近くにいるのに遠くに感じる 安心できないのは何故だろう こちらに慣れてしまったら 君はどこに行くのだろう 人間万事塞翁馬 33 「ほう、あれがこの程度で済んだか…まさかは気を遣ったのではあるまいな?しかと計画通りに出来上がったのか?」 「はい。事前の報告通りに進め、その通りに完成しました」 「そうか、ならば良い。おぬしの差配が良かったのであろう、さすが満寵よな」 「いえ。私はの質問に答え、その通りに進めただけです。工程や人員確保は確かに私がしましたが、必要最低限で済んだのは全ての指示が的確であったに他なりません」 私は報告書に視線を落す主公にそう答えた。 主公もまた自身で宮や邸の設計をなさる方で、大体のことはご存知だ。 主公が徐に視線を上げる。 「ほう、そこまで出来るか、は」 「はい。正直なところ、私もここまでとは思っていませんでした。しかし以前にもご報告しまたしたが、それらに加え職工が何をするのか、建物各部がどう納まるのか、そういったことまで具体的に把握できていなければ、あれほど的確な指示や資料の準備はまず出来ないでしょう」 因みに以前に報告したこと、とは概ね以下のような事だ。 一、にこちらと向こうの流通の違いを市場を案内しながら教えたこと。 二、それをがほぼ正確に把握し、その上で当初計画を変更及び決定したこと。 三、図面やそのほかの資料は自身が準備したこと。 四、その上で段取りを組んだこと。 五、以上のことから、が現場慣れしていること。 主公が言った。 「…他の者ではこうはいかぬ、そういうことか?」 「はい。少し知っていればできる、という話ではありません。実際、は自身で加工もできる上に、こちらには無いと言って道具まで作りその扱い方まで指南しましたからね。私も勿論できますが、こんなこと誰でも出来たら、それこそ恐ろしい話です」 「そうか…まったく、どこに配置するか悩むところではあるが、それも良いか」 どこか嬉しそうに言って、主公が鬚を撫でる。 どこに配置するか悩む…ということは、他にもは何かしてるってことだろうか? その時、背後から声がした。 「曹操殿、お取込み中失礼します」 後ろを振り向くと、郭嘉殿が書簡を手に敷居の外に立っている。 主公が言った。 「おお、郭嘉か。おぬしも報告書、か?」 「も…、…ということは、満寵殿も、とうことですね」 「うむ…。どれ、持って参れ」 主公がそう言うと、郭嘉殿は無言で一度拱手して主公へ歩み寄る。 手にしていた書簡を渡してから、後退するようにして私の隣に並んだ。 「まさか、満寵殿がいるとはね」 「なんだい?まるで私がいると困るみたいに聞こえるけど」 「そう聞こえたなら、謝ろうか」 「謝罪が欲しそうに聞こえたなら、私も謝るよ」 お互い冗談で言っているのは分かっているので、もうこれ以上は言わない。 それを見計らったかのように、主公が口を開いた。 「相変わらず見事にまとめておる。への資料提供の仕方が良いのであろう。さすが、郭嘉よ。他の者ではこうもゆくまい」 主公が言う通り、一口に報告書と言っても、誰もが綺麗にまとめられるわけじゃない。 まとめるのを不得手としている者は、情報が多すぎたり少なすぎたりするものだ。 多ければ読み辛いし、少なければ改めて聞かなければならない。 手間を考えると、読めばそれで済むようにまとめるのが一番だ。 その点、郭嘉殿がまとめたものは私たちでも一目置いている。 かゆいところに手が届く、そんなまとめ方する。 今はがまとめているとはいえ、主公が言った通りもとの資料を準備しているのは郭嘉殿だ。 提供元がしっかりしていれば、その容易さは想像できる。 流石にだってそこまでここの環境には慣れていないはず。 加えて、文の作り方を覚えながら、だ。 苦労していない訳がない。 だが、そんな私の考えを覆すように、郭嘉殿が静かにいつもの調子で主公に言った。 「いえ。曹操殿。今回は情報の取捨選択から全てにまとめさせました。それは、私ではなくがまとめたものです」 「なんと。それは、まことか…?」 私もまた、自分の耳を疑った。 郭嘉殿が主公から視線を外さずに言う。 「はい。