すべて忘れたら、皆が皆、人に見えた

そんなこと分かってたのに、同じ人だと思えた

手の届かない偉人じゃなくて、目の前にいる尊敬できる人たち

と同時に知己であり友人にも成り得る、同じ人なんだって






     人間万事塞翁馬 30















「ここが…李典さんち…かな?」



私は、門の前で足を止めた。
人に場所を確認したので間違いはないと思う。

昨日、城壁での一件の帰りに駄目もとで詰所に行ってみたけど、案の定勤務中で会えなかった。
というか、会うのをやめた。
勤務中に呼び出すのは、なしでしょ。
たまたま通りかかった兵卒さんに確認したらどうも今日は休みっぽい感じだったので、本日ここに来た分けだ。
ちなみに、休日は五日に一回。
素晴らしいね、私は七日に一回か、十四日に一回とかだったよ。
別に嫌じゃないけど、たまに休みたくなる。

さておき。
心底、携帯って便利だなと思った。
ご都合窺いできるし、地図確認できるじゃない?
ないもんね、ここに今そんな便利なもの。
文明の利器すばらしいわ。

と腕を組みながらしみじみ思う。
因みに、文則さんには昨夜の内に話をした。
鏡が割れた経緯を知ったことは伏せといた、なんとなく。

私が先を知ってたことは、やっぱり、気づいてた。
左慈のことや、祠と私と鏡の関係のことなんかはちょっとびっくりしてたけど。
まあ、私もびっくりだったんだけど。
他のことは何も言わないで、ただ聞いてくれてた。
知ってるの言わずに黙ってたことも、全部忘れちゃったことも、もう二度と向こうには戻れないことも。

後者二つはもともとそんなに気にしてなかったから話すのに何の抵抗もなかったけど、前者一つはいざ話そうと思ったら少しだけ緊張した。
悪いことをしていたつもりはない。
けど、世話になっているのに隠し事してたっていうのが、何か、多分自分の中で気まずくなったんだと思う。
自分に対して、甘えてんなよ、って思った。
過程がどうあれ、そんなこと思うなら最初から隠さなければ良かったんだ。
謝罪の言葉は言わなかった。
言う方と言わない方と、どっちが甘えなのか分からない。
気まずいとは思ったけど、悪いことをしたわけじゃない。
だから、私は謝らないことにした。

文則さんは黙ってた。
最後に相槌を打ってから、私に聞いた。

『そうか。はそれで、辛くはないのか?』

私はただ文則さんを真っ直ぐ見て、いいえと答えた。
そしたら、言った。

『ならば、それでいい』

投げやりな言い方じゃない。
私はその時、何故だか込み上げてきて、ゆっくり目を閉じながら俯いた。
自分の心で、その言葉を噛みしめた。
それから顔上げて、なるべく笑って言った。
はい、って。
なんで込み上げてきたのか、今でも分からない。
なんでだったんだろう。

あと、それとは全然関係ない話、左慈が覇道がどうたらって話してたやつ。
なぜか、覇道とあともう一つなんて言ってたか、思い出せないんだよね。
思い出そうとすると頭痛い。
…なんで思い出せないんだろう。
今日じゃなくても、あとで伯寧さんと郭嘉さんに聞いてみよう。
きっと二人なら覚えてるはず、一緒にいたんだし。

――私はそんなことを思い出しながら、門から中を覗いてみた。
仕事ならなんてことはないんだけど、プライベートで個人宅に行くのって、ちょっと緊張するよね。


「いる…のかな?」


意味ないのに背伸びしたその時だった。



「人んちの前で何やってんだ?あんた」

「うひゃああ!!」



私は後ろを振り返りながら飛びのいた。
そこには李典さんが平服姿で腕を組んでいる。
で、ちょっとびっくりした顔してた。



「な、なんだ…びっくりさせるなよ」

「び、びっくりしたのは私!脅かさないでよ、もう…心臓が口から飛び出るわ」



私は心臓のあたりを押さえながら頭を振った。

また恥ずかしい声出しちゃったじゃない!
なんで、だから気配を殺すの!?
しかも、うっかり言葉遣い!

