一九五年 正月






     人間万事塞翁馬 39















年が明けて立春を過ぎた。
もうとっくにだけど、やっと爪は生えそろって奇跡的に見た目も綺麗だ。
もとの頃と何も変わらない。
まるで何もなかったみたいに戻ってくれたから、視界に入っても全然気にならない。
…夢見の悪い日は仕方ないけど、まずは一安心ね。

そんななか生活には慣れたけど、まだ行事ごとを楽しむ余裕は何だかんだないな、と思う寒さの残る休日の朝。
書斎で李典さんから借りた司馬法を紙に写す。

昨年の十二月の半ば頃、市場で遭遇した李典さんと話をした時、書を買い漁って写しているという話をしたら持ってるもので良ければ貸してくれると言うので、ありがたくその申し出を受けた。
結局、市場で買ってきても写し終わった後の処分に困るし。
何より、李典さん…結構な蔵書家だった。
意外過ぎる、と思ったのはまあ、内緒だよ。

でも、おかげで私の本棚も充実してきたわ。
所謂武経七書の内の六つはこれで終わるし…次は五経かな。
春秋の左氏伝だけは終わってるから、他二伝と合わせてその辺。
礼記も早々に片づけたいところよね。
とりあえず、全巻借りてる状況だし…まだいいよって言ったんだけど…。

因みに、紙に写したものは冊子にしないで、台紙つけてただ巻いてあるだけ。
製本が面倒だから。
読めれば何でもいいわ。

そんなことを思いながら、首を回した。
いい加減、がっちがち過ぎてたまんないわ。
火鉢の炭が爆ぜる音がする。
玄関ホール隔てた向こう側の居間の囲炉裏にも火を入れてあるので、外に比べればかなり中は温かいけど、文明の利器には敵わない。

…私、夏生きていけるかな。
冬はさ、着込めば何とかなるじゃない。
今だって部屋着用の着物の上に作った羽織着込んで、足元は寒いから靴履いてそれで凌いでる―座ってる時は流石に脱いでるけどね―。
だけど夏はさ、全部脱ぐわけにはいかないでしょ。
やだな…夏、すっごい暑かったら…。

――そういえば、郭嘉さんから貰ったあの手紙…。
早々に返事出そうと思いながら中開けてみたら、普通じゃなかった。
ただの恋文じゃなくて、詩だった。
漢詩。

詩で返さないといけない気がする…。
私、漢詩なんて読めても流石に作れないよ。
どうやって返そう、あれ。

と思いながらもう数か月経過してる。
それに、詩の解釈があっているのかも謎。
もうちょっと読んでから考えようかな…。

そんなことを考えていた矢先、縁側から声がした。
聞き覚えがある声。
私はその場に立ち上がって縁側に面した障子を開けた。
そこには思った通り。
自分と同じ今日は休日の声の主と、もう一人。



「荀ケさんと荀攸さん。おはようございます」

「おはようございます、殿。すみません、突然押しかけて」



荀ケさんがそう言った。
私は首を振る。
視線が高いのが気になって、私はその場に膝をつきながら言った。



「いいえ、お構いなく。何か、ご用事でも?」



視線を二人に上げ問うと、荀攸さんが言う。



「用事と言うほどのもではありません。近くを通ったので、顔を見に来た。それだけです」

「そうだったんですね。お気遣い、ありがとうございます」



私は言いながら、癖でその場に両手の指を軽く床に付けて会釈―草のお辞儀―した。

たまにこうやって、誰かしらが顔を見に来る。
何だか、気を遣って様子を見に来てくれてるらしいことは知っているので、そういつも返すことにしてる。
実際、感謝はしてるし。

…まあ、一人だからさ何があるか分からないこのご時世で、孤独死…とかありえそうじゃない?
孤独死するのは構わないけど、何週間も放置されるのは流石に嫌かな…。
まあ、死んだあとのことなんてどうだっていいんだけど。

視線を上げて二人に言った。



「寒いところで立ち話もなんですから、上がって下さい。大したもてなしもできませんけど」



二人は一度お互いを見たあと、一拍おいてから荀ケさんが言う。



「では、お言葉に甘えて失礼します」

「どうぞ」



私は二人を促してから、その場に立ち上がった。

最初の頃は、流石と言うべきかこの二人、律儀に玄関からあがろうとするので縁側も玄関みたいなもんです、って言っておいた。
というか、この家勝手口作れなかったから、縁側―居間の方だけど―が勝手口代わりになってるんだよね。
玄関もいちいいちデカい扉だから開けるの面倒だし。
小さく作り直せなくもないけど。

