なんで笑うんだ なんのために笑うんだ 誰のために笑うんだ 笑ってるだけじゃ、なんにも分からねえのに あんたは一体、なにを誤魔化してんだ 人間万事塞翁馬 24 叔父貴は呂布軍に殺された。 絶対に仇は討つ。 だけど、俺はもう一つ気になっていることがあった。 濮陽へが連れ去られた。 東平を発つとき、夏侯惇殿からのことを紹介された。 といっても、その時、と面と向かって紹介を受けたわけじゃない。 ただ、夏侯惇殿から、あそこにいるが共に従軍するので、もし近くにいる時は気にかけてやってほしい、と頼まれたんだ。 戦の経験がない、らしい。 の存在は知っていたが、どんなやつかは知らない。 隣にいた楽進は素直に頷いていた。 俺も頷いたが、だが、それならなんで従軍させるんだ、と思った。 疑問に思ったが、聞かなかった。 呂由を攻めているとき、戦場でを見た。 見たくて見たんじゃない。 目立つんだ、あいつ。 動きが、身のこなしが綺麗すぎて。 本当に戦の経験がないのか?ってぐらい、隙がなかった。 無駄がなかった。 おいおい、待ってくれよ、と思ったね。 いきなり出てきた戦経験無しの美女が、なんであんなに戦場で立ち回れるんだ? そう思った。 俺と楽進の軍は、他の軍より先行して前線を目指す。 だから、野営が一緒になる事はない。 できれば早い内に挨拶ぐらいは済ませたい。 そう俺は思った。 なぜだか、その時そう思った。 そしたら、たまたまあいつが郭嘉殿と荀攸殿の後ろについて、馬を引きながらこっちに来た。 多分、たまたま近くを通ることになった、そんな感じだ。 だけど、ここだと思った。 ここを逃すわけにはいかねえ、ってそう思った。 俺が彼女を見ると、直ぐに彼女は気づいて軽く会釈し返した。 俺は、近くにいた楽進に声をかけてから彼女のもとへ急ぐ。 彼女は、郭嘉殿と荀攸殿に何か話しかけると、一人その場で立ち止まった。 『はじめまして、です』 まさか、向こうから先に頭を下げられるとは思っていなくて、俺は一瞬止まった。 静かで落ち着いた声だった。 低くはない、けどきんきんするような高い声でもない。 耳に心地よくて、よく通る、聞きやすい声。 そんなことを考えてる間に、楽進が自己紹介を済ませた。 俺もそれに倣って、自己紹介する。 そして、聞いた。 本当に戦はこれが初めてなのか?って。 そしたら、は言った。 『はい、おっしゃるとおり。みなさんの足を引っ張らないように、気を付けます』 そう言って、柔らかく笑った。 その時、俺はピンときた。 本当に戦が初めてで、そして、多分、戦と無縁の場所で生活してたんだ、って。 なんで、そう思うのかって聞かれたら、理由は答えられないけど、強いて言うなら勘てっやつだな。 俺の勘だ。 んでもって、多分それは正解の筈だ。 間違いない、こいつは戦を知らない。 でも、なんでそんなやつが、ここにいるんだ。 俺はそう思った。 と、同時になんであんなに立ち回れるんだ? そう思いもした。 全く不思議な奴だった。 それから彼女は一言断わってから、郭嘉殿と荀攸殿を追って行った。 その背を見送りながら、俺はずっと、なんでと疑問に思い続けた。 なんで、彼女はここにいるんだ? なんで、彼女は戦場に立つんだ? なんで、彼女の身のこなしは、あんなに隙がないんだ? なんで、彼女は笑っているんだ? 初めての戦のあと、なのに。 俺は彼女を何も知らない。 濮陽を攻める今も、それは変わらない。 そして、今もなんでだ、と思う。 なんで、彼女は連れ去られたんだ。 だが、それはあの郭嘉殿たちでさえ分からない、と言っていた。 軍師が言うんだから、本当に分からないんだろう。 いま唯一分かっているのは、この濮陽のどこかにいるってことだけだ。 俺は仇を討つ。 そして、を見つける。 そう、決めていた。 俺は、のことをもっと知りたい。 そう、望んだ。 * * * * * * * * * * 濮陽城の門を突破して、俺たちは城内へとなだれ込む。 通りを駆ける。 敵をなぎ倒して、一直線に駆ける。 その先に、呂布がいる、陳宮がいる。 仇は絶対逃さねえ! その時ふと、向かって右の、ひときわ大きな邸(やしき)が目に入った。 なんてことはない見慣れた造りの邸だ。 だが、そこで俺の勘が働いた。 あそこにがいる。 そんな気がした。 俺は馬首を反して邸に向かった。 傍にいた楽進が声を上げる。 「李典殿!?どちらへ行かれるのですか!」 「悪ぃ、楽進!俺、ピンと来たんだ!