正確に言えば、が分からなかった言葉のいくつかだけ、彼女の問いに答えました。勿論内容を検めていますが、その通り見事にまとめられておりましたので、私はそのままお持ちしました」 郭嘉殿が話す際中、主公が私にその報告書を無言で差し出すので、私はそれを受け取った。 そして、視線を落し読む。 許昌周辺の治安維持に関する報告書だった。 別に内容自体は珍しいものではない。 綺麗な整った字体できっちりと書かれている。 縦横の間隔が寸分の狂いもなく揃っていて、の仕事に向き合う姿勢を窺わせる。 いつか于禁殿の邸で書いたものと少し印象が違うのは、右手か左手かの癖の違いだろう。 もう今は、右手で書いている。 そう本人から聞いた。 そして、図面に書き込まれていた字とも少し印象が違うのは気のせいではないだろう。 ぱっと見の印象はそんなところだ。 問題なのは、その内容だ。 読み進めれば読み進めるほど、なんて分かりやすいんだ、と思う。 郭嘉殿のまとめ方に似ているのは、指南者が郭嘉殿だからだろう。 それでも、普通こうもまとめられるだろうか。 いや、こうはいかないだろうな。 何て言ったって、はこちらのことを全く知らない状態だったのだから。 それこそ、ほとんど、何もかもが。 それをたった一月(ひとつき)を過ぎるぐらいで、ここまでに仕上げる? 普通じゃないし、尋常じゃない。 郭嘉殿が言う。 「曹操殿。は恐ろしく呑み込みが早い。おまけに記憶力の非凡さ、そして、それを応用させる臨機応変さ…傍で見ている私も信じられません。何かほかに知っているのではないかと詮索したくなる」 「おぬしがそこまで言うとは…には悪いが、つくづく他の者らとの縁が無くて良かったぞ」 「はい。まだ吟味中ではありますが…曹操殿。私はをどこに配置すべきか、既に迷っております。しかし、彼女はどこに配置しても恐らく我々の思う以上にこなすでしょう。ですから、どこに配置すべきかは曹操殿にお任せ致します」 郭嘉殿がそう言い終わると、主公は顎に手を当てて何かを考え始めた。 私は報告書から目をはなして、それを丸める。 暫くして主公が顔を上げた。 「そうよな、このまま内へ配属しても良いが……そこまでおぬしが言うのならば、この際他のこともやらせてみるのも良いかもしれん。引き続き…郭嘉、おぬしに任せる。それから決めるとしよう」 「承知いたしました」 「うむ。但し…わし自身、気になることあらば指示を出すやもしれん。故に、そのつもりでな」 「はい、曹操殿」 そう言って、郭嘉殿が拱手する。 一拍おいてから、私は手にしていた書簡を主公へと返した。 報告を済ませた私は、ひとまず主公の執務室を後にする。 回廊を歩いていると後ろから郭嘉殿に呼び止められた。 振り向くと、郭嘉殿がこちらへ歩み寄りながら笑みを浮かべている。 目の前まで来ると歩を止めてほんの僅かに首を傾げた。 「途中までご一緒しても?」 「ああ、お好きにどうぞ」 それからどちらともなく、回廊を歩き始めた。 唐突に郭嘉殿が言った。 「さっき主公にお伝えしたこと」 「が他に何か知ってるんじゃないか、ってことかい?」 視線だけ郭嘉殿に向けて聞いた。 郭嘉殿が前を向いたまま言う。 「いいや、それの前」 私は中空に視線をやってさっきのことを思い出した。 「ああ…それが、どうかした?」 「仕事は早いし完璧なんだ。客観的に物事を捉えられる…それもいい、けれどね」 そこで郭嘉殿が言葉を区切る。 私は、郭嘉殿が何を言いたいのか見当がつかず、ただ聞くことにした。 「そのせい、なのかは分からないけれど、落差が激しすぎる…満寵殿もそう思うだろう?」 「ど、どうしたんだい?急に」 「どうしたもこうしたも…恐ろしい程、鈍いんだ。こんなこと体験するのも人に言うのも、流石に初めてだよ」 その郭嘉殿の言葉で、全てを理解した私は、思わず笑った。 「ははは、そういうことか!君にしては珍しく苦戦してるみたいだね。わざわざ私にそんな話をするなんて、どういう風の吹き回しだい?」 「そう言われるだろうことは分かっていたけれど…私も人だからね。誰かに話を聞いてもらいたい、と思うことはある」 全く珍しいこともあるものだ、と私は郭嘉殿を一瞥した。 