人なら誰だって意外な一面と言うのは持っているだろう

それでも彼女の意外性と言うのは毎回、突拍子もない

驚かされてばかりいる俺は

表情を出さないことを、ここまで苦に思ったことはなかった






     人間万事塞翁馬 31















卯の刻から辰の刻に変わろうとする頃、俺は于禁殿の邸(やしき)を尋ねた。
主公からの命もあり、殿を迎えにきたのだ。
この時間帯は少し肌寒い。
空の色もまだ薄い。
しかし、今日もよく晴れそうな、そんな空だった。

門の手前、敷地の中で邸に背を向けて待っていると、暫くして殿の声がした。



「おはようございます、荀攸さん。お待たせして、すみません」

「いえ、それほど…」



俺は、それほど待っていない、と答えようとしたが振り向いて驚きのあまり言葉を失った。
今までとはまったく違う衣裳に身を包む殿がそこに立っている。
右の指にはまだ晒しが巻かれていたが、それどころではない。

殿に向かって言った。



「おはようございます…その衣裳は、どうされたのですか?」



自分の動揺を誤魔化すようにそう問うと、殿は瑠璃紺色の衣裳―裾に金糸で刺繍が施されている―の一部を少し摘まんで言った。



「これを着て来い、と曹操さんから書簡と一緒に受け取ったのですが…いかにせん露出が多かったので、上着と一緒に下に着るものを間に合わせで作っていただいたんです……変ですか?」

「いえ、おかしくありません…よく、お似合いです」



俺は、殿のつまんだ衣裳を見ながら答えた。
たしかに、それだけでは少々、というより、かなり…。



「そうですか?荀攸さんが、そうおっしゃって下さるのなら、ひとまず安心しました」



殿はそう言って笑うが、それでもその顔はどこか不安げだ。
それも仕方ない、と思う。
恐らく、着慣れているものでもないのだろう。

俺は一度咳払いをする。
気を取り直してから言った。



「それでは、行きましょうか」

「はい。よろしくお願いします」



律儀にそう返したのを確認して、俺は目的地へと歩を進めた。
行く途中、体調のことと書簡のことを聞いた。
体調については、完全に回復し指の爪も新しく生え揃うのを待つだけだと言う。
物が触れると違和感があるので、晒しを巻いているのだそうだ。
俺はとりあえず、それを聞いて安堵した。
痛みがないのなら、何よりだ。

書簡については、内容ではなく読めたのかどうか、を聞いた。
結論から言うと、読めた、のだろう。
細かいところは分からない、というが大体の意味が理解できるのならば、まだ全く読めないよりずっと良い。
それでもこちらの文には馴染みがない筈だと俺は思って、何か特別なことでもしているのか、と問うと于禁殿に書を借りて読んでいる、とのことだった。
そこで、それはこちらの文に慣れるためにしているのかと問えば、殿はそうだと答えた。
”仕事ができないのが何より一番困るから”だそうだ。
素直に感心した。
俺はいつだったかの、郭嘉殿の言葉を思い出した。

は絶対に化ける、そう確信しているよ』

勘だとは言っていたが、郭嘉殿のことだ、何かが見えたからそう言ったのだろう。
実際、郭嘉殿が推薦する人材―主に北方の者だ―は一目置く者が多い。
郭嘉殿には敵わないな。
俺はそう思った。

ところで、いま俺と殿は主公の執務室へ向かう回廊にいる。

殿は後ろについて歩いているが、于禁殿の邸からここに至るまでの間、俺はあることに気づいた。
周囲から殿に向けられる視線が、男女問わず実に多いことだ。
衣裳のせいだけではないと思う。
恐らく言葉で説明しにくい殿の持つ何かが、その視線を奪うのだと思った。
それが何かまでは、俺には分からない。
ただ、男が注目するのは別の意図もありそうではあったが。



「主公。荀公達、殿をお連れし、参りました」



締め切った戸の前で俺が中にそう告げると、間もなく中から主公の声で返答があった。
そこに侍していた兵が戸を開ける。
中には主公の他、夏侯惇殿と典韋殿、郭嘉殿と文若殿がいた。
主公へ拱手する。