そっちは頼むぜ!!」 「分かりました!お気をつけて!!」 全く素直だな、楽進は。 と俺は思いながら屋敷の塀を乗り越えて、馬から下りる。 人気がない。 だが、絶対ここにがいる。 俺は、邸に乗り込んだ。 中に入ると、やっぱり邸の外―敷地の中―と同じように、敵はいない。 一人もいなかった。 片っ端から部屋の戸を開けていく。 「!いるんだろ、いたら返事をしてくれ!」 部屋をまた、覗く。 だが、いない。 いない筈はない、絶対ここにいる。 俺の勘はさっきからずっと、そう言っている。 「!」 どこにいやがるんだ。 絶対、ここだ。 ここにいる筈なんだ。 「!」 「り、李典…さん?」 その部屋の戸を開けると、視線の先にがいた。 結わいていた髪は下りていて、乱れている。 壁にもたれながら、座り込んでいた。 顔は、大分憔悴しきっている。 何があった――? に歩み寄り、片膝をついた。 途中、血痕に気づくが、それよりも今はだ。 が俺を見上げている。 笑った。 「良かった、無事だったんですね」 はそう言った。 それは俺の台詞だ。 「馬鹿野郎、それは俺の台詞だ。あんた怪我とかしてないのか?」 「怪我…」 そう言ったきり、黙ったを俺は不審に思い、視線をさらに落す。 の右手の先が血まみれだった。 少し乾き始めてはいるがそんなに時間は経っていない。 俺は、の右手を掴んで持ち上げた。 「いっった!」 「あんた、これ…何されたんだ」 俺は絶句した。 血にまみれてよく見えないが、何があったかは分かる。 思わず聞いちまったが、聞かなくたって分かる。 さっきの床のはこれだ。 なんでこいつが、こんな目にあってるんだ? 何があった? 何を知ってるんだ、は。 そういうことだよな。 もちろん勘だが、それ以外、俺には考えられねえ。 「陳宮に…剥がされました」 そう言って、肩で息をしながら弱弱しく笑う。 なんで、笑うんだ。 「だ、大丈夫です…もう終わったことですし、大したことないです。それより、李典さんはなんでここに?」 「俺は、俺たちは、濮陽を奪還するためにここへ来た。それから、あんたのことも助けにな」 「そうだったんですね。わざわざ、ありがとうございます。早速煩わせてしまって、すみません。他にはどなたが参戦してらっしゃるんですか?」 は最初こそ驚いたような顔をしたものの、すぐに笑みを浮かべてそう聞き返した。 なんで、そんな冷静に聞いてくるんだ。 なんで、笑ってんだ。 俺は戸惑って、に聞かれるまま今の状況を話した。 「ここには、楽進と曹仁殿、それから夏侯淵殿がきてる。もう少ししたら、主公や郭嘉殿、荀攸殿たちも来るはずだ、早馬が報せに来た」 違う! そうじゃねえだろ、俺! 「他の方たちも無事ですか?」 「ああ。夏侯惇殿や荀ケ殿も鄄城を守りきって、こっちに向かっていると報せが…ってそうじゃねえ!あんたは無事じゃねえじゃねえか!」 思わず声を荒げちまった。 がびっくりしてこっちを見ている。 何やってんだ、俺…。 「無事ですよ。命があるじゃないですか。それに、李典さんが助けに来てくれましたし、私は大丈夫です」 は言って笑みを浮かべる。 だから、その笑うのをやめてくれよ。 なんで、そんなに優しく笑うんだ。 無事じゃねえし。 「そうかい、それなら俺も何より……ひとまず、ここを出るぜ。立てるか?」 俺はの手を取る。 は、ふらつきながら立ち上がった。 …とてもじゃねえが、歩かせられねえ。 それに、何か…。 「あんた、もしかして他にどっか怪我してんじゃないのか?他に何されたんだ」 一瞬の沈黙。 間違いない、他に何かされてる。 「こういっちゃなんだけど、今のうちに教えてくれないと、いい迷惑…」 「ご、ごめんなさい…そうですよね、えと」 言うや、は俺の言葉を遮って謝る。 なるほど、こういう聞き方、ね。 が先を続けた。 「後頭部を多分殴られてて…それから、呂布に床に叩きつけられて、首絞められて、腹殴られました…絶対に許さない…」 「な…」 俺は言葉を無くす。 そんなことをされたっていうのと、それを他人事のように言う自身に。 それが本当なら、普通、他人事みたいに笑って言えるもんじゃねえ。 遊びかなんかで負けた、とかじゃねえんだぞ。 そして、言われてから初めて気づいた。 確かに、の首には、絞められてうっ血したあとが残っている。 部屋が薄暗いせいもあって気づかなかった。 「ほ、ほら…驚くでしょ?