いつかなんて曖昧な言い方は好きではない

けれど君になら、いつかと言ってもいい気がする

いつか、気づいてくれないだろうか






     人間万事塞翁馬 38















冬十月。
氷が張ることはまだ無い。
しかし、寒さも厳しくなってきた。
朝の内は息も白い。
まだ火鉢を置くほどではないけれど、欲しくなる日もたまにはある。

昼の休憩は疾うに終わり、ただ各々が黙々と筆を運ぶ。
いつもの光景だ。
変わらぬいつものそれ。

私の正面、向かって右の席には上座から、荀ケ殿と満寵殿が、向かって左の席には同じく、荀攸殿とが座っている。
もう大分前のことだけれど、この面々と同室に配属されてから間もない頃、そのごく初めの頃辺りから、少しが変わった。
そう感じている。
具体的に何がとは表現できない。
だが、確かに変わったような気がする。

まだ、文の交換は続けている。
しかし、そちらは相変わらずの業務日誌。
は、本当に日記の意味を理解しているのか、未だに疑問でならない。
そして、相変わらず頭は撫でさせてくれない。
流石に、私も心が折れそうになるね。
おまけにいつだったか、容姿を褒められたけど、暗に対象外と言われているようなものだ。
しかもそれも本心のようだし。
一種、天然と言えるかな。

けれど、そもそもにとって、どこからどこまでが対象なのかが分からない。
別次元に生きている女性(ひと)なのかと思いたくなる。
そういえば、左慈という道士がを道士に勧誘していたか。
納得したくはない、けれどね。

さて、たまには違うこともしないとね。
退屈で死んでしまう。

そんなことを思っていたら、が立ち上がり竹簡を手に私のもとへ来る。



「確認、お願いします」



言って、は私にそれを差し出す。
数歩退くのを気配で感じながら、私はそれを開いて目を通した。

相変わらず、よく纏まっている。
もう、私が確認しなくても良いだろう。
私はにそれを返しながら言った。



「うん、上出来だよ。見事だ、何より分かり易い」

「ありがとうございます」



「はい」



両手にするへ私は見上げて言った。



「これからは私に確認しなくていいよ。そのまま曹操殿に提出を」

「承知しました。今までご指導いただき、ありがとうございました」



そう言って、は拱手して頭を下げた。
うん、まったく真面目だ。
嫌いじゃないけどね。

それから席に戻ろうとするを、私はその名を呼んで引き留めた。
が振り返る。
他の三人は、気にはしてるみたいだけど自分の作業優先、かな。



「話は変わるけれど、私との約束、覚えているかな?」

「はい、勿論です。忘れたことありません」



がそう返すと、三人が筆を止めて私たちを見た。

流石に、この言い方だと気になるのかな。
ま、分かっててやっているのだけど。



「急だけど、明後日の終業後にどうだろう?都合はつくかな?」

「はい。特に予定はないので、お願いします。楽しみです」



そう言ってが笑顔を向ける。
私は未だに筆を止めたままの三人に向かって言った。



「さすがに気になるのかな?詮索するのは構わないけれど、私たちの密会の邪魔はしないでもらいたいね」

「そういう誤解されるような言い方、やめてもらえませんか?いい加減」



が言いながら額と腰に手を当てた。
私はを見上げる。

が視線に気づいて私を見た。
それから言った。



「強いて言うなら、飲み会、でしょう?そっちは意中の誰かとしてください」

「意中の誰かがなのだけど」

「はいはい、冗談はそれぐらいにしてください」



言って頭を横に振る。
今ここで呆れていないのは私を除けば、一人だ。
正確に言えば、も呆れている。
けど、その意味が全く違う。
これだけの人間が分かっているというのに、どうして当事者が分からないのか、不思議でたまらないね。
程の洞察力があれば、すぐ分かることだと思うのだけど。

その時、満寵殿がに言った。



…君、郭嘉殿と飲み会の約束なんていつしたんだい?」



が満寵殿を振り返る。

どう返すのかな?