李典さんが後ろ頭を掻きながら言う。



「悪かったな、びっくりさせて…ところで、もう動き回って大丈夫なのか?



私は姿勢を正しながら李典さんに向き直った。
気を取り直す。



「いえ、こちらこそ…身体は、はい、もう何とも。お陰さまで、元気です」

「そ、そうか…」



何故か目を逸らされたけど…何かした?私。
…まあ、いいか。



「ところで、俺に何か…用事?」

「ええ、ちょっとお話が」

「んじゃ、中に入るか」

「あ、いえ…その、なるべく人に聞かれたくないので、別の場所で話したいんですけど…」



多分、侍女さんとかいるよね…。
まあ、外の方が聞かれそうな気はするけど、隠れる場所が多い室内よりはマシでしょ。
疑う訳じゃないけど。

李典さんが首を傾げて中空を見た。



「…ああ、そういうこと?まあ、確かに中には侍女もいるし…じゃあ、そうだな」



何か理解してくれたっぽい李典さんは口元に手を置くと、暫くもせず彼方を指差した。



「あそこでどうだ?あそこなら人はいない」



私は李典さんが指差した方向を見た。
その先には城壁がある。
上で、ってこと。



「場所をあまり知らないので、お任せします」

「んじゃ、行きますか」

「はい」



私は李典さんの後ろをついて歩いた。
しばらく歩くと目的の場所に着く。
城壁の階段を登りきってから20メートルぐらい行った先。
左手―西―側に城下を見下ろせる。

私は城壁の立上りに近づいてから、まっすぐ向こうを見た。

ああ、昨日居た辺りね、あそこが。
んー、わかってたけど小さいな。
改めて、ここどんだけ広い城なんだ…。




「それで、話、って?」



私は李典さんの言葉でそちらを振り向く。



「はい。実は…」



向き直って一拍おいてから私は李典さんに話し始めた。

なるべく深刻な感じにならないように、落ち着いて言った。
というか、私にとってはそんなに深刻じゃない。
現場の休憩時間に職人さんちと雑談するような気分で話をする。

無意識に城壁に手をのせた。
空の感じが見ていてすごく気持ちいい。
風に乗って運ばれてくる香りが、秋だなーとどこかで思った。

とりあえず、一通り話せたと思う。



「…ということなので、改めてよろしくお願いします」



私は向き直ってから、拱手して頭を下げた。
顔を上げると、何故か李典さんが悲しそうな顔して私を見てる。

…私、悲しい話、したかな?
やだ、何を気にしてくれてるの?

そんなことを思ったら、李典さんが口を開いた。



「あんた…は、それで辛くないのか?」

「どうしてそう思うの?」



私は少しだけ首を傾げて言った。
李典さんは俯き加減に視線を横に落として言う。



「だって、もう戻れないってことは、もう向こうの…あんたの家族にも会えないってことだろ?それで、いいのか?」

「…いいも、何も…戻れないから、ねえ…」



そう言うと、李典さんは足元へ視線を泳がせる。

そういうこと気にしてくれるのね。
基本的に優しいのね、李典さんは。
私は言った。



「…それにね、その辺りのことは向こうにいてもここと大して変わらないの」

「変わらない?それってどういう意味…」



李典さんは私に視線を上げて聞き返す。
私は頷いてから、もう一度城壁に手をかけた。
向こうのことをなんとなく思い出しながら、空に目をやった。




「私の家族は、もう両親しかいないんだけど、その両親も十三の頃から一緒に住んでなくて。父は他県にいるし、母は他の国にいる。だけど、どこ回ってるか正確に知らない。だから、もうずっと会ってないし」

「…あんた、それで寂しくないのか?」

「全然」



私は即答した。
空気がしんとしたので、顔だけ振り向くと李典さんがびっくりした顔してた。
まあ、しょうがないか、と思った。

思わず口元に手を当てて笑いをこぼす。
それからまた城壁の向こうを見ながら言った。



「ふふ、ごめん。まあ、離れてから成人して直ぐまでは祖父と二人で生活してたし、十代の頃はたまに顔見せに来てくれてたから、ずっと一人だったってわけじゃない…とは言え昔はちょっとは寂しいな、と思ったこともあったけど、今は何とも思ってない…なんていうのかな、私も仕事しはじめて仕事が楽しいと思ったら、なんとなく両親も同じなんじゃないかと思ったの」