「待っておったぞ、荀攸。それから。入れ」

「は」



俺はそう答えてから、左に視線をやり主公からは戸の影で見えていないであろう、殿を見た。
殿は無言で頷くと、二歩、三歩と進み出て主公に向かって拱手した。
その所作はいつか戦場で見た時のものと同じくらい、綺麗だった。
ほんの少し、鼓動の回数が増える。

主公が殿に向かって言った。



、調子はどうだ?」

「はい、お気遣いいただきありがとうございます。もうすっかり回復して…この通り元気です。それから、結構なお品を頂きありがとうございます」

「うむ、それは良い……よく似合っておる。それは安心したが…わしは、そこな一着しか贈らなんだ。他はいかがした?」



主公が腑に落ちないと言った顔で殿を見る。
夏侯惇殿、典韋殿、文若殿は驚いた顔をしている。
多分、自分も同じ様な反応をしていたのだろう、と思った。
郭嘉殿はどこか、感心したような表情だ。

殿がよく通る声で静かに言った。



「あまりに破廉恥でしたので、急場凌ぎですが作っていただきました」

「誰に?」



一部を強調して答える殿に郭嘉殿が問う。
殿がまた答えた。



「世話になっている侍女たちです」



すると、暫く主公は黙って俯いてから顔をあげて言った。



…今すぐ脱ぐのだ」

「…またダイレクトにおっしゃいますね、言っている意味が分かりません」

「愚問かもしれないけど、その単語はどういう意味かな?」



間髪入れずに問う郭嘉殿へ、殿が短く答えた。



「率直に、直接的、単刀直入」

「分かっておるではないか、

「風邪ひかせるつもりですか?私に」



殿が呆れた声音で言う。
それに主公が言った。



「案ずるな、わしが温めてやろう」

「お気持ちだけで結構です」

「何故だ、絶対脱いだ方が似合っておるぞ」

「おかしくないなら今のままでいいです。ていうか、これだけだと色んなところが見えすぎです、防御力皆無じゃないですか。服の意義はどこにあるんですか?これ」



呆れたように言いながら、殿は衣裳を摘まんで見せた。
言っている言葉も最もだ。
それから手をはなして自分を見るようにして言う。



「それに、私かなりびっくりしてます……サイズが…寸法がぴったりすぎて」

「なんでか知りたい?」



郭嘉殿が殿に問う。
殿が手を横に振って身を引く。



「い、いいです…もう、想像したくもない」



額に手を当てる殿に、郭嘉殿はただ笑みを浮かべていた。
主公が言う。



「勿体ない、折角作らせたと言うに良さが台無しではないか…なあ、夏侯惇よ」

「俺はやめろと言ったし、止めもした。孟徳いい加減にしろ、とな……俺に振るな。同類と思われでもしたらいい迷惑だ」



振られた夏侯惇殿が主公に向かって面倒臭そうに言った。
殿はそれを気にした風もなく、腕を組んで言う。



「これでもかなり譲歩してますし、寧ろ東平へ向かう時に頂いたものの方が動きやすくて、私は好きです」

「あれは兵卒がする格好だ。そなたが登城するに、そういう分けにはいかん。だからそれを贈ったのだぞ」

「そこは理解できますが…何のための露出ですか?」

「目の保養だ」

「…目の保養……そもそも私みたいな年増の生肌見て喜ぶ人間が一体何人いるんですか。害毒まき散らすようなものですよ。そう言う意味で目の毒です」

…つまらぬ嘘をつくでない。どこからどう見ても、そなたは十代、よくて二十代前半であろう。そういう者は年増とは言わん。それともそなたのところではそうなのか?」



主公のその言葉に、殿は静かに息を吐き出した。
どこかで聞いた会話だ、と俺は思った。
恐らく文若殿もそう思ったのだろう、そういう顔をしている。
殿が言った。



「いえ、多分大体、感覚は同じだと思います。ですけど、残念ながら年増は嘘じゃありません」

「ならば、いくつだと申すのだ」

「孟徳…お前な…」



きっぱりと答える殿に主公が問う。
夏侯惇殿が呆れて顔を片手で覆った。

それを知っている俺はただ黙って行く末を見守ることにした。
文若殿も同じ様だ。
郭嘉殿も同じ様ではあるが、どこか楽しそうな顔をしている。
典韋殿は眉根を寄せたまま片眉をあげている。

