私を責めるのは一向に構わない けど、どうか自分自身を責めないでいて欲しい 私はただ、味方でいたい 例え要らないと言われても、味方で居続けたい 人間万事塞翁馬 29 それは、たまたまだった。 勤務帰りなんとなく、散歩をしながら視線を上げた。 視線の先の城壁の上。 小さく見えたそれは、それでもそれが誰かを理解するには十分だった。 最初はなぜそこに?と思った。 まだ心配だから大人しく休んでいて欲しい、それが本音だ。 ほんの少し…いや、大分早歩きで城壁を目指し、階段を登った。 登りきるちょっと手前から、がいるであろう方向に視線を向けたが、は気づいた様子がない。 登りきってから、しばらくそこでじっとしてみたが、それでも同じだった。 何か考え事でもしているんだろう、と思った。 その背中を見ていると、急にいなくなってしまいそうで不安になる。 気配を殺したつもりは無い。 に近づいたけど変わらず、こちらに気づく素振りも無かった。 声をかけようとしたとき、が急に知らない歌を歌い始めた。 歌詞を聞いて、視線を上げると少し遠くに烏が飛んでいる。 思わず笑みがこぼれる。 なるほど、それでか、と思った。 それから声をかけると、は心底驚いたような顔をした。 みるみる顔が赤くなっていくのを見て、少しだけからかいたくなったのは内緒だ。 本当に、しっかりしているんだかそうじゃないんだか、分からなくなる。 でも、それでもいいと思う。 もう一度歌い直してもらった。 の声には淀みがない。 のびやかで凛として、それでいて穏やかで優しい声音だ。 その間、の歌声を聞きながら、私はと東平で話した時のことを思い出した。 そして、郭嘉殿と李典殿にその内容を話してしまったことをに伝え、もう一度詫びなければ、と考えた。 歌が終わってから少しだけ話をする。 歌は得意ではないと言っていたけど、多分、歌い慣れはしているんじゃないかと思った。 口ずさんでいるから、とかそういう訳ではなく。 ただ、なんとなくそう思う。 その中では、公私の事は別だ、と言った。 それで私は納得する。 しっかりしてるとかしてないとか、そういうことじゃないんだってこと。 恐らく、私的な事の方が”経験が薄い”んだろう。 言葉で表現するなら、そういうことだと思う。 だからきっと、歌うこともそうなんじゃないかと思った。 そして、それからに詫びた。 けれど、は気にしていないと言う。 おまけに、見事に私が二人に話したときの状況を言い当てた。 いっそ、責めてくれた方が私としては楽だ。 多分、自身だってそうだとは思う。 誰かのせい、何かのせいにしてしまうのが一番楽だ、と。 だけど、はその道を選ばない。 そういう選択肢があることに自身が気づいているのか、それも疑問だ。 けれど、きっとそれに気づいていてもそれを選択しないんだと思う。 が話す、その声音や態度やその全てから、彼女自身が選択し導き出した答えへの自信のようなものが垣間見える。 少なくとも、はその答えへの迷いを持っていない。 ただ、それでも私としてはもう少し、他者へ甘えてもいいのではないか、と思う。 それが、もどかしいと思う。 その時だって、は責めるどころか礼を述べた。 そんなことしかさせられない自分が、少し情けないと思った。 は強い。 だけど、同じぐらい、きっと弱い。 だから、悩む。 協力できることがあるなら、全力で協力する。 いつだって味方でいたい。 それは前から変わらない。 そうしてから話を聞いた。 の話を聞きながら、その表情を見ていると、かなり思い悩んでいるような様子だった。 そして、悩みつつも何かを決意しようとしている、そう見えた。 が言葉に詰まり、その眉間に深く皺が彫りこまれたとき、見知らぬ老人が現れた。 驚いたことに、その老人は宙に浮きながらを”先を知る娘”と呼んだ。 この老人は、の何を知っているんだ。 半ば混乱する中、老人は名乗った。 道士、左慈。 左元放。 そして、は自分の名を知っていると言いながら、まだ出してすらいないの名前を言い当てた。 私は驚きのあまり、左慈を見てからを見た。 いま私の目に映るは、怪訝そうに眉根を寄せている。 あとから考えてみても、これから起きることは突拍子がなさ過ぎて現実味がない。 だけど、これは現実起きたことだった。 「…名前だけは存じておりますよ…その左慈さんが私に何か?」 暫く沈黙したのちはそう、目の前の左慈に向かって答えた。 私は純粋に驚いた。 は、例え名前だけだろうと左慈を知っている。 この左慈という人物は、後世に名が残るほどの何かをしたっていうのだろうか。 左慈がに言った。 「そなたの持つその知識。覇道を行かんとする曹孟徳ではなく、大徳のために使う気はないかね?」 私に理解できたのは、知識と主公のことだけだった。 だけど、それはも同じようだ。 「…そればっかね。いい加減、嫌になってくるわ……大徳?それは誰?多分、そういうことよね」 「さよう」 左慈は短く答える。 私は、暫く二人の会話を聞くことにした。 いかにせん、分からないことだらけだ。 まして、左慈に問われる自身も理解しきれていないようだし。 が左慈に問う。 「…あなたは、この先何が起きるか知っているの?」 「いいや、小生は何も知らぬ。故にそなたに頼みに来たのだ。大徳の道を支えるに充分な力をそなたは持っておる。それに加え、その知識。十二分と言えよう。いかがかね?」 随分勝手な事をいう人だ、と私は思った。 が落ち着いた声音で、間髪入れず答える。 「評価してくれるのは有り難いんだけど、私勝手に評価されるのあまり好きじゃないの…悪いけど、他をあたってくれる?それに、大徳って誰のことかしら…?」 