――それはさておき。

文机の上のものを部屋の端の邪魔にならない所へ移動させてそこをあける。
それから座布団代わりの円座を並べて二人を促した。



「お茶をお持ちしますから、腰下ろしててください」



言いながら私はお勝手へ向かった。

盆を用意して茶器へ茶葉を入れ、手が空いたときに作った杉の豆皿に茶請けをそれぞれ出す。
楊枝と楊枝入れも添えて。
因みに今日の茶請けは甘納豆。

見たことあるような無いような豆―多分小豆?―を市場で手に入れたので、前回の休日前後三日で作ってみた。
グラニュー糖も砂糖も無いので氷砂糖―氷糖というらしい―で煮たわ。
だから、グラニュー糖まぶしてない甘納豆。
まあ、どっちにしても氷砂糖が存在してて良かったわ。
他にも以前触れたとおり、謎の甘味料があったけどあれはまた別の機会に使ってみよう。
味はまあまあ、甘納豆にしてみれば美味しくできたわよ。
あとは多分、豆自体の問題だと思う。
品種改良されたものと比較しちゃいけないと思うの。

にしたって冷蔵庫とか冷凍庫あればね…もっと別の茶請けも作って保存しとくんだけどね、無いからね…。
まあ、すっごいここ雪降るから今回は出来なかったけど、次のシーズンきたら雪室の準備しててもいいかも。

どっちにしてもそれはまたの話。
とりあえず、お湯は居間の囲炉裏に天井から下ろしている釜にあるのでそこから汲もう。
水足すのも忘れずに。
加湿器変わりだからね。

そんなことを一通りして、私は書斎に戻った。
文机を前に手持ち無沙汰な二人の正面を少し外したところで膝をつく。
机にそれぞれ茶と茶請けを置いた。



「先に聞くべきだったかもしれませんが…甘いものって、お二人は大丈夫ですか?」



うっかりしてたなー、と思いながら私は二人を見て聞いた。

確か、いつだったかの休憩中に女官さんがお茶と甘味系のお茶請け持ってきてくれた時、普通に口にしてたから大丈夫だと思うけど。
荀ケさんが言った。



「私も公達殿も大丈夫です」

「はい、嫌いではありません」

「そうですか、それなら安心しました。お口に合うか分かりませんけど、召し上がってください」



二人に促してから、私は自分の茶杯に手を伸ばした。

この茶葉は多分、無発酵茶。
所謂緑茶。
品種改良ものと比べるとあれだけど、これはこれで美味しいわ。

茶杯を下ろす。
甘納豆を口にした荀ケさんが唐突に言った。



「豆をこの様にして食べるのは初めてですが…美味しいですね」

「そうですね。甘さもくどくありません…ですが、この様な食べ物を扱っている店を知りません…まさかとは思いますが…」



言って、二人が私を見る。
私は内心胸をなでおろしつつ、気づいてしまった二人に言った。



「はい…お察しの通りそれ、私が作ったものです…とりあえず、お口に合ったのなら一安心しました」

「道理で…いえ、他意は有りません」



荀ケさんが言った。
また一粒、それぞれ口に運ぶ二人を見ながら、私は言う。



「それ…甘納豆というんですけど、どうしても食べたくなって作ったんです」

「甘納豆…」



荀攸さんがそう言って、手元の甘納豆に視線を落とした。
私は、自分の豆皿の甘納豆を一粒口に運んでからお茶を飲む。
それから、荀攸さんを見た。



「はい、そうです」

「これは、どうやって作るのか聞いてもいいでしょうか?」

「ええ、構いません。基本は簡単なんです」


荀ケさんがそう問うので、私は甘納豆を一粒楊枝に刺して少しだけ持ち上げた。
二人がそれを見る。



「豆を炊いて、そのあと氷糖と一緒に煮詰めて、乾燥させるだけ。鍋の横についてないといけないのでそれが多少手間ですけど、それっぽいものでしたら一日あれば作れます。とはいっても、本気で美味しいものを作ろうとするなら単純な分、結構大変ですけどね」