そこへ殿が言った。



「減るものじゃないのでお答えします。  歳です」



いつか聞いた答えと同じ答えだ。
それを知らなかった全員が驚きの顔をする。
正直な所、俺も聞いた瞬間は内心驚いた。
見た目だけなら、主公や李典殿が言ったように十代から二十代前半ぐらいだ。

典韋殿が指を差して言う。



「ほ、ほんとかよ」

「本当です、マジです」

、嘘をつくならもう少しマシな嘘をつかぬか」

「だから、本当ですって。嘘つくなら16ぐらいのこといいます…ってどこかでも言ったわ、これ」

、おまえ…いや、そうか」

「はい」



郭嘉殿が声を殺して笑う。
俺もまた、失礼とは思いつつ顔を逸らしながら口に拳を当てた。
文若殿も珍しく、俺と同じように堪えている。
主公がそんな俺たちに気づいて言った。



「なんだ、おぬしたちは知っておったのか…むう、ならば嘘ではないか…」

「曹操殿、良いではありませんか。がいくつだろうと、であることに変わりはない」

「うむ、郭嘉よ。良いことを言った!確かにそれは変わらぬ。では、、早速」

「脱ぎませんからね」



普段より低めの声で殿が言う。
冷たいものを感じたのは気のせいではなかったと思う。

言葉に詰まる主公に、殿が言う。



「…もうそんなことはいいです、横に置いておきましょう。それよりも、失礼ですが、曹操さんは…主公は、なぜ私を?」



殿は、そう主公のことを言い直して問うた。
主公が言う。



「うむ。その前に、呼び方は従前通りで良い。その方が気が楽だしな。言っておくが、これは命令だ。頑なに言い直すのであれば、無理やり着替えさせる」

「わかりました、失礼ながら今後も変わらず、曹操さんと呼ばせて頂きます」

「…即答か、少しは考えてみぬか」

「考えるまでもありません」

「……その潔さ、今後に生かされることを期待しておる」

「勿体ないお言葉、痛み入ります。ご期待に沿えるよう、精進致します」



あらゆる意味で溶け込むのが早い。
俺はそう思いながら殿を見ていた。



「さて、戯れはここまでにするとしよう。本題に入るぞ…もう少し近くへ寄れ」

「はい」



そう短く答えて、殿が主公の前へ三歩歩み出た。
殿が立ち止まると、主公は一拍おいてから頷いて言った。



、そなたをここへ呼んだは他でもない。そなたには禄と褒賞がまだであったな?此度はそれを申し渡すため来てもらった。心して聞くが良い」

「禄と、褒賞…?」

「さよう」



暫く、沈黙する。
それから、殿が声を上げた。



「って、お給料と賞与のこと!?え、私まだそんなにというか、全っ然働いてないです」



そう言って、殿は首と手を横に振った。
想像通りの回答に、俺は口元が緩むのを堪える。
殿が続ける。



「それに、褒賞って…私、ご迷惑をお掛けした記憶はありますが、特別何かの功を立てた覚えは一切ありませんし…とんでもない話だと思うのですけど」

「そんなことはなかろう。そなたも戦場に出ておったろうに。郭嘉と荀攸からそう報告を受けておる。それに、褒賞についてはそこな荀攸からの申し出でもあるのだぞ」

「え?」



殿が俺を振り向く。
俺は一歩進み出てから言った。



「はい。呂由を攻めた折、戦場で殿に命を救われました。あのとき、殿の助けがなければ、俺は命を落としていたでしょう」

「たしかに、そうかもしれませんが…でも、それはあたり前のことで…」





言いよどむ殿に、主公が声をかける。
殿が再び主公の方を向く。



「そなたもそうであるが、荀攸もまた我が軍になくてはならぬ者よ。その命を助けたとあらば、これを賞さずして何とする。それとも、そなたを濮陽において助け出した李典の行動を、当たり前だったと言えるか?いかがだ?」