声そのものは穏やかだけどほんの少しだけ、いつもと調子が違う。 …もしかして、少し怒っているのか? 私は、聞きながらそう思った。 左慈がに言う。 「そなたなら、誰のことか想像できよう。造作もない筈だが」 「…大徳……もしかして…」 は、ほんの少しの沈黙の後、そう呟いた。 まさか、本当に誰のことか分かったっていうのか? 一体、誰のことを言っているんだ。 「思い至ったのであれば、小生には分かる…口に出さずとも良い…それに、いま口に出されては小生も少々困る…だからといって変な気を起こすでないぞ。そなたを消すぐらい、小生にとっては造作なきこと」 そう言って、左慈は腰に片手をまわしながら、空いている方の手に炎を出して見せた。 正直、自分の目の前で起きていることだけど、全てが信じられない。 が左慈を見ながら言う。 「そう…私も折角命拾いしたのに、こんなところで早々に死にたくはないもの……とりあえず黙っとくわ」 「賢明なり」 私は二人の話に耳を傾けながら、左慈の隙を窺う。 もしもの時のために、護身用の暗器をいくつか忍ばせてある。 それでなんとか…。 「では、話を元に戻そう。、大徳を支えてはくれんかね。大徳ならば、そなたが突然飛び込んだとてその大器を以て受け入れるであろう。悪い話ではないと小生は考えるが、いかがか?」 左慈はにそう言った。 隙を見て、とは思っているけどが何て答えるのか、それも気になる。 少なくとも、は大徳が誰かを知っているんだから。 わざわざ左慈がそんなことを言うぐらいだ、それが利になると踏んでいるからにそう言っているんだろう。 ならば、はどう思うんだ。 「…お生憎さま。最初に世話になったのがその大徳だって言うなら話は別だけど、私は今ここにいる。それは出来ない相談ね」 らしい。 私は思わず、ふっと笑ってしまった。 心配する必要もなかった。 その時、左慈が声音を少しだけ変えて言った。 「ならば、この話を聞いても同じことが言えるかね?」 何を言うつもりなのかは分からないが、私は今だと判断した。 袖の中に隠していた袖箭を素早く手にしてから、左慈へ向かって放った。 「何だかよく分からないけど、退散していただくよ」 しかし、左慈は一瞬で姿を消して私の攻撃を避けると、城壁の上に降り立つ。 消えるっていうのは反則じゃないか? そう思いながら再度、今度は懐から鏢を取り出して攻撃する。 しかし、それもあっさり避けられ、左慈は階段のある方角を背に降り立った。 つられてそちらに視線をやる。 その瞬間。 「知らない顔だけど、君は誰の手のものかな?」 瞬時に間合いを詰めてきた郭嘉殿が、左慈に回し蹴りを放った。 だが、当然のように左慈はそれを避ける。 同時に、郭嘉殿に向かって足払いをするが、郭嘉殿もまたこちらに退きながらそれを避けた。 の右、数歩前に立つ。 相変わらず鮮やかな身のこなしだけど、なんで郭嘉殿がここに。 もしかしなくても…。 が声を上げた。 「郭嘉さん!なんでここに」 「やあ、。それから満寵殿も、ね」 「郭嘉殿…君…立ち聞きとはいい趣味してるじゃないか」 「うん、それは後にしようか。それよりも左慈、と言ったかな?どちらのご老公だろう?」 瞬時に話を切り替えた郭嘉殿の言葉で、私たちは左慈に視線を向けた。 確かに今はそれどころじゃない。 左慈は北を背にして、その鬚をゆったりとしごいている。 「ふむ。邪魔が入ったか…ならば、二人にはしばしの間、大人しくして頂こう。満伯寧、郭奉孝」 否や、左慈はかっと目を見開いた。 瞬間、身体の自由が利かなくなる。 全く、指一本さえ動かせない。 それは、郭嘉殿も同じ様だった。 「身体が…動かない…?」 「名を呼ばれたことにもびっくりだけど、こんなことも出来るなんて、驚き以外の何物でもないね」 「君、いまそんな悠長なことを言っている場合かい?」 「うん、そうだね。さてどうしようか」 「伯寧さん、郭嘉さん!」 数歩先に立つがこちらを振り返って声を上げる。 そんな子犬みたいに不安そうな顔をしてくれるなんてね…。 郭嘉殿じゃないけど、頭を撫でたくなる気持ちが分かる。 が左慈に顔を向ける。 「二人に何を…!」 「安心せよ。身体の動きを封じたのみ。これでそなたとゆっくり話が出来ると言うもの…さて、話を元に戻そう…だが、その前に」 そう言って左慈は髭を扱いていた手をはなし、手招いた。 もう片方の手は、腰の位置で後ろ手にしている。 「。もう少し、近くに寄ってはくれんかね」 「…自分が来ればいいでしょ」 「大人しくいうことを聞かねば、二人は無事に帰れぬかもしれぬぞ」 「、行かなくていい」 「郭嘉殿の言う通りだ、行くな」 まさか、自分が質にとられるなんて夢にも思わなかった。 は一拍おいてから、数歩前に出た。 「もう少しこちらへ」 「注文が多いのね…」 「「!」」 言いながらまた数歩左慈に向かって歩を進める。 私と郭嘉殿の声が重なった。 三歩(さんぶ)―4.32メートル―ほど先にが立つ。 「その辺りで良かろう……さて」 左慈はそう言って扱いていた手を止めて、そのまま自分の顔の高さまで持ち上げた。 その指には、いつのまに何かをつまんでいる。 あれは、確か…。 が声を上げた。 「それ!あの鏡の欠片…確か、文則さんちにしまってあるはず…どうして、それをあなたが!」 は左慈にそう言った。 私はの背を見る。 視界に入る郭嘉殿も、の背を同じように見ているようだった。 が言った。 「…まさかそれ…あなたが作った物なの?」 「いいや。これは小生が作った物ではない。遥か昔、小生と同じように仙境に住まう何者かが作った物…その意図も小生には分からぬ。