酒は量無し、乱に及ばず






戯家の愚人 ― 雲無キ晴天・後 ―













半々刻もせずして、しかしそれなりの時間を掛けて辿り着いた部屋の前で荀ケが止まる。
もそれに倣う。
荀ケが部屋の戸を開け中へ入る。
にも入るよう促し、敷居を跨いだ。


荀ケの執務室よりも少し広めのそこはやはり、彼の部屋同様に壁際に棚が置かれ、そこにはびっしりと竹簡が収まっていた。
違う点といえば、窓がないことと、あちらこちらに収まりきれない竹簡が積まれていることだろうか。


「仲徳殿、おられますか?仲徳殿?」


そう荀ケは声を張り上げて戯の知らぬ者の名を呼ぶ。
正確には顔を知らないだけなのだが。
恐らく、程cという人物の事を呼んでいるのだろう。
尚も声を張り上げる荀ケの呼びかけに応じているのかいないのかどこからか声が聞こえた。
声のする方を窺えば竹簡の向こう側、ちらりとみえるのは書桌(つくえ)だろう。
それから、人の足。
その足の人物が声を発しているようだ。


「騒がしいな、人が気持ちよく寝てるっていうのに」


そう言って、伸びをしながら起き上がった人物は書桌(つくえ)から足を下ろしてその場に胡坐をかいた。
荀ケはその人物を確認して笑顔を作る。



「おや、奉孝殿でしたか。仲徳殿はどちらに?」


そこで寝ていたことに特に突っ込むこともせず話を進める荀ケに、何となく戯は、日常茶飯事なのだなと勝手に察した。
そして、奉孝と呼ばれていたということは、恐らく、彼が亡き兄の後、軍師として迎えられた郭嘉その人なのだろう、と。



「知らん、が暫く戻ってこないそうだ」

「そうか…困ったな」


そう眉根を寄せる荀ケを尻目に、見るからに不健康そうな白い肌の彼はその切れ長の目で傍らの戯を見ると口を開いた。


「で、そいつは?」

考え事をしていた荀ケが弾かれた様に顔を上げた。


「あぁ、紹介しようと思っていたんだ。
 今日付けで仕官した戯殿だ。志才殿の妹君だよ。今日一日は私の元で執務を手伝うことになっている。
 …で、殿、こっちが「郭嘉、字は奉孝だ」


紹介の間ずっと戯を観察するように見ていた郭嘉が、荀ケの言葉を遮って口を開く。
こちらに歩み寄りながら続けた。


「司空祭酒についているが、俺のことは奉孝でいい、その代わり、お前のことはと呼ばせてもらう、いいな?」

「は、はあ…」


荀ケの左前、戯の正面にあたる場所で立ち止まった郭嘉に戯は、何ともいえない情けない返答をする。
そして、改めて頭を下げた。


「どうぞ、以後宜しく御願い致します」


そう言って丁寧に頭を下げ、微笑んだ戯をただ郭嘉は見つめた。
世間に悪評名高い人物を。

「(これは、想定外だな…しかし、何より…)」





   なかなか美人じゃないか








そう心の中で不純な思いを呟く。
意図の読めない郭嘉の行動に戯はただ疑問符を浮かべるばかりである。
無論、郭嘉が心の中で呟いた言葉なんて知る由もない。
そんな戯を差し置いて、郭嘉が荀ケに問いかけた。


「ところで、その執務とやらはそれで終わりなのか?」


言って、戯の持つ竹簡を指差す。
荀ケは振り返ってそれを見ると、再び郭嘉に直って答えた。

「そうなんだけど、仲徳殿の署名がないと提出できないんだ…
 だから、ここはひとまず置いておいて、とりあえず「わかった」



荀ケの左肩に己の左手をぽんと乗せて、再び郭嘉がその言葉を遮って声を上げる。
荀ケに言わせれば何が分かったのかさっぱりわからない。
当然、戯にもさっぱりわからないわけで。






「実は仲徳に竹簡の整理をするように頼まれていてね、ま、終わってないんだが。
 そこで、文若が仲徳を待ちつつ、その間にその竹簡を整理する。
 で、俺がの相手をする。一石二鳥だろ」