「…………」



殿がほんの僅か俯く。
どんな顔をしているか俺には分からない。



「そういうことだ。、そなたは信賞必罰という言葉、知っておるか?」

「功があれば必ず賞し、罪があれば必ず罰する…」

「そうだ。だから、わしはそなたに賞として、邸を与える」



殿は、主公のその言葉を聞くと徐に顔を上げた。



「…は?」



素っ頓狂な声を出す殿に、主公が言う。



「だから、邸を与えると申したのだ。ただ、急ごしらえであった故、それほど広くもない空き邸だ…代わりに、そなたの好きなように手を加えてよい」

「屋敷…家…?が、賞与?」

「不満か?」



殿は何度も首を横に振った。



「いやいやいやいやいや、不満とか、そういうことではないです…いえ、そうではなくて…や、屋敷…」

「これも荀攸からの立っての申し出だ。わしはもっと別なものを考えたが、これが一番だと申すのでな」



殿が俺を振り向く。
俺は少しだけ頷いた。

それから、殿が主公に向き直る。



「ほ、本当に…お屋敷、を…?」

「そう、先より申しておろうに…直ぐにでも住まうことは出来るが、準備があろう。全てはそなたに任せる故、于禁と相談せよ。足りぬものあらば遠慮なく申せ、此度の件で邸に係る全てのことはわしが持とう。禄は先に、于禁の邸へ届けさせておく」

「屋敷…」

。顔、にやけてるよ」




郭嘉殿が言う。
俺からは当然、顔は見えない。
殿が首振った。
それから言った。



「ほ、本当に…いいんですか?」

「そう言っておる」

「本当の、本当に…?」

「何度も言わせるでない。どうしても嫌だと申すならば、それも良かろう」

「………」



それから、殿は暫く黙ったのち、主公に向かって頭を下げた。



「ありがとうございます!荀攸さんも、ありがとうございます!」



そして続けざま、俺の方を振り向いて同じようにする。
拱手しないその礼法は、きっと向こうのものだろう。

顔を上げた殿へ、俺は頷いてから言った。



「礼は不要です。殿が喜んで下さったら、それで構いません。これからもよろしくお願いします」

「はい!こちらこそ!」



殿はそう元気よく答えてから、主公の方を向いた。
こういう反応もするのか、と俺は少し意外に思った。



「曹操さんのため、皆さんのため精進して頑張りますので、これからもよろしくお願いします!」

「おい、。頑張んのはいいが、おめえよ、自分のことも大切にしろよな。おめえが駄目になっちまったら、わしらだって何もなんねえ」

「悪来の言う通りよ。、肝に銘じよ、良いな」

「はい!」



俺には殿が尻尾を振っているように見えた。

明らかに、今までとは違う。
興味があることだから、だろうか。
ふと、満寵殿を思い出した。
彼もまた、没頭すると脇目も振らない。
しかし、喜んでもらえたのなら、良かった。

そう思いながら、俺は一瞬、俺を助けた瞬間の殿の顔をまた、思い出した。
もしかしたら、これからもうずっと、忘れられないのかもしれない。
そう、どこかで思った。

主公が言った。



「邸へは、荀攸に案内させるが…、そなたは先に宮城(しろ)の正門で待っておれ。少し荀攸と話がある」

「はい」



殿はそう返すと、拱手してから部屋を後にした。
気配が遠のいていく。
主公が口を開いた。



「荀攸、おぬしの言葉に従って良かったぞ。まさか、があそこまで喜ぶとはな」

「いえ、正直なことを申せば、俺もあそこまでとは思っておりませんでした」

「そうだね。私もだけど、荀ケ殿もきっと荀攸殿と同じように、があそこまでの反応を示すなんて思っていなかったと思うよ。ねえ?荀ケ殿」

「はい。おっしゃるとおり。少々興味の対象が変わってはいますが…それはさておき、逆を言えば、それだけ緊張が解れたのでしょう。皆さんとの距離の測り方も、当初に比べれば大分近くなった、そのように感じます」

「そうか。それならば良い。この分であれば、ここに慣れるのも早かろうな。さすればわしも、ひとまずは安心できる」



そう言って、主公は静かに目を閉じた。
何をお考えになったのか、その意図までは掴めなかった。
夏侯惇殿が相槌を打つ。



「…そうだな、孟徳の言う通り、あいつが少しでもここに慣れてくれればそれでいい……どうだ、典韋。の顔を見て、少しは安心できたか?」

「勿論です、旦那!あいつが楽しそうに笑ってくれさえすれば、わしはそれでいいんでさ!」

「ふ…そうか。悪来の言葉も、一理ある」



主公のその言葉は意味深だったが、やはりその意味は分からなかった。
文若殿も同じようだ。
郭嘉殿は、多分何か分かっているのだろう。
明確な理由はないが、そう思った。