ただ、この鏡と特別な祭器となり得る何かとが呼応しあいその道が開けたとき、こちらとあちらを行き来できる」 まさか、こんな所でその鏡の謎が解けるなんて、正直思っていなかった。 言葉が出ない。 が言った。 「そこまで分かっているなら……この際ついでに聞くけど…なんで、私だったの?文則さんだったの?伯寧さんだったの?こちらへ行ったり、あちらへ行ったりしたのが…」 「小生も詳しいことは知らぬ。ただ、互いに惹かれあう何らかの力が関係している、とだけ言っておこう」 「惹かれあう、力…?…的を射ない答え方ね…意味がよく分からないわ……誰にでも起こりうることじゃない、ってことでいいのかしら?」 の言う通りだ。 言っている意味がよく分からない。 が指摘するように、私たちだから起きたっていうことなのか? だが、その答えの半分はすぐに導き出された。 「左様。強いて言うならば…、そなたがいて初めて起きること。逆に言えば、そなたがおらねば起きぬ」 「私?私のせい?…私が…その祭器っていうこと?」 「いや、どんなものかは分からぬが祭器は他にある。その傍に、そなたがいたこと、それが重要なのだ。そなたの持つ力によって、その所在に関係なく、祭器とこの鏡が呼応する」 私はの背を見る。 そして、思い出した。 祠の事を。 あれが、祭器になるんだろう。 その傍にがいると、あの石鏡と祠が呼応する。 それは分かったが、石鏡単体でも発動している。 それは何故だ? それに、が持つ力、というのは何だ? が言った。 「力…力って、そんな大層なものを私は持ち合わせていないけど」 「気づいておらぬだけで、既に有しておる。本人が自覚しているかは、然程重要ではない…それはそなたの知る、同じ体験をしたものを思い出せば理解できよう」 「同じ体験をした、私の知っている人…」 左慈の問いに、が暫く黙る。 そして言った。 「祖父のことね……だけど、なんで」 「そなたの一族には、そなたの持つような力が元来備わっておるのだろう。それ以上は小生には分からぬ」 「……待って。それなら私の父だって同じものを持っているってことよね?だけど、父はそんな体験をしたことはないはずよ、少なくともそんな話を聞いたことが無い…十三の頃までしか一緒に過ごしてないけど…」 が言った。 の父…。 当然人の子なんだから両親はいるはずだ。 けれど、初めてその存在を知った、そんな気分だ。 十三の頃まで、しか…? 何か、は訳ありの事情を抱えているのか? 左慈が言う。 「それはそなたが知らぬだけやも知れぬ。ただ、同じ血が流れているからと言って、皆一様に備えて生まれるわけではない。その力の大小には、差が生じる。中には力を持たぬまま生を受ける者もいるであろう。故に、祭器の傍におっても発動せぬ場合もある」 「そう…隔世遺伝みたいなことね……ところでさっきあなたは、むこうとこっちを行き来する相手は、互いに惹かれある何らかの力と関係してるって言ったわよね。それって、私の祖父にも誰か相手がいたってことなのかしら?」 「恐らくは」 は左慈に問い続ける。 もしかしたら、こういうを初めて見るかもしれない。 これだけ聞くってことは、やっぱりも気にはなってたってことだ。 表に出さなくても、恐らく自分でも気づかない不安を抱いていたんだと思う。 何に、ではなく、きっと全てに。 が言う。 「恐らく…そう、断定はできないのね……なら、相手が決まる要因は?」 「小生にも分からぬ。強いて答えるならば、先も言った通り惹かれあったもの同士。それが何かまでは不知…」 「それなら、人数は?」 「それは、力の程度によるものであろう。力なくば、己が移動できたとて、他者まで移動させることはできぬ。同様に、その力が大きければ多数の者を移動させることが出来よう」 「…それは、力を自覚すれば自由にコントロール……え、と使いこなすことができるってこと?その祭器さえ近くにあれば自分の思うタイミング…使いたいときに、それを使って移動が出来るものなの?」 が知らない単語を都度、言い直しながら左慈に問う。 左慈はそれを気にした風も無く、ただ淡々と答えた。 「いかにも。しかし、自覚なくばどのような瞬間にそれが発動するかは小生にも分からぬこと。そのきっかけまでは分からぬ」 「…随分物騒な話ね……そんな危険極まりないもの作るなんて、よっぽど暇してたのかしら。仕事にほぼ全ての時間を費やしていた私からすれば、羨ましい話だわ」 呆れたように、は言った。 どっかで聞いた話だな、と思っていたら、郭嘉殿が呟いた。 「もっともだね」 「念のため聞くけど、それはどっちのこと?」 「うん、両方」 「…君は結構、仕事を抜け出してると記憶しているけど」 「失礼だね。私は暇をしているわけではないよ」 「…そうかい。まったく、君には敵わないよ」 「嬉しい言葉をありがとう、満寵殿。だから私は、君のことがお気に入りなんだ」 「それは、嬉しくない言葉だ…君が女性なら話は別だけど」 「言うね、満寵殿も」 私は呆れて息を吐き出した。 後ろ姿しか見えないが、きっと郭嘉殿は笑みを浮かべているだろう。 最中、左慈がに言った。 「なれば、そなたもいっそ道士を目指してみるかね?」 「おことわりよ」 「さようか?そなたには道士の資質も備わっておるが」 「俗物のままで結構よ。暇はなくても満ち足りてるし、これでも色々と楽しんでるわ」 「残念なことよ」 左慈は首を横に振る。 まったくらしい。 けれど、まさか道士に勧誘されるなんて、の才能は読み切れないな。 左慈が顔を上げ、を真っ直ぐ見る。 少しだけ空気が変わった。 「さて、そろそろ本題に入るとしようか」 「本題、ね…」 「うむ。