騙し、見抜かれ、騙されて。






戯家の愚人 ― 晴天為レド未ダ雲有キ ―













一人で住むには余りに広すぎる邸。
中庭に面した房の戸の縁に腰を下ろしながら、戯はその広い中庭を見渡した。
樹木よりも耕された菜園のほうが多い庭。
主がいなかったにも関らずそこに雑草が繁茂していないのは誰かが手入れをしていたと言うことだろう。
だが、この際それは捨て置いても構わない、今はそれよりも別のことが頭にあった。

ぬかった、完全に抜けていた
曹操のお膝元にある”お邸”なのだから、規模がそれなりにあろうことを

これを見たとき、戯志才(あに)が自ら望んだのではない、ということが戯には容易に理解できた。
恐らく、この規模でも小さい方なのだろう。
見た目も周りの邸に比べればずっと質素だ。
それでも、もっと小さく狭くできたのでは、と戯は思う。

凡そ、あの曹孟徳(おとこ)がほぼ押し付けるに近い形で兄に与えたのに違いない
おまけに、こんな内城に近い場所に

頭でそんなことをめぐらせながら、立てた両膝に肘をそれぞれ預けて頬杖をつく。
通りも、それぞれの敷地も広いので距離にすれば大分あるのだが、邸二軒分隔てた向こうはもう、すぐ内城を囲う壁だった。
邸を出てすぐに右へ向かい、見えてくる一つ目の角を右折し、直進して表通りに出たら再び右折すれば内城の表門が目に入る。
その表通りの広さといえば、流石、天子様のおわします都、といった感じであった。
それはさておき、兎も角そんな意外にも近い邸の場所に、そこまで兄は曹孟徳という男に信頼されていたのか、とも、曹孟徳という男が、そこまで兄を信頼していたのか、とも、思わざるを得ない戯だった。
しかし、そう思うと、ここ数日は特に多いが、また混乱してくるので考えるのを止めた。
そうでなくても、今日はこれから誰か分からないヤツと曹操の前で仕合わなければならないのである。
誰か分からない、というのは未だ、その相手を教えられていないからだった。

どうせなら、さっさと済ませてやろう

そう思った戯が、曹操から押し付けれらた駿馬を長平から駆けさせる事、一日半。
許昌についてすぐ、内城に掛け合いに行くと、案の定既に話が通っていたのか、すんなり案内された。
そこで、あっという間に日時が決定される―強制的に―。
相手は?と言う戯の質問に曹操からは、ただ”お楽しみ”としか帰ってこなかった。
無論、戯からしてみれば、全く楽しみではないのだが。
因みに、例の如く見てくれなど構わずに行ったので曹操に紹介され、且つ彼の横に侍べていた典韋という身の丈八尺を優に超す近衛の男にしかめっ面をされたのを覚えている。
駿馬の方だが、有無を言わさず返しておいた。

無駄な労力は起こさずにおこう。

何かを決心して、戯は立ち上がった。
思い出したように束ねていた髪紐を一度解き、流れたその髪を手で軽く梳いてもう一度紐で束ねる。
今日も雲の浮かぶ清清しい晴天である。
向かうは内城、曹操のもとへ。




