「仕事が、楽しい…」

「そう。父は私の知らない事沢山知ってて厳格で、頑固で、色んな事に厳しい人だけど呆れる位お人好しだし…母も基本は厳しかったけど…子供の私から見てもすごい天然でどっか抜けてて…でも何だかんだ、いつも優しく諭しながら守ってくれる人だった。きっと今もそれは変わらないし、どっちも小さいころから仕事出てて週一回、休みの日ぐらいしか一緒に過ごせなかったけど…二人が仕事している姿を小さいながらに見た時、心から尊敬した」



私は李典さんの方を振り返って言った。



「だって、すごい表情がいきいきとしてたの。いま思い返してもあんな顔、楽しいと思っていなきゃできないと思う。きっと、それも変わってないと思うから…二人が楽しいならいいの、私はそれで」

「………」

「それが何よりだし、だから、それはどこ行っても変わらない。そう思うことも、感じることも、何も変わらないの。仕事が楽しいって思える間は、どこかで同じこと考えてるのかなって思えるから。だから、全然寂しくなんてない」



そこで一拍おいてから、私は付け足した。



「それに、そんなこと頻繁に思い出すものでもないしね」

「あんた…やっぱりちょっと、変わった、よな?それとも、それが素?」



言われて私は、はたとした。
ああ、言葉遣い…。
しかも、こんな話。
やっぱり、って一体いつからそんなこと思ってたの?



「ご、ごめんなさい!私、うっかり…しかも、変な話を」

「いや、俺が喋らせたみたいなもんだ…喋り方も、いいよ、それで。そっちの方が自然だし、俺もそっちの方が嬉しい…って、あー!何言ってんだ、俺!」



今のは無し、と言いながら慌てる李典さんに私は噴き出した。
軽く握った手を口元にあてる。



「そうね、私も嬉しい。全部忘れてもう帰れないって思ったら、すっきりしたのと同時に、皆との距離が縮まった気がしたわ。ここで生活するっていう実感が増した」



そう。
全部忘れちゃったせいか、私の中の壁のようなものがなくなっていた。
よく考えたら、無意識に距離取ったり遠慮し過ぎてたのかもしれない、ほとんど偉人みたいに感じてた彼らに。
多分、今もそういう意識が全くないってわけじゃないんだろうけど、一人の人として向き合えてる気はする。
向き合おうとしている気がする。



「…



李典さんが、またなんともいえない表情で私を見る。
もう帰れない、なんて言っちゃったから、また余計な気を遣わせちゃったかな。
まいったね。

口元に当てた手をはなして、そのままそれを一度、横に振った。



「やだ、そんな顔しないで。伯寧さんにも言ったけど、私本当に帰れなくなったことに悲観なんてしてないの。寧ろ楽しいぐらいよ……でも、ありがとう。気、遣ってくれて。それは本当に嬉しい」



それだけ伝えた。
李典さんがちょっと俯くので、私はまた変なことを言ったのか、と少しだけ自分に呆れる。

私はもう一度城下を見下ろしながら、そちらに向き直った。
李典さんが私の横に並ぶ。
同時に言った。



がいいなら、それでいい。けど、ごめん。やっぱ俺にはあんたの言う意味が分かんねえ…帰れなくなって、会えなくなるのは…辛いし、寂しいし、悲しいと思う、俺は。の気持ち、分かってやれなくて悪い」