この鏡…そなたは何故、これがこのような形になったのか、知らぬであろう?」 言って、左慈は空いている方の手で顎髭をまた扱いた。 はほんの少し顔を上げたが、黙ったままだ。 こいつは何を言うつもりだ? いや、そんなことはすぐ分かる。 だが、それは…。 「小生が教えて進ぜよう」 「待て!それは!」 「…伯寧さん?」 私は思わず叫んだ。 がこちらを少しだけ振り向いて、不思議そうに言う。 左慈は表情を変えない。 郭嘉殿も黙ったままだ。 それは駄目だ。 が知るには残酷すぎる。 いつだかは、もし騙されていたらそれは騙された自分が悪い、と言っていた。 だけど、それが事実として明らかになれば、例えそう思っていたとしても心は痛むはずだ。 騙される前のことを信じていればいるほど。 だからきっと、真実を知ってしまったらは…! しかし、そんなことを思う私に構うはずなどなく、左慈は今まで通りただ淡々とに告げた。 「。この鏡は、そなたの才を欲しがった曹孟徳が、典韋なるものにわざと破壊させたのだ。そこにおる、満伯寧、郭奉孝の目の前で」 淡々とした声音が、その話をより残酷に感じさせる。 が少し俯く。 感情の読み取れない声で言った。 「…それで?」 左慈が続ける。 私は、もうやめてくれと思った。 自由が利かず、顔を背けることが出来ない。 ただ、目を閉じた。 「そなたはずっと騙されておったのだ。騙された上で曹孟徳につき従い、結果濮陽に連れ去られ拷問という憂き目に遭った。しかも、そこな二人はそなたが騙されていることを承知していた。そのような者らに力を貸す、そんな義理はないであろう。そなたは、そなたが思う以上に優しい…今からでも遅くはない。覇道のもとを去り、大徳のもとでその道を支える…それがそなたにとって、何よりの道だと小生は考えるが、いかがかね?」 はただ黙っていた。 それもそうだろう。 こんなことを聞かされたら、普通誰でも言葉を無くす。 信じていたものを覆されたら、例えどんな人だって、そう易々と立ち直れるものか。 立ち直れず、廃人のようになってしまう人だって当然いるだろう。 どんなに騙されていようが気にしない、いくらそう頭で思っていても、その事実が目の前にあるのとないのとでは話が違う。 はきっと、私たちのもとから去るに違いない。 だけど、それを引き留めようとは思わない。 が、そう決めたなら。 「話は、それでおしまい?」 が唐突に言った。 私は再び目を閉じた。 の言葉に、ただ耳を傾ける。 「教えてくれて悪いけど、だからなに?それがどうしたの?って感じ」 思わず、私は目を開いた。 は今、なんて言った? が続ける。 「騙されていようがいまいが、ここだって決めたのは私よ。それを否定しようとするなんて、私の存在を否定するのと同じ…いい度胸してるじゃない、あなた」 いつか聞いた言葉を、がまた言っている。 その声音は、少しだけ嘲笑っているような印象を受ける。 何かを不安がったり、悩んだり、戸惑っているような感じは一切ない。 どこか明るく、そして自信のようなものを感じた。 「…それに、もしそれが本当だっていうなら、私は寧ろ感謝するわ。おかげで今、ここに立っていられるんだもの」 は言った。 それを聞いて、私は思わず自分の耳を疑った。 きっと、郭嘉殿もそうだと思う。 は構わず続ける。 「そんな話聞かされたところで私の心は変わらない。過去はそれほど重要じゃないわ。今私がここにいること、それが一番重要なの。もう、それは終わったことよ。それを蒸し返して私の選択を覆そうなんて、甘いわね。千八百年早いわ」 の言葉に、私はふっと口元を緩めた。 郭嘉殿が呟いてから言った。 「千八百年…満寵殿、君まだ隠してたのか」 「もう流石にないよ」 「まったく…君と言い、と言い…やってくれるね。騙された気分だよ」 「君に言われたくは無いな」 郭嘉殿のため息が聞こえた。 は左慈に向かって、言葉を続けていた。 「…まったくいい性格してる…少なくともあなたはそんなところに立っているより、縁側で猫抱いてる方がお似合いよ」 「この話を聞いても揺らがぬか…実に惜しい」 「もう話すことなんてないわ…おとといきやがれ」 いっそ清々しいぐらいには言い切る。 なんだか、頼もしく見える。 郭嘉殿じゃないし年上だけど、は女の子、だよね? こんな頼もしい人、…他に知らないな。 そのとき、左慈が声音を変えて言った。 「…ならば、致し方ない。忘れてもらおう」 「「!」」 言うや、左慈は姿を消すと一瞬でとの間合いを詰めた。 間合いを詰める、なんて生易しいものじゃない。 のすぐ目の前へ瞬時に現れる。 両手をの頭を挟むようにあげた。 はそれに素早く反応すると、その両手を自分の両手で眼前を裂くように払いながら退く。 しかし、瞬きをする間もなく左慈はの真後ろに現れた。 それには、後ろ回し蹴りで応戦する。 の裙の裾が翻った。 だが、左慈はまたも姿を消す。 左慈にもびっくりだが、にもびっくりだ。 こんなに立ち回れるなんて。 よく分からない力を持っていることと、何か関係があるのだろうか。 いや、多分だけどそれだけじゃない気がする。 左慈の姿は見えないが、声だけが耳に届く。 「…小生についてこれるとは、なかなか良い動きをする。それだけに残念だ、」 「張角の面妖な技って、今すっっごく納得したわ…反則でしょ、これ」 が冗談めかして言う。 いま、そんなことを言っている場合じゃない! の背に向かって私は言った。 「!私たちのことは良いから、君だけでも逃げるんだ!」 「満寵殿の言う通りだ。!」 郭嘉殿もまた、語気を強めてに言う。 しかし、背を向けたままのは思いもよらないことを言った。 