兵に昨日と同じ房に案内され促されるように入ると、そこには既に椅子に腰掛ける曹操とその右に侍る典韋がいた。
そしてもう一人。
その反対側、曹操の左に、隻眼の男。

身の丈八尺には僅かに届かぬと見えるが、長身には代わりのないその男が戯を睨む。
目が合ったが、気にせず曹操に視点をあわせた。
曹操が口を開く。



「逃げずに来たか」



その口調は愉しそうで。



「あれだけ脅されればな」

「…貴様、頭が高いぞ…!」



嫌そうに、跪く事もせず返した戯にそう低く言ったのは隻眼の男だった。
はこの男が誰なのか既にあたりをつけている。



「気にするな、元譲」



曹操が笑いながら彼の字を呼び、諭す。
は矢張り、と思った。
隻眼の彼は、夏侯惇、字を元譲。
の記憶に相違なければ、先日散々に怒らせたあの夏侯淵の族兄である。
まぁ、恐らくそれは本人に確認しなくても分かるが。
何せ、いっそ兄弟と間違うほど顔が似ている。
確か、二、三年程前の呂布との戦で流れ矢を受けその左目を失ったと噂に聞いていた。
おまけに、その引き抜いた目玉を食べたとか食べないとか。
嘘でも本当でも、それはちょっと、と頭で別のことを思っていた戯に曹操が再び口を開いた。



、ぬしにはこの夏侯将軍と仕合ってもらう
 準備は良いか?」



毎度の事ながら、唐突に話を進めてくれる、と思いつつ承諾の意を伝える。
即ち、



「いつでも」



と。
満足げに笑みを浮かべる曹操。
後について来い、そう言って立ち上がり戯の後ろにある戸に向かう。

曹操が右真横を通り抜け、その後ろについた夏侯惇も同じく横を通り抜けるが、すれ違いざまこちらを睨むように見下してきたのがわかった。
身長差が一尺近くあるのでその目を見ることはなかったが。
後に続く典韋が、戯に自分の前に入るように促す。
大人しくそれに従い、夏侯惇の背中を追う。
前後からの殺気と警戒心に小さく溜息をついた。




















曹操直々に案内され見えてきたその場所は、内城内にある場所で、東西南の三方が回廊に囲まれ北の一方に平屋建ての建物が建つ場所だった。
回廊を通り、両脇に戟をそれぞれ携えた兵士が一人ずつ立つその正面入り口まで足を運ぶ。
回廊と平屋建てのそれの中央に位置する、広い広い”内庭”は綺麗に白い石畳で整備され平らかだった。
当然のことながら空も良く見え、回廊やその向こうに見える宮城の橙色の屋根がよく生える。
しかし、てっきり今いる自分含め四人だけでこの場は終わると思っていた戯は、そんなことがある筈ないかと改めて自分の考えの甘さに心の中でうんざりした。
通ってきた回廊と反対に位置する回廊に数名が確認できる。
一人は夏侯淵、一人は李典、もう一人は先程現れた荀ケだった。
他に強いて言うならば、兵が伏せてあるのかそういう気配も感じられた。
まぁ、当然といえば当然の警戒か。
この状況下、こういうものはし過ぎて困ることはないだろう。
おまけに、自分たちの主君に近づいている者の悪評がこれでもかというぐらいに高いのだから。
恐らく、曹操の命ではないのだろうが。

曹操が戸の前の石段を登る。
夏侯惇は石段を登らずその下で待機した。
もそれに倣う。
相変わらず典韋は戯の側にいた。
曹操が戸の前にいた兵士二人に声を掛ける。
するとその二人は、一度建物内に入ると、用意してあったらしい剣を一振りずつ持って出てきた。
そして、それぞれ石段を下り、そこにいる夏侯惇と戯の前に片膝をついてそれを差し出す。
お互い、それを手にする瞬間は同じだった。

夏侯惇がまず動いた。
内庭の中央辺りまで歩き、東に背を向けて立つ。
も中央辺りまで歩くと、対峙するよう、西に背を向けて立った。

石段の上に立っていた曹操がそこから一段降りたところに腰を下ろす。
膝の上に腕を預けて手を組んだ。
ただじっと、目の前の二人を見つめる。
石段の直ぐ下にいた典韋もただ、二人を見ていた。











