久方ぶりの温もりを、感じることが出来たなら もう、何年もやっていなかったことを今日この日再びする。 朝、陽が未だ昇りきらぬうちに起き、これは毎日欠かさずにいた鍛錬と、少しばかりの書見を終えて朝餉を取ると身支度を始めた。 許昌、内城の曹操のもとへ改めて仕官を申し出るためだ。 こういうことは、早めがいいだろうと、昨日までの捻くれた自分を全て捨てて、ずっとしまっていた自分を引き出す。 どこまで用意周到だったのか、自分の兄に呆れながら衣装箱に入っていた朝服を身に纏う。 曹操の仕業ではないと見たのは、その朝服が”男物”であったことだ。 きっと、曹操自身が用意していれば女物でも当てられたんじゃないかと勝手に思っている。 髪を高く結い上げて巾で包む。 とりえずの狙い目は、朝の評議が終わるであろう時間帯。 それまでは、もう暫く書見をしていようと思う戯 だった。 その清楚な身形、ぴんと張られた背筋、目を奪われるような身のこなし。 珠のような白い肌に、整った中世的な顔立ち。 凛とした表情に加え、その薄紅の唇にはうっすらと好感の持てる笑みを浮かべている。 結い上げられた髪は綺麗に整い、すっきりとして、へその前に緩く重ねられた両の手指はすらっと伸びて美しかった。 『これは一体、誰なのだろう?』 彼の人は、一様に思っている夏侯淵、夏侯惇、そして荀ケの前を進み、立ち止まっては曹操の声掛けに応じて前に進む。 それを二度程繰り返し、曹操の座る椅子の目前にある階段の下段から三歩―約4.3m―までの場所へ進んだ。 その椅子の右斜め後方には当然のごとく典韋が仁王立ちしている。 ふと、曹操が口を開いた。 「随分早く来たな、 。見違えたぞ」 その言葉に、場にいるもの全てが目を見張る。 考えていないわけではなかった。 だが、どうにも結び付けにくいその変わり様に思いだけが先走っていたのだ。 そんな彼らを尻目に、戯 が口を開く。 「これが頃合と存じております」 凛とした言葉に、声音が違えばこうも変わってしまうのかと耳を疑いたくなる。 自分達の耳はどうにかなってしまったのではないかと。 凡そ、昨日までの人物と同一のものだと信じられない曹操除く四人は戯 を凝視する。 ただ、その中で荀ケだけが何かを納得したような、そんな気持ちへと引かれていった。 不意に、戯 が両膝折る。 そして、ばさりと両の手を広げ袖を払い、そのまま左手に右手を重ねると掌を内側に大きな円を作りその中に頭を入れるように、己の顔よりも高く重ねた掌を上げた。 「不肖の身ながら、この戯 をどうぞ曹公配下の末席へお加え頂きたく、重ねて仕官の儀、お願い申し上げまする」 場が一層、静まり返る。 流れるような動きの余韻に浸っていた四人ははっとなって我に返る。 曹操が座ったまま眉根を寄せつつ言った。 「固いぞ、 。もう少し、こう、力を抜いて出来ぬか?」 「は、…左様に、申されましても」 頭を下げたまま戸惑う戯 を尻目に曹操が腰を上げる。 その気配を感じ取って、戯 は身を改めた。自分の目の前に止まったと思って、しかし、何の反応も無いことに疑問を抱き、ふと、自分の上体を見ていた視線を上に少しばかり上げる。 すると、そこにあったのは、屈む自分より、更に屈んで腕の下からこちらを覗く曹操の顔。 ふっと目が合った瞬間驚いて、左手を胸に当て、右手を後ろにつき、腰を落としてしまう。 それを見ていた周りは呆れ果て、夏侯惇に至っては右手を額に当てていた。 しかし、そんな周囲の反応など、戯 が気にできる余裕がある筈も無く。 「(し、心の臓が止まるかと…)」 驚いて、目を瞬かせながら未だ鼓動の早まる心臓を押さえる。 そんな戯 を曹操はしゃがんだ状態のまま面白そうに笑っていた。 そして、次の瞬間にはどういう訳か、一歩前に出た曹操が右手で戯 の顎を捕らえ、上を向かせていた。 戯 にはもう、頭がついていかなくて。 「ふむ、やはり側に置いても良かったな…朝服でこれとは…まぁ、良いわ」 言って、戯 を離すとすっと立ち上がる。 「これから俺と話すときに敬語は無しだ、良いな 」 唐突に言われた言葉に戯 が再び戸惑う。 「良いな?」 強く言われた言葉に、もうどうしようもできなくて、言われるがまま戯 はただ一言「はい」と答えた。 満足げに笑みを浮かべながら踵を返す曹操だったが、再び声を張り上げて言った。 「文若、 を今日一日任せる 、今日は文若につけ」 有無を言わせるものではなくて。 それだけ言うと、曹操は”暫く様子を見た後、正式に部署を言い渡す”とだけ残して、自分は典韋を伴いこの謁見の間から出て行ってしまった。 