千聞は一見に如かず、百聞は一見に如かず 名を聞くは面を見るに如かず 途中までは確かに、あっていたのだ。 なのに、何でこんなことになってしまったのか? そんなことに頭を悩ませつつ、戯は今、どうしようものかと先に続く回廊の途中で立ち止まっていた。 どこか遠い目で青い空を見やる。 方向音痴ではない、そういい切れる自信はある。 しかし、宮廷というものをなめていたかもしれない。 まさか、こんなに入り組んでいようとは。 予想はしていたがここまでとは思わなかった。 道を引き返そうか? そう思っても、何だか記憶があやふやである。 こういう場合は動かず誰かが通るのを待つのが最善なのだが、いかんせん、先程から人と通りすがった覚えがない。 どうしたものかと思った矢先、ふと顔を上げたずっと先、池に掛かる石橋の上に人影を見止めた。 ――あの人物に聞こう そう思って戯は歩を進めるのだった。 ――そこへ近づけば近づくほど、戯は何だか声をかけるのが躊躇われた。 なぜなら、その人物、石橋の中央辺りで両の手を天高く上げ突っ立っているからである。 不審極まりない。 それは、話すのが躊躇われるという点では、昨日までの自分もそう変わらない位置づけではあるだろうが、質はかなり違ってくると思う。 しかし、打開策がこれ以外ないのだ。 戯は意を決してその橋まで一気に近づくと、その人物に声をかけた。 「もし、少々お時間を頂けませんか?」 そう言うと、丁度身の丈七尺五寸程はあるだろう彼は両の手を下げつつ閉じていたらしい目を開けてこちらを振り向いた。 どこかで見たような顔である。 正確には、誰かに似ている、といったところか。 「はい、何でしょうか?」 「私はこの度、曹公の下に仕官いたしました戯と申すもの。恥ずかしながら、この宮廷内で迷ってしまったため、道を教えていただきたいのですが…」 言いながら、顔の前で拱手する。 すると、僅かに目を見開いている彼が口を開いた。 「あなたが、あの戯どの…噂とは全く違いますね…あ、これは失礼。私は曹子脩と申します。」 「主公の御嫡子…!これは、知らなかったとはいえ、とんだ失礼を致しました!今の言葉はお忘れ下さい!失礼致します」 「あ、お待ち下さい!」 そう言って、どこかで見たことがある、というものに納得をしつつ去ろうとした戯を曹昂が呼び止める。 それに戯が振り返った。 「どこまで行くつもりだったのですか?行き方をお教え致します」 「しかし…」 そう言う戯に曹昂が続ける。 「そんなに気を遣わなくても良いですよ。それに、ここは広くて迷い易いのです。特にこの場所は人通りも少ないですから他の者を探そうと思ってもそうそう見つかりません。これも何かの縁です。どこへ行かれようとしていたのですか?」 どうにも回避出来そうにもなく、またそれを聞いてしまっては、荀ケよりも先に執務室へ着くことなど到底無理そうであったので、色々と躊躇われるものはあるが、戯諦めることにした。 「ならば、お言葉に甘えさせていただきます。その、行きたい場所とは尚書令殿の執務室なのですが…」 「尚書令殿の。分かりました、では、行きましょうか」 そういって歩き出す曹昂に慌てて戯が声をかける。 「い、行くとは?」 「尚書令殿の執務室ですよ、そこに行きたいのでは?」 「そ、そうですが…」 「ああ、道案内のことですか?お気になさらず。それに口で言うよりこちらの方が早いでしょう?迷い易いのです。大人しくついて来て下さい」 そう言って曹昂は、にっこりと笑った。 戯は心の中で、無理押しする所も父親に似ているな、とか思いつつ口に出さずに小さく頷いた。 きっと、彼は無自覚なのだろうけど。 先程も通ったような通らないような、そんな回廊を曹昂の後ろについて戯は歩く。 曹昂自身、話を結構ふってくるので、色々話しながらここまで来たのだが、仕官の顛末について触れた時は、流石にお茶を濁しておいた。 ふと、戯が先程から気になっていたことを曹昂に聞く。 「子脩殿は、先程石橋の上で何をなされていたのですか?」 曹昂が、字で呼べというので最初は断ったのだが、一向に引き下がらないので恐れ多くも字で呼んでいるのである。 曹昂は足を止めることなく答えた。 「ああ、あれは…あれをしていると心が落ち着くんです。天に手をかざすと落ち着きませんか?」 そうふられたが、戯は曹昂の後ろでばれない様に頭をかしげた。 「い、いえ、私はそうのような気分になったことはありませんが…」 「そうですか。皆そう言うんですよね、私が変わっているのでしょうか?」 最後の方は独り言のようではあったが、戯は激しく心の中で頭を縦に振った。 「(このお方は似なくてもいいところが主公に似てしまっている気がする…こんなことを思うのは罰当たりだが…)」 密かに心の中で涙を流しつつ戯は首をかしげる曹昂の後姿を見つめた。 