俺は三拍ほど置いてから、主公に拱手した。



「それでは、主公。俺はそろそろ参ろうと思います」

「うむ。そうであったな。も首を長くして待っておることだろう。いってやってくれ。また、あとで報告を頼む」

「はい。それでは失礼します」



そして、俺は部屋を後にすると、宮城の正門へ少し歩を早めて向かった。
門が見えてくる。
その脇に殿が待っていた。
遠くからでもそれと分かるぐらい、そわそわしている。
俺は緩んだ口元に拳をあてそれを抑えてから、気を取り直しそこへ向かった。



「お待たせしました。行きましょうか」

「はい、お願いします!」



どうしても、口元が緩んでしまう…。
俺は表情に出るのを必死にこらえながら、目的の場所へと向かった。









 * * * * * * * * * * 









「着きました、ここです」



他にもいくつかの邸が並ぶ一角。
宮城からは西に位置し、その距離は近くも遠くもない。

後ろを少し振り返ってから、門をくぐる。
それほど大きな邸ではないが、民に比べれば比較にはならない。
しかし、珍しくもなんともない邸だ。
俺はなんとなくそれを見上げた。

青空が眩しい。
殿が俺と並ぶように立った。
珍しく踵の高い履物を履いているせいか、俺の目線辺りまでその身長がある。
といっても、今後はこれが珍しいことではなくなるのだろう。

隣で殿が呟くようにして言う。



「こ、これが…」

「はい。褒賞です。いかがですか?」



そう問うと、殿は暫く固まって邸を見上げていた。
俺はただ黙って殿を見る。
唐突に、殿がこちらを振り向き拳を作って言った。



「最高です!いいんですか?こんな素敵なものいただいてしまって…!」



あまりにもその表情が嬉しそうだったので、思わず顔が綻んでしまった。



「勿論です。気に入っていただけましたか?」

「気に入るも何も…言葉じゃ言い表せません!ありがとうございます!」

「いいえ。その言葉は主公へ。ここはもう殿のものです。どうぞ、お好きに見て回って下さい」

「そうですか?それじゃ、遠慮なく」



言うが早いか、殿は邸に駆け寄った。
行ったり来たりしながら上を見たり下を見たり中を覗いたりしている。



「はぁ〜素敵!いい、すごく…!ワンルームかあ……え、これこうなってるの?はあ、なるほどね〜…!」



知らない単語が出てきたが興奮しているのだろうことは、すぐ分かる。
分かるが、何と言うか…。



「ああ、だめ…ここの納まりすごくいい…!惚れ惚れする…なにこれ、こんな納め方あるの?ああ〜、だめだ、溜息しか出ない…!」



…声が、すごく…その…。

俺はいたたまれなくなって、一人口元を手で押さえた。
目を閉じる。
眉間に力が自然と入る。

殿はまだ何か見ているようだが俺は今、それどころではない。
普段からは想像が出来ない、この色のある声は一体どこから出ているのだろう…。



「荀攸さん」

「は、はい」



唐突に名前を呼ばれ驚く。
目を開くと、すぐ目の前に殿の顔があった。
近い…。
その表情は、嬉しげで、そしてこの上なく楽しげだった。
目が輝いている、そう表現するのが妥当だろう。
鼓動が高鳴る。