残された四人は、唖然とするしかなく、戯 はその場に立ち上がると服の乱れを直してから荀ケのもとに歩み寄るのだった。 あの後、我に返った夏侯惇と夏侯淵の二人は出て行った曹操の後を追っていった。 残された二人はとりあえず、どちらともなく部屋を出、そして、戯 が荀ケの歩む後を追う、という形で今に至っていた。 荀ケの執務室に向かう回廊。 右に目をやれば雲ひとつない快晴の下、白い梅が満開に咲き誇っていた。 それを見れば雪こそ残っているものの、春なのだと思う。 この月を抜ければきっと雪も溶け、暖かくなってくるだろう。 そう思いながら、先行く荀ケの背中を尚も無言で付いて行く戯 だったが、ふとその背中が止まったので、自分もそれに倣った。 荀ケが振り向く。 そして叫んだ。 「すみませんでした!私は貴女に対して失礼なことを・・・!」 戯 は僅か目を見開いて驚く。 しかし、直ぐに元に戻ると頭を下げたままの荀ケに言った。 「何故、尚書令殿が謝られるのです?頭を上げてください」 荀ケは頭を上げることなく続ける。 「いいえ、昨日のことも然り、そして、今まで貴女にあらぬ疑いをかけていたことも然りです。殿に言葉をおかけ頂いたにも関らず、気づくことも出来ずにいた、自分が本当に情けなく、恥ずかしい。申し訳ありません」 「…それでも、尚書令殿が謝るに至りません。それは、元々私自身が周りにそう思わせるように仕向けていたこと。それが叶っていたのなら、それは私にとって喜ぶべき結果にしかなりません。さぁ、頭をお上げ下さい」 それでも一向に頭を上げようとしない荀ケ。 戯 はひとつ、大きく息を吸い込むと、一歩後ろに下がり、その場で両膝を折って両手をつき、荀ケに平伏する形を取った。 荀ケは驚いて顔を上げる。 「どうぞ頭をお上げ下さい。貴方様は貴方様のなすべきことをしたまで。どうして謝るのですか?本当に謝るべきはこの私です。貴方様の心を踏みにじり、貴方様の中の兄を侮辱しましたこと、そして、数々の御無礼、赦して頂こうなどとは決して思っておりませんが、この場を借りて、どうか謝らせていただきたい。この通り」 尚一層、その額を地につける様に頭を落とすと、驚いていた荀ケが、あたふたしながら向かって言った。 「わ、わかりました!わかりましたから、貴女も頭を上げてください!」 「もう、このことに関して私に謝りの言葉をかけぬと、頭を下げぬとこの場にて約束していただけますか?」 「約束します!これでは、私が貴兄の前に出す顔がなくなってしまう」 それを聞いて戯 は頭を上げる。 荀ケは安心したのか、大きな息を吐いた。 手を払う戯 に荀ケが手を差し出す。 ひとつ、礼の意味で頭を下げると、戯 はその手を借りて立ち上がった。 そんな戯 に、今度は荀ケが言う。 「貴女も約束してください。この事で、もう私に頭を下げぬと」 戯 は短く応える。 「承知いたしました」 と。 顔を合わせながら、どちらともなく笑い出す。 春の日差しが二人を包んだ。 こんな風にも笑えるのかという発見をしつつ、この調子ならきっと彼女と上手くやっていけるだろう、そう荀ケが思った矢先、 その空気を破って現れた文官が声をかけた。 「侍中・尚書令様」 荀ケの後ろから聞こえたそれは、長身のお陰で戯 には直ぐに姿が確認できなかった。 荀ケが後ろを振り向く。 「何か、あったのかな?」 何の用かは察しているがそうかける。 かけられた言葉に文官が言葉を続けた。 「はい、陛下がお呼びで御座います。いつものお部屋でお待ちしております、お急ぎ下さい」 それだけ答えると、彼は再び来た道を戻っていった。 恐らく、陛下、つまり献帝の元へ走ったのだろう。 荀ケが向かっている、というのを伝えに。 荀ケは戯 を振り向く。 そして、申し訳なさそうに口を開いた。 「そういう訳だから、悪いけど私は行かせて貰うよ。今、他の者を呼ぶから」 「かまいません」 言葉を遮って戯 が言う。 「ここからの行き方を教えてくだされば、一人で行けると思いますので、行って下さい。急がなければならないのでしょう?」 そういうと、荀ケは僅かに困惑したが、しかし、すまない、と言って執務室までの行き方を教え、足早に去っていった。 残された戯 は荀ケに教えられた道順の元、その執務室へ向かうのだった。 つづく⇒ ぼやき(反転してください) 取り急ぎ、デザインだけ統一しとこうと思いました… 黒歴史的な恥ずかしさ半分と、懐かしさ半分…ですかね 2007.11.27 初 2019.01.17 デザイン修正 ![]() |
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