言ってから、私はそれを口にした。
荀攸さんが言う。



「では、これも一日で?」

「ああ、いえ…これは三日かけました。じっくり煮詰めた方がやっぱり美味しいので」

「三日…」

殿は…料理するのがお好きですか?」



荀攸さんが甘納豆を見つめて呟くように言うと、かわって荀ケさんがそう質問した。
私は荀ケさんを見てから、少し視線を中空にやって考える。



「んー、そうですね…嫌いじゃないですけど。何も考えず作業に集中できるので、そのあたりが好きです。ただ…」

「ただ?」

「一番は、自分が食べたいから作ってるので、それが無かったらきっと作らないでしょうね。買って済むなら、それでとりあえずはいいです」

「ということは、向こうではこういうものは作っていなかったのでしょうか?」

「いえ。向こうでも休みの日にはこういうものとか、季節物のお菓子なんかを作ったりはしてました」

「それは、買えないからでしょうか?」



荀ケさんが不思議そうに言う。
普段食事を作ったりしていたことは、以前屋敷のお披露目の時に触り程度で話をしている。
だけど、こういうお菓子系統を作っていた話は触れるキッカケも無かったので一切していなかった。
私は荀ケさんの疑問が何となく分かってそれに答えて言った。



「そういう訳では無いんです…売ってはいます。ただ市販品が自分の口に合わなくて…やたら甘かったり何か足りなかったり。それで結局自分で作った方が口に合うなっていうものは、自分で作ってたという感じです」

「なるほど。そういうことですか……質問に答えて下さり、ありがとうございます」

「荀ケさん。それ、お礼言われるほどのことじゃないです」


そう返して、私はふっと笑った。
それもそうですね、と荀ケさんも笑みを浮かべる。
そこへ、二拍ほどおいてから荀攸さんがところで、と切り出した。
私がそちらへ視線を向けると、その先を続ける。



殿は何かなさっていたのではないのですか?邪魔をしたのでは?」



そう言って、さっき部屋の隅に置いたそれに荀攸さんが視線を投げた。
私はそれを見ながら、荀攸さんに言う。



「ああ…書を写してたんです」



視線を戻した荀攸さんの目は、なぜそんなことをするのか、と暗に言っていた。
荀ケさんも同じような顔をしていたので、私は言葉を続ける。



「竹簡だとどうしても嵩張るので、本棚に収まらなくて…それで、市場で買ったものを写してたんですけど、たまたま李典さんから蔵書をお借りすることができたので、丁度それを写してたんです」

「なるほど…何を写しているのかお聞きしても?」

「はい…司馬法です」



二人の表情は変わらなかったけど、一瞬だけ沈黙した。
それから、荀攸さんが言う。



「他にも何か写されたのですか?」

「ええ。書庫に何冊かあります」

「その、書を写すというのは…まだ他にも写したいものがあるのでしょうか?」



荀ケさんが問うた。
私は、荀ケさんを見て頷く。



「はい。とりあえず、急ぎで写したいのは礼記です。他にも沢山ありますけど」

「いま写してらっしゃるという司馬法は、どこまで終わっていますか?」

「そこの一巻で終わりです」




そう答えると、二人は一度顔を見合わせた。
それから、荀ケさんが言う。



「もし、殿さえ良ければ、私たちも写すのをお手伝い致しますが、いかがですか?」

「え?」



私は思わず呟いた。
荀攸さんが続けて言う。



「お一人では流石に大変でしょう?手分けして作業すれば効率も良いと考えますが」

「たしかに、その通りですけど…」



私は二人の顔を交互に見た。



「でも、逆にお二人にご迷惑じゃないですか?折角の休日に…」

「お気づかいなら無用です。美味しいものもいただきましたし」

「いや、これはそういうんじゃ…」



荀ケさんにそう返すと、荀攸さんが代わっていう。



「ならば、こういうのはどうですか?今日一日、俺と文若殿で手伝う代わりに、これとは別のものを今度作ってください」

「……そういうことでしたら…寧ろ、私からもお願いします。正直なところ、手伝っていただけるのは凄く助かりますし、それで時間もできれば私も作りたいものが他にもあるので」

「では、決まりですね。最近はこういうこともしなくなりましたから、少し懐かしい気もしますが」



荀ケさんがそう言った。

懐かしい…?
私は思わず首を傾げた。
荀ケさんが私に言う。



「こちらでは、小さいころに読み書きの一環で書を写したりして覚えるんです。私も、もちろん公達殿もそんな時期がありましたね」

「はい。とはいえ、幼少期に限らず書を買いたくても買えない者は写す他ありませんが」

「ああ、なるほど…」



私は中空を見てから一拍おいて、茶杯の残りをあおった。
一息ついてから、二人を見る。



「それじゃ、早速ですけど準備します。お二人はまだゆっくりしててください。とりあえず、机と文具一式持ってきますので」



言ってから、私は自分の空になった茶杯を手にお勝手へ向かう。
それから居間と寝室に置いてある文机―専用じゃないんだけど―を書斎へ運んだ。
そして、書斎の隅に置いてある文具用の棚から筆と硯を出す。

