子リスが一人になったどんぐりを迎えに来て山まで連れて帰るんです。他にも、優しいハトが山へ連れて行くっていうのも、確かありました」 なぜ、急にそんなことを話すのか。 杯に視線を落すに私は言った。 「やはり、戻りたいと思うか?」 「いえ、そういうんじゃないんです」 は弾かれた様に視線を上げて私を見た。 それから優しく微笑んで言った。 「そういうんじゃなくて…作れるんです、その先を、自分で」 「………」 「いま、歌って気づきました。懐かしいと思える思い出があることが、どれだけ幸せなことかって。だから、私はここで懐かしいと思えるものを作ろうと思います」 「…」 笑みを浮かべているが、それでも少し、どこか悲しそうに見えた。 が静かに、首を横に振る。 「いえ…作らなくても、もうあるんです、きっと。懐かしいと思える思い出が。だから、私はどちらにいても、もう幸せなんだと思います」 私はただ、を見下ろした。 何かあるのだろうが、はそれ以上を言わない。 杯に口をつけてからが唐突に言った。 「やっぱり酔ってますね、私。変なこと言ってごめんなさい。何がしたかったんだろう…そろそろ戻りますね」 困惑したような表情に笑みを浮かべ、はお先にと言って踵を返した。 回廊を行く、そのすっと張る背を見送る。 相変わらず足運びが綺麗だと感じるが、今はただ気を張っているようにしか見えなかった。 私はもう一度、月を見上げた。 * * * ――叫びながら身体を起こした。 顔を両手で覆う。 呼吸が早い。 暫くそうして、私は身体を強張らせた。 戦場で、命を落としていった人の顔がいくつも浮かぶ。 目頭が熱くなるのを感じて、ぐっと堪えた。 ただ、息だけをした。 ふと気づく。 外は土砂降りの雨だ。 風も強い。 真っ暗だ。 けど、居間の囲炉裏の中で油燈をたいているから、その方向だけほんのり照らされている。 間仕切りは殆ど衝立だけ、おかげで離れた部屋のその明かりもほんの少しだけ届く。 といっても、本当に僅かなものだ。 「私…っ…」 思わず、謝罪の言葉を出しそうになる。 下唇を噛んだ。 「謝らないわ…一度に大勢の命を奪う、その覚悟はしてたもの。謝罪はしない…赦しも請わない」 寝台から下りる。 悪寒が止まらない。 隣室の書斎に向かう。 腰を下ろして、そこから居間の囲炉裏の油燈を見つめた。 ガタガタと、風が雨戸を揺らしている。 数刻前までの酒宴が、まるでずっと昔のことの様に思える。 夢だったのではないかと思う。 震えの止まらない腕を掴んだ。 「ちょっと、飲み過ぎたかな…私…」 ふと、壁に掛けた二胡が目に入る。 逃げるつもりは無いけど、何かしてないと自分が壊れる。 私は立ち上がってそれを手にした。 書斎から、再び囲炉裏の油燈がまっすぐ見える場所に椅子を置いて座る。 「外は嵐だもの…誰にも聞こえない筈よね…」 それから、私は二胡を弾いた。 管弦樂組曲第3番二長調第2曲、通称G線上のアリア。 なんとなくそれを聞いていたかった。 母親が好きな曲の一つ。 そういえば、高校の頃一回だけ近所の同級生の男子に頼まれて私のピアノとそいつのコントラバスとで合わせたことがあった。 でも今はそれもどうだっていい。 ――ある時、たまたま市場で古銭マニアに声を掛けられた。 もし何か古銭を持っていれば珍しい品と交換してやるっていうので、半信半疑で話を聞いてそれを見せてもらったら、そこに二胡があった。 二胡ってこの時代にあったっけ、なんてことを思いながら、でも楽器は弾きたいしこれ以外でここにある楽器は弾けないしと思ったのでそれと交換したいと話をしたら、こういうのを8枚持ってきたらいいよと言って古銭を見せた。 それから色々さがして何とか8枚集めて交換してもらったんだ。 思い返せば、本当に良かった。 二胡を手に入れられて。 今のこの状態で本なんて読んだら、さらに気が滅入る。 そう思う。 弾き始めて最初の内はそんなことを思いながら弾いた。 ただ気が済むまでずっと弾き続けた。 外は真っ暗で、今がどのぐらいの時刻か分からない。 そのうち何も考えなくなった。 何も考えず、ただ無心に弾き続けた。 いつのまにか、外の嵐は止んでいて僅かに光がさしていることに気づく。 腕も指も感覚がない。 けど、じわじわと指先が痛い。 当然か、と思いながら二胡を椅子に置き、障子戸を開け雨戸を開ける。 まだ、日は昇っていない。 だけど、空は白んでいた。 左手の指に視線を落すと、皮が剥けて赤くなっていた。 「後悔はない…やれることをする、したいことをする……結果が何であれ、逃げないわ。後悔したくないから」 空を見上げた。 まだごく薄い青空。 目を閉じた。 泣いてる暇なんて、私には無い。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 割と、な出だしのくせになんとなく締めることなくシリアスで終わる いつものことです 意味も無く、火影と蛙(かわず)は通じないことにしましたが、深く考えないで下さい ヒロインに二胡させてみたかっただけです 満寵はとりあえず楽器弾けない設定にしたけど、当時のこと考えると箏ぐらいはやるよねきっと まあ、いいや…無双だし← 2018.06.06 ![]() |
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