私は一度李典さんの顔を見上げた。
まっすぐ前を見てる。

そこまで考えちゃうのか。
私もまた、正面に視線を戻した。



「うん、それでいいと思うよ」



こちらを見る気配がしたけど、私はそのまま続けた。



「だって、李典さんは私じゃないもの。同じ環境にいても、人が変われば考えも変わると思うから、それが正解なんだよ。じゃなきゃ、世の中面白くないでしょ?」

「……」

「謝る必要なんてないよ、それが多分普通だとは思う。だけど、私は私だから。李典さんは李典さんだもの、そこは自信持っていいと、私は思う」



私は、李典さんを少しだけ見上げて笑みを作った。

感謝はしてるけど、私なんかのことでそんなに悩まないで欲しい。
私には今、このぐらいしか返せない。
どう受け取るかは別として。



「そっか…俺は俺か。それもそうだな…あんたのこと、分かってやれないのに、俺には何ができるんだろうな」

「できること、そうだね…まず探してくれた…それから、助けてくれた、安心させてくれた、運んでくれた、心配してくれた、笑わせてくれた…」



私はゆっくり、順に指折り数えた。
顔を上げると、李典さんが驚いた顔してる。
私は左の握りこぶしと親指を曲げた右手をあげて見せながら、続けた。



「…ほら、もう片手じゃ足りない」



それから両手を下ろして、腰の位置で後ろ手に組んだ。



「まだほかにもあるけど、何より私に、またなって言ってくれるじゃない。またって言って次また会ってくれる人、会える人がいるなら何も辛くないし、寂しくないし、悲しくもない。それ以上望むのは贅沢だわ」



私は伯寧さんから初めて、また明日と言われたときのことを思い出した。

あの時の私は確かに不安だった。
それはほとんど無意識だったけど。

だけど、また明日って言われたとき、自分の中で安堵してそこで少し自分の中のことに気づけたのは事実だ。
そういう人が居てくれるっていうことが、どれだけ安心できることか。
自分が置かれている状況に、気づかなかっただけでどれだけ不安を抱いていたか。

正直なところ、今も不安がないといえば嘘になる。
だけど、そんなこと立ち止まって考えることじゃない。
色々忘れた分、やりたいこともやらなきゃいけないことも山のようにある。
それをやっていかなきゃなんない。

ふと、城下に視線を落した。
こっそりデート中のカップルが目に入る。
うーん、青いね、青春だね。
私が青春したのは、はていつだったか。
思い出せないし、思い出したくもないな。



「やっぱ…あんた、すげえわ」



李典さんがぽつりと呟くように言う。
視線を上げようとしたとき、唐突に頭をもみくちゃにされた。



「ちょ…やめ、何、急に!」



やっとおさまったと思って、髪を撫でる。
元に戻しながら、顔をあげた。
李典さんが笑みを浮かべて言う。



「それ。解いてくれれば、結い直してやるよ、俺」



私は一瞬止まった後に、一気に顔が熱くなった。

濮陽でのことが、考えてもいないのに勝手に脳裏に浮かぶ。
同時に昔付き合ってた、好きだった男が初めて私にしてくれたこと。
ペンダント、つけてくれた。
今は顔も見たくないけど、その頃は違った。
まだ青くて、その距離の近さに戸惑った。
嬉しくて、恥ずかしかった。
思い出したくもないのに、その頃を忘れられない。