郭嘉は満面の笑みでそう捲くし立てると、戯の持っていた竹簡を取り上げ、素早く荀ケに押し付けた。



「え!?え、ちょ、ほ、奉孝殿!?」



そして、うろたえる荀ケを捨て置き、これまたうろたえ発する言葉を見つけることが出来ないでいる戯の左手首をつかんで、足早に部屋を出ていってしまった。

残されたのは、竹簡四本を抱き、棒立ちしている荀ケただ一人。
それから暫く、帰ってきた程cがどうしようものか慌てふためきながら竹簡の整理をしている荀ケを発見するのは後の話。





























もう、陽が暮れてから大分経っている。
辺りは真っ暗ではあるが、半月の明かりが雪の積もる地上を薄く僅かに照らしていた。

そんな薄明かりをかき消すように、今からが本番といわんばかりに酒家や遊郭の立ち並ぶ通りは明かりと人の声で溢れかえっていた。
遊女たちは客引きの為に表に立ち、通りを行く男や、たった今酒家から出てきた顔の赤い男たちを誘っている。


その通りに建つ、名のある老舗の酒家。
広い店内は二階まで席があり、本日も満員御礼といったところ。
その店内の一階、入り口を入って左手奥の格子のはめられた窓際の角の席に、相対する形で郭嘉と戯は座っていた。
壁を背に郭嘉、そして隣の席の客と背中合わせに戯だ。
二人の桌子(しょくたく)の上にはかなりの量の酒瓶が転がっている。
それに比べて肴の皿数が少ないのはこの際置いておこう。

向かいで、杯片手に熱く語る郭嘉に、戯は相槌を打ちつつそれとなく話を流していた。
といっても、内容は至って真面目な政事や軍事の話なのだが、その多くは兵法である。
もこの手の話は嫌いではないのでそれとなく心弾ませながら、しかし羽目を外さない程度に談話?していた。
まぁ、ここまで持ってくるのに多少の骨は折ったのだが。



文若殿は大丈夫だろうかと、現在、捜索に掛かっている荀ケたちを知る由もない戯は郭嘉が再び酒を注文するのに目を逸らした隙に、そっと暗い、しかし明るい窓外に視線を流して小さく溜息をついた。


「聞いているのか!?!」



正面で声を荒げる郭嘉に聞いています、と戯は優しく答えて差し出された酒を己の杯で受ける。
尚も熱弁する郭嘉の言葉を聞きながら、戯はこれは想定外だったと、杯の中に気づかれないように再び小さな溜息をつくのであった。



















夏侯惇と荀ケ、夏侯淵と程cに分かれて、四人は郭嘉と戯の行方を追っていた。
郭嘉が戯を拉致してから暫く、慌てふためいていた荀ケを部屋に戻ってきた程cが発見し、そのいきさつを耳に入れた。
郭嘉の手の速さは有名であったので、焦りはしたのだが、まだ陽が南中を過ぎてから一刻しか経っていない頃である。


『まさか、奉孝といえど昼間からはないだろう、それに、もしかすれば、日が暮れるころには帰ってくるかもしれんし。ここは、とりあえず、お互いの執務を終わらせて、その後、万が一、帰ってこないようであれば探しに行こう。だから兎も角、今は落ち着け、文若殿。……整理してもらった竹簡、全部順番逆だしな』


そんなやりとりで、やっと落ち着きを取り戻した荀ケだったが、そんな時に限って後から後から増える執務に、程cと共にひぃひぃ言いながらこなしていた。
だが、ようやく執務を終わらせたのもつかの間、陽がとっぷり浸かっても、帰ってくる気配のない二人、というより、寧ろ郭嘉に愈々不味いと認識した荀ケと程cの二人は、万全を期すために助っ人を求めて回廊をめぐり、偶々通りかかった夏侯従兄弟の二人に説明の後救援を求めたのだった。


そして、今に至っている。
一尺八寸を超える二人が歩くと、その容姿も相まって、客引きの遊女たちが一層声をあげる。
無論、断るのだが、その際に郭嘉のことを聞いておくのも忘れない。


「まったく、奉孝のやつは一体どこへ行ったんだ?」

「すみません、しょ…元譲殿。巻き込んでしまって」


一瞬”将軍”と言いそうになって口を紡ぐ。
こんなところに、一軍の将がいるなんて事が周りに知れれば大変である(平民の何人かは隻眼の彼を見て感づいているかもしれないが)。
今は、字で呼びつつ、この密かなる一騒動に巻き込んでしまったことを荀ケが詫びる。