殿が言った。



「こちらの長さの単位は尺で良いですか?」



彼女なりに、気持ちを多少は抑えようとしているのだろう。
だが弾む声から、それを抑えきれていないのが分かる。

俺は平静を装って答えた。



「はい。尺を使います」

「では一尺はどのぐらいの長さですか?」

「そうですね…物差が今ありませんから…これくらい、でしょうか」



俺は両手で長さをとってみたが、果たしてこれで殿からの質問の答えになるだろうか?
ならない、と俺は思った。
しかし、ちょうどその時だ。



「やあ。おはよう、二人とも。主公からここだって聞いて来てみたんだけど…、見違えたね」



顔を上げると、そこには満寵殿が立っていた。
びっくりした表情で殿を見ている。
丁度良い所にきてくれた、と俺は思った。
殿が口を開く。



「あ、おはようございます、伯寧さん。ええ、そんなことはまた後で。今はそれどころじゃないんです」



再び、満寵殿が驚いた表情をする。
確かに、常の殿らしからぬ反応だった。
俺は満寵殿に向き直って言った。



「おはようございます、満寵殿。実は、殿が一尺をどのぐらいか知りたいそうなのですが、俺はいま物差を持ち合わせておりません…満寵殿は確か、物差をお持ちでしたね?」

「ああ、なるほど、そういうことか。勿論持っているよ」



満寵殿が懐から竹でできた物差を取り出す。
そのまま殿に差し出した。


「はい、。これが一尺。手に取っていいよ」



殿は一瞬止まった後、徐ろに手を伸ばした。
満寵殿から両手で物差を受け取る。
それを持つ手は少し震えていた。



「し、失礼します…ああ…竹尺…!一尺…感無量です…」

「そうかい?それは良かった。喜んでもらえたなら、私も嬉しいよ」

「ああ…生きてて良かった…!」



どれほど感動しているのかは、見れば分かる。
相変わらず、どこから出ているのか分からない声をあげる。
自分の世界に入ってしまった殿を余所に、満寵殿が声を落して俺に言った。



「もしかして、ずっとこんな感じなのかい?は」

「はい。さっきからこの調子です。正直、驚きました。満寵殿といい勝負かもしれません」



殿から視線を外さずに答えた。
満寵殿が言う。



「そうかい?荀攸殿も自分の世界によく入ってるじゃないか」

「俺は…あそこまでは…」

「いいや、没頭してるって意味ではいい勝負さ」

「…では、そういうことにしておきましょう」



そう返して、満寵殿を見ると、満寵殿は殿を見ていた。
再度そちらへ視線を向ける。
殿は至極真面目な表情で、三本の指を握りこみ親指と小指を広げて物差に当てていた。
何か、長さを測っているように見える。
それからその手を握り直して、物差の、先ほど広げた指から余った部分へ、親指をあてがった。



「そっか、250…いや、240……43乃至48ってところかな…仮に245として…303…58か…58…」

「ほらね」



満寵殿はそう言って俺を見た。
殿は声に気づいていない。



「認めましょう。しかし、声を漏らすのは満寵殿、あなたといい勝負です」

「うーん、それは流石に否めないなあ…分かってはいるんだけど出てしまうものは仕方がないね」



満寵殿が顎に手をあて目を閉じる。
結局は自分も含め似た者同士、ということだ。

暫くして、殿が満寵殿に向き直る。



「大変貴重なものをありがとうございました、伯寧さん。お返しします」

「どういたしまして。もういいのかい?」

「はい。次は…」



そう言いながら、殿は背を向けて邸を見上げた。
満寵殿が物差を懐に仕舞いながら言う。



「まるで別人だね。興味の対象が完全に向こうだ」

「はい。いっそ気持ちがいいぐらいです」

「二、四…八間(けん)…向こうが確か六間…てことは中は実質五間…一間が1470…てことは換算すると約四間…」



邸の大きさを測り始めたらしい殿の背を見る。
どんな時でも、基本丁寧に受け答えをする殿からは想像がつかない。
よほど好きなのだろう。

満寵殿が唐突に言う。



「それにしても、ちょっと悔しいな…最初に兵舎へ連れてった時はあそこまでの反応してくれなかったのに」

「兵舎?…ああ、今やっているところですね」



俺は満寵殿を一瞥してから、新築途中の兵舎を思い出して相槌を打った。
それから殿を見て、満寵殿へ視線を戻す。



「俺は…一番初めは同席しませんでしたから知りませんが、恐らく緊張だったり、不安だったりそういったものがあって素直に楽しめなかったのでしょう。今までを見ていると、そう思います」