未だ動く気配なく、先程の状態のまま立っている二人を回廊から見つめる三人。
中央にいた李典が普段らしからず自分から夏侯淵に向かって小さく声をかける。



「将軍、あの者に夏侯将軍の相手が本当に勤まるのでしょうか?」



それには、先日捕らえたときの印象から無理に等しいのではという意味が込められていた。
掴んだその腕は余りに細かったから。
また、それとは別に聞いた話の余りの節度、分別のなさに憤りを感じていたから尚更負ければいいという願望からも来ている。
夏侯淵は事前にその事を聞いていたので直ぐに理解したが、しかし李典の思いに反してうむ、と唸ると切り出した。



「俺もそう思いたいが、もしかすると…いや、或いは…」



その後の言葉は想像すらしたくなく、己のそれを否定するように夏侯淵は口を噤んだ。
李典もまた、夏侯淵から四日前のことを聞いている。
しかし、この夏侯淵という男の強さを戦で実感している分、信じられないでいた。
それは、昨年十三歳で従父の家督を継ぎ太守という身になったとはいえ、未だ数えで十四になったばかりの若さから来るものであった。



「ありえません、将軍の…考えすぎでは?」



遠慮がちに夏侯淵の顔を窺い見上げてくる、未だ歳若い後輩を見る。



「だと、いいのだがな」



そう言いながら、僅かに口端をあげて笑いかけ、しかし直ぐにその目を己の族兄(いとこ)とそれに対峙する戯に戻した。










荀ケは事前に独断による指示を出しておいた兵たちが上手い具合に身を潜めていることに、よし、と心の中で呟いた。
曹操に戯が直接害をなす、とは考えにくかったが、真剣を使わせると聞いて少しの可能性でも警戒しないわけにはいかない。
実際、親友のような付き合いをしていた戯志才の異母妹(いもうと)に対してこんなことをするのは、と思ったのだがどうしても、あの一件以来その異母妹(いもうと)を信じることができなかった。

それは、強烈に焼きついている一年ほど前のあの吹雪の日のことである。
今でもそれは自分も驚くほど執着していると思うし、実際曹操にらしくないと言われて、自分でもそうだなと思ったりもした。
しかし、自分の中に何ともいえない激しい部分があるのは前々から気づいてはいるのだ。
特に今回の件は直接戯ともう一度話をして、納得のいく答えが出ない限り引き下がるつもりは全くなかった。
夏侯淵と李典の話に耳を傾けながら、眼前の二人を、戯を、ただ荀ケは見つめていた。










人がいるのにその空間は静かで、行き交う視線だけが煩かった。
ただ、お互い構えることもせず剣を手にしたまま直立で睨みあうだけ。
空に浮かぶ雲だけが、時が止まらずにいることを告げる。
どれだけの間そうしていたのか、ふいに夏侯惇が剣を戯に向ける。
それを戯はただ見ていた。



「(いい加減、乗らないわけにはいかないか…)」



度々向けられていた夏侯惇の殺気に気づかない振りをしていたが、こうあからさまな態度で出されては応えないわけにはいかなかった。
仕方がないとばかりに戯は剣を構える。
そして、地を蹴った。
夏侯惇の、耳に届かぬ、来い、という声を合図に。

その場にいた誰もが目を見張った。

夏侯惇は、予想通り己の死角、即ち左側に飛び込んできた戯が首を薙ぐように繰り出した一撃を剣で防ぐとそのまま振り払う。
そして、体勢を崩したと見た戯に向けて素早く剣を振り下ろした。
本来なら、それで終わりであった筈だ。
であるのに、そうはいかなかった。

は、夏侯惇に体勢を崩させたと思わせる傍ら、その実そうではなく、浮いたと思わせた右足に一気に力を入れるとそれを軸に身体を左回りに旋回させ、夏侯惇の真横で一瞬背中を向けると旋回の勢いを活かして左手を地につき側転の要領で今度はその左手を軸に回転して背後に着地したのだった。
そして、瞬間、地を蹴り剣を衝き出してその背中に突っ込んでいた。
しかし、ギリギリの所で夏侯惇は振り向くと、その衝き出された切っ先の軌道を剣で防ぎながら逸らせ、同時に後方へ退く。