それとも何か、考えてるのか? まあ、この際どちらでもいい。 「…それで?」 「驚くほど敏い、仕事では、ね。けれど、自身のことは別だ。まあ、何て言うんだろうね…あれは気づかないというよりは無意識に気づこうとしていない、が近いかもしれない…ものには、よるみたいだけれどね。満寵殿も当然、そこには気づいているだろう?」 「いいや。残念ながら、公私の比較ができるほど私は勤務中のをあまり知らないからね。だけど、言いたいことは分かる気がするよ」 そんなことを返しながら、私はの邸が完成する前、そこへ顔を出したがいつか言っていた言葉を思い出した。 『どう違うんだろう…恥ずかしい、ことは恥ずかしいけど…んー、自分でもよく分からない』 『そうね、分からないなー…自分のことが一番分からないかも…』 『自分が置いてかれるから』 私も思う所はあるが、まだいくつかは確信した訳じゃない。 ただ、これだけは自分の見立てに間違いはないと思う。 本人が言うように、は自分のことを全く分かっていない。 それは真の意味で、だ。 あの時の返答は、多分無意識の返答だ。 だから、包み隠さず自身が思っていることだろう。 だからこそ、本当に分かっていない。 自分が置いていかれるんじゃなく、自分を置いていってることに。 郭嘉殿が言う。 「まったく、仕事ができるのは大いに結構なのだけれど、もう少し私的なことにも気を配って貰いたいね、には。自分が女性という自覚があるのかな?」 そんなことを言うので、私は瞬時にいつかの日のことを思い出す。 それは、私とがそういう関係なのではないかと青州兵の彼らに囃し立てられたとき、が全力で否定したこと。 それから、そのあと本人から聞いた過去の話。 あの時のの話しぶりをどんなにひねくり返して考えてみても、自分がそういう対象になる筈がない、と本気で思っているのが分かる。 そう言う意味で、自覚はないと思う。 だから、考える間もなく返した。 「ないだろうね」 「満寵殿もそう思うなら、本人に確認するまでもないね。まったく、そこから始めないといけないなんて…骨が折れる」 しかし、そう言った郭嘉殿の顔はどこか楽しげだった。 「そう言う割には、楽しそうだけど?」 「もちろん。難しい問題の方が優しい問題を解くより、はるかに楽しいからね…悩むからこそ価値がある。策を練るのも、遊びも全て、ね」 「はは、さすがは郭嘉殿。軍師の鏡だ、私も見習いたいよ」 「満寵殿からそんな言葉が聞けるとはね。話した甲斐が、あったかな?」 目前で回廊が左右に分かれる。 私は左に行くが、郭嘉殿の執務室は右だ。 どちらともなく足を止める。 「それでは失礼しようかな、満寵殿。話を聞いてくれて、ありがとう」 「どういたしまして。に、よろしく」 そう返すと、郭嘉殿から予想外の返答があった。 「ああ…はいま、書庫にいるよ」 私は疑問に思って、そのまま聞き返す。 「書庫?調べものするような仕事でも指示したのかい?」 「いいや。報告業務はのおかげで、早々に片付いてしまったからね。暫く好きに過ごしていいと言ったら、書庫に行くと言って出て行った。気になるなら、顔を出してみるといい。面白いものが見られるよ」 「面白いもの?」 「行ってみればわかる。ひとまず納得できる、かな」 郭嘉殿の言う意味が理解できない。 不思議に思いながら返した。 「そうかい?まあ、丁度調べたいことがあったから顔を出してみることにするよ」 「うん、それがいい」 そう言い残して去っていく郭嘉殿の背中をひとしきり見送る。 それから踵を返して、私は書庫へと向かった。 * * * * * * * * * * 書庫の扉に手を掛ける。 敷居を跨いですぐ両手にある、回廊に面した窓際には机と椅子が数席設けられていて、その場で調べものをしたい時に利用できるようになっている。 字を読むための明り取り用で、必要がないときは通風の目的がない限り締め切られているが、今は全ての窓が開いていた。 何となく、左に一度視線をやりそれから右を見る。 探すまでもなく、奥から二つ目の席―今の時間帯一番明かりを得るのに適した席―にはいた。 