「飲み会の約束っていうか…私からお願いしたんです。許昌で一番おいしいお酒を飲める場所を教えて下さいって。いつかは内緒です」



満寵殿が少しだけ目を見開く。

なるほど、そういう返し方か。
内緒、ね。
響きとしては悪くない、かな。

が付け足した。



「それだけです。何か、まずいことでも?」



言うや、視線だけが私に集まる。
無論、以外の、だ。

私は三人に向かって言った。



「君たちの懸念はよく分かったよ。今回に限って私は何もしないと約束しよう。だから、邪魔はしないで欲しいな」

「今回に限って……ということは、つまり」

「それ以上は野暮だろう、荀ケ殿」

「悪いけど、その約束は全然信用ならないよ」

「酷い言い草だね、満寵殿」



荀攸殿は黙ったままだけれど…まあ、同じ、かな。
結構信用されていないようだね、私は。

その時、が唐突に言った。



「なんか、よく分からないけど、分かりました」



一斉にを見る。
それから続けた。



「約束しましょう?ここで。皆さんにも証人になって貰えばいい話です」

「まさか、口約束の?」



満寵殿が言う。
は首を一度横に振った。



「いいえ。それじゃ、弱いです」

「まさか…書でも交わす気、かな?」



を見て言う。
しかし、はまた首を横に振った。



「まさか。そんな仕事みたいな野暮ったいことしません」

殿の口から仕事が野暮などという言葉を聞くとは意外ですね」

「…荀攸殿の言う通りだ」



満寵殿がそう言って、荀攸殿を見る。
が言う。



「折角、お酒の話をしてるんです。例え素面でも、多少、粋な方が良いでしょう?そう思いません?」



私を見るの顔は、ごくたまに、酒の席だけで見せる顔をしていた。
少し、悪戯そうな顔。

これは、分かっててしているのかな。



「もちろんだね。野暮なことより、粋なことの方が良いに決まっているよ」

「決まりですね…じゃあ、郭嘉さん小指出してください」



言って、が手にしていた竹簡を左に持ち替えて、右手の小指だけを立てながら拳を握った。



「どちらの手でも構いませんよ」



私はに言われるまま、右手を同じようにする。
何をするつもりなのだろうか。

そう思っていた矢先、距離を詰めたが私の正面で両膝をつくと前触れもなく私の立てた小指に、その小指を絡げる。
なんて、か細い指をしているんだろうと思った。
それに、すごく綺麗な指をしている。
それから、冷たい。

そんなことを思っている間に、が言った。
いや、歌った。



「指切り拳万嘘ついたら針千本飲ーます、指切った」



の指がはなれる。
両膝をついて爪先立ちに座るが、その膝の上に両手を置きながら言った。



「嘘ついたら、針千本飲ませますからね。約束です」



呆然とする周囲を余所にそう言って、どこか優しそうに笑みを浮かべるは今まで出会ったどんな女性より魅力的に映った。
色気があるとか、そういうことではない。
いやらしさは全く感じない。
何というか、表現するなら包容力を感じる。

私はに質問した。



「それは向こうの習慣かな?」

「ええ。まあ、子供同士でやったり、親子でするような…遊びに近いものですけど」

「ふうん。いいね、そういうの嫌いじゃないよ」

「そうですか?それなら良かったです。私も、たまにする分には嫌いじゃありません」



言いながら、が立ちあがる。
それから言った。



「では、私は曹操さんに頼まれていた資料と一緒に、これ、提出してきます」



一言断わって、は自分の書机から更に二本の書簡を手にすると扉を開けて出て行った。
荀ケ殿が言う。



「流石に仕事が早いですね…確かあの資料は…」

「はい。二日前に頼まれていた筈です。しかも、そんなに易しいものでもない」



荀攸殿が扉の方を見た。
満寵殿が同じように扉を見て言う。



「まあ、間違いなく書庫の資料を一番熟知しているのはだろうからね…本当に舌を巻くよ」

「…さて、私たちも再開しようか。曹操殿に仕事が出来ないと思われるのは、流石に納得できないからね」



私は誰にともなく言って、筆を執った。
のおかげで、私たちの仕事の速度も間違いなく上がったけれど、まさか曹操殿はそこまで見越していた?