だから、黙ってたんです、私…いや、でも…ごめんなさい」 「あ、あんたが謝るなよ!寧ろ、俺が悪かった」 …そうじゃねえ! ああ、くそ、調子狂うぜ。 そこで、俺ははたと気づく。 が左手で髪を束ねている。 多分、今は邪魔なんだろう、と思った。 俺は気を取り直す意味も込めて、懐から、護身用の小刀を出した。 そして、首元に巻いた布(きぬ)の先を切り落とす。 まあ、このぐらいの長さがあればいいだろ。 俺は、に向き直った。 「ちょっと、その手。どかしてみな」 「…?はい」 意味が分かっていないらしいが、左手を髪からはなす。 髪がさらりと流れた。 一歩に近づいて、正面から手をまわす。 短く切り落とした布(きぬ)で、その髪を首の後ろで束ねた。 「ほんとはちゃんと梳いてやった方がいいんだろうけど、悪いな。今はこれで我慢してくれよ」 結わきながらそう言った。 終わって二歩後ろに下がると、は耳を赤くして俯いていた。 …なんだ、可愛いところもあるんじゃねえか。 って、何考えてんだ、俺。 それどころじゃねえ。 「その指もなんとかしてやりたいが、勝手なことして悪化しちまったら本も子もねえ。だから、そっちはちょっと待ってくれ」 「はい、わかりました。黴菌入っちゃうとマズイですもんね」 「ばい、きん?」 俺は聞いたことの無い単語に首を傾げる。 なんだ、ばいきんって。 「あ、えーっと…なんていうのかな…えっと…」 言って、考え始める。 俺は一瞬戸惑う。 だけど、直ぐに気を取り直した。 だから、そうじゃないんだよ。 「ああ、わかった。それは後でいい。あとでいいから、とりあえずここを出るぞ。んでもって、ちょっと失礼」 「え?わっ!ちょ、ちょっと…!」 俺はを抱き上げた。 慌てたが両手を自分の胸の前に持ってきて、小さくなる。 思ってた以上に…軽い。 「お、下ろしてください、李典さん!私、自分で歩けます!」 「嘘つくなよ。さっきふらついてただろ、あんた。それと、ほら。その手。そこだと俺の服についちまう」 「え?あ!ご、ごめんなさい!そうですよね!汚しちゃいますよね、すみません!」 ああ!違う、俺が言いたいのはそれじゃねえ! 俺のは別になんだっていいんだよ! 「そうじゃねえって!あんたが、痛いだろ、ついちまったら」 「え、そういう…」 「あたりまえだろ!俺は汚れたって気にしねえよ」 「ご、ごめんなさい」 「ああ…だから、謝んなよ」 駄目だ、本当に調子狂う! 「ああ、もう!今から謝んの禁止!!」 「え、え?」 「ほら、早くその手、俺の肩にまわせって」 「な、なんで…」 「いいから。その方が、あんたも楽だろ。俺も楽だし」 「そ、そういうこと、ですね。わかりました、すみ…ありがとうございます」 また謝ろうとしやがったな…。 まあ、言い直したからよしとするか。 それからやっと、俺たちは邸を出ることが出来た。 ただ、思っていた以上にの顔が近い。 なんとなく、ちらっと覗く。 睫毛長え…。 見られていることに気づいていないらしいは、眉間に皺寄せて目を瞑っている。 歯を食いしばってる。 震えてる。 …だから、無理すんじゃねえよ。 そう言う顔を、最初からしてれば良かったんだ。 なんで、こいつは――。 「李典殿!殿!無事だったんですね!」 「ああ、楽進か。そっちはどんなだ?」 楽進が駆け寄りながら、俺に言う。 「はい、とりあえず呂布軍は退きました。今、主公や皆さんと殿を探そうとしていたところです」 「そうか、なら良かった」 「殿!ご無事で何より。皆と心配していたところです」 は、楽進の声に顔を上げた。 そちらを向くと柔らかく笑う。 「楽進さん…楽進さんもご無事で安心しました。ご心配お掛けして、すみません」 「おい、。あんたさっき謝るの禁止だっていっただろ、俺」 だから、なんで笑うんだよ。 「え、それ…李典さんだけじゃないんですか?」 「…お前なあ……全く、俺は呆れるよ」 「ご、ごめんなさい…あ!すみません、じゃなくて…えーと」 「もういいよ、俺には謝るなよ」 「は、はい」 全く、なんなんだよ、本当に。 「ところで、楽進。主公たちはどこに?」 「はい、こちらです。行きましょう」 そして、俺たちは主公たちのもとへ向かった。 途中、が恥ずかしいから下ろせと訳の分かんないことを言ったが、当然それは断った。 そこには、主公の他、夏侯惇殿、荀ケ殿、郭嘉殿、荀攸殿、満寵殿がいた。 他の者は、事態の後片付けに回っているとのことだった。 俺たちに気づいた満寵殿と郭嘉殿が真っ先にこちらへ駆け寄る。 