こちらに背を向けて、そこにかじりつくようにしている。 のすぐ後ろの席の机には竹簡がいくつか積まれていて、今またそこに一冊が増える。 が何かをしながら、振り向かずにそこへ置いたのだ。 手元にあるのだろう、新しいそれを開く音がする。 日差しの差し込むそこにの姿だけが浮かんで見えた。 空に舞う埃が日の光をうけて、きらきらと反射している。 唐突に、が呟いた。 「なるほど、結構複雑なのね……これ、も…分かんないな……文脈からすると地名、かしら…それとも、地形……形状でも意味は通る…ん…分かんないな、これチェック…」 何を調べているのかは分からない。 そして、こちらを気にする素振りもない。 また、気づいていないのだろうか? そう思っていた矢先。 「ごめんなさい、私もしかしてお邪魔ですか?この一冊が終わったらすぐに…」 は視線を落しながら言って、それから振り向いた。 まさか気づいていたなんて、今までのことを思うと少し信じられなかった。 大体こういう感じで集中しているときは、どんな音を立てても気づかないのに。 「あ、伯寧さん。こんにちは。こんな所でお会いできるなんて、奇遇ですね」 そう言って、は笑った。 立ち上がろうとするを私は手で制して、そのもとに歩み寄りながら返す。 「ああ。こんにちは、。郭嘉殿からここにいるって聞いてね。私も丁度調べたいものがあったから来てみたんだ」 竹簡の積まれた席から椅子を引き寄せての向かう机の隣に無造作に置いた。 腰掛けながら、その机に視線を落すと広げられたそれが目に飛び込む。 ぱっと見た感じ、地理をまとめたものだ。 ただ、この周辺のものじゃない。 それと同時に、の右手には筆が握られていて、その下には縦八寸―19.6センチ―、横が約一尺―24.5センチ―程の紙で綴られた冊子のようなものが目に留まった。 向こうの文で何か書かれている。 また、傍らに携帯用なのか筆入れと墨壺―いずれも竹で作られている―が置いてあった。 が私を見ながら言った。 「そうだったんですね。郭嘉さんとはどこで?」 「主公のところで、たまたまね」 「そうですか…じゃあ、そろそろ戻った方が良いかな…」 そう言って、は視線を逸らした。 私は、主公のところへ何をしに行ったのか、そこで郭嘉殿と主公がどんな話をしていたのか、またそれで自分がどう思ったのか、をに話すのをやめた。 が質問しないということは、ひとまず気にしていないからだろうと思ったからだ。 それに、私がの邸工事の報告書を提出しに行ったなんて話をしたら、きっとのことだまた何か変な気を遣い始めるに決まっている。 余計な気は遣わせたくないし、遣って欲しいとも思わない。 代わりに、私はに質問した。 「ところで、は何を調べてるんだい?それに、その手元のものは?」 指を差すと、は視線を落してから顔を上げて言う。 「ああ、これは私のメモ…覚書きのための手帳です。今は司隷の地理を調べていて、気になるところをピックアップ…拾い上げてます」 そういえば、邸が出来上がった直後の頃に、市場で紙を大量に購入しているを見かけた。 そのあと足早に去ってしまったので、わざと追わずに声を掛けなかった。 多分、あれで作ったんだろう。 本当に、器用なことをする。 多分、この筆入れも墨壺も筆以外は全て作ったんだろう。 これと同じもようなものを記憶にある限り、市場で見かけたことはない。 ただ、何故司隷の地理なんか調べるのか見当がつかず、私は不思議に思ってそのまま聞いた。 「どうして、そんなことを?」 一拍おいてから、が言った。 「私、こちらのこと何も知らないので……まずは地理を覚えようかな、と。気候や風土が分かれば視野が広がりますし、覚えても無駄にはならないでしょうから」 「なるほどね……じゃあ、他にはどこが調べ終わってるんだい?」 の様子を観察していると、この地理調べの始まりは司隷からではない。 そう思って、単刀直入に質問した。 その手帳とやらの存在から推察するに、調べ始めは恐らく七日程前だろう。 幸い、というのか…その質問を疑問に思わなかったらしいが答える。 「豫州、エン州、徐州、青州はひととおり。