「うん…やっぱり荀攸殿もそう思うかい?さっき、ああは言ったけど、実のところ私も同じだ……もう一度連れて行ったら、どうなるだろうね」



そう、満寵殿はどこか楽しげに言った。



「さあ…想像できるような、できないような…そんな感じですね」



俺は、ほんの一瞬考えてから答えた。



「試しに今度、連れて行ってみようかな」

「…満寵殿、何か期待してませんか?」

「あ、バレた?私の知らない工法とか話してくれそうだから、連れて行ってみようかな、なんて」

「収拾つかなくなりそうですが…まあ、俺は止めませんよ」

「一緒に行くかい?」

「行っても分からないので、遠慮しておきます」

「それは残念……おや、何か始めたみたいだ」



満寵殿が気づいて、殿に視線を向ける。
俺もまた、つられてそちらを見た。

殿が、どこから探してきたのか木の棒を手に地面に何か書いている。
まさかとは思うが。



「もしかして、図面でも引き始めたのかな?」

「かも、しれませんね」

「へえ、ちょっと見てみよう」



そう言って、満寵殿が殿の方へと向かう。
少しだけ気になって、俺はその後を追った。
邪魔にならない程度のところで足を止め、地面に書かれたそれに視線を落す。
そこには確かに、この邸のものであろう平面図が描かれていた。
既に、殿の頭には計画が出来上がっているのか、現状のものではない図が次々に書き込まれていく。

殿は左手の曲げた人差し指をその下唇に押し当てながら、右手に棒を持ってただ黙々と書き込んでいた。



「やっぱり部屋はいくつか欲しいから…こここうして、それとここ…ここは窓が大きいから小さくするか壁ふかして………あと縁側…囲炉裏も欲しいな…」

「面白い間取りだ…こういうのが向こうでは一般的なのかい?」

「一般的…かどうかは答えにくいですが、私としてはこの動線がベスト…ああ、そうか、柱の位置がここだと…」



殿に質問した満寵殿が俺に並ぶようにして立つ。
それから、殿に視線を向けたまま言った。



「あの状態で質問に答えてくれたよ」

「案外しっかりしてますね」

「ねえ、荀攸殿」

「はい」



受け答えながら、声の調子が変わったと思って満寵殿を見上げる。
満寵殿も俺を見ていた。



「主公に報告に行くんだよね?」

「はい、この後行きます」

「それなら、私がからこの邸をどう改造するつもりなのか聞くから、それに必要な人員とか諸々、私から改めて報告するって取急ぎ主公に伝えておいてもらってもいいかい?どうだろう?」

「構いません。その方が良いでしょう。俺は専門的な事が分かりません、この場合あなたが適任です」

「伯寧さん、お聞きしてもいいですか?」



殿がまた唐突に質問をするので、俺と満寵殿はそちらを見る。



「いいよ。今度は何を知りたい?」

「ありがとうございます…とりあえず、三つ。こちらの、一番小さくて細い釘はどのぐらいですか?また、合釘はどのサイズ…大きさからありますか?それから、挽き板を使うのはポピュラー…一般的ですか?」

「ああ、そういうこと?釘は小さくて一寸から、太さは二乃至三分ぐらいからかな。合釘は一寸五分(いんご)からで、太さは同じぐらいだよ」

「なるほど…なら、なんとかなるかな…」


そう言って殿は顎に手をあてた。
続けて満寵殿が答える。



「板はそうだね…多分、市場に行った方が早い。そこで答える、でもいいかな?」

「市場…はい、是非!お願いします!」



指を一本立てた満寵殿の言葉に、殿が再び拳を作った。



「と、その前に…私からも質問していいかい?」

「はい。なんでしょうか?」

が今計画しているそれは、思い通りの材料が手に入ったと仮定すると、どのぐらいの工期を見ればできそう?」

「う…ん…そう、ですね…」



そう言って殿はあの、癖なのだろうしぐさをしながら一度黙った。
それから、左手、次に棒を持ったままの右手の順で二本ずつ指を折りながら思案し呟く。



「電動工具がないからそれで手刻みっていうと……下準備…加工で……それから…」



それほど待つことなく、殿が言った。



「仮にすべてを私一人、途中建て方の助っ人に二人乃至三人お借り出来れば、材料調達の日数を別に考えた場合…作業のみの全工程で予備含め二月(ふたつき)あれば十分かと」

「なるほど。因みに、のいた所では作業員数のみ同じで考えるとどのぐらいかかる?」

「作業員数のみ…それは、自分が加工しなくても既製品のみで事足りる材料や設備、こちらにはない工具や釘、金物などを使用して考えた場合…という解釈でいいですか?」

「ああ、その解釈でいいよ」

「そうですね…多めに見積もっても、恐らく30日見れば余裕でお釣りが来ます」



俺は率直に驚いた。
工期の違いと、殿の受け答えに。
俺は専門ではないので詳しく分からないが、明らかに手馴れている。
侮っていたわけではないが、殿には驚かされることばかりだ。