二人がほぼ同時に言った。 「「!良かった、無事で」」 「伯寧さん、郭嘉さん…お二人も無事で良かったです」 そう言って、やっぱり笑う。 だが、その時俺は気づいた。 俺たちの時と、少し反応が違う。 安心…したのか? どっちに? 主公がに言う。 「。無事で安心したぞ。救出が遅れ、すまなかったな」 「いえ、そんなことは…」 そう言うと、は俺を見上げて言った。 「あの、李典さん。もう大丈夫ですから、下ろしてもらえませんか?」 「あ、ああ」 流石にこの場で否定するのは、何故か気が引けた。 いつもの、俺の勘だが。 を下ろす。 の左手が俺の右手を掴んでいる。 その場に立ちながら、律儀に礼を言った。 その手は、震えてた。 力が入ってねえ。 …大丈夫じゃねえじゃねえか。 その時だ、向かって右側にいた満寵殿が声を上げる。 「!」 「っ、い…」 の右手を満寵殿が、俺がした時と同じように掴む。 満寵殿は自分の手の平の上にの右手をのせた。 郭嘉殿と満寵殿が顔をゆがめる。 …この二人怒らせると怖いな、と俺はこの時思ったが、それは誰にも言わないことにしよう。 幸い、この顔は俺と楽進、ぐらいにしか見えてない。 いや、は俯いてるから、楽進と俺だけか。 そんなことは、さておき。 否や、が手を引っ込めた。 手を下ろしながら言う。 「だ、大丈夫です。ちょっと爪、剥がれただけですから…」 「剥がれた?剥がされた、の間違いだよね?」 郭嘉殿の声が怖い。 俺は思わず、息を呑んだ。 満寵殿が言う。 「。誰がこんなことを」 「…っ……」 は無言だった。 何を考えているか、俺には分からない。 だから、代わりに言った。 「陳宮に剥がされたんだと」 「陳宮…へえ、陳宮に、ね…」 郭嘉殿が言った。 俺はそのまま続ける。 こいつが自分で言わねえなら、俺から言ってやる。 「それから、誰だか知らねえが、頭殴られて、おまけに呂布に床に叩きつけられて、首絞められて、腹殴られた、だったよな?」 「呂布…」 満寵殿の静かな声は、郭嘉殿の声とはまた違って怖い。 俺はそんなことを思いながら、俯くに視線をやった。 顔は見えない。 何を考えているかもわからない。 「。何があったのかは、許昌に戻ってから聞くとしよう。疲れておろう?」 主公がこちらに歩み寄りながら言う。 それに倣って、夏侯惇殿や荀ケ殿、荀攸殿がこちらへ歩み寄る。 一歩二歩と、郭嘉殿、満寵殿が脇に退く。 は顔を上げていった。 「いえ。話をしなければならないのなら、いま話します。お時間があれば、ですけど」 なに言ってるんだよ。 あんた、ふらついてたじゃないか。 それに、今だってさっきからずっと、肩で息をしてる。 痛みを我慢してるんじゃねえのかよ、それは。 主公がまっすぐを見ている。 後ろ姿しか見えないが、もまっすぐに主公を見ているようだった。 「そうか。ならば、聞こう。一体、何があった」 主公がそう答えると、は頷いてから背筋を伸ばした。 気持ちを切り替えたように見えた。 凛とするその背中が、俺にはなんだか遠いものに見える。 こいつは一体、何に気を張ってんだ。 なんで主公はの言うことを聞いたんだ。 「はい。では、先にお尋ねします。曹操さんたちは、私がいなくなった後のこと、どれだけご存知ですか?」 「ほとんど知らぬ。郭嘉や荀攸、満寵が放った斥候から、濮陽にいる、とだけ聞かされていた。それ以上は何も知らぬ。のう、郭嘉よ」 「はい。、私たちは、なぜ君が連れ去られたのか、どうして君だったのか、それさえ分からなかった。今すぐにでも君に謝りたいけれど…いまはまず、の話が聞きたい。一体何があったの?」 は郭嘉殿の話を聞くと、ちょっと間をおいてから話し始めた。 肩で息をしている割に、声は落ち着いていて少し明るささえ感じる。 何もなかったような声音。 聞いてるこっちの不安や心配がどこかへ行ってしまうような、そんな気分だ。 「わかりました。じゃあ…少し長くなりますが必要かはさておき、なるべく詳しく順を追ってお話しします。質問があれば、都度お願いします」 「うむ。わかった」 主公が頷きながら言った。 それから、はただ淡々と事の次第を話し始めた。 「彭城で、私は兵の格好をした見知らぬ男に声をかけられました。その男は返事をすると間もなく強引に私を城の外へ連れ出して、自分は陶謙の兵に腹を突かれて体調が悪いから代わりに小沛の荀ケさんに渡して欲しい、と書簡を押しつけてきました」 「私に?」 