あとは冀州の南側約三割です……といっても司隷もそうですが、基本的には主だった郡県が中心で、細かいところは後回しにしてますけどね」 そう言って、は眉尻を下げた。 私は率直に驚いた。 それだけのことをひととおり調べただって? この短期間で? 仕事をしながら、は一体いつ調べてるっていうんだ…? 郭嘉殿が言っていた、呑み込みの速さと記憶力の良さっていうのはこういうことか。 だが、地理だけではあんな報告書は作れない。 臨機応変……。 どう考えたって他にも何かしている…。 「相当調べたね…ところで、。変なこと聞くようだけど、その地理以外ほかに、どんな内容の書簡を読んでみた?」 こう聞けば、恐らくのことだ、十中八九聞き返す。 が言った。 「そう、ですね…それって、この城の中で、ですか?」 「邸でも何か読んでるなら、それも含めて」 思った通りの返しに、私はそう答えた。 が一度、中空に視線をやってから言う。 「ここでは、私の業務に関係する過去の報告書関係…大体は治安に関係するもの、世帯と戸数の推移に関係するもの、税の収支関係と市場流通に関係するものでしょうか、それと陳情書、それに付随する査察報告書ですね。屋敷では文則さんからお借りしてたのもあって、とりあえず左氏伝を読んでます」 これも思った通りではあったけど、まさかそこまでとは。 けれど、予想外だったのは邸よりここでの物の方が多かったこと。 一体何冊に目を通したのかは聞かないで置くけど、多分普通じゃないだろう数を読んでいることは分かる。 あの報告書の存在と郭嘉殿が訂正をしていないという言葉が何よりの証拠だ。 例えまぐれだろうと、知識と情報が揃わなければ無理な話だ。 現地の状況は陳情書と査察報告書を中心に推察したんだろう。 まったく、驚かされることばかりだ、には。 他にも何か知っているんじゃないか…、確かに郭嘉殿の言う通り疑いたくはなる。 けれど、多分はもう何も知らないと思う。 それに偽りはない、きっと。 そんなことを考えていたら、恐らくその驚きが伝わってしまったのだと思う。 が慌てて手を振った。 「あ、でもそんなに大して中身を把握してないですよ。言うほど理解できてませんし、気になるところだけ目を通して他はさーっと流し読みしかしてませんから。まだ、知らない単語とかありますし…本当、まだ手探りで仕事してて郭嘉さんから指示貰わないと何もできないし、皆さんの足元にも及ばないので形だけでもどうにかしないとと思って気休めにしてるだけです」 多分、は私がどんなことに驚いたのか、ある程度想像がついたのだろう。 弁明のような言い方をするということは、深く考えずに私の質問に答えている。 恐らく、勤務中はこういうことは無いのだと思う。 郭嘉殿は私と同じ感じで彼女の口からこれを聞いたのだろうか? それとも自力で知った? それは分からない。 とはいえ、私は黙っていようかと思ったことを、に言うことにした。 足元にも及ばないからどうにかしないと、だなんて…。 そんなこと思ってるってことは、どう考えてもまた無茶してる。 いや、その能力が高いことは認める。 それでも多分、普通じゃないことをしているのに変わりはないと、私は思う。 何をそんなに焦っているのだろう? ふと、そう思った。 そう思いながら、に向かって言った。 「そんなことはないさ。さっき、主公のところで郭嘉殿に会ったって話をしたろう?実はそこで、がまとめたっていう報告書を読ませてもらったんだ。余りに綺麗に纏まってて、正直驚いたよ。こんな短期間であれだけまとめられるなら、言うことないさ」 「よ、読んだんですか?あの報告書」 そう言って、がはじかれた様にこちらを見る。 予想外の反応だった。 「ああ。いけなかったかい?」 「い、いえ。その…なんていうか、まだ慣れてはいないけど、それでも人に読まれて恥ずかしいものを纏めている気も無いです…けれど、なんだろう…伯寧さんに現時点のものを読まれるのは、ちょっと…」 何とも歯切れが悪い。 私は、が言いごもった先の言葉を口にした。 「恥ずかしい?」 「…そう、ですね……恥ずかしい、です」 そう問うと、はこちらを見たあと、視線を窓の方へ逸らしながらそう言った。 