「おことわりします」 「「!」」 郭嘉殿と声が重なった。 が周囲を警戒しながら、少しだけこちらに顔を向けて言う。 「逃げ切れないです、多分…それに、お二人を残して逃げるなんて、私の選択肢にはありません」 「そんな…!」 「馬鹿なことを!」 郭嘉殿が珍しく言葉を汚す。 が正面に向き直り、背筋を伸ばした。 凛とする。 一瞬空気が変わった。 鋭く研ぎ澄まされた空気。 指一本でも動かすのを躊躇いたくなるこの感じ。 これは初めての経験じゃない。 一度、が主公に初めて会った日、その場にいた全員が経験している。 その時は唐突に来た。 「そこ!」 が上段に蹴りを放つのと、左慈が姿を現したのはほぼ同時だった。 一瞬何が起きたのか分からなかった。 の放った蹴りが、左慈の頬を掠める。 わずかに血が飛んだ。 再び左慈が姿を消し、言葉だけを残す。 「ほう、侮れぬ」 「くそ、掠っただけか!」 「惜しいな…」 私は思わず呟いた。 郭嘉殿もまた呟く。 はまっすぐ正面を見ている。 そこへ左慈が姿を現した。 が見たことの無い構えをとる。 「これならどうかね?。そなたはどうする?」 左慈は言いながら、片手に炎を作る。 陽炎が見えた。 左慈がその手を振りかざすと炎の大きな塊が、その手の平から放たれる。 はそれを避けようと後ろ足を踏み込んだが、しかし、瞬間踏みとどまった。 私は―恐らく郭嘉殿も―瞬時にその意を解する。 が避ければ、左慈の攻撃は私たちにあたる。 だから、そうなるまいと盾になることにしたんだ、と。 「「避けるんだ! !」」 郭嘉殿が私と同時に叫ぶ。 はこちらを振り返らず、身を固めた。 にあたる、そう思った瞬間、炎が消える。 と同時に、左慈がの後ろに姿を現した。 しかし、は素早く反応して手刀を繰り出しながらこちらを振り向く。 の顔が見えた、その時。 再び左慈はの後ろに現れると、の顔と後頭部にそれぞれ手をかざした。 左慈が言う。 「その身を盾とする、その意気やよし。それ故、まことに残念だ…そなたの覚悟を決めるその心意気、そして才、それらがあれば間違いなく大徳の支えとなれたものを……覇道のもとにいる今、この知識がそなたにあるは脅威。万が一、その気が変わるようであれば返そうぞ」 言い終わると、左慈は姿を消した。 そして、がその場に両膝をつき、両手をつく。 肩で息をしている。 今にも崩れそうだった。 急に、身体が軽くなる。 動けるようになったと、判断する前に身体は既に動いていた。 「「!」」 に駆け寄る。 郭嘉殿もまた同じだ。 膝をついて、に手を差し伸べた。 は、身体を起こそうとしたが直ぐにふらついて、前のめりになる。 それを正面から咄嗟に受け止めた。 は自分の額を私の胸の下あたりにつけ、私の両腕を掴んで倒れ込むのを堪える。 大分苦しそうだ。 その時、左慈の声だけがどこからか響く。 「また会おうぞ、。先を知る娘よ」 私に額を当てたまま、は肩で息をして言った。 「おことわりよ。おとといきやがれ、ってさっきも言ったわ……同じことを、何度も言わせないで、くれる?」 「ならば、最後にもう一つ教えて進ぜよう。鏡のみを使い行き来すれば、もう二度と往来はできぬ。その意味、じっくり考えるが良かろう」 それだけ残して、左慈の気配は消えた。 が言った。 「何よ、それ…それならそうと言ってくれれば、いちいち聞いたりしなかったのに。頭使って損したわ……悩んでたのが馬鹿らしい……ていうか、騙したとか騙さないとか関係ないじゃない、それ…まったくいい性格してるじいさんだわ………うう、気持ち悪い」 「…君って人は…」 に腕を掴まれていて、私は腕を動かせない。 の横で片膝をつく郭嘉殿がの背をさすりながら言った。 「君は本当に減らず口だね、」 「か、郭嘉さんに…言われたく、ないです…」 「まったく呆れるね」 「それも郭嘉さんに、同感…です」 郭嘉殿が息を吐き出した。 これだけ郭嘉殿と話が出来るなら、まあは大丈夫かな。 そうしてから暫く、は肩で息をしたまま黙った。 私の腕を掴む手に力が籠る。 …まったく、無茶をするなってあれほど。 それからほんの少しだけ時が経ってから、の手に籠っていた力が徐々に抜ける。 私はそれに気づいて、に声をかけた。 「、大丈夫かい?」 「ええ、もう大丈夫……あれ?」 が唐突に上げた声に、私と郭嘉殿は思わず顔を見合わせた。 に視線を戻す。 は、私の腕から手をはなすと、そのまま両手で顔を覆った。 慌てたような調子で言う。 「うそ…なんで?どうして?…まってよ、それだけは駄目…それだけは…」 は両手で自分の顔を挟むようにした。 何かに必死になっている。 「だめ…なんでなの?……違う、落ち着こう……思い出せるところから、主なの……え、と…」 一人で考え始めてしまったに、私と郭嘉殿は一様に眉根を寄せてお互いを見合った。 さっき左慈はに、忘れてもらおう、そう言ったはずだ。 何を忘れてもらうのか、そんなものすぐ見当がつく。 に視線を戻した時、がそのままの体勢で何かを呟きだした。 それは、が自分で確認するための作業の様に思えた。 しかしその口にしている内容は、が知っていると分かってはいても驚く以外の何物でもなかった。 「えーと、そうね…え、と…166年党錮の禁、184年黄巾の乱、189年霊帝崩御、少帝即位。張譲、何進殺害。袁紹、袁術、宦官を誅殺。董卓、洛陽入城後少帝を廃し、献帝即位、相国となる。曹操、董卓暗殺失敗。190年虎牢関の戦い。董卓、劉辨を殺害。洛陽を焼き払い、長安へ遷都。191年汜水関の戦い。孫堅、華雄を破り洛陽に入る。孫堅、黄祖を攻め戦死。192年界橋の戦い。袁紹が公孫瓚を破る。王允、呂布、董卓を誅殺。