「構わん。それより、あいつは一体いくつの店を梯子しておるんだ?
 聞くところ聞くところ、どこも”数刻前におりましたが”ばかりではないか…!」

「そうですね…唯一の救いは、呑み続けているだけということでしょうか…いや、しかし、それもそれで」


「問題だな」


夏侯惇は、荀ケの言葉に続けると右手を額に当てながら大きく溜息を吐いた。






そうして、ある老舗の酒家の前まできた所である。
二人揃ってその敷居を跨ぐ。
夏侯惇は右を荀ケは左を入って直ぐに見渡す。
そして、荀ケの目に入ったのは、酒瓶を片手に熱弁しているらしい郭嘉。
普段の彼らしからぬ、血行のいい顔をしている。
すかさず、夏侯惇の服の袖を荀ケがひっぱった。


「元譲殿、いました!」

「何!?」


夏侯惇は視線を左にやる。
すると、そこには探し続けていた人物が二人。


「文若、仲徳殿と妙才を探してつれて来い。どうやら、あの様子ならまだ大丈夫そうだ。俺は、店の前で張っておく。連れ出すのはそれからだ」

「わ、わかりました!直ぐに!」


そういい残して、程cと夏侯淵を探しに駆けて行く荀ケの背中を見送りながら、夏侯惇は店の角の席で呑み合う?二人の動向を見守った。
陽が暮れてから二刻半が過ぎようとしていた。






















間もなく、程cと夏侯淵を伴った荀ケが夏侯惇の元に戻ってきた。
分かれてから、本当に直ぐのことで、しかし群衆から頭一個分は優に飛び出る程cの長身があればそれは可能のことのように思えた。


「行くぞ」

夏侯惇の言葉で郭嘉と戯、二人の下へ行く四人。
一歩間違えば、どこかの誘拐集団のように見えなくもない。
ただ、荀ケだけが場違いな感じではあったが。
















「奉孝」

夏侯惇の問いかけに、郭嘉と戯が顔を上げる。
その横に荀ケをみとめて戯が声を上げた。


「文若殿…!」

「何だ、お前らも呑みに来たのか?」


そんな事はお構いなく、郭嘉が口を開く。
まだまだ呂律は回るようだ。

「そうだな、今度はわしの屋敷で妙才殿と文若も交えて呑むとするか。
 いい酒がある。それと孫子を肴に、どうだ?」


言って、程cが杯を空ける仕草をしてみせる。
郭嘉はそれに乗ったのか”直ぐに行こう”と椅子から立ち上がった。
すかさず、夏侯淵と程cが後押しする。
その際、ちらりと程cが目配せをして夏侯惇に合図を送った。
それに、夏侯惇は頷いてみせ何気なく、空いた戯の向かいの椅子に腰掛けた。
残された荀ケが戯に向き直る。


「今日は飛んだ目にあわせてしまって申し訳なかった」

「いいえ、それなりに楽しかったですし、構いません」


謝る荀ケに戯が返した。
荀ケはそれを聞き届けながら、店の入り口にちらりと目をやった。
丁度、程cと夏侯淵が店を出るところで、程cの目配せが目に入った。
荀ケはそれに頷き返す。
そして、戯に向かって口を開いた。

「それでは、行くよ。また、明日」

「はい、また明日」


そう微笑んだ戯を確認し、荀ケは夏侯惇に視線をやる。

「元譲殿も。
 それから、後を頼みます」

「承知した。また、明日宮城でな」


夏侯惇の言葉を最後まで聞くと、荀ケは一礼して、その場を去っていった。
ふと垣間見えたその顔色が微妙に悪かったのは気のせいではないだろう。
なぜならば、その後、戯は夏侯惇によって彼がとてつもなく酒に弱いという事実を知らされるのだから。

























いいと断ったのだが、寸での差で夏侯惇が二人分の支払いを済ませ、酒家を後にしてまだ間もない。
しかし、賑やかすぎる程の喧騒からは離れ、今は静かな通りを二人は帰路についていた。