その左手で右の下腕を掴む。 ほんの僅か、力を込めたのが分かった。 少し俯くその視線が、手元の書簡にあるのか、その手帳にあるのか、はたまた筆先にあるのかは分からない。 の仕事は完璧だ、と思う。 一緒に仕事をしていないから、邸工事の時とあの報告書、郭嘉殿から聞いた話からの推測になるけど。 それでも、それを私に見られるのがなぜ恥ずかしいのだろう。 私はそれこそ意外だと思ってに問う。 「また、どうしてだい?」 「なんでしょうね…多分、出会い初めを知ってる、からでしょうか…上手く、言い表せられないですけど。自分でも正直なところ、可笑しな話だと思います……仕事の成果物見られるぐらいで…こんなこと、初めてだわ…」 俯いたまま、ぽつりぽつりと言った風に話すのはきっと自分でも戸惑っているのだろう。 筆を指で弄るの視線はきっと、その筆にある。 それにしても、そう言うからには当然…。 「ということは、于禁殿に見られても同じ様に感じる?」 「そうですね、はい…想像だけでも、ちょっと落ち着きません、ね……なんでだろう…」 そんなことを言うとは。 でも、何故なのか、やはり分からない。 ただ、自身も分からず、いま目の前で考え始めてしまったことだけは分かる。 私は、そんなに聞いてみた。 自分もそれは、気になるから。 「ううん…じゃあ、例えば一緒に仕事をするっていうのはどう?同じ部署で務めるっていうのは?」 「ああ……それは、別に何とも思わないです」 「なるほど」 それはいいのか。 ということは、多分。 「ところでは、仕事は完璧じゃないと気が済まない人?」 「うーん…基本はそうです」 はそう言いながら、左の指を下あごにあてた。 「だけど、なんでも完璧っていうのは結構難しいと思うので、限りなく完璧に近いものって言うんでしょうか…その時の一番最高の物、成果物。結果はさて置き、自分がそう思えるぐらいでないと気は済まないです。ただ目標にするなら話は別です。目標値は高く設定しておかないと期待した結果の半分も届かないことが多いので、完璧以上を目指します。そんな、ところ……で、しょう…か…」 段々と消えていくような語尾で、私はの視線に気づく。 私の胸元に、その視線がある。 …ああ、それか。 そういえば、は気になる人だった。 「ごめん、見なかったことにしてくれると、大変助かるんだけど」 「見なかったことにします」 「ありがとう」 「いいえ。本人の意識が大事だと思うので、私はもう何も言いません」 なかなか手厳しいことを言うな、は。 まあ、分かってたけど。 それでも、最初の一回以外何もなかったのは、そういうことだったのかな。 そう思いながら、私は付け足した。 「次また気になったら、直してくれても構わないよ」 そう言うと、はただ黙ってじっと、私を見る。 何を思ったのか、全く分からなかった。 若干居た堪れなさを感じて、私はさらに付け足した。 「うん、冗談だ」 「…検討しておきます」 はため息を吐いてからそう言った。 検討してくれるんだ。 一度直されたときのことを思い出した。 手馴れた感じだったけど…そういう人が居たのか? 祖父の世話をしているとは言ってなかった。 両親とは離れていると言っていたし。 こういう風に見ていると弟妹とか居てもおかしくないけど、他に家族はいないって言ってたな、確か。 …と、私は何を詮索しているんだ、まったく。 頭の中で首を振って、に視線を向けた。 「ところで、話を元に戻そうか。の話を聞いて、少し分かった気がするんだ」 「本当ですか?」 「ああ」 少しだけ目を見開いて、が問う。 私は頷いて、それから再度質問をする。 「その前に確認だけど、は今回の報告書…現時点では自分の中で最高だとは思っていても、報告書その物としては、その過程も含めまだ完璧だとは思っていない、ってことでいいかい?」 「はい、そのとおりです」 「じゃあ、こういうことだ」 私の考えは多分合っている。 そして合っているなら、それは嬉しい。 けれど、これを本人に自分の口から言うのは、じゃないけど流石に恥ずかしい気がするな…。 まあ、仕方がないと言えば仕方がない、と言えるか。 