李傕、郭汜、献帝を確保。曹操、黄巾軍を降し青州兵として収める。193年匡亭の戦い。袁術、曹操に破れ寿春を本拠にする。陶謙、徐州牧となる。曹嵩、陶謙配下に殺害される。これにより曹操が徐州を攻める。194年陶謙病死、劉備徐州を得る。張邈、陳宮と反逆し、呂布を迎え入れる。程c、荀ケ、夏侯惇が鄄城、他二県を死守する。呂布が濮陽に駐屯する。飢饉が起きて、引き分ける。195年定陶の戦い。呂布は破れて逃走する………」 「左慈が言っていた脅威って………君は…」 私は思わず、そう呟いた。 郭嘉殿は言葉を発さず、ただを凝視している。 はといえば、同じ体勢のまま変わらない。 「だめ!やっぱりこの後が思い出せない!これっぽっちも…!どうして?名前は出て来るのに、何をしたのかが出てこない!どこの人かもわからない!なんで?これじゃ、私……」 「…まさか君は、その調子でその後のことも?」 郭嘉殿がに問う。 私は郭嘉殿を見てからを見た。 がそのままの体勢で答える。 「そう、覚えてた…覚えてたはず。だけど、その先が分からない、思い出せない…何年先まで覚えていたかすら覚えてない。それに、さっきのだって他にも何か覚えてたはずなのに…虫食いになってる…」 「虫食い?」 私は不思議に思って、に聞き返した。 忘れて思い出せないなら、記憶が抜ける、と表現すると思ったからだ。 は言った。 「そう…私、ものを覚える時、大体のことは映像で覚えるの…十二の頃に自分でまとめたノート…紙に書きだしてまとめたわ、あの時のこと、臭いや空気その全てを今でも覚えてる…なのに、私の頭にある記憶の中のノートにはさっきの以外、全てが白抜きみたいになってて何も読めない、何も分からない…思い出せない」 私と郭嘉殿は顔を見合わせた。 に視線を落す。 「忘れちゃ駄目だったのに…私、それだけは…違う、いくつかあった、いくつかあったはず…私は何をしようとしてたの?私は何を考えてたの?自分が思ってたことなのに、なんにも思い出せない!」 「…」 私はの肩に手を置いた。 はただじっと俯いて黙ったままだ。 そんなに悩むほど、が認識していたものは大きな問題だったというのか? それをは一人で抱えていた? いや、抱えていたと言うよりは、なりにひとまずの答えが出るまで黙っていたんだろう。 恐らく、整理がついたら話してくれたんだと思う。 全てではなかっただろうけど。 その時、が少し今までよりも大きめの声で言った。 「駄目!本当に思い出せない!」 それから、急に身体を起こした。 私と郭嘉殿はつられてを視線で追う。 はそこで両膝をついたまま目を閉じて、一度大きく深呼吸をした。 それから瞼を上げる。 そのときにはもう、悩んでいるような顔をしていなかった。 「とりあえず、考えるのは止めよう。もういくらひっくり返しても、出てこないものは出てこない!」 そう言って、は両手を合わせて、一度鳴らした。 「思い出せたらラッキー、思い出せなかったとしても全力で対応する。もう、これしかないでしょ」 言い終わってから、よし、と言って両の拳を握った。 何が、よし、なんだろう。 いや、ちょっと…郭嘉殿も私もについていけていない。 初耳の単語を聞き返す余裕すらない。 そんな私たちにが言った。 「あれ?伯寧さんと郭嘉さん…どうかしましたか?そんなハトが豆くらったような顔して」 私と郭嘉殿は一様に額に手を当てた。 「…今、私たちは君についていけてないんだ…それは、分かるかい?」 「あ…、ご、ごめんなさい」 手を当てたまま、に視線を向ける。 は、両手を組みながら言った。 郭嘉殿が言う。 「なにか、解決の糸口が見つかった、のかな?」 それに、は首を振って答えた。 「いえ、何も。なので、考えるのをやめます。最初から知らなかったと思えば、皆さんと同じ条件だし…まあ、二歩進んでたのが一歩下がった、いや三歩は下がってるかな…何にも覚えてないし」 そう言っては左手の人差し指をまげて顎に当てる。 私は呆気にとられた。 いかにせん、切り替えが早すぎる。 郭嘉殿が言った。 「はそれでいいのかな?忘れたものに、思い入れがあったんじゃないの?」 は郭嘉殿を見て手を下ろすと笑みを浮かべて行った。 「とりあえずは、いいです。それを忘れても、あの頃思いを馳せた時の気持ちや、尊敬の念を抱いた瞬間の心までは忘れてないようなので…それだけ覚えていれば十分…それに」 そう言って、は唐突に立ち上がった。 つられて視線を上げる。 「なんか、すっきりしたし。忘れたことも、もう帰れないってことも」 「…」 私は呟くように言った。 しかし、が即座に私の目の前で左手の人差し指を立てた。 「勘違いしないで下さい、私は悲観してません。むしろ、安心しました」 「それは、どういう…」 私はの指を思わず注視する。 は徐にその手を下ろすと腕を組んで、中空を見た。 「なんの前触れも無く、もし向こうに戻っちゃったらどうしよう、って社長には悪いけど最近思い始めてたんです。だから、安心しました。これで余計なこと考えずに色々出来るな、と思って」 そう言っては笑った。 なんて清々しく笑うんだろう、と思った。 郭嘉殿と顔を見合わせてから、立ち上がる。 そして、それは相変わらず唐突だった。 「あー!私、一千万近く貯金があったんだった!あんな大金もったいない!いつか旅行に使おうと思ってたのに!建造物と温泉めぐり…夢のコラボレーションが!!!」 は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。 夢の…なんて言ったんだ? がゆっくり立上りながら言う。 