「はい。でも、今思えばそれは、口実だったんだと思います。私ひとりを皆さんから離すための」 「それで、お前はどうしたんだ?」 夏侯惇殿が言った。 は夏侯惇殿の方へ首を向ける。 「断わりました。当然です、私の仕事ではありません。頼み方も強引でしたし、呆れたぐらいです…だから、というわけではありませんが、私はその男に質問しました、誰の部下なのかを。男は上ずった声で”于禁様です”と答えました。ならば、まず上司に状況を相談して代わりの者を立ててもらえと、私は話をしましたが、男はそんな恐ろしいことは出来ないと最終的に跪き泣きついてきました」 はそこで一度区切った。 肩が一度だけ上がる。 多分、息を吐き出した。 「私は、私に出来ることはせいぜい一緒に行って事情を伝えるぐらいだ、と男に言いました。けど、男は引き下がらなかった。それどころか、祈るように懇願してきた。私は、その男に疑念を抱きました…何か隠している、と」 「ほう、それは何故だ?」 主公が質問する。 が、左手の指を二本立てて答えた。 「はい。理由は二つ。一つは、男の言動があまりに必死だったこと。一つ一つの行動が大げさすぎるのもあって、違和感を覚えました」 手を下ろしながら、は続ける。 「二つ目は、文則さんの部下にしては行動が理に適っていないと思ったから……文則さんとは、そんなに長い付き合いではないことを皆さんもご存知だとは思いますが、そんな私でも、その人となりはある程度わかっているつもりです。そこから考えて、部下にそんないい加減を許すような指導をしているとは思えません。百歩譲って新人なのか、とも考えましたが…そもそも、どうしても届けないといけないほど重要な書簡を新人に任せるか?と考えた時、私には疑問でした」 「なるほどな」 主公はそう頷くと腕を組んで黙った。 それから郭嘉殿が言った。 「それで、はどうしたの?」 「単刀直入に聞いてみました。そこまで必死になるのは怪しい、何か隠し事をしているんじゃないか、と。それを聞いた男は図星だったのか、挙動がさらに不審になりました。そこで私は、この男は仮病以外の何かを隠していると確信しました。仮病ではないと判断した理由は、体調が悪そうな素振りを強調していなかったことと、私の経験上の勘です。ですが、隠していると確信したところでそれ以上のことは私にはできない、そう思ったので、郭嘉さん達に相談しようと考えました。それで、信じたフリをしてその書簡を預かりました」 郭嘉殿が顎に手を当てながら、にさらに質問する。 「…そいつは、の質問に何て答えて、そして君は何て言って預かったのかな?」 「男は……ひどい、俺は何も、と。私は、暫く男の顔色を窺ってから…分かった。とりあえず、それを貸してください。私が行くから……そう答えました」 俺は、正直舌を巻いた。 ここまでの話を、淀みなく答えられるほど覚えてるってことに。 俺なら、こんなに答えられねえ。 まして、あんな目に遭った直後になんて、とてもじゃねえが多分、無理だ。 郭嘉殿は黙ったまま、を見ている。 が先を続けた。 「それから私は、書簡を受け取った後、膝をついたままの男に背を向けました…そのとき、男に足をとられ、私はその場に倒れました。受け身を何とかとりましたが、起き上がろうとしたときに…多分…」 「頭を殴られた」 「はい」 荀攸殿が珍しく口を開く。 そして続けた。 「…しかし、そこまでの話を聞く限り、やはり殿の取った行動に問題はありません。それ以外、どうしようもなかったでしょう」 「いえ、そんなことは。油断してたんです、もうちょっと警戒して、声を上げるなりなんなりしていれば、こんなことには…」 「。それは考えても無駄ってやつだよ。結果が分かったからそう言えるんだ。もし、のその考えを肯定するなら、私たちにも同じように落ち度があった、そういうことだ。いや、実際そうかもしれないが…とはいえ…私が何を言いたいのか、わかるよね?」 「…はい、郭嘉さん……っ…」 そう言ったは、何か言葉を呑み込んだようだった。 多分、謝罪の言葉かなんかだと思う。 「そんな顔をしなくてもいいんだよ、。何も私は、君を責めているんじゃないんだから。むしろ私は…いや、やめておこう。、続きをお願い」 そう言って、郭嘉殿はを促す。 そういえば、俺は―楽進もだが―、の素性を何も知らない。 …これで少しはわかる、だろうか。 は気を取り直したように、声音を少し変えて続けた。 