「つまり、の中で私と于禁殿が他の人と比べて特別だってことだよ」 「はあ…って、どういうことですか?」 は頭が肩に付くぐらい首を傾げる。 そこまで首を傾げるのか…。 自覚、できてない? 「そうだね、簡単に言うと…私と于禁殿がの私的な所を他の人たちより知っている、と自身が…意識的かは分からないけど思ってるってことだよ。距離が近いと思っている、っていうのかな。距離が遠ければ気にならない。けれど、近いとどこかで感じているから、が自信を持っていない事柄に触れられると意識してしまって恥ずかしいと感じる。そういうことなんじゃないかな?上手く説明できているか、ちょっと私も不安だけど」 それこそ、意識すると恥ずかしいな…。 そんなことを思いながらを見ると、は何か納得したような口ぶりで独り言のように言った。 「たしかに、なるほど…意識してる、確かにそうかも…ああ、確かにそうかもしれない。そっか…言われてみればそうかもしれない…仕事でそう言うの意識したこと今までないわ」 私は、のその呟きを聞いて、郭嘉殿の言葉に納得した。 確かに、公私の落差が激しい。 それから恐らく、自他に対する気づきの鋭さも、だ。 これがきっと、他人のことなら、はすぐ気づくはず。 それが自分のことになると、こうも鈍いのか。 がそこで何かに気づく。 「ん?ちょっと待って…っていうことは私、公私混同してるじゃない。だめだわそれは…甘い、甘すぎる……意識、そうね…意識の問題、ね…もうちょっと気を引き締めていかないと」 そんなことを言うものだから、私は思わず盛大にため息を吐いた。 気づくのはそこじゃない。 「どうしたんですか?伯寧さん…そんなに大きなため息ついて」 「…あのね、私が言いたかったのはそこじゃないんだ、それは…分かるかい?」 「…どういうことでしょうか?」 「いや…いいんだ。が納得できたなら、それで」 「そう、ですか?」 「ああ。私はひとまずの悩みを解決できたなら、それで構わないよ。どう?すっきりしたかい?」 「はい、お陰さまで。それに、仕事に対する自分の甘さも再確認できました。今のままじゃ駄目ですし例えどんな理由にしろ、恥ずかしいと感じるような中途半端なものを提出したっていうのは私の落ち度です。それもまた恥ずかしい」 私は、これは駄目かもしれない、と思った。 の仕事に対する意識が常人離れだと感じるぐらい、隙がない。 仕事中心で全てを回しているんじゃないだろうか…。 ううん、私は間違った助言をしたかもしれないな。 さて、どうしようか。 とりあえず、私の考えを述べよう。 「ううん、そうかな?は今のままでも十分甘くない…寧ろ厳しいし…あの報告書も、上手く纏まってたよ。郭嘉殿からの訂正はなかったんだろう?それだけで充分だと思うけど…例えば私がと同じ立場だったとして、あそこまで出来るかって言われたら、多分出来ないだろうし。そこは誇っても罰は当たらないんじゃないかな?」 「いえ、そんなことは。郭嘉さんの教え方…いえ、気づかせ方が上手いんです。準備して下さる資料なんか、よく整理されてて分かり易いし、おかげで直接確認するような箇所も必要最低限で済みます。それに単純に郭嘉さんのまとめ方が上手いってだけじゃなくて、恐らく私が分かり易いように合わせて下さってるんじゃないかと。多分、その辺の見極め方まで含めて出来る方だから、これだけの短期間で私もまとめられたんだと思います。そう考えれば、私はまだまだです。知識も経験も何もかもが、まだ全然足りません」 本気でそう言っているらしいに私は内心頭を抱えた。 確かに、郭嘉殿はそういう人だ。 そこは的を射ている。 そこにそれだけ気づけるのに、どうして自身のことはそんなに…。 いや、だから気づかないんじゃなくて、気づこうとしていない、のか。 自分を置いて行っているんだ。 顔を向けようともしない。 しかしそれにしたって、そこに気づくことと、業務の中で業務に関係することに気づくことはまた話が別だ。 まるで話が違う。 だからやっぱり、は特別なんだと思う。 足元に及ばないのは、もしかしたら私たちかもしれないのに。 