「それも…最初から無かったことにしよう…ボランティアに寄付したと思おう…ああ、いいことしたな、私……きっといいことある、はず…」 「…君は本当に忙しないね」 郭嘉殿が呆れて言った。 は郭嘉殿に視線を向けると、笑みを浮かべて言う。 「それが私ですから。どこ行っても、何やっても、それだけは変わりません…覚悟、決めて下さい」 郭嘉殿が一瞬止まる。 言うね、も。 「本当に面白いことを言うね、は。そういう時は普通、許してくださいって言うものじゃないのかな?」 「そうなんですか?すみません、私の辞書には無かったので、初めて知りました。覚えておきますね」 「その減らず口…絶対に黙らせてあげるから、君こそ覚悟するんだね」 「それは、お手柔らかに」 笑顔の郭嘉殿に、が返す。 なかなか手強そうだ、と私は思った。 が一拍おいてから東の方角に視線を投げる。 その時、郭嘉殿が私に目配せをした。 その意味は、一瞬で理解できた。 に、謝らなければ。 石鏡が割れた真相を黙っていたことを。 私たちは、どちらともなく一歩、後ろに退いた。 が一瞬不思議そうな顔をする。 それから、頭を下げた。 言葉を発するのさえ、憚られる。 が少し明るさの残る落ち着いた声音で言った。 「謝るんですか?また…さっきの話、聞いてましたよね。私は気にしてないです、これっぽっちも……お二人とも頭、上げてもらえますか?」 の言葉に従った。 郭嘉殿もまた、同様だ。 が静かに、穏やかに言った。 「お気持ちは分かります。だから、その気持ちだけ私は受け取ります」 「それはありがたいのだけれど、それだと君に示しがつかない」 郭嘉殿が言う。 は郭嘉殿を見たあと一度無言になると、私を見た。 「伯寧さんも同じですか?」 「…ああ」 私は短く答えた。 は、私と郭嘉殿を交互に見てから、一度目を閉じて息を吐き出した。 それから、私たちを見ながら言った。 「なら、お二人にお聞きしますけど、その謝罪は私のため?それとも自分のため?」 私と郭嘉殿は、の質問に即答できなかった。 上手く説明が出来ない。 のためだと思ったが、本当にそうだろうか、と自分を疑ってしまった。 珍しく、郭嘉殿もそのようだった。 言葉に詰まる私たちに、が言う。 「答えられなくても構いません、その代わりに聞いて下さい」 は、変わらずただ静かに、穏やかに話す。 それが、なぜだか緊張を煽る。 の表情もまた穏やかそのものなのに。 「もし、私のためというのであれば、もう謝らないで下さい。私はそれを望んでません。お気持ちだけで十分です、ありがとう」 が目を閉じながら会釈する。 それから一拍おいて言った。 「…けど、もし自分のためだというのなら…」 言って、顔を俯く。 ゆっくり顔を上げた。 「甘えるな」 表情はなくて、静かに放った声に背筋が伸びる。 「いつまでもそこに囚われて、動かずにいるのは能なしのすることよ。謝ってる時間があったら、例え一歩でも、前進するにはどうすればいいのかを考えて。それが何より、自分のためだと私は思う」 の声は荒げているわけではないが、力強い。 聞いていて、そのとおりだ、と思う。 言葉はきついが、私たちを思っているのは伝わる。 そしてその言葉自体、何より自身が己のために言い聞かせている、そう感じた。 がくるりと背を向ける。 両手を後ろ手に組んで言った。 「まあ、どう受け止めるかは個人の自由…結局その人自身の問題だからそこまで面倒は見れないし、例え言うこと聞いて結果が思うようなものじゃなかったとしても責任は取れない……何が何でも謝りたいって言うなら、もう好きにすればいい…だけど、私も自分のことで精いっぱいだから、これ以上は構えないわ。そこはあしからず」 その背中を私はただ黙って聞きながら、見つめた。 自己保身のために個人の自由だ、と言っているんじゃない。 そんなことはすぐ分かる。 この言葉は、相手の、私たちの自立を促すためのものだ。 同時に、自身が他者を突き放す言葉。 そして、面倒見れない責任取れないとはいうけれど、きっといざ責められた時それが暴言であっても多分、はそれを受け入れる。 そんな気がしてならない。 がこちらを振り向く。 一転、笑みを浮かべてほんの少し首を傾げた。 「ごめんなさい、人生の大先輩方に偉そうなこと言って。それを許してとは言わない…だけど、本当に感謝はしてる。道の先にいてくれるだけで心強いもの。ありがとうございます」 は、なぜ一人で立とうとするのだろう。 いや、きっと…そう成らざるを得ないところに立っていたんだろうな。 そう、きっと。 郭嘉殿が口を開いた。 「君の考えはよく分かったよ、。なら、私たちもこれ以上は言わない、でいいね?満寵殿」 「ああ、勿論。こんな見事なお説教されたら、もう言えることは何もないよ」 私はそう答えながらを見下ろす。 はただ笑って答えた。 …それにしたって、大の男が情けない。 女性に守られるわ、説教されるわ…。 さっきの今でこんなこと考えるのは不謹慎かもしれないけど、もでこういう場面には慣れてるみたいだし。 改めて、于禁殿がいきなり説教されたっていうのも、頷ける。 何をしたのかは知らないけれど…。 そんなことをふと考えた時、が言った。 「さて、じゃあとりあえず、私は文則さんのお屋敷に帰ります。侍女さん達にすぐ帰るって言って出てきちゃいましたし…それと…」 そう言って、は郭嘉殿に向き直った。 それから郭嘉殿に言う。 「曹操さんにさっきあった話をするかしないかは、郭嘉さんにお任せします。曹操さん以外の方にも話すかどうかを含めて」 「うん、承知したよ」 「あ、でも典韋さんには黙っててあげて下さいね」 郭嘉殿がほんの僅か首を傾げる。 が言った。 