いや、それは考え過ぎかな。
ただ、曹操殿にとっては嬉しい誤算かもしれないけれどね。

そんなことを、私は思った。









 * * * * * * * * * *










約束の日、私はを伴って、予約を入れていた酒楼へ入った。
特別有名な店ではないし個室もないが、の要望を叶えるにはぴったりの店だ。

角の席に案内されそこへ向い合せに腰を下ろす。
は、縦一尺横半尺ほどの包みを手にしておりそれを傍らに置いたが、それが何かは分からない。
書にしては角ばっているし、厚さもない。

もし目の前に腰掛けるこの相手が別の女性だと言うのなら、常の通り何か贈り物だろう、とは思うが…。
そこはだ。
万が一にも違うだろう。
仮にそうだとして、そんなことをされる覚えが私には無い。
悲しいことにね。

そんなこと思っていると、店の娘が酒と肴数点を運んできた。
去っていく娘の背を一瞥してから、私はに言う。



「是非とも試してもらいたい取り合わせがあってね、もう注文は済ませてあるんだ。いいかな?」

「はい、勿論です。お酒につまみは外せません。お酒だけでも楽しめますが、それに合うつまみがあれば、最高です」

「それは良かった。みたいに楽しみ方を知っている人と同席できるっていうのは、私も最高に楽しいよ。では、始めようか」



酒を注ぎ、杯を満たす。
それからお互い、それを掲げてから口にした。
が杯を下ろすのを見計らって問う。



「どうかな?」



は少し悪戯そうな顔をして言った。



「本当に人が悪いですね、郭嘉さん。これは大体どこのお店にも置いてるお酒ですよね。いつもの味がします」

「流石、。本当に味が分かるか試してみたかったんだ、悪気はないよ」

「十分、悪気あると思いますけど」

「そうかな」

「はい」



丁度そこへ、目当ての酒と杯が運ばれてくる。
卓に置かれたその酒瓶を、私は手にして改めて杯に注いだ。
に片方を渡す。



「こちらが本物。どうぞ、召し上がれ」

「では、いただきます」



言ってが一度杯に口をつける。
一瞬止まった後、もう一度口にした。



「これは…日本酒に近い…!」

「にほん酒?」



問うと、は視線を杯に落としたまま言った。



「向こうのお酒です。水も米も産地が違うから、風味や味に違いはあるけど…まさか、こんなお酒が飲めるなんて…!」

「気に入って貰えたのかな?知ってるみたいだけれど」



すると、は顔を上げて杯を卓に、軽く音を立てて置いた。



「もちろん、気に入りました。それに、似てるってだけでこれは知りません。この甘みと雑味の無さ、コクと香り…ここに来てから今まで目についたお酒は全部試してみましたが、間違いなくこれが最高に美味しいです」

「それなら良かったよ。まだ、外にはあまり出回っていないものだからね。気に言って貰えたなら何よりかな」

「ありがとうございます、郭嘉さん。すごく嬉しい!」



言って笑うは、心の底から嬉しそうな顔をしていた。

こういう表情も出せるのか、と思ったのと同時に、こんな顔をされるととても聞いた歳相応には見えない。
そして、嬉しいという対象がお酒だなんて、この顔を見たら誰も想像できないだろう。
けれど、それがだ。

今もまた、手を合わせてから肴に箸をのばす。
それから杯に口を付けた。
全く本当に美味しそうな顔をする。
そんなを見ていると、何もかもがどうでもいいと思えてくるから不思議なものだ。

その時、が視線を上げ言った。



「郭嘉さんは、食べないんですか?」

「もちろん、いただくよ。ところで、のいた所ではどんなお酒があったのか、聞いてもいいかな?」

「ええ、構いませんよ…そうですね、折角だから日本酒から話しましょうか」

「是非、お願いするよ」



――それから暫く、私はの話を肴に杯を傾けた。
実に興味深い話ばかりで、退屈しない。
何より、私の前でがここまで楽しそうに話してくれたのは初めてだ。
時間を忘れる、というのはこういうことを言うのだろう。
こう言ってはなんだが、女性と同席してここまで健全に時間を忘れられたのも初めてだった。