軌道を外れた剣先は夏侯惇から見て左に逸れ、肩から地と水平に伸ばされた左剣指はその右腕と一文字を作ることはなかったが、
顔だけこちらを向けた戯の瞳は紛うことなく夏侯惇を捉えていた。

の予想外の腕に誰もがただ目を見張り、そして夏侯惇に至っては、本気で向かう他ないと、思わざるを得なかった。
何より、剣を此方を正面に斜めに立て、肘を曲げ左剣指を右手の上腕の内側に添えて両足を肩幅ほどに広げ、変わらず身体は左を向け、最初と違う構えを取ったその白刃の向こう側から覘かせる顔に浮かぶ此方への挑発の表情に、感情が昂っている。
白刃に隠されたその唇には笑みが乗せられているのだろう、そう思うと尚更だった。
そう思ってしまう程、戯の表情は挑発的で。

曹操は実に面白そうに、愉しそうにそれを見ていた。
その瞳は爛々と輝いている。
いよいよ声高らかに笑ってしまいそうだった。

何合目か、何十合目か、辺りに止むことのない金属音が響く。
は焦っていた。



「(まさか、こんなに長引くとは…すぐに片が付くと思っていたのに)」



そう、直ぐにこの夏侯惇が己に片を付けると思っていたのだ。
負けたら曹操の言うことを何でも聞く、というのはただ仕官だけが逃れられれば後は何でもよかった。
どうせ、高が知れているだろう。
何となくそれも癪ではあったのだが、これ以上目を付けられるよりマシだと思っている。
だからこそ、夏侯惇の最初の一撃をかわして見せて、且つ挑発までしたというのに。
これは少しばかり想定外であった。

どうやって、ばれない様にわざと負けるか。
それは最も難しい問題だった。
今はただ、攻撃を受けつつその期を窺うしかないと、適度に反撃を混ぜる。
周囲の目は外されることなく向けられていた。

右に薙ぎ左に薙ぎ、右に避け左に避ける。
互角と思われる両者の攻防。
しかし、鍔迫り合いに突入した両者のうち、明らかに押され始めたのは戯だった。

李典の目に映っている戯は、夏侯惇に押され片膝をついてしまっている。
今まで焦りを感じていた気持ちが晴れ、一気に”矢張り将軍に敵う筈ない”という思いが李典の心中に溢れた。
いよいよ夏侯惇が勝ちを取るかと思った矢先、戯がそれをは弾く。
しかし、夏侯惇もすかさず応対し、逆に戯の剣をその手から弾き飛ばした。
音を立てて戯の右斜め後方にそれが落ちる。

だが、戯もそれでは終わらず、地を蹴って後退すると続けて身体を後方に回転させながら両手をついて、そのままもう一度地を突き飛ばし、飛ばされた剣の横に着地した。
そして、剣に手を伸ばす。
しかし、直ぐそこまで来ていた夏侯惇が戯の喉もとを捉えた。
の手に再びその剣が戻ることはない。

曹操の手を打つ音が響き、それが同時に仕合の終わりを告げた。
捉え、捉えられたままの二人の元に曹操が未だ手を打ちながら歩み寄る。
夏侯惇が剣を引き曹操の方を向き、片膝を折る。
はそれに倣うことなく立ち上がった。
それに食いかかろうとする周りを曹操は手で制しながら口を開いた。



「流石は元譲、といったところか。俺の期待に応えてくれる」

「ふん、お前に言われると気持ちが悪い」



そんな夏侯惇に、相変わらず酷いやつだ、と曹操が軽口を叩く。
そして、改めて戯に向き直った。



「さて、。ぬしは俺との約束を覚えているか?」

「勿論。何でも言うがいい」



うんざりといった様な表情で戯が言う。
そんな戯に曹操が口端をにやりとあげる。
それに眉根を寄せた。
曹操の言葉が内庭に響く。



「俺の妾になれ」



水を打ったように静まり返る場の空気。
それぞれが不意をつかれて驚く。
それを破ったのは、言われた戯本人だった。



「ふ、ふざけているのか!?」

「ふざけている訳ないだろう。俺は至って真面目だ。着飾れば誰でもそれなりに化けるものだ。それに、前にも言った様に、そなた意外と」
「それ以上言えばその首、今ここで叩き斬る!」