相変わらずその声は、俺たちの不安をあおるどころかエディ子に何もなかったかのような錯覚に陥らせる。 そしてこれまで以上に、自分に起きたことを話していると言うよりは目の前で起きた他人の事を話しているような、そんな気にさせる話し方だった。 何よりもその声が、そう物語っている。 「それから、私が目を覚ますと目の前に陳宮がいました。言うには、ここは濮陽だと。そして彼は、”自分たちに協力してくれ”と言いました」 「協力、だと?」 主公が呟いた。 は頷く。 「結論から言うと、呂布が天下に力を示す…つまり、天下を取るため、と同義と思いますが…そのために、協力しろ、と」 「ふん、たわけたことをぬかす」 夏侯惇殿が鼻で笑った。 次いで荀ケ殿が訝しんで言う。 「しかし、なぜ、殿にそんなことを?陳宮は、何をあなたに求めたのですか?」 皆が、を見る。 一番、知りたいことだ。 それがなきゃ、こいつはこんな目に遭わなかったんだ。 は、静かに言った。 「知識。陳宮は、私に知識を提供しろと言いました」 「知識…?」 夏侯惇殿が小さく呟いた。 が言う。 「陳宮は、私が今から1000年以上先の時代から来たことを知っていました。それで、この先に何が起こるか知っているだろうから、それを知識として提供しろ、と」 「1000年以上先!?」 「1000年以上先ですって!?」 俺と楽進の声が重なった。 俺らを皆が見る。 てことは、この場にいる俺ら以外の人間はみんな知ってるってことか…。 そ、そういやちょっと前に、于禁殿と満寵殿が消えたとかって話があったな。 確かその頃か、がウチにいんのは。 興味が無かったからな。 詳しい事情も知らなかったし、話しも全然聞いてなかった…。 そうか、そういうことか。 突拍子がねえけど、ちょっと俺、納得したぜ。 「…君はこの先に何が起きるのか、知っているの?」 郭嘉殿が問う。 は首を振った。 「いいえ、知りません。私が知っているのは、せいぜい生活様式が違うとかそんな程度のことです。だから、私は知らない、と協力は出来ないと断りました」 「だけど、陳宮は引かなかった」 「はい。伯寧さんの言うとおり、陳宮は引きませんでした。多分…六回か、七回は断りました」 「それで、あなたは…」 荀ケ殿が視線を落す。 は少しだけ、自分の右手を持ち上げて、そこに視線を落した。 主公が問う。 「。おぬしはなぜ、陳宮の言葉に承諾しなかったのだ。例えその場凌ぎでも、その言葉に従っておればそのような目には遭わなかったかもしれんのだぞ」 「知らないから、です。知らないから、私は知らないと答えた。ただそれだけです」 はそう答えた。 俺の立ち位置からは、あんまりその顔は見えない。 けど多分、また笑ってるんだろうことは容易に想像できた。 なんで、そんなに明るく言えるんだ。 それだけ? だけ、ってなんだ。 「それに、もしその場凌ぎでそれを承諾したとしても、そのあとどうすればいいかを、私は思いつきませんでした。承諾したあと、どうすればいいのかを……それから、もしそこで承諾してしまったら……」 はそこで言葉を区切った。 暫く沈黙する。 何を考えた? 「承諾してしまったら、知っていようといまいと私はきっと知識が入っているだけの物になる。私が逆の立場で血も涙も無いような人間だったら、陳宮と同じように何かに利用しようと考えます。そう思った時、それは、絶対に嫌だと思いました。また同じ目に遭ってその度に悩むぐらいなら、この一回で終わりにしたい」 「…」 満寵殿が呟いた。 の声音は幾分、これまでよりも力強い。 それでも多分、他の女が同じ目に遭っていたら、どう考えたってこうはならねえ。 恐らく、男だってそう変わらねえと思う。 そもそも、そんな目に遭ってる最中にそんなことを考えられる奴が一体何人いるってんだ。 「それに私は…曹操さんを裏切るようなことはしたくなかった。私は、曹操さんに仕官する、そう言いました。陳宮の言葉に承諾する、それは、裏切ることになるんじゃないか、私はそう思ったので、断ったんです」 「…すまぬ」 「違います、曹操さん。勘違いしないで下さい。私がそうしたかったから、そうしたんです。曹操さんのせいじゃありません。陳宮が私の腕を締め上げた時、なんとなく何かされると思いましたし、漠然と覚悟はしたんです」 「…」 主公が言葉を詰まらせる。 誰も言葉を発さない。 皆一度、を見たあと、下を見たり顔を背けたりする。 俺は思った。 