いくつか試しに買ったので余分にあるのよね。

自然に手伝ってくれる荀ケさんと荀攸さんにそれを渡して、私はお茶のみセットを片付けた。
書斎に戻ってから、二人を書庫に案内して棚にあるものをひととおり説明する。
そのあと私は居間へ向かうのに一番近い玄関ホール側へ座った。
荀ケさんには寝室側を背にしてもらって、荀攸さんには北側の壁を背―私の正面―にしてもらう。

それから、私たちは作業に移ったのだった。








 * * *










自分たち以外にも、殿の私事での過ごし方が心配だと思っている人間が多くいることを知っている。

殿がこちらにきてから早くも半年を迎えようとしていた―正確には五月―。
指の爪は既に、何事もなかったかの如く綺麗に生え揃っている。
誰も余計なことは言わなかったが、殿の指から晒しがなくなった日は本当に安堵したものだ。

ともあれ、こちらの生活には早いうちに慣れた様子で、私たちとしてもいろいろと驚かされることは多かった。
いや、いまだに驚かされることが多い。
現に、今日もそうだ。
まさか、殿が兵法書をはじめ七経―正確にはその一部だが―などを写しているとは思わなかった。

実際、その書架のものを拝見させてもらったが、一人で写していたにしては結構な量を終えていたし、竹簡のまま保管されていたいくつかは自分で注釈までつけていた。
といっても、殿には注釈なんて大層なものではなく自分の覚え書きのための書き込み―メモ―だ、と言われてしまったが。
ただ、例えそうであったとしても、その内容が的確であったことに間違いはないし、注釈と言ってもおかしくない書込みの仕方だった。
そしてそれは、実に読みやすく、分かり易い。
同時に、それを読んで思った。

殿には何かしたいことがあるのだろうか、と。

いや、確かに当初、主公の理想を実現するために力を尽くしたい、とは聞いている。
しかし、果たして、それだけなのだろうか?

殿の手腕は認めている。
主公を含め、皆それは同じだろう。
それでも、私は殿にはあまり戦場に出るような任にはついて欲しくない、と思っている。
常の自分なら、これだけのことをこなせる人のこの才を一体どこに置くべきかと考えるし、それはきっと前線でこそ生かされるのではと考える。
今もまた、それを考えないわけではない。

しかし、今回に限っては同時にそれを否定する自分がいる。
殿は間違いなく、目的のためなら手段を選ばず情に流されず簡単に自分すらも犠牲にしてしまえる人だ。
何の迷いもなく、自分自身も駒の一つにできてしまう人。

だからこそ、戦場に立つ殿を想像すると、恐怖を覚える。
いつか何か起こった時に、自分を犠牲にして命を投げ出してしまうのではないか、と。
考えすぎだろうということは重々承知している。
ただの杞憂ならそれでいいとも思う。
そう思うが、やはりそこまで考えてしまう自分は、どこかおかしいのだろうか。

もし、殿が同性であったのならこんなことはきっと考えないだろう。
そうであるならば、やはり私は殿に対して特別な感情を抱きすぎている。
そう、答えを出さざるを得ない。
だからこそ、その才を最大限に生かす術を考える、そういう己の思考を否定する。

私は、そんな自分をどうすればいいのか、まだ分からなかった。
どちらをとるべきなのか、分からない。
世の乱れを、混乱を、一刻も早く収める。
そのためには、殿のこの特別な才をどこで生かすのが上策か。
それ考えるのが何より最善だというのは分かる。
分かるが、例え彼女自身がそれを望んだとしても、私はやはりそれを考えたくはなかった。

――ただ筆を動かして礼記を写す。
一部を諳んじることができるほど、もうよく見知ったものだ。

殿の書架には、これから写す予定だったという書が二、三あった。
そのうちの一つがこれだ。
全ての巻のうち約三分の一ずつを殿と公達殿と私で分けて写している。
おそらく、今日一日あればこれはすべて写し終えるだろう。