それが昨日のことの様に脳裏に浮かぶ、あのときの気持ちと一緒に鮮明に。



「だ、大丈夫!もう自分で出来るから!」



私は何を考えてるんだろう。
意識すると、恥ずかしい…。
そんなもの、今更どうだっていいのに。

思わず俯く。
右へ流すように耳に掛けてた前髪が落ちる。



「遠慮しなくていいんだぜ?ま、必要だったらいつでも結ってやるよ」



そう言いながら、前髪を耳に掛け直された。
李典さんの指が、私の耳に触れる。

反射的に身体を起こして耳を押さえる。
自分の耳がすっごい熱いことに気づいた。
余計にそれが、恥ずかしい。

李典さんを見上げると、どこか悪戯小僧みたいな顔をしていた。
それから、一度目を閉じたあと、ふっと笑って言う。



「冗談、冗談!ま、俺からもよろしくな、



ちょっと腑に落ちない。
こういう冗談は本当にやめて欲しい。

片耳を手で押さえながら言った。



「はい、よろしく」



言ってすぐに城下の少し遠くへ視線を投げた。
ちょっと、自分でもぶっきらぼうに聞こえたのは気のせいじゃないと思う。

そこでふっと思い出す。
まだ、それのお礼言ってない。



「ところで…さっきのその、髪のこと……これ」



私は、李典さんの方を向いて、首に巻いてたあれをジェスチャーで示した。
ストール?なんて言えばいいんだろう、あれ。

それに李典さんが気づいて短く相槌を打つ。
伝わった所で言った。



「ありがとう。お礼が遅くなって、ごめんなさい」

「ああ、いいって、別に。俺が勝手にやったことだし、礼する必要なんかないぜ」

「いや、でも駄目にしちゃったから、何かお返しさせてもらわないと」

「だから、いいって。気にしてないし、あんたの役に立ったならそれでいいんだ、俺は」

「けど、そういう訳には…」



私は食い下がったが、李典さんが面倒くさそうに後ろ頭を掻いて言う。



「はいはい、もうその話はこれで終わり!はい、終了」



最後に両手を一度たたいた。



「……分かった、とりあえず…なんでもない」



勿論、納得はできないがこれ以上言っても無駄そうだと、私はそれだけ言った。
最後にありがとうと言うのは呑み込んだ。
また何か言われそうだし。
とりあえず、いつかお給料貰えたら、何か探しに行こう。

それから一回息を吐き出して、気を取り直してから李典さんに言った。



「さて、と…話を聞いてくれてありがとう。折角の休みを駄目にしちゃ悪いから、私はこれで失礼するわ」

「そういうの、気にすんなって…ところで、あんたはこの後どうすんの?」



そう質問されて、私は視線を横に逸らしてほんの少し考えながら言った。



「そうね…とりあず、文則さんちに帰って刀の手入れ、それから読み物でもしようかと思っているけど…なんで?」

「いや、深い意味は…ない」



多少、言い籠るその意図が、私には分からない。
無意識に首を傾げた。
李典さんが言う。



「じゃあ、邸まで送ってくよ」

「え、大丈夫!道分かるし、折角の休みなのにこれ以上付き合わせるの悪いじゃない」



私は手を横に振った。



「だからそういうの気にすんなって、俺言わなかったっけ?俺がそうしたいだけ。なんだったら、今度はあんたが付き合ってくれる?俺に」



そう言って、李典さんが腕を組んだ。

…そういう言い方……だめだ、断れない…。
拒否するほどのものでもないし。
仕事ならそういうの気にしないんだけどな…って言っても社長は例外、上司はものによるけど。



「…そこまで言うなら、お願いします」

「そうじゃなくて、お願いしてるの俺だから」

「…分かりました、お付き合いいたします」



私は渋々そう答える。
李典さんが満足そうに笑ってから、先を促し歩き出した。
その後ろを私はまた、ついて歩く。



――その後。
階段を下りる時に、急だから、とエスコートしてくれた。
そんな紳士初めてだ、と私はちょっと感動する。
何て言ったって現場の足場の上ならいくらでも飛び跳ねた経験あるけど、気にしてくれる人なんて一人もいなかったし。
寧ろ、棟上げの時に壮年の施主のエスコートしたぐらいだわ。
そんなことを思った。

それから、道中雑談しながら歩いた。
読書が好きなのか、とかなんかそういうこと。
好きか嫌いかで問われれば、まあ好きだけど、特別好きってわけじゃない。
仕事始める前にこっちの文章に慣れときたいから、というような話をした。

そんなことを話していたら、あっという間に文則さんちに着いて、李典さんとはまた、と言って門の前で分かれた。
私は門をくぐって屋敷の中に入る。
声がした。



様、お帰りなさいませ」

「ただいま帰りました、周蘭さん」



声がした方を見て、私は答えた。

この、いま目の前にいる、初めて私がここに来た日世話になった侍女さんは周蘭さん。
私は昨日、やっと名前を聞いた。
もう向こうには戻れないので、しっかり聞いとこうと思ったのだ。