こいつは多分、この世の中の事、きっと俺らの事もなんにも知らなかったくせに…なんてことしやがったんだ、と。 言うなれば、一番関係ねえ奴だ。 それが…。 しばらく沈黙が流れたあと、がその沈黙を破った。 「そ、そんなに暗くならないで下さい!私は、大丈夫ですから!ほら、指はありますし」 そう言って、両手を広げて見せた。 だけど、あんたのその手やっぱり見てらんねえぜ。 わかってんのか? 「…それに私、向こうで仕事しているときに左手の人差し指の爪、一回剥がしちゃってますから。その時とおんなじです!それが右手で二本もやっちゃったて思えばどうってことないです!きっと生えてきますし、ね!」 はどこか冗談めかして言う。 けど、そんな冗談言ってる場合じゃねえ。 その手っつうか、お前が見てらんねえよ。 おんなじなんかじゃねえ! 左手はたまたまだ、だけどお前の右手は無理やりだ。 全然おんなじなんかじゃねえよ。 もうちょっと、不安そうにするとか、怖がるとか、そういうのはねえのかよ。 例え男だって、大抵の奴はそんな目に遭ったら笑ってなんかいられねえ。 誰かのせいにしたがる。 それぐらいのことだ。 「それで、呂布には何をされたんだい?」 満寵殿が言った。 が満寵殿に視線を向ける。 満寵殿の目は、座っている。 郭嘉殿も、だ。 「はい……陳宮にしびれを切らして、呂布が私の…この手を握って、それから私を床に叩きつけました。私の首を息が出来る程度に締めて、呂布は陳宮と同じことを言いました」 そこで荀攸殿が質問した。 「殿。酷なことを聞くかもしれませんが…呂布は、なぜ諦めたのですか?殿がここにいるということは、呂布はあなたを諦めた。しかし私の知る限り、呂布という人間が己の望むものをそう簡単に諦めるとは考えにくい。下手をすれば殺されていてもおかしくない。そんな呂布に、殿は一体何をしたのですか?」 当然の疑問だ。 きっと、この場の誰もが疑問に思っている。 が淡々と答えた。 「…言いくるめました」 「どうやって?」 「こんな小娘の小賢しい知識をあてにして、天下に武を示したところで、何の意味があるのか。その程度の武を示したところで、結局その程度だったという証左にしかならないでしょう、と」 「それは…諦めたと言うよりは…」 「はい、恐らく荀攸さんのお考えどおり。呂布は諦めたんじゃなくて、多分頭に来て…かわいく言えば意地を張ったんだと思います……俺の武を分からせるために命だけはくれてやる、ぐらいのことを言われましたし…まあ、私としてはそれを狙ったところもあるので、いいんですけど」 「ですが、呂布には殴られた」 「はい…小賢しい奴は嫌いだ、いけ好かん貴様への土産だ、と……要らないですし、寧ろ熨斗付きで送り返してあげたい土産ですけどね」 と荀攸殿の会話を聞いて、俺はただ驚いた。 のしが何だか分からねえが、こいつの肝はどうなってんだ。 俺は、こいつをどういう風にみればいいんだ。 強えのか? 強いって言うのか?これは。 ただ混乱した。 そして、やっぱり、はどこか、他人事のように話をする。 なんでだ。 「…無茶はしないでって、言ったよね」 「伯寧さん……無茶…はしてません。私は、出来ることをしただけです。出来ることをただやった、それだけのことです」 そう言ったは、多分笑った。 見なくても分かる。 だけどなんで、ここで笑う? 満寵殿のその顔を見て、どうして、笑うんだ。 何のために、笑うんだ。 が先を続けた。 「それから、呂布に殴られた私は、多分気を失いました。そして、目が覚めて暫くしたら、李典さんが現れて…とそんな感じです」 「…わかった。よくぞ、話してくれた。本来ならば本人から聞くような事でもないのかもしれぬが」 「いいえ、曹操さん。多分、これは私と陳宮、呂布ぐらいしか知らなかったと思います。私をさらった人は、きっともういないはずです。だったら、自分で話す以外ありません」 「…おぬしには要らぬ苦労をかけさせた、すまぬ」 「いやだな、だから謝らないで下さい…それより、私…わがまま言って申し訳ないのですけど、早く、帰りたいです。許昌に」 「…うむ。そうするとしよう。皆、分かったな。細かいことは後にして、一度許昌へ戻るぞ。郭嘉、満寵、それから李典。のこと、引き続き頼む。…良いか?」 「はい、構いません。私のわがままを聞いて下さって、ありがとうございます」 そう言って、は頭を下げた。 と同時に、その場の全員が主公へ拱手する。 