まだ話してはいないし、公達殿もどう考えているのかは知らないが、暫くこの書を写す作業を私は手伝おうと思っている。
殿が写したいと思っているものが、ひととおり終わるまで。
それが結果的にどう出るか分からないが、少なくとも殿が他のしたいことに時間を使えるだろうから。

そして、私と公達殿はその日一日、途中殿に昼餉をふるまってもらいつつ、礼記を写すことに没頭した。

日が落ちる前に全てを写し終え竹簡を巻く。
紙に写したものは乾いた先から巻いてはいるが、流石に三人同時進行では部屋もこの有り様だろう。
散らかってはいないが、これだけ床に紙を広げた景色をあまり見たことは無い。
巻き終えた竹簡を傍らに置きながら、殿に視線を向けた。



「とりあえず、終わりましたね」

「はい、ありがとうございました。こんな量、いつ終わるかと思ってましたけど…お二人のおかげです」



殿はそう言って、私と公達殿を交互に見ながら笑みを浮かべた。



「いいえ。殿も中々写すのがお早いです」

「文若殿の言う通りです。もしかして、ある程度覚えていらっしゃるのでは?」



巻き終えた竹簡を傍らに置きながら、公達殿が殿を見る。
殿が顔を上げ言った。

私はそれに耳を傾ける。



「ええ、まあ…所々ですけど」

「どのぐらい読まれたのですか?」

「三回目に入った所です。まだお借りして間もないですし、最初の一回はただの流し読みで目で追っただけですけど」



それを聞いて、率直に驚いた。
公達殿もそうだったらしく、私の思ったままを口にする。



「流石ですね…常のことながら、驚きました」

「公達殿のおっしゃるとおり。殿は本当に多才ですね」

「わ、私の話はもうやめましょう…そんなに大したことはしてないですし、ただ一部を暗記してるってだけで内容は把握できてませんから…ただ覚えるだけなら誰だってできます」



そう言って殿は、困ったような、恥じるような顔をして首を振った。

務めの時にはあまり見せない表情。
誤魔化すように竹簡を手にするのを見て、私は思わず口元が緩んだ。
それから、戸の向こうを見てから殿が言う。



「…立春は過ぎましたけど、まだ寒いですし日が落ちるのも早いです。片付けは私がしますので、お二人は外が暗くなる前にお帰りのご準備を」

「とんでもない。片付けまで手伝いますよ」

「はい。殿、そこまでの気遣いは必要ありません」



戸惑ったような殿を余所に、私と公達殿は片付けを始めた。
殿もまた同じように片付けを始める。
それからそれ程時をかけず、全てが片付いた。

いつの間にか姿を消していた殿が、手の平に収まる程度の竹でできた蓋付きの入れ物を二つ手にして、私たちのもとに歩み寄る。



「いま、差し上げられるのものがこれしかないので…変わり映え無いのですけど、甘納豆です。別のものを作ったら、またお持ちします」



そう言って、殿は両手にそれぞれ乗せたそれを差し出した。
それに手を伸ばす。
手の平にのせて入れ物をひとしきり見た。



「この入れ物…殿がお作りに?」

「はい。気分転換にいくつか作った物なので、返品不要です。用が済んだら捨てて下さって構いません」



それを聞きながら、蓋をあけた。

器用に細工をして蓋がかみ合うようになっている。
そして、中の甘納豆の上に小さな白い花が飾り付けてあった。

もう少し寒さが和らいで来れば、そこかしこで見かけることができる花。
珍しいものでも何でもない、何でもないが…。
ただそれが一輪のっているだけなのに、全体の印象が違う。