そういう戯に曹操は、悪びれもなく、



「おお、怖い」



と茶化してみせる。
は怒り収まり止まぬといった感じで曹操を睨んだ。



「仕官以外なら何でもいいと言ったのは、ぬしだ。今更何を言っている?」



そう笑みを含みながら言うと一度区切る。
そして、ふっと東の回廊に目をやった。



「文若、聞いていただろう?女官に準備をさせろ、今直ぐだ」



思いもよらない言葉に、荀ケは一瞬身体をこわばらせる。
しかし、この言葉を覆す術を知らない荀ケは踵を返して走り出した。
曹操はその後姿を見送る…筈であったが、それらを戯が制止する。



「ま、待て!!」

「どうした?



荀ケがその足を止める。
曹操がにやにやしながら戯の方を振り向いた。



「っ…わかった、私の降参だ。今までのこと全て前言撤回する‥!お前の下に仕官するから、だから、そのっ…妾にするというのを撤回しろ」

「うん?断固、仕官はしないんじゃなかったのか?」



何かを思い出すように、顎鬚を弄びながら言う曹操に戯が食いかかる。



「っだから!前言撤回すると言っている!!…っ、分かりきったことを…!!」



そんな戯に曹操は満足げに笑みを浮かべた。



「いいだろう、その申し出、受け入れてやる」



そういう曹操だったが、しかし、周りがそれを受け入れる筈もなく。
まず夏侯淵が叫ぶ。



「主公!その様なこと!!…この者の噂をお忘れですか!?
 たとえ、戯元軍師の異母妹(いもうと)だとしても、比べれば雲泥の差、いえ、比べるまでもありませぬ!」

「淵の言うとおりだ、孟徳。お前何を考えている!」

「将軍達の言うとおりです!その様な者、信用できません!」



それに続いて夏侯惇、李典だ。
曹操がそれらを聞いて声を上げた。



「黙れ!ぬし達にはこの者の真が見えぬのか!」



その言葉に場は静まり返る。
意味の分からない言葉であったが、夏侯淵と夏侯惇は思い当たる節があったのか、眉根を寄せた。

それまで、ただ聞いていた戯が、ふと口を開く。



「ふん、分かった風な口をきく、曹公様々だな。だが、周りが信じぬというのなら、今ここで誓いを立てよう」



そう言う戯に夏侯惇が言う。



「どんな誓いを立てるつもりだ、口だけなら何とでも言えるぞ」



それを聞くと、戯は口を三日月に模る。
それはどこかこの世のものではない様な神秘的な何かに見えて、夏侯惇は思わず生唾を飲み込んだ。

不意に戯が、先程飛ばされ、今は足元にある剣の柄に右足を伸ばす。
周りははっとしたが、その瞬間には円を描きながら中高く剣が舞っていた。
そして、戯の右手におさまる。
その場にいた曹操以外の全員が一歩前に踏み出した。
それと同時に、戯がその左手を顔の高さまであげる。
そして、右手に握る剣の軌道がくっきりとその腕に残った。
そこから流れ落ちる赤が白い石畳に模様を描く。
周囲が絶句する中、戯は言った。