それから暫くして、ある一つの部屋の前で曹昂が足を止める。 戯もそれに倣い立ち止まった。 徐に曹昂が振り向く。 「着きましたよ。ここが尚書令殿の執務室です」 「ありがとうございました」 そう言って戯は頭を下げて礼を言った。 曹昂は手を振りながら構わないという。 そして、その場を去っていった。 去り行く曹昂にその姿が見えなくなるまで戯は頭を下げて礼の気持ちを込めた。 ――それから。 失礼します、と一言かけて執務室の飾り格子のついた戸を開ける。 当然の如くそこには誰も居らず、竹簡のびっしり積まれた棚と整えられた 反対側にある窓から、向こうの庭が見える。 とりあえず、部屋には入ったものの何が出来るわけでもないので、戯は大人しく荀ケが来るのを待つことにした。 腰を下ろした板間はこの冷気によって大分冷え切っている。 女に冷えは大敵、などと思いつつ、日光の当たる窓際にそそくさと移動するのだった。 あれから一刻ほどだろうか。 執務室の戸をあけて入ってきたのは荀ケだった。 ただ、何とはなしに座り込み窓外を眺めていた戯に荀ケが声をかける。 「大分待たせてしまったようだね…すまない」 声に気づき、戯は姿勢を正した。 「いいえ、構いませぬ。勝手に寛いでおりました故」 ふわりと微笑む戯に荀ケは僅かに目を細めると、自分の 荀ケは机上に置かれた竹簡に暫く目を通していたが、何か考えがまとまったのか、顔を上げてずっとこちらの様子を窺っていた戯を見やった。 「今から資料をまとめるので、その竹簡の整理をお願いできるかな?」 「はい、元よりそのつもりです。出来ることがあれば何でも致します。どうぞ、宜しくお願い致します」 「こちらこそ」 お互い流れのままに挨拶を済ませると、早速、荀ケが戯にてきぱきと指示を出す。 戯はそれに倣って竹簡を収めるべき棚に収めていった。 ――最初の指示を戯が受けてから、どのくらいが経っただろうか。 初めの内は、渡された竹簡がどの棚のどの位置に収まるのか伺っていた戯だったが、その内要領を得、今では大方の場所の予想が出来ていた。 荀ケもそれを理解し、今では指示を出すこともなく、ただ自分の作業に集中しているのみである。 まさか、ここまで要領よくやるとは思っていなかったというのが、荀ケ自身、正直なところだ。 しかし、おかげで当初、机上に山のように積まれていた竹簡も、今では大分減り、残りは十数本といったところである。 これならば、あと一刻もせずして終わらせることができるだろう。 そんな事を思いつつ、荀ケは窓外の青空に視線をやった。 遠くに見える梅の花が青空によく映えていた。 「とりあえず、これが最後だよ」 言われながら渡された竹簡を棚に収め、戯は荀ケに直った。 すかさず、荀ケが戯にご苦労様と声をかける。 荀尚書殿も、と戯も返した。 「ところで」 「はい」 いったん区切った荀ケの言葉に戯が短く返す。 机上に残された四本の竹簡に視線をやりながら荀ケが口を開いた。 「この竹簡をこれから届けに行かねばならないのだが、一緒に来て貰えないかな?殿の紹介も済ませておきたい」 言って戯を見やる。 戯は拱手して言った。 「構いません。尚令書殿のお言葉に従います」 「ありがとう。それから…」 そこで区切る荀ケに戯は疑問符を浮かべながら何でしょうかと返す。 「私のことは字で呼んでくれて構わないよ」 「し、しかし…」 色を変える戯に荀ケは立ち上がりながら、笑いながら言う。 「本当に構わないんだ、字で呼んでくれて。その方が気も楽だし、必要な時だけ侍中・尚書令と呼んでくれればいい」 その笑みときたら、何ともいえない甘い香漂うもので、しかし、きっと本人は無自覚なのだろうと思う傍ら、これで何人の女官たちが射ち落とされていったのだろうと、場違いにも程がある考えをめぐらせつつ、戯は本日二度目の、『字で呼びなさい―戯にはこう聞こえる―』に渋々承諾の意を示した。 荀ケは満足したように小さく頷く。 戯はそれを見なかったことにし、気持ちを切り替えるために口を開いた。 「えーと、そろそろ竹簡の方を…」 「ああ、そうだね」 「では、お持ち致します」 そう言って、戯は手早く机上の竹簡を抱える。 荀ケが半分持つといったが、そこはやんわりと断った。 諦めて、部屋を出た荀ケの後ろを戯は竹簡を横抱きにして追う。 まだまだ日は昼を過ぎたころである。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 取り急ぎ、デザインだけ統一しとこうと思いました… 黒歴史的な恥ずかしさ半分と、懐かしさ半分…ですかね 2008.01.13 初 2019.01.17 デザイン修正 ![]() |
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