周蘭さんが言った。



様に曹操様より書簡と贈答のお品を預かっております。お部屋にお持ちしておりますので、ご確認くださいませ」

「曹操さんから…書簡と、贈答品…?」

「はい。私はお茶をご用意してまいりますので、お部屋でお待ちください」

「ありがとう」



そう言うと、周蘭さんは厨房のある方へ行ってしまった。
私は首を傾げながら部屋へ向かう。

曹操さんから書簡と贈答品?
書簡…読めるかな…。
それと、贈答品ってなんだ?
そんな贈答されるような祝い事、あったかな。
あ、そうだ…そういえば、私寝てる間にいろんな方から見舞の品って言って色々頂いてたな…お返し考えなきゃ。

…そのまえに金がなかったわ。
ああ、私の一千万…。
レート違うけど。
あ、だめだ、あれは寄付したことにしたんだった。
そういえば…鶏君たちのエサが…に、鶏…すまぬ……。

そんなことを考えながら部屋に入る。
部屋の真ん中あたりにそれは置いてあった。

私はそれに近づいて両膝をつく。
書簡は、巻物だった。



「巻物…紙……やっぱ、使う所は使ってるのね」



呟きながらそれを解く。
中を見ると案の定…。



「うわ、すっごい達筆だな…伯寧さんとは違うタイプの字だ…これ、曹操さんの字?っぽいな、字なのに威厳がある…性格出るなやっぱり…」



そんなことを言いながら、視線を滑らせた。
とりあえず、例に漏れず細かいことはよく分かんない。



「んー、明日荀攸さんがここに迎えに来る…快気祝いをくれる…衣裳…服を着て来い…ってことかな…服?」



私は巻物を少し下にずらして、そこにおいてある大層な見た目の箱をみた。
これにその服が入ってるってこと?
それが贈答品、快気祝い?



「ああ、わかった。城にあがる時の服がないから、多分見繕ってくれたんだわ。で、それを快気祝いにするってことね」



そうよ、きっと。
これで出勤しろってことね、多分。
そういえば、東平に着いたときそんなようなこと言ってた。

そこで、私は曹操さんと郭嘉さんの会話を思い出した。


『曹操殿、意外に地味な選択をしましたね』
『変えていこうとは思っておる』
『曹操殿に期待ですね』


…ちょっと、嫌な予感しかしないんだけど。
私は、巻物を脇に置いて箱に手をかける。
蓋を開けて、中を覗いた。
そこには綺麗な瑠璃紺色の衣裳。
肩のあたりをつまんで、試しに持ち上げてみた。
ぱらっとそれが裾から落ちる。

と同時に、私は絶句した。
基本の形はチャイナ服に近い。
すね丈ぐらいでノースリーブ。
裾に金糸で大層な刺繍が入ってる。
そして、両側のあきが、深い。
腰の辺り、多分骨盤の付け根辺りからスリットが入ってるんじゃないか?これ。
そしてそれも問題だけど、何より一番問題なのは前。
前が、開きすぎ。
襟からヘソの辺りまで10〜12センチぐらいの幅で開いてる。
で編み上げ。
言葉で説明するならそんな感じ。



「破廉恥!」



私はそれから、箱の中を覗いた。
だけど、これしか入ってない。

え?ちょっと待って…これだけ?



「え、無理でしょ!こんなのパンツ丸見えとかってレベルの話じゃないよ!全部見えるよ!!服の意義はどこへ行ったの!?」



ちょっっっと、待ってよ…。
明日?明日って言った?
ど、どうすんのこれ!?
履物は自分の使えってことみたいだから、あのブーツでいいわ。
未だに謎のアイテムよ。

私は考えた、頭を全力で振り絞った。
曹操さんは上司いや社長…その社長からの指示と贈答品…全面却下するわけにもいかないし。
とりあえず、今8時すぎぐらいの筈だから、タイムリミットが…。
その間に出来ること。



「そうだ、その手があった!」



全力でかかれば何とか間に合う、と思う。

その時、ちょうど周蘭さんの声がした。
丁度いいところに!