気づけば、空になった酒瓶が卓に並んでいた。
も相当飲んでいる筈だが、顔色が一切変わらない。
言葉もしっかりしている。



「…一通り、こんな感じでしょうか。向こうから持って来れないのが残念です」



そう締めくくって、は再び杯に口を付けた。
私はそんなを見ながら言った。



「そうだね。けれど、無いものを強請っても仕方がない。それもまた、楽しみ方の一つだ」

「そうですね。私もそう思います…とはいえ、一度知ってしまうと恋しくなりますけど…」

「ふうん、でもそんなことを思うんだ、意外だね」



心からそう思った。
何でも切り捨ててしまうような印象を持っていたけれど、違うものもあるのか、と。

が怪訝そうにして言う。



「それ、伯寧さんにも言われました…一体、私のことどう思ってるんですか、本当に」

「それは自身がそう思わせているのだから、気になるのなら、直してみたらどうかな」

「…何を直したらいいのか分かりませんし、そこまで気にしているわけでもないのでこのままでいいです」



そう言って、は杯を手にした。
らしいと思いながら私もまた、杯に口をつける。
ふと窓外に視線をやると、今夜は満月なのか普段より随分外は明るく見えた。
唐突にが言った。



「ところで、郭嘉さん」



視線をあげると、がこちらを見ていた。



「なにかな?そんな、改まって」

「はい。お礼を申し上げたくて」

「お礼?が私に?何か私はしたかな?」



見当がつかないので、そう聞くとは頷きながら口を開く。



「二人だけで初めて話をした日のこと、覚えてますか?」

「ああ、もちろん覚えているよ」



私はを真っ直ぐ見ながら、その日を思い出す。

さて、礼をされるようなことをしていただろうか。
が続ける。



「あの日、伯寧さんの家へ案内していただいたとき、出勤前なのにわざと大通りを回って下さいましたよね」

「…まさか、それのお礼、かな?」

「そうです。別れ際にお伝えできなかったので、ずっと気になってたんです。あの時は、ありがとうございました」



そう言って、は卓に手を八の字に揃えて頭を下げた。

真面目すぎるし、素直すぎる。
頭を上げてからが言う。



「おかげで他のところを回れました」

「それは何よりだけど、礼をされるほどのことでもないよ。私自身も楽しめたしね」

「そうですか?そう言っていただけるなら、いいんですけど」



言って、はあの包みに手を伸ばした。
布(きぬ)を解きながら言う。



「これほんの気持ちです。不要なら処分して下さい」



包みから出てきたのは、桐の箱。
市場などでは見たことが無い細工で組まれている。
仕上りも上品で実に丁寧だ。

しかし、それよりもまずは。



「律儀だね。私にそこまで気を遣わなくてもいいのだけれど」

「ただの気持ちです。必要なものかも分かりませんし」

「そこまで言うなら、頂こうかな」



私はからそれを受け取る。
箱の細部を見ながらに聞いた。



「あまり見ない細工の箱だね」

「ああ、それ…私が作ったので同じものは多分ないと思います」

「相変わらず器用なことをするね。確か、その腰のも、だよね?」



私はに視線を向けながら、卓で見えないその部分を指差した。
そこにはいつも革で出来た書包―ベルトポーチと言うらしい―を下げていて、中には紙を束ねた冊子と筆が入っている。

初めてそれらを見て質問した時のことを思い出した。
はそこを一瞥してから言う。



「そうです…まあ、無いなら作る以外ないですし」

「言いたいことは分かるけれど、普通は出来る人に頼むんだよ」

「んー、頼む前に出来ちゃったので仕方ないですよね」

「本当に、呆れるぐらい器用だよ、君は」



ため息交じりに言った。
もちろん、常の通りは気にしている様子もないし、寧ろ不思議そうな顔をしているけれど。
私は、気を取り直すようにしてに言った。



「ところで、中を見てもいいかな?」

「ええ、どうぞ」



の言葉を聞いてから、箱を卓に置いてその蓋を開ける。
そこに入っていた物は、よく見ているものだ。
自分が身に着けているもの。
そして、今目の前にあるこれは、一目見てわかるぐらいの上物。