それに、何か調べものをしてるっていうのこの行為は、仕事を覚える以外の別の意図を感じる。 けど、ともかくこれだけは先に言っておきたい。 それでの気休めになるか分からないけど。 「そうかい?現時点では十分すぎると思うけどね。恥ずかしがる必要もないと思うし。それに、が仕事できるっていうのはもう大体皆分かっていることだ」 「え?何でですか?」 予想通りの返答だった。 例えば、君が同じ質問を郭嘉殿にして郭嘉殿が同じように返したら、きっと私と同じように呆れるだろうに。 そしてそれを教えたら、少しは分かるんだと思う。 だけど、少しぐらい苛めてもいいかな? このぐらいは許して欲しい。 自分勝手なんだろうけど。 「そうだね…だから、かな」 「わ、わかりません…」 「じゃあ、宿題にしようか。提出はいつでもいいよ。さて、私も調べものをしよう」 私はそれだけ言って立ち上がった。 椅子を元に戻しながら、目的の書架を探す。 ちらりとに視線を投げた。 米神に手を当てて考え込む後ろ姿が目に入る。 ちょっと悪いことしたかな、と私は書架に視線を移した。 目的の竹簡を見つけて手に取る。 暫くが動く気配はなかった。 それから少しだけ時が経って、はとりあえず考えるのを諦めたのか、竹簡を片づけ始めた。 手伝おうかと声を掛けようとした矢先、が滞りなく書架に次々竹簡を戻すので私は聞いた。 「。書架の位置、もう覚えたのかい?」 「はい」 「全部?」 「勿論です。みなさんもそうでしょう?」 「ああ」 やっぱりの記憶力は普通じゃない。 全部覚えてる人間はごく僅かだ。 それだって、何回も何十回も数えるのが面倒になるぐらいここに来るから覚える。 はどのぐらいここに来たんだろう? そんなに来れない筈だ。 だけどまさか一回で覚えるってことはないだろう。 そう考えるとやはりの行動は気になるな。 「」 「はい?」 私は同じ通りの書架へ竹簡を戻しに来たへ向き直った。 が窓からの明かりを背にこちらを向く。 「東平でも言ったけど、が何事にも全力で一生懸命なのを私は知っている。何か困っていることがあったらいつでも頼って欲しいし、迷うことがあったら相談して欲しい。それは今も変わらないよ。だから、無理したり無茶するのだけはやめて欲しい」 はただ黙ったまま、私を見上げていた。 何を感じたか分からない。 徐に俯いては一度目を閉じた。 それから顔を上げて、ただ優しく笑みを浮かべる。 「ありがとう、すごく心強いし、嬉しい。そう言って貰えるから、私は楽しく過ごせる。本当に、ありがとう」 その笑顔を見ると安心できるのに、同時にどこかで不安を覚える。 約束してはくれないのか。 、本当に君は何をしようとしてるんだ。 楽しく過ごせていると言うのなら、そんなに疲れた顔をしないで欲しい。 竹簡を戻し終えたが私に背を向ける。 手を差し伸べそうになって拳を作った。 が書庫の出入口に向かう。 手帳と筆は、腰に下げた書包に入れてあるようだ。 がこちらを振り向く。 「じゃあ、お先に失礼しますね」 そう言って、が敷居を跨ぐ。 しかし、そこで一度足を止めてもう一度こちらを振り返った。 「お屋敷工事の報告書、提出して下さったんですよね?ありがとうございます。曹操さん達にお披露目したあと改めてご招待するので、また都合を聞かせて下さい」 そう言って、は満面の笑みを浮かべた。 疲れが見えない。 報告書…。 そこまで気づけるなら何故。 君がいいなら、それでいい。 けど、近くにいる筈なのに君のことが、分からない。 郭嘉殿は、どこまで気づけているのだろう。 少しだけ、苦しさを感じた。 書庫に差す日の光はここに来た時よりも傾いていた。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) なんでシリアスになっちゃうんだろう…! ちょっと、ちが… ヒロインは仕事できすぎる仕事人間です キャパが異常です そして割となんでもこなせる 無双なので真の三國無双になっていただきます← 2018.05.08 ![]() |
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