「この血に誓いを立てよう。いつ、どんな事が起ころうとも、お前らの、私の主君を裏切らぬと。もし、万が一、それを覆す様なことがあれば……」



しんと静まり誰一人動くこともない中、戯はその首に手を添え続けた。


「この首ごと………この命、くれてやろう」



その瞳はいやに強い光を帯びていて。
息を呑む周囲をよそに、だが、戯はふっといつもの色をのせた瞳で左手を下ろす。



「これでいいか?」

「っ貴様…!!」



悪びれもなく冗談めかして言う戯に夏侯淵が思わず漏らす。
だが、戯はその顔にただ小馬鹿にするような笑みを浮かべるだけである。
曹操が口を開く。



「この場は此れでいいだろう、も口ではなく”行動”で示したのだ」



その主君からの言葉に、言いたい事があろうともう誰も口を挟める様な余地はなかった。
再び戯が、今度は曹操に向かって口を開く。



「公、…一日でいい、時間が欲しい」

「逃げる気か?」

「今更、逃げるつもりはない。明日、改めて仕官を申し出に来る。純粋に時間が欲しいのだ」

「…いいだろう」



そう言う曹操に戯は無言でただ、目を閉じることで礼の意を伝える。
そしてもう一度口を開いた。



「それから、もう一つ頼みたいことが」

「なんだ」



何でも言って見ろ、という曹操の目をみて戯は一拍置くと躊躇いがちに言った。



「志才の、墓の場所を教えて欲しい」



周りの者は訝しんだが、曹操だけがただ頷いた。



「兵に案内させよう」

「いや、教えてくれるだけでいい。そこまで方向音痴ではないからな」



そう言いのける戯に曹操は、わかったと言った後、後方の建物の入り口に立つ兵を呼び二,三言伝すると一方には戯の剣を預かるように、一方には戯を別の房に案内するように伝えた。
はそれに従い、剣を預けて目的の場所に歩き始めた兵の後ろにつく。
しかし、内庭を通過し、回廊に入り丁度荀ケの目の前に来た時点でぴたりと足を止めた。
そして、顔だけそちらを振り向くと他に聞こえないような小さな声で言った。



「想定外だったか?私が…公に害をなさなくて」



言った言葉に荀ケは眉根を寄せる。
その暴言に対して。
自分のしていた事に気づいていた事実に対して。
は、そんな荀ケを知ってか知らずか、口元に笑みを浮かべ、再び足を動かした。
荀ケは言い返す言葉も見つからず、ただそんな戯の背中を見送るだけだった。




















許昌から北東へ何里か離れた小高い丘。
許昌全体がよく見渡せる見晴らしのいい丘だった。
今は沈み行く陽のお陰で、白い雪を抱く辺り一面、ほんのり朱紅(あかくれない)に染まっていた。

荀ケは、その丘の丁度頂上辺りに位置する”あるもの”へ向かって歩いていた。
坂を歩き先へ進む。
段々と見えてくる筈の目的のもの。

しかし、予想だにせず見えてきたのは人の背中だった。
はっとして思わず、近場にあった大きな木の幹の後ろに隠れしゃがんだ。
そうして、様子を窺う。
その”人”は荀ケの存在に気づかなかったらしく、持っていた竹筒の中身を立ったまま、その荀ケが目的としていたもの、即ち戯志才の墓石の目前の雪被る地に空けた。
その”人”とは戯なわけで。

続けて何かを話し始める。
荀ケは、無意識の内に聞き耳を立てた。



「…全く、兄さんも異なものを遺してくれる。まさか、遺言書(おきてがみ)なんてモノを曹公の元に預けていくなんて…おまけに、私が”仕官したら渡せ”だと?本当に、誰も彼もふざけてるわけ?」



そう言うと、戯はふっとその場にしゃがんで乱暴に、持っていた竹筒を墓石の傍らに置くと、両膝に肘をつきそれぞれの手で顎を支えた。
そして続ける。



「しかも、その遺言書(おきてがみ)、何かと思って開いてみれば、”お前のやりたいことをやれ”だの”無理はするな”だの、何様なわけ?仕舞いには”すまない”とか”ありがとう”とか、謝りたいのか礼を言いたいのかどっちかにしなさいよ。……兄さんのこと、一人で憎んでた私が、本当馬鹿みたいじゃない。どこまで知ってたわけ?……それとも何?全部わかってたってこと?」