「これは…」

「色々考えたんですけど、他に良いものが全然思い浮かばなくて。毎日違うもの付けてらっしゃるから、お気に召すかは別としてご用意しました」

「よく違うって気づいたね」



驚きのあまり、率直に言った。
が小首を傾げる。



「さすがに、毎日見てれば気づきますよ。気づかない方いらっしゃるんですか?」

「…少なくとも、気づいて指摘した人は君が初めてだよ」

「そうなんですね。それならきっと、言わないだけで皆さん気づいてらっしゃいますよ」

「そうかな…まあ、どちらでもいいけれどね」



言いながらそうだろうか、と私は内心首を傾げた。
妓楼の女性たちにも気づかれていないこれを、他に誰が気づくと言うのだろう。
そんなことを思いつつ、しかしまだ疑問がある。



「それより、これはどこで手に入れたのかな?どこにも置いてはいないと思うのだけれど…まさか、これも…」

「はい、お察しの通り、金飾り以外は作りました。どこにもないんですもの…まあ、特注品っぽいな、とは思ってましたけど」



私はもう一度、そこに視線を落した。
必要な時は専門の工房に依頼している。
もちろん、何十年とそれを生業にしているところだ。
出来上がる物に間違いはない。
だから彼らに頼む。

ならば、いま目の前にあるこれはどうだろう。
はこの道専門という訳ではない。
もちろん、これぐらいなら針仕事ができる女性であれば誰でも作れるとは思う。
けれど、多少の見劣りはする。
それに比べたら、これは間違いなく最高の出来だ。
普段身に着けているものと並べてみても、恐らく遜色はない。

金飾り以外は、とは言っていたけれど余り見ない図案の透かしだ。
これも多分、が図案を提供している。
それに何より、全体を見ても細部を見てもその丁寧な仕事が一目で分かる。
なんてことは無いものだけれど…。



「率直に言って、嬉しいよ。まさか、お手製の品を頂けるなんてね。今までのどんな女性からのお手製品より嬉しいかな」

「…ああ、やっぱそういうのあるんですね……止めときゃよかったかな………」



が何に対してそう言っているのか、私は即時に理解した。



「うん、まったく酷いことを言うね。折角頂いたんだから、これはもう返さないよ」

「ええ、いいですよ。誰から贈られたかなんて、分からないでしょうから」

「それなら、自慢してまわろうかな」

「…例え冗談でも、止めてください」



はそう言って、さも嫌そうにした。
私は息を吐き出しながら言う。



「嘘だよ。さすがに虚しくなるからね」

「嘘ならいいですけど、虚しく…ねえ」



案の定、何のことかを理解できていないが中空に視線をやりながら首を傾げる。
何度見ても、呆れてしまう。



「まったく、君は本当に罪作りな女性(ひと)だね」

「言ってる意味が全く分かりませんけど」



眉根を寄せるに、私は首を振る。



「今は分からなくてもいいけれど、いつか分かってもらえたら嬉しい、かな」

「そうですか……まあ、覚えていたら努力してみます」

「あまり、期待はしないでおくよ」



指を口元にあてて言うに、私は箱の蓋を閉めながら言った。
がこちらを見る。



「珍しいですね、郭嘉さんが引くなんて」

「たまには引いてみるのもいいかな、と思ってみただけだよ。ただ…押しても引いても、君には意味がなさそうだけれど」

「…意味が分かんないですけど」

「それも、今は分からなくていいよ」



たまにはこういうのもいいかな、と思いながらを見て言った。
それにしても、いつだか聞いたが経験したもの、が何なのかは気になるところだね。
まあ、それもぼちぼち、かな。
今はただ、この空気を楽しんでいたい。