俺はの近くへ寄った。 といっても、三歩程度詰めただけだ。 に声をかける。 「。あんたはとりあえず、医者の所だ。俺でもいいし、俺が嫌なら満寵殿か郭嘉殿にでも連れて行って貰え」 「嫌ではない、ですけど…わかりました…そう、します」 やけに素直だな。 その時、そう思った。 てっきり、大丈夫です、ぐらい言うかと思ったが。 …やっと自覚したのか? 満寵殿が俺に言う。 「李典殿、ありがとう。を見つけてくれて」 「え?ああ、いや…俺は別に…」 それから、郭嘉殿が言った。 「いつもの勘ってやつかな?李典殿の勘がこんなところでも役に立つなんて様々だね」 「え、あ〜、いや、それほどでも?」 これ、俺、褒められてんのかな…。 ていうか、はこの二人の、なんだ…? そこで、ふいにが右手を泳がす。 気づいた満寵殿が、咄嗟にその右手を掴んだ。 は何かを堪えてから、呼吸を整えるようにゆっくり息をし始めた。 満寵殿がに言う。 「!典医のところへ行くよ」 「だ、大丈夫…ちょっと眩暈がしただけで」 そこで、郭嘉殿がに問う。 「。何か飲まされてはいないかい?」 「何か…そういえば、陳宮が…薬が効きすぎた、とか何か……気持ち悪い…」 「やはりか」 「やっぱり」 郭嘉殿と満寵殿のその言葉に、俺は思わず問うた。 「な、なんでそんなことが分かるんだ?」 「彭城からがここへ来て、陳宮の前で目を覚ますまでの時間が長すぎたからだよ」 満寵殿が言った。 郭嘉殿が頷いて言う。 「そう。さっきの話と今のの状態から推察するに、恐らく彭城からのあと最初に目を覚ましたのは今日の内だ。それを考えると、ただ殴られて気を失ったにしては、ちょっと長すぎる。だから疑ったんだ」 「。やっぱり君は、無茶をし過ぎだ。いまから典医のところへ行くから、いいね」 「はい……」 が弱弱しく答える。 今の状態を見ていると、意味が分かってそう答えているのかは分かんねえ。 けど、それにしたって、なんで最初からそうしない。 話なんて、あとからいくらでも出来る。 自分の身体だろ。 「あの…」 はそう言うと、満寵殿を見上げた。 俺と郭嘉殿、そして満寵殿はを見る。 が言った。 「なんで、そんなに…心配して、くれるんですか?」 なんで、いまそんなことを聞く? 満寵殿が笑って言った。 「おかしなことを聞くね、は。そんなこと今更じゃないか。心配だから、だよ。それとも、もっと他に理由が欲しいかい?」 「いいえ。答えて下さって、ありがとうございます。私も…心配だから、心配する。それだけ、です。一緒、です」 は笑う。 俺は、二人の言っている意味が分からなかった。 分からなかったけど、が俺たちの無事を知って安心した、と言った理由はそれなのか、と思った。 直後、は意識を失った。 俺たち三人は、ほぼ同時にの身体を支える。 俺の目の前で、郭嘉殿が満寵殿に言った。 「ねえ、満寵殿。あとで、ちょっとゆっくり話をしたいのだけれど、いいかな?」 「ああ、構わないよ。構わないけど、許昌に戻ってからでいいかい?」 「うん、それでいい…それと、李典殿」 「あ、ああ…なんですか」 「あなたも同席してくれるかな?ちょっと、その勘ってやつを頼りにしたいんだ」 郭嘉殿の目は有無を言わせない色をしていた。 俺は分けが分からないまま、承諾した。 「ありがとう、李典殿。満寵殿も、ね」 それからは満寵殿に抱えられて典医のもとへ運ばれた。 とりあえず、命に別状はないということに安心したが、俺は、こいつが目を覚ましたらどんな顔をすればいいんだ。 ただ、それだけをなんとなく思った。 許昌に俺たちが着いたのは、それから四日後だった。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) や、やたら長くなってしまった まさか、李典がここまで絡むとは…← なんとなく出しただけだったんですが… 大まかにこれ書き終わって(3月中旬頃)から2週間後に、やっとクリアしたら親愛台詞… すっげ18禁だね← ちょっと、ごめん…お茶吹いた、連れと爆笑しちゃったよ、ごめん いや、良いキャラはしてると思いますよ ただ、あの台詞はED見たあとの余韻を軽快にぶち壊してくれたよ…うん、いいと思うけどね そして、例に漏れず李典の話し方が分からない… 2018.04.11 ![]() |
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