不躾な言葉、声音。
大きな溜息。



「それなら、一言でもいいから言ってくれればよかったじゃない、それを…何、今更。遅すぎ。…まぁ、先に言われてたとしても、言動を改めはしなかっただろうけど。それでも、一言ぐらい」



表情を窺い知ることの出来ないその背中は、どこか寂しげだった。



「あの日、私が兄さんに全てを明かしたあの日、あの次の日、兄さんはまた山に戻って行った。それがどんなに辛かったか、それがどんなに悲しかったか、それがどんなに裏切られたと思ったことか。考えたこと、ある?兄さんを憎んでた私自身、それがどんなものより辛かったのか、考えたことある?……結果だけ言えば、それを汲み取れなかった私が愚かだったのだろうけど」



自嘲気味に言う。



「これは罰なんだから、文句言わずに聞いてよ。久しぶりに、包み隠さず全部吐き出したい気分なんだから」



風がそよげば一層寒くて、言葉と一緒に出された息の僅かな軌跡を、白が薄っすらとたどった。
今まで、静かに紡がれていた言葉がどこか明るく紡がれる。
それは開き直りにも思えた。



「…って思ったんだけど、何を話そうとしてたか忘れた。まぁ、よしとしようか。続きは、私がそっちに往ってからゆっくり話すことにするから……嫌な顔しないで、しっかり聞きなさいよ。……、………さて」



同時に立ち上がる。
陽が落ちるのは、そう遠くはないだろう。
一層、朱が濃くなる。
まだ、戯の言葉は続く。



「明日からは、今までの私は捨てて、久方ぶりに素の私で往くことにする、だから…此れも罰」



くるりと踵を返し、同時に手を腰の下辺りで組む。
そして、天を仰いだ。



「ちゃんと、見守っててよね。それで戒めていてよ、私が、道を外さないように」



目を閉じる。



「周りを裏切らないように」



俯く。



「兄さんの心を裏切らないように」



目を開き、真っ直ぐと眼前のものを、そこにはない、しかし確かな何かを捉えながら。



「そして、私が私の心を裏切らないように」



ふっと表情を和らげる。



「全うできたら兄さんのところに行くから。そしたら、喋り足りないこと、全部喋ってやるんだから、覚悟しておきなさいよ」



最後に少しだけ振り向いて、一瞬だけ目を細めると、何事もなかった様に丘を下っていった。
何だかその背中は清清しく見えて。



荀ケは木の陰から出てくると暫く、去っていった戯の背中を見、そして墓石に向かった。
正面の墓石のすぐ前の雪は、先程戯の空けた酒で溶けてなくなっている。
そこには、竹筒が立っていた。
しゃがみつつ荀ケもまた、自分が持ってきた竹筒を懐から出す。
しかし、それは空けずに既に立っている竹筒の横に立てた。



「あなたは私と同じで酒がそれほど強くはなかったから、きっとこれ以上かければ酔ってしまうでしょう?」



言いながら笑う。



「私はあなた達異母兄妹(きょうだい)に謝らなければならない、すまなかった
 あなたの異母妹(いもうと)さんじゃないが、私がそちらに往ったら改めて謝らせてくれ、そして、また話をしよう。心躍る君との時間を、今度は殿を交えて。……今はどうかこのままで。また、…来るよ」



言って立ち上がる。
陽は愈々沈み、朱に紫が混じり始めていた。
荀ケはただ、そんな空を眺めながら許昌の閉門に間に合うように小走りでその場を後にしたのだった。














つづく⇒



ぼやき(反転してください)


取り急ぎ、デザインだけ統一しとこうと思いました…
黒歴史的な恥ずかしさ半分と、懐かしさ半分…ですかね

2007.11.18 初
2019.01.17 デザイン修正



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