「悩んじゃいそうですもん、典韋さん。だから、典韋さんの耳には入らないようにしてください」 「なんにせよ、人払いはするつもりだけど…承知したよ。優しいんだね、は」 そう言って、郭嘉殿がの頭に手をのせようとする。 が、はそれを避けた。 なんだろう、このもやっとする感じ。 郭嘉殿は、警戒するを見ながら、その肩をすくめた。 が話を続ける。 「……それから、李典さんと文則さんにも話をします」 「于禁殿は分かるけど、なんで李典殿?」 「結構、酷いですね、郭嘉さん…李典さんに、多分口止めかなんかしてらっしゃいませんか?」 「よく分かったね」 口元に当てた手の方の肘を、もう片方の手で支えながら郭嘉殿が言った。 は呆れたような顔をする。 それには答えずに、が続けた。 「……だからです。口止めするまでのことを既にご存知なら、多分李典さん、悩んでるんじゃないかと思うので…そのままにしておくの、可哀想でしょ。いくらなんでも放っとくのはいかがなものかと」 「本当に他人思いで優しいんだね、は」 「違います。私がもう悩んでいないことを、強いてその他人が悩む必要はないと思うからです。自分が気持ち悪いだけ…優しいんじゃなくて、自分勝手なだけです」 そういうに私は言った。 「それが優しいっていうんじゃないのかな?」 「いいえ。本当に優しい人は、口答えもしないし、難しいことは言わないし、黙って受け止めて、受け入れることができる。それが優しいってことだと思います…私がしようとしているのは、多分どちらかといえばただのお節介です」 私は黙った。 そう思ってるってことは、そういう経験をしたことがあるってことで、いいのかな? それとも、経験はないけどそれが理想? 充分優しいとは思うけど…お節介、ね。 郭嘉殿が言った。 「なるほど。の鋭さには、大いに期待、かな」 「…郭嘉さん、分かってて聞きましたね」 「がどのぐらい有能か知っておきたかったんだよ」 「…勝手にして下さい」 「もちろん、今後も勝手にさせてもらうよ」 が盛大なため息を吐き出した。 それから、気を取り直すように体を起こして言う。 「オーケー、ノープロブレムよ…それじゃ、私は帰ります。改めて、今後ともよろしくお願いします。では」 はそう言って拱手すると、階段の方へと去って行った。 こちらが返す暇もなかった。 もちろん、初耳の単語を聞き返す暇も。 何をそんなに急ぐ必要が?と思ったけど、多分李典殿のところに寄るのかな? 私は腰に手を当てて、後ろ頭を掻いた。 郭嘉殿がが去って行った方を向きながら言う。 「は悉く私たちを置いていくね」 「それは同感だ」 「あそこまで徹底していると、逆に清々しいよ」 「はは、まったくだね」 「ところで…」 郭嘉殿が私を振り向く。 私は郭嘉殿に視線を落した。 「野暮なことを単刀直入に聞くけど、満寵殿はのこと、どう思っているのかな?」 「なんだい薮から棒に」 「いや。やっぱり気になるからね…敵がどのぐらいいるのか確認しておきたいんだ」 「敵って…君ね…」 私は呆れながら腕を組んだ。 わざわざ野暮なこと、なんてこの人が言うぐらいだ。 まあ、そういうことを言っているのは間違いないだろう。 郭嘉殿が私の目を真っ直ぐに見て言う。 私もまた、それを真っ直ぐに見た。 「あらゆる意味で…が向こうに戻らない、というのであれば…私としては本腰入れたいんだけど」 「本腰って…言っておくけど、私はの味方でいたいだけだ。それ以上も以下もないよ」 「ふうん、それこそ意外だね。私はてっきり、満寵殿も同じかと思っていた…良いのかな?本当に」 「良いも何も私にその気はないし、私のものでもないよ、は」 「そう?なら、遠慮なく…あとから違った、と言われても譲る気はないからね」 「言うつもりも無いけど…そういうことは成就してから言ってくれるかい?」 「それもそうだね。なら、早速色々と考えてみようかな」 私は息を吐き出した。 何だかすごく、もやもやする…。 「郭嘉殿。口出しはしないけど、を悲しませることだけは絶対にしないでくれよ」 それだけ、私は伝えた。 は強い、そしてそれと同じくらい、きっと弱い。 表に出さないだけ、出せないだけだ。 だから、悲しませないで欲しい。 私の勝手な願望だけど。 郭嘉殿は、しばらく黙って私を見る。 それから笑みを作った。 「もちろんだよ。私はの色んな表情、その全てを見てみたいとは思っているけど、悲しませたり辛い思いをさせたいとは思っていない。そこは安心して欲しい」 「…そうかい」 私はもう一度息を吐き出した。 郭嘉殿が言う。 「さて、私たちも行こうか。これから曹操殿のもとへと思っているけれど、満寵殿も行ってくれるだろう?」 「ああ、行くよ」 「では、行こうか」 そう言って、郭嘉殿が背を向ける。 私は腕をほどきながら、もう一度ため息を吐き出した。 はもう、ずっとここにいる。 出来ればずっと、ここにいて欲しいとは思っていた。 嬉しいのに、何故か手放しで喜べる気分ではない。 「味方で、いたいだけだ」 もう一度だけ、長く、ため息を吐き出した。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 前置きが長い そして全てがすっごい長いし、何でかちょっとシリアスで終わるし 郭嘉がいきなり好戦的だし、相変わらずヒロイン突っ走るし 全くもって困ったもんです とりあえず、色々回収していけたらいいな、と思ってます 于禁…どこにいったんだろう← 2018.04.21 ![]() |
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