この通りに出る前に、何故酒家を点々とする羽目になったのかのいきさつを夏侯惇に聞かれたので、戯は答えていた。
即ち、宮城出てはじめ、赫々云々で身の危険を感じ取った戯が上手い具合に郭嘉の酒好きを衝いて酒家に連れ込んだ。
酒を勧めながら、いろいろ、それはもういろいろと話をしていたのだが、軍事の話に息が掛かった時、どうも、爆弾を踏んだらしく、彼の熱弁が止まらず、そして、酒も止まらず、その行動のなすがままになってしまったのだということを。
それを一通り聞いた夏侯惇は頭を抱えながら、解ったと答えていた。

その話を終えてからも考えていたのだが、戯は、やはりどうしても夏侯惇が酒代二人分を出したことに悪い気がして(おまけに二人揃って人並み以上に呑んでいたので)、夏侯惇に酒代を払うと言い出したのだが、明日、奉孝から徴収すると言ってやはり受け取ろうとしない夏侯惇にこれ以上言っても無駄であろうと渋々従うことにした。

半月の薄明かりが、足元に今は人の行き来によって硬くなった雪を青白く照らす。
先を行く夏侯惇の残らぬ足跡を、何とはなしに見つめながら歩いていた戯だったが、ふと顔を上げた。
前を行く人物が話しかけてきたからだ。










「お前、昨日はわざと負けたな?何故だ」












低い、少し威圧的な色も見える声が止まることのない歩みと共に発せられる。


「(…矢張り、気づいておられた)」



もし、面と向かってこの言葉が投げかけられていたとするならば、私の今の表情に、この人はどんな反応をその瞳に見せるのだろうと、そんな事も思いつつ同様に歩みを止めず答える。











「いつまでも、主公に付きまとわれるよりはいっそ、一度だけの”いうことを”聞いて従った方がずっと楽だと思ったからです。しかし、それも裏をかかれてしまいましたけどね」









自嘲気味に笑って見せながら言う。
珍しく風の吹かない夜は、いつもより、一層静かな気がした。




「―――あいつは…よく、こちらの思わぬところをついてくる。だからこそ、こちらの思いでは度せぬところが多々あるが…お前にもそれに似たところをどこか感じる」


「そう…でしょうか?」


「ああ。ただの直感だがな。
 ――…しかし、良かったな。わざと負けたという一件は幸い孟徳含め誰も気づいておらん。お前の画策通りだ」



その言葉に、戯はどう返したらいいのか分からず、とりあえず、押し黙ることにした。僅かに困ったような顔をして。

ふと、夏侯惇が足を止める。
もそれに倣って足を止めた。
夏侯惇がこちらを振り向く。
隻眼の瞳でこちらを射止めた。















「昨日の言葉に偽りはないな」

















いっそ夜の冷気より鋭く、肌に突き刺さる殺気に似た気が、一言間違えば命を落とすと告げる。
はその瞳に返して答える。




「嘘偽りで己の血を流すほど、愚かではありませんよ。
 それに、兄への誓いを破ることなんて、もう私には出来ませんから。
 愚かな私に道を作ってくださった主公に、感謝してもしきれないぐらいです」


穏やかに微笑む戯をただ夏侯惇は見つめる。


「だから、今度は私が主公の歩む道を塞ぐ障害を少しでも多く取り除こうと心に決めたのです」





そう言う戯を見つめていた夏侯惇がふっと表情を和らげて口を開いた。


「ならば、これから宜しく頼むぞ。
 能力がどんなものかは追々見ていくとして、とりあえず、その武力は信じよう。
 改めて、手合わせ願うがな」


言って右拳を前に突き出した。
もそれに微笑みながら、左手の拳をそれに軽く押し当てた。

「どうぞ、お手柔らかに、宜しく。」



どちらともなく、声を上げて笑い出しながら、薄明かりの中歩き出す。

屋敷まで戯を送り届けた夏侯惇は、己の屋敷への帰路につく。
まだ、薄明かりが地上を青白く照らしていた。














つづく⇒



ぼやき(反転してください)


取り急ぎ、デザインだけ統一しとこうと思いました…
黒歴史的な恥ずかしさ半分と、懐かしさ半分…ですかね

2008.01.13 初
2019.01.17 デザイン修正



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