それからまた、どのぐらいか過ごした――。
何刻過ごしたかは分からない。

勘定を済ませ店を出ると、思っていた以上に空気は冷たかった。
を邸まで送り、門の前で足を止める。
月明かりの中、が私に向き直り視線を向けた。



「郭嘉さん、今日はありがとうございました。ご馳走にまでなってしまって」

「ああ、いいよそれは。私もすごく楽しかったし、頂き物までしてしまったからね」



そう言うと、はそれと分かるか分からないか程度に微笑んだ。
普段より血色がよく見えるのは、当然酒のせいだろう。
僅かだが、頬が染まっている。



「それにしても、まさかがあそこまで飲める人だったなんてね。驚いたよ」

「私もです。ここまで付き合っていただけた方、多分向こうでの経験合わせても郭嘉さんが初めてです」

「それは光栄だね。私としても、是非また付き合ってもらいたいよ」

「そうですね、また機会があったら行きましょう。郭嘉さんのお酒の嗜み方、嫌いじゃないです」

「嬉しいことを言ってくれるね…そんなに、私からこれをあげようかな」



私は文を取り出してに差し出した。
がそれを受け取りながら言う。



「…また、恋文日記ですか……明日お休みなので、明後日お返ししますね」



そう言って、文へ視線を落すに私は言った。



「それはすぐに返さなくていいよ。文交換もこれでおしまい、もう文章を書くのに支障はない筈だからね」



は驚いたような顔をして私を見上げた。
私はただ黙ってを見る。
が一度目を伏せ、それから言った。



「そうですか、分かりました……ありがとうございました、何だかんだこれのおかげで助かってましたから。だから、慣れるのも早かったんだと思います」



そういう所は本当に素直だと思いながら、私はに言った。



「そこを自覚するのは構わないけれど…慣れるのが早かったのは、君がそう望んで努力したからだよ、。そして、その才は特別なもの。誰もが望めば出来ることでもない」

「…特別……」



そう呟いたの顔は少し曇っている。



「余計なことを思い出させてしまったのかな、私は」

「いえ。ただ、特別なものなら知りたくないし、要らないと思っただけです。すみません、流せなくて」



俯くに私は視線を落す。
思わず抱き寄せたくなったが、何故か憚られた。
触れてはいけないような、そんな気がした。

私はゆっくり息を吐き出してからに言った。



「気にしなくていい。そういうことも、人なら一つや二つあるだろうからね…それよりも、それ」



文を指差す。
視線を上げたがそれに気づいて手元を見る。



「いつか、覚えていたらそれの返事を私にくれないかな?いつか、でいいよ」



こちらに視線を向けるの顔は、どこか驚いたような表情だった。
目を見開いて不思議そうにしている。
それから三拍ほど置いて、が言った。



「わかりました…けど、本当にいつか、でいいんですか?」

「うん、構わないよ」

「いつか、っていう日は来ないかもしれないのに、ですか?」

「…それは次第、だろうからね。お任せするよ」



私は内心、少し驚きながらもそう答えた。

どちらにしても、返事を期待はしていない。
仮に返事があったとして、どう返すのかは気になるけれどね。

は一度息を吐き出すと私を見て言った。



「そういうことですか…わかりました。確かに、これは受け取りました」



言ってその文を、は上衣の懐へ入れる。
それを確認してから、私はへ言った。



「さて、風邪をひかない内に邸へお入り。私もそろそろ帰るよ」

「はい。郭嘉さんも身体、お気をつけて。送って頂いて、ありがとうございました」



はそう言うと、こちらとは違う礼式で頭を下げてから背を向けた。
私はその背を見送り、気配が消えるのを待つ。
手にした箱に視線を落してから、一度目を伏せた。



「全く不思議なものだね。本当に酷い女性(ひと)なのに…日毎に想いが増すよ。そんなことも初めて、かな」



薄暗がりの道を行く。
ただ呟いた。



「不思議な人だ」













つづく⇒



ぼやき(反転してください)


ヒロインはザル
九醞春酒法が当時の日本に伝わっているかは謎ですけど
所謂醸造酒とやり方同じっぽいので、日本酒に似てる、てことにしました
それっぽい方法で作られたお酒を紹介されたと思って下さい

2018.05.19



←管理人にエサを与える。


Top_Menu  Muso_Menu



Copyright(C)2018 yuriwasabi All rights reserved.  designed by flower&clover photo by