「どうぞ」

「失礼します。お茶を…」



私は周蘭さんに手をついて頭を下げた。



「ど、どうなさったのですか!?」

「すみません、裁縫道具をお借りできないでしょうか?」

「さ、裁縫道具…ですか?」

「はい」



私は顔を上げてから立ち上がった。
周蘭さんは背が低い。
私の目線ぐらいまでしか身長がない。
そんな周蘭さんに視線を落して言った。
いや、懇願に近い。



「明日までに、上着と上下一式作りたいんです」

「まあ、どうなさったんですか?」



びっくりする周蘭さんに、私はその問題の服を吊るすように持って見せながら言った。



「これ、明日着てかないといけないんですけど、これの下に着る服と、上に羽織るものをなんとしても作りたいんです、今日中に!」

「まあ、これは…」



ほら!言葉無くすでしょ!
そういうもの送る?
誰、誰の差し金なの!?

そんなことを言いつつ、思いつつ、私ははたとする。



「あ、だめだ生地買うお金なかった…」

「そういうことでしたら、是非わたくしたちにお任せください。李楡の裁縫の腕前は右に出る者がおりません。様のため、わたくしたちが一肌脱ぎますわ。ご衣裳に使う生地のこともご心配なく」

「ほ、本当ですか!?」



何、この急な展開!
助かった!
奇跡だわ!



「はい。お任せを。その前に、どんなご衣裳にするか…様、お考えですか?」

「それは、勿論。描けるものがあれば、図に起こせます」

「それでしたら、話しが早いですわ。すぐにご準備致しましょう。様は少々お待ちくださいませ」

「ありがとうございます、周蘭さん!」

「もったいなきお言葉です。それでは、一度失礼いたしますね。これをお召し上りになってお待ちください」



そう言って、周蘭さんは茶器一式と茶請けを置いて部屋を出て行った。
天からの助けだ…!
因みに李楡さんは、初めてここに来た翌日お世話になった侍女さん。
周蘭さんの方が年下らしいけど、ここで一番長くお勤めしてるのは周蘭さんらしい。
昨日、ちょっとそんな話をした。

それから、周蘭さんに連れられていくつかの生地を抱えた李楡さんと書く物を持った楊娥さんが部屋に来た。
竹じゃなくて、紙だった。
なんでだろう、紙で感動できる私。
とりあえず、書簡の内容が私の解読で合っているのか確認してもらったあと―内容は合ってた―、その紙にささっと出来上がり図と縮小サイズの型を起こしてから、生地を選ばせてもらった。
なんか、もともとは文則さんがどなたかから頂いたものらしいけど、使わないからって、くれたんですって。
で、ありがたく頂いたけど、色使いが殿方向きだったのでどうしようかなーと思っていた所、だったらしい。
それが数本ある。
筒状に巻いてあるから、数本、ね。
他に、周蘭さんたちの私物の生地が混ざってたけど、女の子っぽい色で自分が身に着けるのは気が引けたので、結局文則さんからの頂きものらしいそれからから選んだ。
上着とズボンは所謂、勝色に似たやつ。
インナーは、もう、いっそ黒。

…ていうか、黒って時代的な…ああ、やめよう、それ考えるの。
意味ないし。
そもそも、そういうのはふわっと覚えてるんだよね…。
本当に、生活様式的な事しか分かんなくなったな。
まあ、いいや。

それから、なんやかんやで私はインナー担当して、楊娥さんがズボン担当、周蘭さんと李楡さんで上着担当の運びとなった。
最中、爪が生えてないのが心底不便だったわ。
くっそ、陳宮め…こんなところでも邪魔をする…!
そんなことを思いつつも、無事、私たちはそれらを作り上げた。
ちゃっかり食事とか、色々準備もしてた彼女らに私は舌を巻く。
やっぱ強いなー、女性は。
しみじみ思う。

三人になにかお礼をしないとなとか、仕事から帰ってきた文則さんに話をしながら文則さんにもお礼しないとな、とか思った。
とりあえず、明日。
これでなんとかなるはず。

夢見は連日のように悪いけど、色々動いた今日はまだ心持ちマシだわ。
と、私は思った。













つづく⇒



ぼやき(反転してください)


どんな服が贈られたかはご想像にお任せします
どんな服か知りたい、という奇特な方は…
そのうちメニューに落書きへのリンク放置しますので自己責任でご覧ください

2018.05.02



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