どこか品があった。



「これは…」

「ああ、外に出た時に摘んできたハコベです。春らしくないですか?」

「はこべ?」



笑みを浮かべる殿に、同じ様に蓋を開けていた公達殿が聞き返した。
殿がそちらを見てから中空に視線を泳がせる。



「ああ、えっと…確か、繁縷……だったかな、こっちだと…」

「なるほど、名称が違うのですね。よく観察したこともありませんでしたし、詳しくは知りませんが分かりました。殿は趣きをご存知の方ですね」

「んー…そういうのを意識したことは無いですが、季節を感じられるものが好きってだけです。どんなに小さくても心が和みますから」



そう言って、殿は微笑んだ。

何を楽しみにしていたのだろうと思ったことがあったが、きっとこういうものを楽しみにしていたのだろう。
どうか、そうやって和やかに微笑んでいて欲しいと、私は思った。

手の中の入れ物に蓋をする。
それから一拍ほど置いて、殿へ問うた。



「ところで、殿。朝、他に写したい書をお聞きしましたが、次に写す書はもうお決めですか?」

「…明確に決めてませんが、易か詩か尚書辺りを、と思っています」



言って、少し首を傾げる。
反して、意味を理解した公達殿が私に言った。



「文若殿。そういうことでしたら、俺も手伝いますよ」



私は、一度頷いてから殿を見た。
殿も気づいたような表情をしている。



殿、その三書以外の残りを四書ずつ、私と公達殿で写させてもらえませんか?」

「え、いや、それは本当に有り難いですけど、流石にそんなにはお願いできません!」

「ならば、俺たちからお願いします。聞いては頂けませんか?」



殿をじっと見ると、一瞬たじろぐ。

困らせたい分けではない。
ただ、なるべくならもっと他のことに時間を使ってもらいたい。



「久しぶりに写してみるのも面白いと思ったのです。ならば、いっそ互いに役立つ方が良いと思いませんか?」

「文若殿の言う通りです。しかし、殿が写すことそのものに意味を見出しているのならば、これ以上は言いません」

「荀ケさん、荀攸さん…」



暫く沈黙したのち、殿が視線を上げる。



「そこまでおっしゃって下さるのなら、ご協力お願い致します」

「もちろんです、お任せください」

「はい。このぐらい、どうということもありません」

「ありがとうございます」



そう言って殿は破顔したあと、こちらとは違う礼式で頭を下げた。

身に沁みついているのであろうそれは、今までも度々目にしている。
それでも公事の場では大分少なくなったと感じる。
殿なりに、気をつけているのだろう。

いつか、この違う礼式を見なくなる日が来るのだろうか。
なぜか、それが寂しいと思う。
なぜだろう。

それから私と公達殿は殿の邸をあとにした。

通りを歩く。
夕日に染まりつつある空に視線をやってから、半ば独り言のように言った。



殿は、何をしたいと思っているのでしょうか」

「俺にもそれは…。ただ、戦場に出ることを見据えているのは確かでしょう。そうでなければ、まず先に兵法書を写したりなどしない筈です」

「そうですね……彼女ほどの才があれば、戦場になど出なくともそれを生かすことは可能なのですが…」

「文若殿は、殿を戦場に出したくないとお考えなのですか?」

「もちろんです。他に生かせる場があるのなら、強いて出す必要もないと思っています…公達殿は違うのですか?」

「俺も基本は同じです。ただ、主公や殿自身がそれを望むのであれば、止めるつもりはありません」

「それは…私もそう、思っています。ですが、それが最善と言えるのか…それが分かりません」



思わず、立ち止まった。

数歩先で、公達殿が歩みを止める。
私を振り向いて言った。



「それはきっと、俺たちではなく殿が決めることでしょう。それに、その答えが出るのは恐らく、もっと先です」



私は視線を上げて、公達殿を見た。
ほんの僅かの間に、空が大分染まっている。



「…そうですね。公達殿のおっしゃるとおりです……変なことを言って、すみません」

「いえ。そんな日があっても、たまには良いと思います。それに俺も、文若殿と同じように疑問には思っていましたから…殿が何をしたいと思っているのか」

「そうでしたか」

「はい。暫くは様子を見ましょう…もしかしたら殿の行動に、大して意味はないのかもしれませんし」

「そうですね。まだ一年も経っていませんから、今それを考えるのは早計かもしれませんね」

「はい…、…行きましょう。殿ではありませんが、日が落ちます」

「そうでしたね。日が傾いてからは、暗くなるのが本当に早い」



笑みを返して、私たちは再び通りを歩き出した。

明日が、出仕することがこんなにも待ち遠しいと思うようになったのは、果たしていつからだっただろうか。
一年も経っていないのに、もう何年も過ぎたかのようなこの感覚は何故だろうか。

私は夕日に染まる空をただ見つめた。













つづく⇒



ぼやき(反転してください)


なんてことはない日常の話、でした
無双だから砂糖があってもいいかと思ったんですが(桃まんにピンク色ついてるし…)、まあ、とりあえず無しにしました
ゲームやりつつ砂糖使ってそう、ってなったらきっと書き直します
そして、季節的にアレすぎて、帝のお迎えは次の次あたり、かな…
たまに一話中に二人か三人が独白したりします

2018.05.25



←管理人にエサを与える。


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