満寵殿がまた問う。



「その工程の差で一番大きいのはやっぱり、加工、なのかい?」

「はい。詳しくは市場で材や金物類を確認しないと何とも言えませんが、一番時間のかかる加工手順を想定した場合、私一人で最低二十日見ないと怪しいです。向こうなら、加工せずに手に入る既製品も多々あるので、それだけで半分以上を補えますし、加工自体も金物を併用すればそれ程手の込んだことをする必要もないので…どんなに多くても五日みれば必要な材の全てが仕上がります」

「へえ、それはすごいな!聞いているだけでも便利そうだ……他に大きな違いはあるのかい?」

「そう、ですね…石工事、かまどでしょうか。向こうでは発注かけて…あー、えっと購入して据え付けてしまえばそれでほぼ終わりですから。まあ、かまどではないですけど」



それを聞いて、俺は思わず殿に質問した。



「驚きですね…それは、市場などで売っているのですか?」

「いえ。そういうものを取り扱っている会社があって…その会社のカタログから欲しいものを選んで発注するんです。そうすると、その会社で作ってから出来上がった製品が現場へ納品されるっていう寸法です」

「作って持ってくる…その場では作らないのですね。ところで、かたろぐ…というのは、何ですか?」

「ああ、カタログっていうのは、大体このぐらいの冊子で、中を開くと色んな商品の絵が載ってる…えっと、こちらで言うなら目録、でしょうか」

「なるほど」



殿は、両手でこのぐらいと大きさを示した後、それを開くような仕草をしてから答えた。
満寵殿が言う。



「うん、よく分かった。ありがとう、。なかなか面白い話が聞けたよ」

「いいえ。こういう話でしたらいくらでも」



そう言って殿は微笑んだ。
改めて、よほど好きなのだろう、と思った。



「はは、それじゃ、市場でいろいろ聞こうかな。そろそろも市場に行きたいだろう?」

「はい!是非、お願いします!」



分かりやすい…。
俺はそう思いながら、どちらにともなく言った。



「では、殿をここにお連れ出来ましたし、俺は宮城(しろ)に戻ります。満寵殿、あとのことは頼みました」

「荀攸殿もね」



不思議そうな顔をする殿に俺は向き直る。



殿。出来上がったら拝見させてもらえませんか?どんなものができるのか、気になります」

「はい、是非!完成したらご招待します」



そう言って殿は破顔する。
俺はただ短く答えた。



「よろしくお願いします」

「荀攸殿も意外と隅に置けないね」

「何をお考えになったのか知りませんが、茶化すのは止めてください。満寵殿」



そう返すと、満寵殿は笑って誤魔化した。
溜息を吐き出した。
そこへ殿が言う。



「荀攸さん、ありがとうございます。改めて、これからよろしくお願いします」

「いいえ、こちらこそ。あまり気を遣わないで下さい。俺もそうしますので」

「はい」



そう言った殿に俺は無言で頷いた。
それから殿と満寵殿をそのままに、俺は宮城に向かって歩き出す。

途中、空を見上げる。
先ほどまでの殿を思い出し、口元がほんの僅か緩んだ。
目を閉じて、平時に戻す。

先に見える宮城の正門を、俺はまっすぐに見据えた。













つづく⇒



ぼやき(反転してください)


ヒロインが色々と暴走する回。
工期とかすっごい適当なので、聞き流してください。
基本の間取りは隠れ処みたいなイメージですが、見た目は違うものを想像してます
中の間取りは、まあぼちぼち…気が向いたら図面で書いてみます
もう当時の釘事情とか割と適当なので、あんま突っ込まないでいてください
無双だから!←

2018.05.02



←管理人にエサを与える。


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